第三十話 愛の逃避行?!
ヴィックの周りの人間関係の整理がつかない上に、自分が憧れて続けた赤髪の双剣使いが、ヴィックの父親だと告白されて、アレクは完全に脳が停止した。
白カモメ亭で『暁の閃光』パーティーの肖像画を見たが、目の前のヴィックと赤髪の双剣使いは、似ても似つかない。親子と言われても、本当に?という感想しか出てこないのだ。
アレクの混乱をよそに、ヴィックは本当に人物相関図とやらを書き出して、アレクに手渡した。
「それをじっくり眺めて、頭にたたき込んで置くんだな、婚約者殿。分からない事を聞かれたら、微笑んでおけ。迂闊に答えるなよ」
ヴィックから貰った人物相関図の紙を眺めていたアレクは、そこに『ロペス爺さん』の名前が書いてあったのを見てしまった。
「ロペス爺さん?え…爺さんもこの村の出身?」
と驚くアレクを尻目に、さも当然の事とばかりにヴィックは言った。
「ロペス爺さんはこの村の鍛冶職人の息子だ。本当は長男だから、跡をつなげればならなかったんだが、出奔したって話だ」
情報の洪水に、アレクはもはや声も出なかった。停止した脳を動かすことを諦め、彼はただ機械的に手を動かした。手元に残っていたパンで皿の底に残ったソースを拭い、それを口へ運ぶ。噛みしめる感触すらどこか遠く、今の彼にできるのは、目の前の食事を胃に収めることだけだった。
ヴィックは、虚空を見つめながらも皿を空にしたアレクを確認すると、椅子の背にかけていた上着を手に取った。
「さて食べ終わったら出かけるぞ」
ヴィックは、食事を終えたアレクに言った
「え……何処へ行くんですか?」
雪に埋もれて下山すらできないこの状況で、アレクが尋ねた。
「愛の逃避行ってやつだ」
ヴィックは、からかうような企むような笑みを浮かべた。
アレクは自分が南の王国出身という事もあり、冬の衣服というものをほとんど持っていなかった。
彼の故郷である『シオス村』は南に位置し、彼は漁師として冬でも素潜りで漁をしていた。しかも彼はこれまで一度も風邪を引いたことがないという、妙な自負さえあった。
「冬でも素潜りで漁をしていたから、これくらい平気です。それにほら馬鹿は風邪引かないというじゃないですか」
アレクがそう言い放った時、ヴィックは心底呆れ果てた。
「馬鹿って自分で言うな!全く。それに馬鹿は風邪を引かないんじゃなくて、馬鹿だから風邪を引いたのも分からないっていう意味だ」
「え!そうなんですか?」
「一種の皮肉だ」
「そうか…皮肉なんだ。流石にいつも皮肉を言ってるだけあって詳しいですねヴィック」
アレクは、ヴィックが皮肉の知識を豊富に持っていることを、純粋に感心して褒めたつもりだった。
「いつからお前はそんな皮肉を返せるようになったんだ」
「……俺、なんか気に障るような事を言いましたか?」
ヴィックは、次に続くはずの皮肉な言葉を飲み込んだまま、一瞬、完全に絶句した。
普通の相手なら「性格が悪い」と遠回しに言われたと受け取って憤慨するか、言い返す場面だ。
しかし、アレクの瞳には微塵の悪意もなく、それどころか「物知りな師を仰ぐ」ような尊敬の念すら浮かんでいる。
ヴィックは、突き上げた拳の行き場を失ったような、何とも言えない奇妙な表情を浮かべた。
ヴィックはアレクにできる限りの厚着をさせるべく、村人から借りた温かい衣服を、半ば強引に整え始めた。
アレクが持っていたのは、ラナから贈られた餞別のマントと、その下に着る薄い平民服とベストだけだった。南方出身の彼にとって、それ以上の冬装備など想定の外だったのだ。
その結果、アレクはごく一般的な平民服の上に『格式高い族長のムートンベスト』を重ね、さらに紺色のマントを羽織り、頭には『子供用の真っ赤な毛糸帽』という、見るからにちぐはぐな装いをする羽目になった。
ただ一つ、足元だけは例外だった。新品同様の、鋲付きの頑丈なブーツが、雪景色の中で不釣り合いなほど頼もしい存在感を放っている。
「とりあえず私のあとをついて来い。それ以外は歩くなよ」
ヴィックはソリを左手に持ちながら言った。
言われた通りヴィックの後を歩くアレクは、雪山に不慣れなため、時折バランスを崩し、後ろに滑った。
