第三十六話 東の怪物吠える
ヴィックがラナハイムの金融機関で撃たれた事件は、未だ解決の糸口すら見えず、暗礁に乗り上げていた。
そもそも、当局の認識が甘すぎたのだ。「ただの物取り」による「平民の少年」を狙った犯行。その程度の認識であったため、捜査は後回しにされ、初動は完全に失敗した。もし最初から憲兵団を総動員していれば、犯人を挙げることなど容易かったはずである。
しかし、この「初動ミス」が、取り返しのつかない大災厄を招くこととなった。
「ヴィクトリア馬鹿」として並び立つ二人の怪物、ヴィックの父ヴォルフと、東のローゼリアン王国のマリア・ロゼ様が同時に動き出したのである。
まず、中央都市サントゥスにあるギルド本部に、マリア・ロゼ様からの使者が到着した。
ギルド本部の総合受付――各国の支部を統括する「受付総代」が鎮座するその場所は、本来なら厳重な手続きが必要な聖域である。しかし、王国の威光を背負った使者を止める術はなかった。
ギルド本部長の手元に届けられたのは、一通の親書。
だが、その中身は「親書」という言葉が持つ温かみとは無縁の代物だった。これでもかというほど優雅な文字で綴られていたのは、ギルドの無能さを徹底的に突き放し、なぶり殺すような嫌みの数々。本部長はそれを読み進めるうちに、あまりの精神的重圧に頭を抱え、深く椅子に沈み込むしかなかった。
しかし、悪夢はそれだけでは終わらない。
廊下の向こうから、複数の荒々しい足音と共に、護衛官たちの悲鳴にも似た制止の声が雪崩のように押し寄せてきた。
本部長が項垂れている部屋の扉が、ノックもなしに乱暴に蹴破られた。
「……おい。随分と呑気に椅子を温めているじゃないか」
地を這うような低い声。ルベライト商会の親方、ヴォルフである。
背後には商会が誇る強面の精鋭たちが、威圧感を隠そうともせずズラリと並んでいる。
受付総代や護衛官たちが血相を変えて制止しようとしたが、ヴォルフの放つ殺気に気圧され、誰一人としてその歩みを止めることはできなかった。
部屋のなかで、ヴォルフの冷徹な眼光と、先に到着していたマリア・ロゼ様の使者の視線がぶつかり合った。
ヴォルフとマリア・ロゼ。
二人は「ヴィックを病的なまでに溺愛している」という一点においてのみ共通しているが、決して仲が良いわけではない。
部屋のなかに、ヴォルフの威圧感とマリア・ロゼ様の使者が放つ冷気が充満する。板挟みになった本部長は、逃げ場を失った小動物のように、机の上で指を震わせていた。
沈黙を破ったのは、マリア・ロゼ様の使者だった。
「さて、本部長。マリア・ロゼ様が最も懸念されているのは、事件の進捗です。ギルド本部は今回の件をどう定義し、現時点でどこまで犯人を追い詰めているのか。明確な回答を頂きたい」
気の毒なギルド本部はしどろもどろになりながらも事情を説明し始めた。
「明確な回答……ですか」
本部長の声は情けなく震えていた。そんなもの、出るはずがない。
そもそも、事件の舞台となったのはラナハイムにあるギルド金融機関の馬車置き場である。ギルドの私有地内での出来事であり、被害者が「平民の少年」と報告された時点で、本部の扱いは事務的な処理に留まっていた。
「……現在は、現場となった金融機関の私設警備員が、目撃情報の収集にあたっております。あくまで平民による物取りの範疇、すなわち『民事の不祥事』として、ギルドの自衛権の範囲内で内々に捜査を……」
「憲兵はどうした。ラナハイムの治安維持組織は何をしている」
ヴォルフの低い声が重く響く。
本部長は、蛇に睨まれた蛙のように脂汗を流した。
「そ、それが……。平民の少年が標的ということもあり、憲兵団を動かすまでの治安上の脅威とは見なされず……。ようやく憲兵が動き出したのは、ここ数日のことにございます……」
「……数日だと?」
ヴォルフが静かに一歩、前へ踏み出した。失われた右腕の袖が虚空に揺れ、代わりに従えられた左手がギルド長のデスクを鷲掴みにした
「ヴィクトリアが撃たれてから、一体何日が経っていると思っている。警備員ごときが聞き込みをして、憲兵は今更動き出しただと?」
ミシリ、と分厚い木製のデスクが悲鳴を上げた。
「甘い! 甘すぎるんだよ、お前らは!」
