第三十八話 鎖と閃光
ラナハイムの街は、北からの冷たい風にさらされていた。
客の引き始めた午後の『白カモメ亭』で、ラナは一人、カウンターを拭いていた。
その時、店の重い扉が、遠慮のない音を立てて跳ね上がった。
「……おい、ラナ。酒をくれ。一番強いやつだ」
地を這うような低い声。一人の男が大股で入ってきた。燃えるような赤髪、そして周囲を威圧するような凶暴なまでの殺気が、冷気と共に店内に流れ込む。
ラナは手を止めることなく、溜息混じりに顔を上げた。
「……あいかわらず、ドアの開け方を知らない男だね。ヴォルフ」
数年ぶりの再会だというのに、彼女の声には驚きも感激もなかった。まるで昨日もここにいた男を迎えるような、ぶっきらぼうな、だが確かな信頼がこもった響きだった。
「そっちの連中はどうだい? 注文を聞かなきゃ、あんたの酒もお預けだよ」
ラナが背後の男たちに顎をしゃくると、強面たちはヴォルフの顔色を伺いながら、口々にエールと肉料理を注文し、空いている席へ固まって座った。
彼らがガツガツと食事を始め、店内にわずかな喧騒が戻ったところで、ラナはヴォルフの前にジョッキを叩きつけた。
中身は、一番アルコール度の低いエールだ。
ヴォルフが意外に酒に弱いことを、戦友である彼女は熟知していた。
「で……何の用だい? あんたがわざわざラナハイムまで来たのは、例の件なんだろうけど……」
ヴォルフはジョッキを握りしめたまま、沈痛な面持ちで口を開いた。
「……うちの娘が世話になったらしいな、ラナ。礼を言う」
「礼には及ばないよ」
ラナは素っ気なく答えた。
実際に、献身的に怪我の世話をしたのはラナではなく、アレクだ。だが、ラナはその事実をあえて伏せた。
世間に『ヴィクトリア馬鹿の大厄災』と恐れられるヴォルフのことだ。娘の窮地に年頃の男が付き添っていたなどと知れば、怒りの矛先がどこへ向かうか分かったものではない。
ヴォルフはエールを一気に煽り、焦れったそうにカウンターを叩いた。
「ここでしばらく養生してたのは分かったが、その後の消息が全くつかめない。あいつは――ヴィクトリアは、一体どこへ向かったんだ? 何か聞いてないか?」
「さぁねぇ……。どこに行くとも言わず、出ていったよ。あたしが止めるのも聞かずにね。全く、あんたら親子は無茶ばかりするよ」
ラナはわざとらしく溜息をつくと、ヴォルフを見据えた。
「あんたのことだ。どうせこのまま、北へ向かうつもりなんだろう?」
ラナの確信を突いた問いに、ヴォルフの目が獣のように鋭く光った。
「当たり前だ。あの腐れ修道士の首を、この手でねじ切ってやる。……あいつは、ヴィクトリアを殺そうとしたんだぞ」
「よしなよヴォルフ! 相手は『教団』なんだよ。いかなる理由があろうと、聖職者に手をかければ『神敵』として即座に絞首刑だ。親族一同、一生泥水をすすることになるんだよ!」
「宗教だろうが法だろうが知ったことか! 娘を撃たれて黙っていられるほど、俺は物分かりが良くないんでな」
ヴォルフは立ち上がろうとしたが、その肩を、ラナの鋭い言葉が射抜く。
「そんなことしてあんたが絞首台に送られて、ヴィクトリアが喜ぶとでも思ってるのかい! ……それに、あんたが修道士殺しの罪人としてあの世に行ったら、ルカさんがあの世でどれだけ泣くか、考えたこともないのかい!」
「……っ!」
ルカ。亡き妻の名を出された瞬間、ヴォルフは雷に打たれたように硬直した。
最愛の妻が遺した、たった一人の娘。その娘を守るために生きてきたはずの自分が、怒りに任せて娘の未来までも汚そうとしていた。
ヴォルフは力なく椅子に腰を下ろした。
「……クソっ……! どいつもこいつも、汚い連中ばかりだ……!」
やり場のない怒りが、呪詛となって口から漏れる。腹の虫が収まらないヴォルフは、もどかしさをぶつけるように空のジョッキを突き出した。
「ラナ! おかわりだ! 今度は一番強いやつを持ってこい!」
「はいはい。あんた、一杯でひっくり返っても知らないよ」
そこからは、『白カモメ亭』が戦場のようになった。ヴォルフは飲めもしない酒をあおり、真っ赤な顔で教団への罵雑言をぶちまける。それに付き合う強面たちも、飲めや歌えの大騒ぎを始めた。
「……やれやれ、嵐のようだね」
ラナは騒ぎの中心で管を巻くヴォルフを見守った。
酒の力で憂さを晴らしているうちは、まだいい。こうして馬鹿騒ぎをしている間は、彼が一人で国境を越えて破滅することはないだろうから。
こうしてヴィックを溺愛する一人の怪物はラナの手によって足止めされたが、もう一人の怪物の暴走は、まだ誰にも止められていなかった。
重厚な執務机に突っ伏し、若き宰相ジュールは銀縁のモノクルを外して眉間を押さえていた。
このままでは北との戦争になりかねない。それは何としても避けたかった。
「……不可能だ。期限を延ばした所で、ソルチャーチ教団本部がハンスを引き渡すわけがない。他に何か方法が」
