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第三十七話 聖域を焼く鉄槌

サントゥスと西のアルカディ王国の国境にある検問所。これからラナハイムへ向けて馬を飛ばそうとしていたヴォルフとマリア・ロゼの使者の前に、一騎の伝令が雪崩れ込んできた。

「報告します! ラナハイムにて犯人、修道士ハンスを拘束!」


その言葉に、ヴォルフの顔に凶悪な笑みが浮かんだ。

「……ほう、手間が省けた。二週間かけてラナハイムまで行く必要がなくなったわけだ。そのネズミを今すぐここへ連れ戻せ」


「それが……!」

伝令は声を震わせて叫んだ。


「ハンスの身柄は、すでにラナハイムにはありません! 捕縛の直後、北の『ソルチャーチ教団』が聖域権を発動。教団騎士団の手によって、そのまま北の聖域へ向けて護送されました!」


「……何だと?」

ヴォルフの低い声が地を這った。


ソルチャーチ教団――大陸最大の信徒数を誇るその巨大権威が、「聖職者の罪は神の庭で裁く」という特権を盾に、憲兵の手から強引にハンスを奪い去ったのだ。


「ソルチャーチだと……ッ!」

ヴォルフの拳が壁を叩き、石造りの壁面に亀裂が走った。

「身内を庇うために、ヴィクトリアを撃った不届き者を連れ去ったというのか!」


隣で報告を聞いていたマリア・ロゼの使者が、冷徹な決断を下した。


「……ヴォルフ殿。私はこれより、直ちに東の王国へ戻ります。これは一修道士の犯行ではなく、『ソルチャーチ教団』という巨大な権威による、我が国への明確な侮辱行為です。……この事実を、マリア・ロゼ様に直接報告せねばなりません」


二人の怪物は、その場で別れた。使者は東の王宮へ。

一方、ヴォルフは復讐の炎を絶やすことなく二週間の道程を駆け抜け、ついに西の都市ラナハイムの憲兵本部へと辿り着いた。


「おい、責任者を出せッ!」

爆音と共に本部の重い扉が蹴破られた。ヴォルフを先頭に『ルベライト商会』の精鋭たちが雪崩れ込む。

だが、そこで彼を待っていたのは、申し訳なさそうに項垂れる所長の姿だった。


「……親方、無理なのです。『ソルチャーチ教団』は我が王国の国教。彼らが『聖域権』を主張すれば、我ら役人に抗う術はありません。ハンスはもう、北の王国へと続く『治外法権』の馬車の中です……」


「宗教だろうが知ったことか! ヴィクトリアを撃った犯人を聖域へ逃がしただと?」

ヴォルフが吠える。だが、所長は首を振るばかりだ。


ラナハイムの空の下、ヴォルフは天を仰いだ。どんなに拳を固めても、「宗教」という名の巨大な壁が、獲物を物理的な暴力の届かない場所へと隠してしまったのだ。


一方、東のローゼリアン王国。

王宮の一角にある「薔薇の間」では、マリア・ロゼを囲んでの茶会が開かれていた。


しかし、帰還した使者が顛末を報告した瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がった。


「……そうですか。『ソルチャーチ教団』が、ヴィクトリアを撃った大罪人を、あえて『聖域』へ隠したと」

マリア・ロゼの手元で、白磁のティーカップが音もなく粉々に砕け散った。指先を流れる鮮血すら厭わず、その瞳には凍てつく怒りの業火が宿っている。


「『ソルチャーチ』の教会本部は、北の王国にありましたね」


彼女は立ち上がり、背筋の凍るような宣告を下した。


「それならば、あのご自慢のステンドグラスに、二十四ポンドの大砲から放たれる特大の鉛玉を食らわすだけ。……もし北の王国がその事に対して報復するのなら、王宮の水晶宮にも同じように鉛玉を食らわして差し上げなさい」


その宣言に廷臣たちが恐怖で凍りつくなか、若き宰相ジュールが一歩前へ踏み出した。彼は右目に嵌めた銀縁のモノクルの奥で、冷徹に「国家の損失」を計算していた。


「……マリア・ロゼ様、お待ちを。お怒りはごもっともですが、通告が届くには、物理的な時間が必要です。今すぐ軍を動かせば、あちらは何が起きたか分からぬまま戦火に包まれ、無益な全面戦争へと発展してしまいます」


