第三十二話 ヴィクトリア馬鹿の三人目
翌朝。
アレクは、驚くほどすっきりとした目覚めを迎えた。アレクは起き抜けに、真っ先にパリスがいる厩へと向かった。
パリスは、ヴィックの驢馬ではあるが、白カモメ亭でヴィックから「当分お前に預ける」という書き置きと共に託されて以来、長い道のりを支え合ってきた相棒である。
「パリス、おはよう。風邪引いてないか?」
声をかけると、パリスは大きな耳をパタパタと動かし、低く「ブルルッ」と鼻を鳴らした。
「おや、もう起きたのかい。感心だね」
振り返ると、そこにはアイラが凛とした佇まいでたっていた。
「あ、アイラさん。おはようございます」
アイラは一人、重い水桶を運んでいた。
アレクは辺りを見渡したが、他に手伝いの姿はない。
「あの……厩の仕事は、アイラさんがお一人でやるんですか?」
「ああ、今、村の男どもは留守をしてるからね。これくらいはあたしがやらなきゃ」
「それなら、俺に手伝わせてください。厩仕事は得意なんです」
アレクはそう言うと、アイラの手にあった重い桶をごく自然に受け取った。
「そうかい? 助かるよ、アレクさん」
アイラは驚いたように眉を上げたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。
アレクは慣れた手つきで道具を手に取った。12歳からグレイ伯爵家の厩で働き、最古参のロペス爺さんから手取り足取り仕事を教えてもらった。毛並みを整え、寝床を掃除するアレクの無駄のない動きを、アイラは満足げに眺めていた。
一仕事終えて母屋へ戻ると、そこにはすでに活気ある朝の光景が広がっていた。
元族長の娘であるアイラとマイラの住まいは平屋ながらも広く、食事の支度や身の回りの世話をするために、村の女性たちが数人出入りしている。アイラとマイラは、上座に並んで座りながら、手際よく動く女性たちに的確な指示を飛ばしていた。
「アレク、ちょうど良かった。さあ、冷めないうちに食べなさい」
マイラが促す。
手伝いの女性が手際よくスープの皿を並べるが、食卓に用意された席はアレクと双子の叔母たちの分、合わせて三人分だけだった。
「……あの、アイラさん。ヴィックは?」
問いかけた瞬間、アイラとマイラが同時に、村の女性たちへ鋭い目配せを送った。
「ああ、ヴィックなら……昨日のソリ騒動だろう? 慣れないことをしたから、ひどい筋肉痛らしくてね。今日は部屋で休ませておくよ」
アイラが泰然と言い放つと、マイラも「そうそう、あの急坂をあんな勢いで滑れば無理もないわ」と、優雅にスープを口に運びながら頷く。
だが、二人の視線は決してアレクの目を見ようとはしなかった。
「(筋肉痛……? 本当に、それだけだろうか)」
アレクは嫌な予感が走り、ヴィックの部屋へ駆け込みたいという衝動に駆られていた。
「様子を見に行った方が……」
「いいから! あんたはしっかり食べなさい。それより、ほら。」
マイラが遮るように言った直後、食事の支度を終えたばかりの手伝いの女性たちが、待っていましたとばかりにアレクを囲んだ。平屋の広間は、瞬く間に女たちの声で埋め尽くされる。
「ねぇアレクさん、本当のところを聞かせてよ。二人はどこで出会ったの? 運命的な出会いだったんでしょう?」
身を乗り出してきたのは、手伝いの女性の中でも一番血色の良い、お喋り好きな婦人だった。
アレクが答えに窮していると、別の女性がさらに畳みかける。
「あのヴィクトリアがアレクさんを連れて歩いてるんだもの、きっと熱烈なアプローチがあったのよね。どっちが先に口説いたの? やっぱり、アレクさんが押しに押したのかしら」
「どんなところでデートしてたの? お洒落な酒場? それとも月の見える丘?」
アレクは顔を真っ赤に通り越して、耳まで熱くなっていた。
「い、いえ! 出会ったのはカレムの街……いや、その前は宿屋で……あ、デートなんて、そんな滅相もない! 俺たちはただの、その……」
「あら、『ただの』の後に何が続くのかしら? 」
女たちの笑い声が広間に弾ける。アレクは、戸惑いと気恥ずかしさが混ざり合い、言葉がうまく出てこない。
「ほら、あんまりいじめてやるんじゃないよ。アレクが可哀想だろう」
アイラがくすくすと笑いながら、助け舟を出すふりをしてさらに場を盛り上げる。
「この子は真面目なんだ。ヴィックがあんなに大切に連れ歩くんだから、よっぽど深い仲に決まってるじゃないか」
