第三十三話 神の鱗の主
アレクって馬鹿だね…と笑ってくれると幸いです
まぁ純粋な馬鹿だからね
元々旅をしている時も少食であったが、右肩の炎症でほとんど部屋から出ないせいもあって、ヴィックは食事を残すことが多くなっていた。
「(何か……ヴィックが「食べたい」と思えるものを。元気が湧き出るようなものを……!)」
アレクの脳裏に、旅が始まって数日後の、あの昼休憩の光景が鮮烈に蘇った。
アレクの腕前を見るための手合わせ。ヴィックの圧倒的な速さに完敗したアレクは、必死に剣の稽古をねだった。困り果てたヴィックが、諦めさせるための条件として出したのが、あの言葉だった。
「私は美味しい魚が食べたい!……塩で焼いただけの美味い魚を、お前が食べさせてくれたら、考えないこともないぞ」
道具もない旅の途中の川で、新鮮な魚など獲れるはずがない。そう高を括っていたヴィックの前で、アレクは迷わず服を脱ぎ捨て、ショートブレー(下着)一枚の姿で冷たい川へ飛び込み、魚を捕った。
あの時、上気した顔で魚を頬張ったヴィックは「……負けた。わかったよ、アレク。約束は守る」と笑ってくれたのだ。
「(新鮮な魚なら、ヴィックの食欲も戻るはずだ)」
そう考えたアレクは早朝の厩舎での馬の世話の最中にアイラに尋ねた。
「アイラさん。このあたりで、新鮮な魚が獲れる場所はありませんか?」
唐突な問いに、アイラは馬の背を撫でる手を止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「魚だって? アレクさん、ここは雪深い山の上だよ。川はどこも凍りついて、春までお目にかかれないさ」
「でも、ヴィックが……ヴィクトリアが、魚なら食べられるかもしれないんです。どうしても獲ってやりたいんです」
「……やれやれ。あんたも大概だね。だが、全く望みがないわけじゃない」
アイラは、マルコ爺さんの家から更に数キロ先に、冬でも凍らない滝壺があり、そこならば魚が捕れるかもしれないと教えてくれた。
ただし、幼いディオを案内役として同行させること、そして「決して滝壺の中には入らないこと」が条件だった。
雪の坂道を登り、滝壺に行く前に、アレクはディオと共にマルコ爺さんの鍛冶場へ立ち寄った。
マルコ爺さんに双剣を打ってもらう為に、鍛冶場の手伝いをしていたが、ヴィックの右肩が悪化した事を知り、アレクはそれを途中で放り出していた。
それでも、黙って行くのは不義理だと考えたアレクなりの、せめてもの礼儀だった。
「マルコ爺さん、ちょっとディオ君に案内してもらって、滝壺まで魚を獲りに行ってくるよ」
「何だと? 魚だぁ?」
マルコ爺さんは作業の手を止め、怪訝そうにアレクを見た。
「ヴィックに食べさせたくてね。アイラさんに場所は聞いた。すぐ戻るから」
「おい、アレク! あそこは……!」
呼び止める声を背に、アレクとディオは足早に雪道へと消えていった。
「ヴィクトリアに食べさせる為か…、あの雪の坂道を登ってきたのか? しょうがない野郎だな、全く盲目すぎていかん」
マルコ爺さんは呆れたように一人ごちた。
辿り着いた滝壺は『神の鱗』と呼ばれ、激しい落差ゆえにそこだけが凍らず、黒々と深い口を開けていた。
しかし、岸辺から糸を垂らしても魚の気配はまったくない。凍てつく風がアレクの体温を容赦なく奪っていく。
「アレクさん、これじゃダメだ。魚はもっと深い、水の動かない場所に溜まってるんだよ」
ディオが指差したのは、岩陰に繋がれていた古びた小さな木舟だった。
「あれに乗って、真ん中まで行こう。あそこならきっと……!」
二人は危うい足取りで小舟に乗り込み、滝壺の中央へと漕ぎ出した。
それまで沈黙していた水面に、確かな変化が現れた。
「……あ! 見て、アレクさん! あんなところに大きな魚が――!」
「おい、ディオ! 動くな、危ない!」
大物に興奮したディオが立ち上がった瞬間、平底の舟は大きく傾いた。
「あ――っ!?」
足を滑らせたディオの体は、あっけなく冷たい水の中へと放り出された。
「ディオ!!」
アイラとの約束も、極寒の恐怖も、アレクの頭から吹き飛んだ。
彼は上着を脱ぐ暇さえ惜しみ、厚手の冬着にブーツという姿のまま、激しい水しぶきを上げて滝壺へと飛び込んだ。
――ザブンッ!