マリア・ロゼは、血の滲む指先を優雅に眺めると、氷のような視線をジュールへ向けた。

「……ジュール。私は、無能な王のように闇雲に領土を欲しているわけではありません。私が求めているのは『秩序』と、ヴィクトリアを傷つけた者への『報い』です」


彼女は扇をパサリと閉じ、窓の外、遥か北の空を指差した。


「『ソルチャーチ教団本部』へ通告しなさい。『聖域権という名の不当な介入を即刻破棄し、一ヶ月以内に犯人を我が国の国境線まで連行せよ。さもなくば、その聖域を我が国の砲身が直接、神の御前まで送り届けて差し上げる』と」


「……一ヶ月日、ですね。一ヶ月あれば、最速の伝令なら王都を往復し、交渉のテーブルを整えることが可能です」


「ええ。それが彼らに与える、最初で最後の慈悲です。宣戦布告ではありません。これは、道理を忘れた者たちへの『最後通牒アルティメイタム』ですわ」


ジュールは心の中で安堵の息をつき、深く頭を下げた。一ヶ月の猶予があれば、問題の解決の糸口を探せるかもしれなかった。


「承知いたしました。ただちに北境の砲兵連隊へ『第一種戦闘配置』を通達。同時に、国境付近の街に駐在させている連絡官を通じ、ソルチャーチ教団本部へ公式な抗議文書を叩き込ませます。……『犯人を引き渡さぬ限り、東の鉄槌は止まらない』という事実を、彼らの骨身に刻んでまいりましょう」


「よろしい。美しく、完璧に終わらせなさい」


ジュールは翻り、部屋を退出した。廊下に出た瞬間、彼は補佐官に鋭い指示を飛ばした。


「砲兵隊には『配置につけ、だが、期限が過ぎても私の直命なしに一発たりとも撃つな』と伝えろ。それから、『ソルチャーチ教団』へ向けて速達の警告を放て。『我が国の女王の忍耐は、一ヶ月後に尽きる。教団の面子と、どちらが重いか今すぐ選べ』とな」


ジュールはモノクルを指先で弄び、冷徹に微笑んだ。


一方、「薔薇の間」では――。


沈黙を破り、ハワード大公夫人が扇を握りしめて涙を流した。

「……感銘いたしましたわ! あのような薄汚い男を庇う教団など瓦礫にして当然ですわ。ヴィクトリア様の痛みは、我ら東のすべての女性の痛みですもの!」


ミラー伯爵夫人、ベーカー侯爵夫人も身を乗り出し、激しく同意する。

「左様ですわ! その男一人のためにルカ様の愛し子を傷つけた事実を無にするなど、天に唾する行為!」

「必要なのは、すべてを粉砕する鉛のつぶてだけですわ!」


彼女たちのヴィクトリアへの「執着」が生んだ殺気は、甘い菓子の香る茶会を、戦火の予感に満ちた出陣の儀へと変貌させていく。マリア・ロゼはその熱狂を満足げに一瞥すると、手元の扇で静かに、だが拒絶を許さぬ重みをもって卓を叩いた。


「これから、北の空から目を離さないことですわ。我が国の正義が、あの者達の傲慢をいかに焼き払うか……その輝きを楽しみにしております」


三夫人が、歓喜に震える表情で深く、深々と頭を下げた。

「「「御意に、マリア・ロゼ様!」」」


東の怪物が、静かに、しかし決定的な咆哮を上げた。


ジュールが放った警告の伝令は、今この瞬間も北の国境へと向かっている。それは宗教という名の権威も、国境という名の障壁も、法という名の盾も、すべてを等しく焼き尽くす終末の炎の幕開けであった。

『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


修道士ハンスが「聖域権」を盾にするソルチャーチ教団に連れ去られた。怒れるヴォルフは西の憲兵本部へ乗り込むが、法に阻まれ足止めを食らう。一方、報告を受けた東の女王マリア・ロゼは教団へ一ヶ月の引渡し猶予を突きつける最後通牒を発令。国家を挙げた復讐の火蓋が、今静かに切って落とされる。

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