「姉さん、それを言ったらアレクが逃げ出してしまうわよ」
マイラが優雅に茶を啜りながら、追い打ちをかけるように微笑む。
女たちの好奇心の嵐がようやく凪ぎ、食器の片付けが始まった頃、アイラがどっしりと椅子に座り直してアレクを見た。
「さて、アレクさん。いつまでも女たちの無駄話に付き合ってる暇はないよ。マルコの爺さんの所に行くんだろ?」
「あ、はい……。でも、やっぱりヴィックに一言だけでも……」
アレクが言いかけると、アイラはそれを遮るように手を振った。
「寝てるよ。あんなに騒がしくても起きないんだ、相当お疲れなんだろう」
「そうね。ヴィックが起きたら、あんたが一生懸命マルコさんのところで修行してるって伝えてあげるから。……ほら、もう迎えが来たわよ」
マイラが指差した先、広間の向こうにある玄関の方から、控えめに戸を叩く音が響いてきた。
「おや、迎えが来たようだね」
マイラが顔を上げ、少し声を張り上げて「お入り!」と玄関に向かって呼びかける
しばらくして、バタバタと廊下を歩く足音が近づいてくると、広間の入り口に雪を払った少年が姿を現した。
「おはようございます。アイラおばあちゃん、マイラおばちゃん」
アレクがこの村についた時に、ヴィックと共に坂道を降りてきた少年―ディオだった。
「うちの孫のディオは、この雪道の歩き方をよく知ってる。爺さんの工房までは上り坂だ。この子に先導してもらいな」
とアイラは言った。
「……わかりました。ディオ君、よろしくお願いします」
アレクは防寒着を羽織り、最後に一度だけヴィックの部屋の方を見た。
玄関の戸が閉まり、アレクとディオの足音が雪に吸い込まれて完全に消えた。
賑やかだった家の中に、薪が爆ぜる音だけが響く。
アイラは一つ溜息をつくと、傍らで黙々と食器を片付けていた一人の女性に声をかけた。
ヴィックの身の回りの世話を一手に引き受けている、口の堅い手伝いのハンナだ。
「……ハンナ。あの子の様子はどうだい」
アイラの静かだが拒絶を許さない問いに、ハンナは手を止め、困ったように眉を下げた。彼女は今朝一番に、ヴィックの着替えと身体を拭く手伝いをしたばかりだった。
「……アイラ様。右肩が、ひどく熱を持ってます」
ハンナの声は沈んでいた。アイラは視線を奥の部屋の扉へ向ける。
「傷は? 塞がったところが裂けたのかい?」
「いえ。皮一枚で繋がっているようですが、内側で炎症がぶり返しているようです。今朝、お召し替えを手伝った時も、あの方は痛みに唇を噛み切りそうな顔をしながら『アレクにだけは、絶対に悟らせるな』と。私にはそれしかおっしゃいませんでした」
それを聞いてマイラが立ち上がり、棚から古びた木箱を取り出した。中には、消炎効果の極めて強い、山奥の貴重な薬草が詰まっている。
「ハンナ、この薬草を煎じておくれ。少しばかり無理をさせてでも、今はその熱を下げなきゃならない」
マルコ爺さんの工房は、村の外れの高台にあった。
雪をこいで辿り着いたアレクを迎えたのは、煤けた壁と、鉄を打つ乾いた音、そして頑固そうな髭を蓄えたマルコの怪訝な顔だった。
「……なんだ、ヴィクトリアはどうした? てっきりお前さんと一緒に来ると思ったんだがな」
マルコがふいごを動かす手を止めずに尋ねる。
アレクが「筋肉痛で休みなんです」とアイラから聞いた通りの説明をしようとした、その時だった。
「マイラおばちゃん、言ってたよ。ヴィック姉ちゃんの右肩、すごく熱を持ってて酷いんだって。だから今日は絶対安静だってさ」
隣で雪を払っていたディオが、何気なく口を滑らせた。
その言葉が耳に入った瞬間、アレクの心臓がドクリと跳ねた。
「……右肩が、熱を?」
「あ、……しまった」
ディオが慌てて口を塞いだが、もう遅い。
アレクの顔から血の気が引いていく。
昨夜、ヴィックが右肩を庇うようにしていた仕草。
今朝、頑なに部屋を見せようとしなかったアイラたちの不自然な態度。点と線が、最悪の形で繋がった。
「(筋肉痛なんかじゃない。右肩が、昨日の無理で……!)」
その後、マルコが何かを教えようと口を動かしていたが、アレクの耳には何も届かなかった。
「おい、そこにある炭を持ってこい」
と言われても、アレクは呆然と立ち尽くし、ヴィックの苦悶の表情を想像しては唇を噛むばかりだ。
「……チッ、話にならねえな。心ここにあらずじゃあ、火を扱う工房では命取りだ。今日はもう帰れ!」
マルコの雷が落ちた。
本来なら、念願の修行を初日で追い出され、絶望してもおかしくない場面。