怒号が部屋の空気を爆ぜさせた。
「ヴィクトリアがどこの馬の骨かも分からん奴に撃たれた。それを『平民の物取り』だと? ギルドの自衛権だの、治安上の脅威ではないだの、寝言は寝てから言え!」
ヴォルフは前屈みになり、顔を本部長の至近距離まで寄せた。片腕でありながら、山が崩れ落ちてくるような圧倒的な質量を感じさせる威圧感。
「ギルドの体面も、ラナハイムのメンツも知ったことか。お前らが身内一人守るために総力も上げられねえ臆病者の集まりだってんなら、それでいい。——ここからは、俺たちルベライト商会のやり方でやらせてもらう」
ヴォルフの鋭い眼光に呼応するように、背後の強面たちが一斉に殺気を放った。
「本部長。貴様らが『穏便』に手続きを進めている間に、俺たちは犯人を地獄の果てまで追い詰める。……いいか、憲兵が動かないなら、俺たちがラナハイムの街ごとひっくり返してやるよ。後で泣き言を言っても、もう遅いぞ」
ヴォルフの宣言は、事実上の「宣戦布告」だった。
部屋を支配する暴力的な静寂。それを破ったのは、低く、しかし驚くほど透き通った笑い声だった。
「……野蛮な咆哮だ。耳が穢れる」
吐き捨てるような言葉。しかし、その瞳にはヴォルフへの嫌悪感とは別に、奇妙な「充足感」が宿っていた。
「だが、ルベライトの親方。貴殿のその『品性の欠片もない怒り』……。我が主、マリア・ロゼ様であれば、こう仰るでしょう。『手段の卑しさは問わない。ただ、ヴィクトリア様に仇なす愚か者には、相応の絶望を』と」
使者は、机に沈み込む本部長を冷たく見下ろしたまま、微かに口角を上げた。
「幸か不幸か、目的は同じだ。貴殿がラナハイムを暴力でひっくり返すというのなら、私はこれから向かう西の王宮を『言葉』で地獄に変えてきましょう」
その言葉に、本部長はついに顔を覆った。
物理的な暴力の化身であるヴォルフと、権力と冷徹な悪意を操るマリア・ロゼの使者。二人の怪物の意志が、この瞬間、ヴィックという一点において完全に共鳴してしまったのだ。
だが、この「怪物たち」の咆哮が自分を追い詰めようとしているとは、夢にも思っていない男がいた。
ラナハイムの場末。異臭の漂う裏路地の突き当たりで、修道士ハンスは荒い息を吐きながらナイフを握りしめていた。
「……身の程をわきまえろと言ったはずだ、この下衆が!」
ハンスの足元には、彼がヴィックを襲わせるために雇った一人の男が、喉を掻き切り、血の海に沈んでいた。
事後に標的の身元を知った男は、恐怖に駆られて口封じの金を強請ってきたのだ。
「あんたに命令されたとバラされたくなければ金を出せ」と。
だが、ハンスにとって平民の命など、使い捨ての道具に過ぎない。
「あの生意気なガキの始末すらできなかったのに……。この俺を脅そうなどと、片腹痛い!」
ハンスは返り血を浴びたナイフを、慣れた手つきで遺体の衣服で拭った。
金のためではない。これは、自分をコケにした者たちへの「聖なる裁き」なのだと、彼は本気で信じている。
「ふん、憲兵もギルドも『物取りの犯行』だと決めつけてやがる。死人に口なしだ。これで全ては闇の中よ……」
ハンスは狂気を含んだ笑い声を漏らし、闇に消えていく。
聖職者の身分があれば、多少の不祥事は教会が揉み消してくれる。法も、正義も、自分の味方だ。彼はそう確信していた。
だが、ハンスはまだ知らない。
自分が殺した男の返り血よりも、はるかに色濃く、逃れようのない「死の影」がすでに背後に張り付いていることを。
ヴォルフという名の暴力が。
マリア・ロゼという名の権力が。
今、このラナハイムの街を飲み込もうとしている。
彼が盾にしている教会の壁が、怒り狂う怪物たちの前では、泥細工のように脆いということを知るまで――あと、わずか。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
ヴィックが狙撃された事件。当局が「ただの物取り」と軽視し初動を誤る中、ヴィックを溺愛する父ヴォルフと東の王女の使者が激怒しギルド本部へ襲来。物理的暴力と権力による徹底的な報復が宣言される。犯人の修道士ハンスは隠蔽を確信するが、怒り狂う怪物たちの魔手はすぐそこまで迫っていた。




