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空の結び目  作者: 夕花
9/27

- 9 -

 今度は、退くためではない。


 直嗣が濡れた砂を踏みしめる。その踵が僅かに浮いたのと、〈標本家〉の左手が振り下ろされたのは、ほとんど同時だった。


 頭上の輪が崩れ、黒い翼が左右から公園の中央へ雪崩れ込む。植え込みの前にいた犬も地面を蹴った。羽音と足音が重なり、その奥から白い針が真っ直ぐ直嗣の左脚を狙う。


 千綴は目を閉じなかった。


 カラスと男のあいだ。犬と男のあいだ。直嗣の動かない右手と男のあいだ。


 さっき触れた違和感を一度に追おうとした瞬間、それぞれ異なる重さが胸の奥へ押し寄せた。怯えて逃げようとするもの。向けられた先へ怒りを押し込まれているもの。動こうとする意思だけを奪われているもの。


 全部を掴もうとするほど、どれも遠ざかる。


「弥生、全部を見るな」


 直嗣は迫る針を左のトンファーで外へ流し、その返しで一羽目の嘴を弾いた。続く二羽の下へ身体を沈め、肩口すれすれに通す。


 その一連に、さっきまであった僅かな選び直しがない。


「俺の右手だけでいい」


 直嗣の身体が左へ傾く。


 犬がその脇を抜け、千綴へ向かってきた。


 さっきまでなら、直嗣はそこで踏み込みを止めていた。けれど今は男から視線を外さず、左のトンファーを後ろへ差し出す。長い軸が千綴の前へ斜めに伸びた。


「右へ」


 千綴は軸の内側へ身体を滑らせた。


 犬の牙が空を噛む。脇を掠めた濡れた毛から、獣の熱と泥の匂いが立った。足が竦みそうになる。それでも、直嗣が作った線から外へは出ない。


 直嗣は振り返らないままトンファーを引き、犬の肩へ横から当てた。押し流された身体が砂の上を滑っていく。


 その間にも、〈標本家〉は次の針を形にしていた。


「見つけろ」


 千綴は直嗣の右手を見た。


 身体の脇で揺れる指先。雨に濡れた手の甲。


 そこから辿るのではない。


 動かそうとしているのに、届かない。その境目へ意識を向ける。


 直嗣の意思は消えていない。


 握ろうとしている。持ち上げようとしている。落としたトンファーを、もう一度掴もうとしている。


 その意思だけが、どこかで押し返されている。


「……あった」


 千綴は小さく息を吐いた。


 掴もうとすると遠ざかる。


 力ずくでほどこうとすれば、かえって分からなくなる。


 だから追わない。


 直嗣が自分の手を動かそうとする、その感覚だけへ意識を重ねる。


 その手は、あの男のものではない。


 直嗣が動かそうとしている。


 なら、その意思が届かない方がおかしい。


 胸の奥で、細いものが震えた。


 直嗣の右手が僅かに上がる。


 男の顔が強張った。左手に作りかけていた針が薄れ、代わりに右手が強く握り込まれる。


「動くな」


 押し殺した声が霧を震わせた。


 直嗣の腕が一度止まる。


 それでも親指が掌へ寄り、人差し指が曲がった。完全な拳にはならない。だが、男に奪われていたはずの手へ、直嗣自身の意思が少しずつ戻っている。


 男が千綴を見た。


 その瞬間、頭上のカラスが旋回を乱す。


「朝倉さん、今――」


 声を待たず、直嗣は踏み込んだ。


 千綴が右手へ触れれば、男はそこを押さえ直さなければならない。そのぶん、別の何かが緩む。


 直嗣も、もう同じ綻びを見ている。


 三歩あった距離が、一息で消えた。