ジュールは低く呻いた。
王家に訴えた所で、教会側を説得するとは思えないし、もし仮に王家が説得したとしても
教会が応じるはずがなかった。
元々、国王と教会というものは、昔から権力を巡って、どちらもお互いに牽制しあっているというのが実情だ。
だが、教会本部が砲撃されたとなると話は別である。必ず王家が出て来て、こちら側に報復があるはずだ。
「いっそ、修道士ハンスに背格好の似た死刑囚でも用意するか……。だが、偽物と発覚すればそれこそ火に油を注ぐことになる……」
「おいおい、お疲れだな、天才宰相殿。少しは肩の力を抜いたらどうだ?」
不意に投げかけられた軽薄な声に、ジュールは顔を上げた。
執務室のドアをノックもせずに入ってきたのは、カシアス・ローザー大尉だった。かつてマリア・ロゼと王位を争った父を持つ彼は、その連座として王族の身分がありながら、騎士団では「平の大尉」という地位に甘んじている。
だが、その立ち居振る舞いは一介の大尉のそれではない。カシアスは勝手に椅子に腰を下ろすと、苦悩するジュールを面白おかしく眺めている。
「……カシアス大尉。今は貴殿の冗談に付き合える状況ではありません。この危機的状況、もしかしたら北との全面戦争になるかもしれない足音が聞こえませんか?」
「聞こえてるさ。だからこそ笑えるんじゃないか。あの高慢な坊主どもが砲撃されて狼狽える姿を想像しただけでもな」
カシアスの不謹慎な態度に、ジュールはムッとして声を荒らげた。
「笑い事ではない! 私はこの事態を外交的に収める手段を探しているのです。探す事が出来ないとなると…最悪、誰かの首を代わりに差し出させて、形だけでもマリア・ロゼ様の溜飲を下げるしかない」
「ハッ、傑作だ!」
カシアスは膝を打って笑い飛ばした。
「誰の首を代わりに切るつもりだ? そこら辺の罪人をハンスに見立てて殺すのか? おいおい、違う罪で殺されるとは、罪人とはいえ目覚めが悪すぎやしないか?」
カシアスは鼻で笑い、真っ直ぐにジュールを見据えた。
「いつもの切れ者のお前らしくないな。肝心なことを忘れてないか? ヴィクトリア嬢を連れてくれば済むことじゃないか」
ジュールの思考が一瞬、停止した。モノクルを握りしめたまま、彼は呆然とカシアスを見返した。
「……ヴィクトリア様を、ここに?」
「そうだ。彼女は撃たれて死んだわけじゃないだろ。だったら、今すぐヴィクトリア嬢を東の王国に連れ戻せ! マリア・ロゼ様のあの暴走を止められるのは、この世で彼女しかいないんだからな」
カシアスは不敵に微笑んだ。
そうだ。怒りの源泉が「ヴィクトリアの負傷」であるならば、彼女が生きてこの国に帰還することこそが、すべての砲声を止める唯一の鍵となる。
「……カシアス大尉、おっしゃる通りです。だが、肝心のヴィクトリア様がいったい何処にいらっしゃるのか?全く分からないのです」
「……ジュール、お前がどれだけ密偵を放っても足取りが掴めなかったようだが、俺には心あたりがある。ヴィクトリア嬢のことは任せてくれ」
カシアスは事も無げに言い放った。
実務一辺倒のジュールが「無駄」と切り捨てる社交界の噂話――かつて世間を騒がせたヴォルフと伯爵令嬢ルカ嬢との身分違いの恋。その夜話の端々に、ヴォルフの故郷がサントゥスの山の麓にある『クレミス村』だという情報が紛れていた。
追っ手を逃れ、傷を癒やすなら、父ゆかりの地を選ぶはずだ。ヴィクトリアの気質を知るカシアスには、その確信があった。
カシアスは腰の剣帯を締め直すと、不敵に微笑んだ。
「俺が裏から手を回して、ヴィクトリア嬢を引っ張り出してくる。……ジュール、お前は表向きは、しっかり『戦争の準備』を進めておくんだな。とにかく北と揉めるのは得策じゃない」
「カシアス閣下……」
「…じゃあな、宰相殿。次に会う時は、最高に機嫌の悪い『東の至宝』を連れてきてやるよ」
カシアスはひらひらと手を振ると、執務室を後にした。その足取りは軽く、しかし放たれる気配は戦場へ向かう猛獣そのものだった。
ジュールは独り残された部屋で、深く息を吐いた。
「……食えない男だ。だが、今のこの閉塞感をぶち破れるのは、ああいう『はみ出し者』だけなのかもしれんな」
ジュールのペンが動く。カシアス・ローザー大尉の「長期休暇」を承認し、あらゆる検問を無検査で突破させるための、宰相直筆の極秘通行証を発行するために。
東の怪物が動く。理性が算盤を弾く裏で、一筋の閃光がサントゥスへと放たれた
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
娘を撃たれた怒りに燃える「大厄災」ヴォルフがラナハイムに現れるも、旧友ラナの機転で足止めされる。一方、北との戦争回避に苦悩する宰相ジュールの元に、不敵なカシアスが接触。ヴィクトリア奪還が唯一の鍵と睨む彼は、彼女の潜伏先へ向けて動き出す。交錯する思惑の中、事態は風雲急を告げる。




