第三十一話 鉄の面影 雪原の滑走
「私はいつだって、アレクのことを一番に考えてやっているぞ!(ドヤッ)」
マルコ爺さんに「もっと相手を尊重しろ」と釘を刺された直後の、ヴィックの自信満々な回答がこちらです。
その結果がどうなったか……二人の散々な帰り道をお楽しみください。
「ロペスか。あいつは元気にやってるのか?」
マルコ爺さんは、熱した鉄を金床に叩きつける手を一瞬止め、炉の火越しにアレクへ視線を向けた。
「はい、元気です。えっと……ロペス爺さんには、本当に色々と教えていただきました」
アレクは背筋を伸ばして答えた。ロペスは、自分が十二歳でグレイ伯爵家の厩働きを始めた時、右も左もわからない自分を拾い上げてくれた恩人だ。
「色々ねぇ。……この工房を継ぐのを嫌がって、自由気ままに飛び出しおって。お陰で次男のこの儂が、跡取りの真似事をさせられとる。いい迷惑だ」
マルコ爺さんは白い髭を震わせ、吐き捨てるように言った。その言葉を聞いた瞬間、アレクの頭の中で、出発前にヴィックから聞かされた話が鮮やかにつながった。
「(……ここが、ロペス爺さんの実家だったんだ)」
アレクは、熱気に満ちた工房の中を改めて見回した。
薄暗い小屋の中に散らばる鉄屑、使い込まれた黒光りする道具。ロペスもかつて、この火の粉が舞う中で育ち、この槌の音を聞いて過ごしていたのだろうか。そう思うと、初めて足を踏み入れたはずのこの場所が、急に親しみ深いものに感じられた。
アレクは、炉の火越しにマルコ爺さんの顔をじっと見つめた。
初対面で感じた不思議な懐かしさ。頑固そうに結ばれた口元や、時折見せる鋭くも温かな眼差しは、自分を導いてくれた恩人、ロペスの面影とよく似ていた。
「(目が……ロペス爺さんと、同じだ)」
その確信がアレクの緊張を少しだけ和らげた。だが、マルコ爺さんの視線は、ノスタルジーに浸ることを許さないほど鋭かった。
彼は再び金床の上に赤熱した鉄を置き、無造作にハンマーを構えた。打ちつける前の、一瞬の静寂。
「で、こんな雪深けぇ中に、何の御用だ?」
ヴィックは雪まみれのソリを隅に立てかけ、単刀直入に切り出した。
「アレクに、双剣を打って欲しい」
キン!と、高く澄んだ金属音が工房に響く。
「えっ……?」
アレクは思わず声を漏らした。理由もわからず命綱で曳かれ、ようやく辿り着いたと思えば、今度は自分のための武器を打てという。自分から武器を望んだことなど一度もない。
突然の提案に、アレクは目を白黒させるしかなかった。
「ワシが金を積まれたところで、武器は作らねぇと知っての上か?」
マルコ爺さんは、鉄を炉に戻しながら言い放った。その言葉には揺るぎない矜持と、試すような響きがあった。
「『剣は人の心を映すものなり』『盾は人の責任を映すものなり』……その兄ちゃんに、それを受け止める心があるかのぉ?」
エヴァンス工房に伝わる、重い戒め。
それを突きつけられたアレクの混乱をよそに、ヴィックは迷うことなく即答した。
「ある!」
「言い切りおったな。よろしい、ならその心があるかどうか見せてもらおうか、じっくりとな」
「そう言うと思った。……というわけだ、アレク」
ヴィックは当然のような顔で振り返る。
「(というわけ……? なんだ……?)」
「お前は当分、爺さんのところに居ろ」
ヴィックの簡潔すぎる宣告に、アレクは熱気に当てられたかのように目を丸くした。
「え? じ、爺さんのところに……俺が、ここに泊まるんですか!?」
「そうだ」ヴィックは短く頷く。
アレクは激しく動揺した。見ず知らずの、しかも偏屈そうな職人の元に一人置き去りにされる。しかも、雪に埋もれて逃げ出すこともできないこの場所で。
「いや、駄目です! 無理ですよ!」
アレクは反射的に抵抗した。すがるような、不安に満ちた目でヴィックを見つめる。
「何が駄目なんだ。アイラ叔母さんの家よりはマシだろ。毎日、村の女たちの好奇な目やくだらない噂話を聞かされる必要もないんだからな」
「で、でも!」
アレクはたまらずヴィックの腕を掴んだ。その表情は、まるで親から引き離される子供のように心細げだった。