「大丈夫か?」
「なんとか」
ヴィックが前をみて再び歩き始めると、アレクは転んだ。派手な音をたてて雪まみれになるアレクをみかねて、ヴィックはため息をついた。
「お前はソリを持て」
そう言ってソリをアレクに手渡すと、ヴィックは左手を差し出した。
「私が支えてやる」
「いやでも…」
雪道で転んだ場合、ヴィックも巻き添えをくってしまう。それは避けたかったが、ヴィックは一切聞き入れなかった。
「いいから手を出せ!」
結局、二人は手を繋いだ。ヴィックはアレクの分まで雪を踏みしめ、慎重に歩き出す。
アレクのブーツこそ底に鋲が打たれた新品に近い良品であったが、彼は雪山の歩行に全く慣れていない。
二人が緩やかな坂道に差し掛かった途端、アレクはブーツの重さに足を取られ、再びバランスを崩しかけた。
ヴィックが咄嗟にその手を強く握り締め、彼の体を支えるが、雪上では安定した姿勢が取れない。
「だめだ!」
ヴィックは即座に手を放し、懐から取り出した一本のロープを素早く自分の腰に、そしてもう一方の端をアレクのムートンベストの胴体部分にきつく結びつけた。
「これで私が綱役だ。私が踏みしめた後を正確に辿れ。引っ張られていると思え! お前の命綱は、私だ」
ヴィックは雪の斜面に足を深く食い込ませ、一歩一歩、安定した足場を作りながら登り始めた。
アレクはロープに支えられながら、その力を頼りに、ぎこちない足取りでその後を追った。
ヴィックに命綱で曳かれながら、アレクはなんとか斜面を登りきった。
坂道が終わり、雪に覆われた平坦な場所にたどり着いた先に、目的の建物はあった。
それは、周囲の深い森の木々と同じような濃い茶色の、古びた木造の小屋だった。屋根には雪が深く積もっているものの、その小さな煙突からは、濃い灰色の煙が力強くもくもくと立ち昇っていた。
ヴィックはアレクを振り返り、結びつけていたロープを解いた。
「着いたぞ」
彼女は戸口へ向かい、ノックもせず、いきなり木製の重い戸をガラリと開け放った。
「マルコ爺さん、生きてるか?」
小屋の中は、外の寒さとはかけ離れた熱気と、木材が焼ける匂い、そして鉄を叩く音が充満していた。
中には、まさに作業中の年老いた男がいた。火力の強い炉の横に立ち、顔には薄く汗を浮かべている。彼は、炉から取り出したばかりで真っ赤に熱した鉄の棒を、太い金床の上に置いていた。
マルコ爺さんは、白いひげと、普段着の皮革エプロンから突き出た筋骨隆々の腕を震わせながら、巨大なハンマーを振り下ろす。
―キン! カン! キィン!―
甲高く、力強い金属音が小屋全体に響き渡る。彼は、赤熱した鉄が少しずつ形を変えていく様子を、その鋭い眼光で捉えていた。鍛造作業の真っ最中だったのだ。
強烈な金属音と熱気に包まれたまま、マルコ爺さんは一瞬、動きを止めた。彼はハンマーを腰に当てたまま、振り返らずに開け放たれた戸口に向かって低い声を放った。
「こんな雪の中をいきなりやって来る馬鹿は誰かと思ったら……馬鹿が二匹か」
ヴィックは戸を閉めながら、肩をすくめた。
「馬鹿は酷いな」
マルコ爺さんは初めて完全に振り返った。その顔は炉の火で赤く照らされており、彼は薄汚れた革の手袋を外し、アレクを一瞥した。
「ほぅ。そっちの兄ちゃんは見たことがない顔じゃの?」
ヴィックはすかさず、アレクの肩をポンと叩いた。
「私の相棒だ。そんでもって、ロペス爺さんの知り合いでもある」
「ほう」
マルコ爺さんは面白そうなものを見つけたように頷き、鍛冶屋らしい煤けた大きな手を顎に当てて、まじまじとアレクの顔を見つめた。
初めて会ったはずなのに、その目は、何故だかどこか懐かしさがあった。
(何故だろう…初めて会った気がしない)とアレクは思った。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
ヴィックの素性や恩人ロペスの出自に驚愕し、脳が停止したアレク。命綱でヴィックに引かれ、雪中の小屋へ辿り着く。マルコ爺さんがいた。初対面のはずの老鍛冶屋はかつての誰かを重ねるような、懐かしさがあった。




