第三十四話 不器用な情愛
家の広間には、囲炉裏の火が爆ぜる音だけが虚しく響いていた。
アレクは自分の服に着替え、湯治場で温まったおかげで顔色は戻っていたが、まだ少し湿り気を帯びた髪が、つい先ほどまでの無茶を物語っていた。
食卓には、囲炉裏でじっくりと塩焼きにされた岩魚が並んでいる。
だが、そこを囲む空気は、外の吹雪よりも冷え切っていた。
事の顛末は、アイラから聞いてすでにヴィックの耳に入っていた。 髪は濡れ、行きとは違う服装で戻ってきたアレクとディオを見て、アイラが「なぜそんな格好をしているのか」と咎め、二人は正直に話さざるを得なかったのだ。
「……アレク、お前は、本当に救いようのない馬鹿だな」
ため息と共にヴィックがそう吐き捨てると、アレクは弁解の言葉も見つからず、深く首をうなだれて沈黙した。
「ヴィクトリア、馬鹿とか言うんじゃないよ。……アレクさんが馬鹿なのは否定しないけどさ」
マイラが苦笑いしながら口を挟むと、アイラが我が意を得たりと頷いた。
「しょうがないよ。アレクさんは『ヴィクトリア馬鹿』の三人目なんだから」
「アイラ叔母さん、その不名誉な名称はやめてくれないか。そもそも、『ヴィクトリア馬鹿』とか言う名称自体もどうかしていると思っているんだ」
ヴィックが心底嫌そうに眉を寄せると、アイラは平然と言い放った。
「誰が言い出したか知らないけど、うまいこと言ったもんだ。マリア・ロゼ様に、うちの弟のヴォルフ……。あの二人も大概な馬鹿だからね、あんたに関しちゃ。アレクさんは立派にその三人目さ」
「だから、なぜそこにアレクを加える……!」
「十分ヴィクトリア馬鹿だよ! この寒空に、わざわざ滝壺まで魚を獲りに行くなんてさ。マルコ爺さんも呆れてたよ、『愛の力ってやつは怖えな』ってね」
マイラが面白がって畳みかけたその言葉が、ヴィックの中で張り詰めていた糸を断ち切った。
「……もういい」
低く、突き放すような声だった。ヴィックは手にしていたナイフをコトリと皿に置くと、椅子を引いて勢いよく立ち上がった。
「ヴィクトリア!?」
驚く叔母たちをよそに、ヴィックは激しい怒りと、それ以上の自責の念が混じった瞳でアレクを射抜いた。
「私が頼んだわけではない! 死にかけるような真似をして持ってきた魚など、食べる気もしない!」
「それでも、アレクさんがせっかく……!」
マイラが窘めようとした時、隣で小さくなっていたディオがわっと泣き出した。
「ごめんなさい……僕が、僕が船の上で立ち上がったりしなければ……アレクさんは叱られなかったのに……!」
「ディオ君、違うんだ。元はと言えば、俺が魚を獲るなんて言い出したのが悪いんだ。俺の責任だよ」
泣きじゃくる子供と、彼を庇いながら自分を責めるアレク。
その光景に、ヴィックは毒気を抜かれたように立ち尽くした。
流石にバツが悪くなったのか、彼女は重い溜息をついて再び席についた。
広間には、再び火の爆ぜる音だけが戻る。
ヴィックは無言のまま、銀色に輝く岩魚の身を丁寧に解した。
すでに少し冷めてはいたが、アレクが冷たい水に飛び込んでまで持ち帰った魚だ。
一口運ぶと、香ばしい塩の香りと共に、淡白でいながら力強い川の恵みが広がった。
アレクと叔母たちは、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
ヴィックは一言も発さず、ただ黙々と、骨だけが残るまで綺麗にその魚を平らげた。
「……アレク」
不意に名を呼ばれ、アレクの背筋が伸びた。
ヴィックはナイフを置き、まだ少し赤みの残る瞳で真っ直ぐに彼を見据えた。
「お前が私を気づかい、これを用意してくれた……その気持ちは分かった。感謝もしている」
そこで一度言葉を切り、彼女は諭すように、しかし先ほどよりはずっと柔らかな声で続けた。
「だがな、お前は猪突猛進すぎる。今回は運が良かっただけだ。私が望んでいるのは――お前が隣で無事でいることだ。それを忘れるな」
「……はい。すみません、ヴィック」
ようやくアレクの顔に、安堵の混じった微かな笑みが浮かんだ。
それを見たアイラが、わざとらしく大きなため息をついて、残っていた岩魚を自分の皿へ引き寄せた。
「やれやれ。これで手打ちかい? 折角の『愛の岩魚』が台無しになるところだったよ」
「アイラ叔母さん!」
ヴィックの怒声が、今度は少しだけ照れを孕んで響く。
凍りついていた家の中に、ようやくいつもの温かさが戻り始めた。
食卓が明るさを取り戻すと、ディオが涙を拭いて目を輝かせた。
「ねえ、ばあちゃん! 滝壺にね、すっごく大きな『主』がいたんだよ! アレクさんの心に直接お話しして、岩魚をくれたんだ。イオ様って言うんだよ!」
「イオ様……?」