「おいおい、この小屋のどこに泊まる気だ? 寝床は一つしかねえぞ。儂とこの兄ちゃんとで、あの狭い寝台に押し合うのか?」
マルコ爺さんはアレクの様子を見かねて助け舟を出した。
だがヴィックは、それすら予見していたかのように別の提案を口にする。
「この先に湯治場がある。そこに泊まればいいさ。風呂も入り放題だ。良かったなアレク、温泉だぞ」
「ヴィック! あんまりじゃないですか! 白カモメ亭に続いて、また俺を置き去りにするんですか? ……俺が、足手まといだから……」
アレクの声は最後の方は震え、湿った雪のように重く足元に落ちた。
「……白カモメ亭で説明もせずに消えたのは、悪かった」
ヴィックは深く、重いため息をついた。
「だがな、足手まといだなんて一度も思ったことはない。もし本気でそう思ってるのなら、とんだ誤解だ…というかまたそれを持ち出すのか?お前結構根に持つタイプだな」
「ね、根に持ってるわけじゃありません! ただ、あの時は本当に……その、心細かったというか、捨てられた子犬みたいな気分だっただけで……」
自分でも無意識のうちに何度も蒸し返していたことに気づいたアレクは目を伏せ、モゴモゴと呟いた。
「……やっぱり、少しは根に持ってるのかもしれません」
とうなだれた。それはいたずらを咎められた子犬のようだった。
ヴィックの脳裏には、これまで嫌というほど見てきた『男たち』の顔が浮かんでいた。
かつての婚約者や、己の腕を過信して鼻で笑う騎士たち。どいつもこいつもプライドの塊で、根拠のない自信を盾に虚勢を張る連中ばかりだった。男とは、隙あらば自分を誇示したがる生き物だと思っていた。
それなのに、目の前のアレクはどうだ。
恵まれた体格、しなやかな筋肉、そして確かな素質。それらを持ち合わせながら、本気で自分を『普通』だと信じ込み、挙句の果てには足手まといだとまで言い出す。
「(自惚れが強いのも御免だが、ここまで自分が見えてないのも困ったものだな……)」
ヴィックは、アレクの心細げな視線を受け止め、呆れたように、けれどどこか毒気を抜かれたような顔で言った。
「……わかった。今日は、帰るか」
「そうしろ。兄ちゃんには兄ちゃんの考えがある。少しは尊重してやれ。お前さんが何でもかんでも一人で決めてしまうのは、酷というもんじゃ」
マルコ爺さんの真っ当な指摘に、ヴィックはしおらしく反省するどころか、待ってましたとばかりに胸を張った。
「言われるまでもない! 私はいつだって、アレクのことを一番に考えてやっているぞ!」
そのあまりにも堂々とした自信に、マルコ爺さんは呆れ果てた。
ふと見れば、アレクの手はまだヴィックの腕を強く掴んだままだ。その指先が、寒さか不安で微かに震えている。
マルコ爺さんは、ハンマーを傍らの作業台に置いた。
「兄ちゃん。ここに来たいなら、来ればよい。ただし、泊まり込みじゃなく『通い』だ。あの坂道を毎日往復すれば、少しは雪にも慣れるじゃろう」
頑固な職人の言葉には、迷える若者を見守る年長者なりの慈愛が混じっていた。
結局、アレクはアイラの家から工房まで毎日通うことで決着がついた。
解決したことに安堵したアレクだったが、帰り道、さらなる試練が待っていることを思い知らされる。
「ヴィック……歩かないか?」
「なんでだ! 歩いて帰るよりこれの方が速いぞ」
ヴィックは、アレクをバラスト(重石)のようにソリの前方に座らせると、自分はそのすぐ後ろに陣取った。
「いいかアレク、しっかり掴まってろよ。私が『右』と言ったら右に、『左』と言ったら左に体重をかけろ。いいな!」
「あ、あの、やっぱり歩きの方が……」
「行くぞ!」
ヴィックが雪を蹴った瞬間、ソリは凄まじい加速で坂を滑り出した。
行きに一歩一歩踏み締めて登った道が、今は恐ろしい速さの白銀の奔流となって視界を掠めていく。
「ひ、ひいいいっ!」
「叫ぶな、前を見てろ! 右だ、右に傾け!」
ヴィックは左手一本で手綱を操ろうとした。しかし、右肩の負傷が災いした。本来なら両手でバランスを調整するところだが、片手ではどうしても力が偏ってしまう。