しかし、アレクはガッカリするどころか、パァッと顔を輝かせた。
「はい! ありがとうございます、マルコさん! 帰ります!」
「はあ!?」
呆気にとられるマルコを置き去りにして、アレクは脱兎のごとく小屋を飛び出した。
「ディオ君、そのソリ貸して!」
「えっ、あ、ちょっ、アレクさん!?」
アレクはディオの返事も待たず、外に立てかけてあったソリをひっ掴んだ。
昨日、あんなにヴィックの後ろで震え、制御に苦労したソリ。だが今のアレクに迷いはなかった。
雪の坂道を、アレクを乗せたソリが猛烈な勢いで滑り降りていく。
崖の上からその様子を眺めていたマルコ爺さんは、呆れたように鼻を鳴らした。
「……ったく。愛の力ってやつは怖えな。雪山に慣れてないって言ってた奴が、あんなスピードで滑りやがって」
その頃、アイラとマイラの家では――。
「さあ、ヴィック。もうひと踏ん張りだよ。この薬は染みるが、よく効く」
マイラがヴィックの右肩に、煎じたばかりの薬草を浸した布を当てようとしていた。
ヴィックは上半身の衣類を脱ぎ、寝台に腰掛けていた。その右肩は、赤黒く腫れ上がり、見ているだけで痛々しい熱を放っている。
「……くっ、マイラ叔母さん。もう少し染みない薬はないの?」
ヴィックが苦悶に満ちた声を漏らした、その時だった。
ドォォォォォン!!
「ただいま戻りました!!」
玄関の戸が、壊れんばかりの勢いで跳ね飛ばされた。
「おや、アレクさん、なんだい? マルコ爺さんの所へ行ったんじゃ……」
出迎えたアイラの制止をすり抜け、雪の冷気を纏ったアレクが、一直線にヴィックの部屋へと突き進む。
「ヴィック!!」
勢いよく扉が開け放たれた。
「…………え?」
そこには、治療のために肩を露わにし、無防備な姿で座っているヴィックと、薬草を手にしたマイラ、そして驚きに目を見開くハンナがいた。
時間は、完全に凍りついた。
アレクの視線は、ヴィックの白く引き締まった肌と、そこに刻まれた生々しい傷跡、そして露わになった曲線に釘付けになる。
ヴィックは、数秒の間、呆然とアレクを見つめていた。
しかし、状況を理解した瞬間、彼女の顔がみるみるうちに沸騰したような赤に染まっていく。
「……ア、……レ、……ク……ッ!!」
空気が震えた。
枕元の水差しが、あるいは近くにあった木の桶か。
ヴィックの手近にあるものが、凄まじい風切り音を立ててアレクの顔面めがけて飛んできた。
「ぎゃああああ! すみませんんんん!!」
アレクの悲鳴が、冬の澄んだ空気の中に木霊した。
飛んできた水差しを間一髪で避け、床に平伏しながらも、アレクは必死に食い下がった。
顔を真っ赤にしながら毛布で身体を隠すヴィックを前に、アイラとマイラは顔を見合わせ、呆れたように肩をすくめる。
「ヴィクトリアの世話はあたし達がやる!男は必要じゃないんだよ」
「でもアイラさん…俺にだってできることはあります! 薪をくべるとか! とにかく、ヴィックが治るまで、俺はマルコさんのところへは行きません!」
「馬鹿か、お前は。……相手は名工エヴァンスだぞ! 誰もが金を積んでも欲しがる程の……その機会を不意にするのか?」
「へバンスとかどうでもいいです! ヴィックより大事なものなんてないです!」
「へバンスじゃない、エヴァンスだ」
二人のやり取りを聞いていたアイラは深くため息をついた。
「ヴィクトリア馬鹿の三人目、か」
「ヴィクトリア馬鹿」――それは、東のローゼリアン王国の女王マリア・ロゼと、ヴィックの父親ヴォルフガングを指す言葉だ。
この二人は、ヴィックのことになると一切の見境がなくなる。なまじ強大な権力を持っているため、ひとたび暴走すれば余計に質が悪い。世間では『ヴィクトリア馬鹿の大厄災』とまで言われている始末なのだ。
その「三人目」が、今ここに爆誕した。
幸いなことに、アレクには今のところ大した権力はない。
だが、権力はないが純粋なだけに、先達の二人よりもさらに厄介かもしれなかった。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
ヴィックの怪我を案じて工房を飛び出したアレクは、猛スピードでソリを操り家へと急行する。だが勢い余って乱入した先は、治療中で無防備な姿の彼女の部屋だった!激怒するヴィックに平伏しつつも、「修行より彼女が大事」と断言するアレク。新たな『ヴィクトリア馬鹿』がここに爆誕する――!