アイラとマイラは一瞬、顔を見合わせた。アレクが「本当です。自分を『地守り』だと仰っていました」と頷くと、アイラの表情に複雑な影がよぎった。
アイラはディオの頭を優しく、だが力強く押さえ、静かに言った。
「……ディオ。そのイオ様のお話、よそでは誰にもするんじゃないよ。いいね?」
「えっ、どうして? すごいことなんだよ?」
「いいから。ばあちゃんとの約束だよ」
アイラの有無を言わせぬ視線に、ディオは不服そうに「はい」と頷いた。
その後、夕食を終えたアレクとヴィックは部屋へ戻るべく、廊下を歩いていた。
「ヴィック。アイラさんはどうして、あんなにイオ様のことを隠したがったんでしょうか。あの方は恩人……いえ、恩魚なのに」
ヴィックは前を見据えたまま、声を潜めて答えた。
「……ディオの母親であるエリスが、あまりその手の話を好まないからだ。彼女は目に見えない神秘や奇跡の類を一切受け付けない。村の伝承もただの迷信として切り捨ててしまうほど、極めて現実的な女性なんだ。アイラ叔母さんは、余計な摩擦を避けたかったんだろう」
「なるほど……。家族の間でも、考え方が違うと大変なんですね」
「エリスは外から嫁いできた人間だからな……。で、お前はイオ様を見てどう思った?」
ヴィックの問いに、アレクは歩みを止め、窓の外で荒れ狂う吹雪に目を向けた。
「そうですね……。古い物語に出てくる主のようでした。なんていうか、『古い山そのもの』が形を持ってそこにいるような……。あ、それと、ヴィック」
「なんだ?」
「実は……イオ様にも言われたんです。『お前は救いようのない馬鹿だが、その真っ直ぐさは嫌いではない』って……。神様にまで馬鹿だって言われちゃいました」
一瞬の沈黙の後、ヴィックはこらえきれないように、今日初めての低く短い笑い声を漏らした。
「……くっ。神に見放されるのではなく、呆れられるとはな。お前、それはもう筋金入りだぞ」
アレクの正直さに、すっかり毒気を抜かれたヴィックは、不敵な笑みを浮かべて自室の扉に手をかけた。
「アレク…私の心配はもういい。明日から又…お前はマルコ爺さんの所へいけ。名工エヴァンスの作る武器は、金では買えない。爺さんの気が変わらないうちに…」
「嫌です…ヴィック、馬鹿な俺の我儘を聞いてください。右肩が治るまで、ヴィックの傍にいたいんです。そうしないと、俺の気持ちが収まらないんです」
その言葉が静かな廊下に響いた瞬間、ヴィックの思考は一秒ほど完全に停止した。
冬の冷たい空気が、アレクの熱を帯びた声によって一気に塗り替えられる。
ヴィックは、思わず息を呑んだ。
いつもなら「増長するな」と一蹴するか、「お前の気持ちなど知ったことか」と冷たく突き放すところだ。
だが、目の前で自分を真っ直ぐに見つめるアレクの瞳には、打算も、下心も、一欠片の濁りもなかった。
あるのは、ただ呆れるほどに純粋で、暴力的なまでに一途な「情愛」だけだ。
ヴィックは、自分でも驚くほど心臓が跳ね上がるのを感じた。
その動悸を隠すように、彼女は思わずアレクから視線を逸らし、拳を強く握りしめる。
「……いいだろう。お前がそこまで『修行に行かない』と言い張るのなら、無理にとは言わん」
「本当ですか!? ありがとうございます、ヴィック!」
パッと顔を輝かせたアレクだったが、ヴィックはニヤリと、どこか不穏な笑みを浮かべて立ち上がった。
「ただし、だ。ただぼうっと私のそばに居るだけなど、この私が許すと思うか? マルコ爺さんのところへ行かない代わりに、明日からはまた『綴りの練習』を再開してもらうぞ」
「……えっ」
アレクの表情が、一瞬で凍りついた。
「明日はこの前よりも長文を書いてもらう。……そうだな、内容はお前が得意な魚の捕り方と、そこに至る『熱い想い』について、愛を込めて綴ってみろ」
「そ、そんな……。それなら、マルコ爺さんのところに行ってる方が、まだ楽です……」
アレクが、まるで処刑台にでも登るかのような引きつった顔を見せると、ヴィックはようやく溜飲が下がったのか、満足げに鼻を鳴らした。
「ふん、自業自得だ。……私はもう寝る。お前もさっさと部屋へ戻って、明日の文案でも考えておくんだな」
ヴィックは、アレクの情けない顔を肴にするように、軽やかな手つきで扉を閉めた。
廊下に取り残されたアレクは肩を落としたが、その足取りは、どこか嬉しそうに自分の部屋へと向かっていった。
『本編読まなくてもわかる『勇盾』簡単物語』
無謀な魚獲りを経て、食卓を囲むアレクとヴィック。激しい叱責の後、ヴィックはアレクの想いを汲んで岩魚を完食し、その献身を認めつつも無茶を窘める。修行を休み傍にいたいと願うアレクに、ヴィックは動揺を隠して「綴りの練習」という罰を課す。凍てつく夜、二人の距離は静かに、熱く縮まっていく。