「左だ、左! 戻せアレク!」
「ど、どっちですか!? うわあああ!」
パニックになったアレクが指示とは逆に体を揺らした瞬間、ソリのランナーが雪の下の窪みに弾かれた。
木製のソリは独楽のように回転を始め、制御不能のまま斜面を猛スピードで滑走する。
「ヴィック! 止まって! 止まってください!」
「無理だ! つかまれ……放り出されるぞ!」
最後は雪が盛り上がった場所でソリが派手に跳ね上がった。
二人の体が宙に投げ出される。その一瞬、アレクの体は思考よりも先に動いた。
自分より小柄なヴィックの体を、アレクは空中で強引に引き寄せた。両腕で彼女の頭と肩をがっしりと抱え込み、自分の胸の中に閉じ込める。
直後、雪の斜面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
アレクはヴィックを離さないまま、自分の背中をクッションにするようにして雪の上を転がった。ゴロゴロと二人分の重みが回転し、激しく雪を跳ね上げる。
アレクの視界は白一色に染まり、衝撃と遠心力で上下の感覚すら失われたが、腕の中にあるヴィックだけは決して離さなかった。
ようやく回転が止まったとき、あたりには静寂が戻っていた。
アレクが顔を上げると、目の前には雪まみれになったヴィックの顔があった。彼女はアレクの胸に顔を埋めるような格好で、驚いたように目を見開いている。
ヴィックは、自分を拘束するアレクの腕の感触に息を呑んだ。
分厚い冬着越しに伝わってくるのは、自分を凌駕する圧倒的な体格差と力強さ。
否応なしに、ヴィックは自分が女で、アレクは男だと思い知らされた。
「……ヴィック、怪我はないか?」
アレクが肩で息をしながら問いかけると、ヴィックは弾かれたようにその胸から離れ、立ち上がった。
「……私は平気だ。お前こそ、大丈夫か?」
背中を向けて雪を払うヴィックの声は、どこか硬い。アレクがふと見ると、彼女の耳たぶや項が、刺すような冷気の中でもはっきりと分かるほど赤く染まっていた。
「(……怒らせたか? それとも、今の衝撃でどこか打ったんだろうか)」
その赤らんだ横顔が、寒さのせいなのか、それとも自分に強く抱きしめられた羞恥のせいなのか、アレクには判別がつかなかった。ただ、腕の中に残る彼女の華奢な身体の感触と、冬着越しでも伝わってきた確かな体温を思い出し、アレクの胸の鼓動も、先ほどまでの激しい運動とは別の理由で速くなった。
「雪が深くて助かった。……すみません、……抱きしめたりして」
アレクが申し訳なさと気恥ずかしさで頭を掻きながら立ち上がると、ヴィックは一度も目を合わせようとせず、猛然と服の雪を払い落とし始めた。
「……ふん。余計な真似を。……だが、まあ、助かった。おい、何をしてる。さっさとソリを回収して帰るぞ」
ヴィックは努めてぶっきらぼうに言い捨てる。
「ヴィック……ソリなら、あそこだ」
アレクが指差した先では、主を失ったソリが、遥か下方の村の入り口付近まで、軽快に滑り去っていく後ろ姿があった。
「…………歩きか。結局」
「はい。歩きですね……」
二人は膝まで埋まる雪の中を、延々と歩いて戻る羽目になった。
ようやくアイラの家の明かりが見えた頃には、二人とも幽霊のような足取りで、全身の筋肉がすでに悲鳴を上げ始めていた。
「おかえり。なんだい、二人して雪だるまの仮装でもしてきたのかい?」
アイラの容赦ない出迎えに、二人は返事をする気力もなかった。
明日から、毎日これだ。
前途多難な雪の坂道を思って、アレクは小さくため息をついた。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
マルコは恩人ロペスの弟だった。ヴィックは彼にアレクの双剣を打たせようと計画するが、マルコは「相応しい心があるか見極める」と告げる。結果、アレクは雪深い坂道を毎日往復する過酷な「通い修行」を強いられることに。帰路のソリでのハプニングを経て、波乱の弟子入り生活が幕を開ける。