突き刺さるような冷気が全身の体温を奪い去る。
水を含んだ衣服が鉛のように重くまとわりつき、自由を奪う。
アレクは必死に水を掻き、沈みゆくディオの襟首を掴み、力いっぱい引き寄せた。
だが、その安堵も束の間、アレクは見てしまった。
ディオのすぐ真下。光の届かない深淵に横たわる巨大な異形を。
古びた大樹の皮のような、あるいは湿った岩肌のような皮膚。太く短い四本の脚。魚というにはあまりに異質で、トカゲが水底の主として肥大化したかのような、古の気配。
その怪物の、皿のように大きな瞳が、暗い水底で鈍く光った。
「(……なんだ、これは……モンスターか?……)」
肺の中の空気が、恐怖と畏怖で凍りつく。アレクはディオを抱えたまま、その怪物が放つ圧倒的な静寂に、ただ息を呑むことしかできなかった。
死に物狂いで浮上し、ディオを岸へと押し上げる。
「……カハッ! げほっ、げほっ!」
震えるディオの無事を確かめ、自分も這うように岩場に上がったその時、地響きのような轟きが脳内に直接響いた。
「“……持っていけ、小僧”」
言葉と同時に水面が揺れ、丸々と太った岩魚が岩場に打ち上げられた。
「なっ……!?」
「“喋ったのではない。お前の心に直接語っているのだ”」
水面下から、あの巨躯が浮上してくる。
「モ……モンスター……っ!」
「“失礼なことを言うな。ワシはモンスターではない。あのような下等な生き物と同じ扱いをされるのは心外だ”」
その思念には明確な知性と、永い年月を生き抜いた者の矜持が込められていた。
「す、すみません……!」
「“ふむ。強いて名乗るならば、ワシはこの山の「地守り」だ。今度からはワシのことはイオ様と呼ぶがよい”」
イオ様は、命の危険を顧みず水に飛び込んだアレクの「損得勘定のない馬鹿さ」を嫌いではないと言い、魚を「褒美」として授けてくれた。
「“さあ行け、凍えて死ぬ前にな”」
山の主は音もなく水底へと消えていった。
その後、胸騒ぎがして滝壺に来たマルコ爺さんは、水浸しで震える二人を見て、そのあまりの惨状に肝を冷やした。
「この大馬鹿野郎ども! 何をしておるか!」
爺さんは迷わず、意識が朦朧としているディオをひょいと軽々と肩に担ぎ上げると、もう片方の太い腕で、ガタガタと震えて立ち上がれないアレクの脇を強引に抱え上げた。
マルコ爺さんに連れてこられたのは湯治場だった。
もうもうと湯煙が上がる岩囲いの湯に、二人は着の身着のまま投げ込まれた。
「……あ、ああ……っ」
刺すような熱さが、凍りついた皮膚に染み渡る。
マルコ爺さんは深い溜息をつき、少しだけ目元を緩めた。
「やれやれ……絶対にそこから動くんじゃないぞ。乾いた着替えと熱い果実酒を持ってくる。しばらく浸かっておれ!」
静かになった湯治場で、アレクは籠の中の銀色の岩魚を見つめた。
じわじわと体に戻ってくる熱を感じながら、アレクはただ、あの時のように魚を頬張って笑ってくれるヴィックの顔を、祈るように描き続けていた。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
食欲のないヴィックのため、アレクは冬の滝壺へ魚獲りに向かう。だが案内役のディオが極寒の水中に転落。救出に飛び込んだアレクは、水底で山の主「イオ様」と邂逅する。その勇気を認められ、魚を授かり生還した二人。湯治場で凍えた体を温めながら、アレクはヴィックの笑顔を願うのだった。