 男は針を作り直すより先に後退し、上着の内側へ手を入れる。鈍く光る刃が抜かれた。


 直嗣のトンファーとナイフがぶつかる。


 金属音が羽音を裂いた。


 男は刃を滑らせ、直嗣の左手首を狙う。直嗣は軸を立てて受けると、横へ払わず、そのまま体重を預けた。ナイフを外側へ押さえ込みながら肩を男の胸へ当てる。


 男の足が水たまりへ入り、泥が跳ねた。


 直嗣が右肩を引く。


 遅れて、右腕が身体についてくる。


 拳にはならない。それでも肘が曲がり、男の左前腕へ外側からぶつかった。針を作ろうとしていた手が胸元へ押し戻される。


「私のものだ!」


 男が叫んだ。


 右手が強く握られる。


 直嗣の腕に重さが戻り、肘から先が落ちた。


 同時に、頭上の群れが千綴へ向きを揃える。


 直嗣の右手を押さえ込みながら、千綴へまで意識を向けたのだ。


 黒い影が視界の上を埋める。


 直嗣は男と組み合ったまま、左手のトンファーを離せない。ここで戻れば、せっかく詰めた距離がまた開く。


 千綴は後ろへ下がらなかった。


 水たまりの縁に、直嗣が落としたもう一本のトンファーがある。


 駆け寄り、両手で拾い上げる。


 重い。


 想像していたよりずっと重く、片手では先端がすぐに下がった。これでカラスを打ち落とせるとは思えない。


 それでも両手で持てば、顔と胸の前に一本の線を作れる。


「弥生、振るな。軸を立てろ」


 直嗣の声に従い、長い部分を斜めに構える。


 一羽目が飛び込んだ。


 黒い腹が軸へぶつかり、衝撃が両腕を抜けて肩まで届く。千綴は靴を滑らせながらも、手を離さなかった。


 弾こうとしない。


 直嗣がしていたように、真正面で受けず角度をつける。


 カラスの身体が黒い軸を滑り、千綴の左へ逸れた。


 二羽目は右から来る。


 振り向いてからでは間に合わない。半歩だけ右へ寄り、立てた軸の反対側へ身体を隠す。爪が表面を擦り、甲高い音を残して通り過ぎた。


 怖い。


 腕も痺れている。


 次を受ければ、今度こそ取り落とすかもしれない。


 それでも、直嗣が男を押さえている間だけなら、自分のところへ来るものを逸らせる。


「そのまま持たせろ」


 直嗣がナイフを押し下げながら言った。


 何を、とは訊かなかった。


 千綴はもう一度、直嗣の右手へ意識を向ける。


 カラスへ向ける力が増えたぶん、さっきより抵抗が浅い。


 男が右手へ力を戻すたびに固くなり、別の命令へ意識が割れた瞬間だけ、直嗣の側へ僅かに戻る。


 その揺れへ触れる。


 直嗣の右手が地面へ落ちきる前に止まった。


 指先が動く。


 すぐ下でナイフを握っている男の手首へ、二本の指が掛かった。


 握り込むほどの力はない。


 それでも、男の腕が一瞬止まれば十分だった。


 直嗣は左のトンファーを引き、横軸を男の手の甲へ打ち下ろす。


 ナイフが指を離れ、水たまりへ落ちた。


 返した長軸を胸元へ当て、そのまま男を押し返す。


 二人の間に、再び距離が開いた。


 今度は直嗣が退いたのではない。


 〈標本家〉が自分から距離を作っていた。


 男は右手を胸の前へ引き、左腕を庇うように半身になる。


 見ているのは直嗣ではなく、その斜め後ろに立つ千綴だった。


 怒りより先に、理解できないものへの怯えが浮かんでいる。


 直嗣は追わず、千綴の隣まで戻った。


 右手はまだ十分には動かない。


 それでも肘は曲がり、指先も先ほどのように力なく垂れてはいなかった。


「持てるか」


 千綴はトンファーを両手で握り直す。


「長くは無理です」


「十分だ。振らなくていい。自分へ来るものだけ逸らせ」


「朝倉さんの手は」


「今ので分かった。お前が緩めたところは、俺が使う」


 直嗣が左の一本を構える。


 千綴も、その斜め後ろで黒い軸を立てた。


 さっきまで、直嗣の背中は千綴を隠すための壁だった。


 今は、その背中の外側へ千綴自身の視界がある。


 直嗣が男へ届くあいだ、自分へ来るものは自分で逸らす。


 千綴があの違和感へ意識を向けるあいだは、直嗣がその時間を作る。


 それだけでいい。


 〈標本家〉が後退しながら両腕を広げる。


 散っていたカラスが再び頭上へ集まり、犬たちも植え込みの前で低く身を伏せた。先ほどまでと同じ形へ戻ろうとしている。


 けれど、千綴にはもう同じには見えなかった。


 直嗣が右足を前へ出す。


 千綴も、背中に押されるより先に一歩進んだ。


 二人の足音が、濡れた砂の上で重なった。





 〈標本家〉の右手が握られる。


 頭上から四羽のカラスが離れ、直嗣と千綴の間へ黒い楔のように降ってきた。同時に犬が左右へ分かれる。一頭は直嗣の前へ、もう一頭は大きく弧を描き、千綴の背後へ回ろうとしていた。


 直嗣は足を止めない。


「右を頼む」


 それだけを残し、正面の犬へ踏み込んだ。


 千綴は借りたトンファーを両手で立てる。右から来た一羽が長い軸へぶつかり、続いた爪が黒い表面を滑った。腕が痺れ、握った指の間へ雨水が滲む。それでも、衝撃に逆らって押し返そうとはしない。軸の角度を保ち、翼が自分の横へ抜けるまで身体を小さくする。


 視界の端を、犬の濡れた背が横切った。


 振り向けば、次のカラスを見失う。


 千綴は犬そのものではなく、その身体と男のあいだに残る違和感へ意識を向けた。


 さっきまで一つに重なっていたものが、今は少しずつ分かれて感じられる。男が直嗣へ針を向ければ、犬を押す力が弱くなる。カラスを千綴へ集めれば、直嗣の右手を止めている抵抗が浅くなる。


 全部を見る必要はない。


 今、自分へ届こうとしているものだけでいい。


 背後へ回った犬が砂を蹴った。


 男の意思が、犬の向きを千綴の背中へ揃える。その瞬間、胸の奥に細い引っ掛かりが触れた。


「そっちじゃない」


 千綴は無理にほどこうとしなかった。


 耳を伏せている。尾は腹へ巻き込まれ、足は前へ出ながら、身体の奥では後ろへ逃げようとしている。


 なら、その犬がもともと向こうとしている方へ、ほんの少しだけ重ねる。


 前脚が砂を深く掻いた。


 犬の身体が半歩ぶん外へ流れ、牙はカーディガンの裾を掠めただけで、赤い支柱へ肩からぶつかった。


 男が犬を引き戻そうと、右手へ力を込める。


 その瞬間、直嗣の右腕が上がった。


 まだ肩の高さにも届かない。それでも肘は自分の意思で曲がり、男の左手首を下から打つ。指先に生まれかけていた白い針が、形を結ぶ前に霧へ散った。


 左のトンファーが続く。


 長い軸が男の脇腹を捉え、湿った音がした。男は息を詰まらせ、二歩、三歩と後ろへよろめく。踵がベンチの脚へ当たり、座面へ片手をついて辛うじて倒れるのを免れた。


 直嗣は追う。


 犬が横から飛びかかるより早く身体を沈め、鼻先の下へ左肩を入れる。持ち上げるのではなく、走る勢いを上へ逃がす。犬の前脚が直嗣の背を越え、身体はベンチ脇の草地へ転がった。


 そこへ白い針が走る。


「左脚です!」


 千綴の声と同時に、直嗣が踏み込む足を変えた。


 針がズボンの布を浅く裂き、背後へ抜ける。直嗣は崩れかけた重心を右脚で支え、そのままトンファーの短い軸を男の胸元へ突き込んだ。


 男の背がベンチへ落ちる。


 濡れた木板が軋んだ。


 直嗣の右手が、その肩を掴みかける。


 男が叫び、両手を胸の前で握り込んだ。


 直嗣の指から再び力が抜けた。


 同時に、頭上を乱れていたカラスが一斉に向きを変え、直嗣の後頭部へ降下する。千綴は走り、立てたトンファーをその進路へ差し入れた。


 一羽が軸へ衝突する。


 重さに腕を持っていかれ、千綴の膝が砂へついた。二羽目の翼が髪を打ち、三羽目の爪が肩口を掠める。


 痛みより先に、男の意識が散ったのが分かった。


 直嗣の手を止める。


 三羽のカラスを動かす。


 倒れた犬まで起こそうとしている。


 向ける先が増えるたび、一つひとつの抵抗が薄くなる。


「朝倉さん、今なら」


「分かってる」


 直嗣の右手が、男の肩口で止まる。


 落ちきらない。


 親指が服地へ食い込み、残る指も一本ずつ閉じていく。男が腕を振っても、もう離れなかった。


 直嗣は右手で相手をベンチへ押さえたまま、左のトンファーを振り上げる。狙いは頭ではない。針を作る右腕、その肘の内側だった。


 黒い軸が落ちる。


 男は身体を捻り、ベンチの背を越えて後ろへ転がった。トンファーが空いた座面を打ち、溜まっていた水が白く跳ねる。


 右手に掴まれていた上着が裂けた。


 男は布の一部を残したまま芝生へ落ち、四つん這いになって遊具の奥へ逃げる。先ほどまでのように距離を選んで退く動きではない。片方の足をもつれさせ、滑り台の階段へ肩をぶつけながら、それでも直嗣から離れようとしている。


 動物たちは追わなかった。


 カラスは旋回を失い、街灯の外へ散っていく。犬は草地で身を起こしたものの、男へ近づくどころか耳を伏せて植え込みへ下がった。ネズミの気配も、いつの間にか消えている。


 千綴には一瞬、男がすべてを手放して逃げたように見えた。


「弥生、その場にいろ」


 直嗣が駆ける。


 千綴は返事をしようとして、声を止めた。


 男と動物のあいだにあった違和感が急速に薄れている。直嗣の右手を押さえていた感覚も、ほとんど消えかけていた。


 その代わり、もっと近いところで何かが軋んだ。


 胸の奥だった。


 脇腹の傷など、もう残っていない。


 それでもあの日、白い針が身体へ入り、手を、足を、胴を奪っていった。その時に触れたものが、千綴の内側に薄い痕のように残っている。


 逃げるために捨てたのではない。


 男は、散らしていたものを自分の近くへ戻している。


 〈標本家〉が滑り台の向こうで振り返った。


 その目は直嗣ではなく、千綴だけを見ていた。


「お前は、一度、私のものになった」


 低い声が届く。


 胸の奥に残っていた痕が、強く引かれた。


 千綴の両手からトンファーが滑る。


 地面へ落ちる重い音を聞きながら、指一本動かせなかった。


 足は砂を踏んだまま、膝も曲がらない。息を吸おうとしても胸が広がらず、喉の奥だけが狭く鳴った。


 あの時と同じだった。


 感覚はある。


 身体もそこにある。


 ただ、自分の意思が届かない。


「弥生!」


 直嗣の足が止まる。


 男まで、あと二歩だった。


 その二歩を詰めれば、左のトンファーは届く。男にはもう犬もカラスもいない。針を作る時間さえ与えなければ、ここで終わらせられる。


 けれど男の右手は、千綴へ向けて握られていた。


「動けば、次は足だ」


 白い輪郭が、その左手に集まり始める。


 直嗣は男と千綴の間で、僅かに腰を落とした。


 前へ出るためではない。


 戻るための構えだと、千綴には分かった。


「来ないで」


 声になったかどうかも分からなかった。


 来れば、自分を守るために直嗣は背を向ける。


 来なければ、男を捕まえられるかもしれない。


 どちらを選んでも、男はその迷いを使える。


 直嗣の視線が、男の左手へ向く。


 白い針が形を結んだ。


 その切っ先が千綴の脚へ定まるより早く、直嗣は地面を蹴った。


 男へではなく、千綴へ向かって。


 同時に〈標本家〉の左腕が振られる。


 直嗣は千綴との間へ身体を滑り込ませ、左のトンファーを低く薙いだ。白い針が黒い軸に触れ、硬く澄んだ音を残して霧へ逸れる。


 千綴の身体を引いていた力が、一瞬だけ緩んだ。


 膝が折れる。


 直嗣の右腕がすぐに支えた。戻りかけた手が千綴の肩を掴み、砂へ倒れる寸前で抱き留める。


 その肩越しに、男の姿が遠ざかっていく。


 滑り台の脇を抜け、公園の出口へ向かっている。足取りは乱れ、片手で脇腹を押さえている。追えば届く距離に見えた。


 けれど直嗣は動かない。


 動けない千綴を支え、男とその逃げ道を同時に見ている。


 男が一度だけ振り返った。


 霧の向こうで、その口元が歪んだ。


 あと二歩だった。


 その二歩を、直嗣は詰めなかった。


 詰められなかったのではない。


 千綴を守るために、戻った。


 公園の出口へ向かって遠ざかる背中を見ながら、千綴はその事実だけを強く理解した。





 直嗣の腕に支えられたまま、千綴は遠ざかる男を見ていた。


 公園の出口までは、もう十数歩もない。霧の向こうには歩道のガードレールが淡く浮かび、その先を車の灯りが滲んで通り過ぎていく。男がそこへ出れば、暗い住宅街へ紛れる。追える距離ではあっても、動かない身体を抱えた直嗣には遠かった。


 〈標本家〉も、それを分かっている。


 脇腹を押さえながら足を引きずり、それでも足を止めない。直嗣が追ってこないと確かめた口元には、痛みとは別の歪みが残っていた。


「……私のものだ」


 霧へ溶けかけた声が、胸の奥をもう一度引いた。


 千綴の指は動かない。膝から力が抜けたまま、呼吸さえ自分のものではないように浅かった。二日前の公園で、地面へ倒れながら見上げた男の顔が重なる。白い針。脇腹へ入ってきた冷たさ。身体の内側から、ひとつずつ扉を閉じられていく感覚。


 そして最後には、息まで止まった。


 怖い。


 身体はまだ、その先を覚えている。


 逃げろと訴えているのに、足は命令を聞かない。直嗣に追ってほしいと思う一方で、支えている腕が離れることを想像するだけで喉が塞がった。


 男の背が、赤い車止めの脇を抜けようとする。


 このままでは、また逃げられる。


 白い針。


 雨に濡れた舗装。


 動かなかった巴の指。


 浮かんでは消える、それだけで十分だった。


 あの時と同じだ。


 今度は自分の身体が、男の逃げ道にされている。


 胸の奥に残る痕へ意識を向ける。


 外から巻きついたものではない。二日前、白い針に触れられた場所から、男の側へ引かれている。自分の手を動かそうとする意思も、膝を立てようとする力も、その細い道を逆向きに押し返されていた。


 犬やカラスに触れた時より、ずっと近い。


 近すぎて、これまでは自分自身の恐怖と見分けられなかった。


 男が公園の外へ踏み出す。


「違う」


 声は掠れ、直嗣の胸元へ落ちた。


 それでも、胸の奥の引っ掛かりが僅かに揺れた。


 千綴は歯を食いしばる。


 切り方など知らない。


 ほどき方も、力の使い方も分からない。


 ただ、何を拒むのかだけは、今なら分かる。


 怖がっていることまで、男に与えるつもりはない。


 動けない身体も、二日前に一度奪われた命も、あの男のものになったことなどない。


「私の身体は――私のものです」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 引かれていた感覚が消えたわけではない。


 それでも、その上から千綴自身の意思が押し返す。


 右の人差し指が曲がった。


 次に、砂へついていた爪先が沈む。


 〈標本家〉が足を止めた。


 振り返った顔から、先ほどまでの笑みが消えている。男は千綴へ向けて右手を握り直した。胸の奥を引く力が強まり、戻りかけた呼吸が詰まる。


「動くな」


 その言葉へ従うように、千綴の膝が再び崩れた。


 けれど、指は開かなかった。


 掌へ食い込むほど強く、握ったままだった。


「朝倉さん」


 直嗣の腕が肩から離れる。


 何が起きたのかを訊くことも、確かめることもしなかった。千綴の足が一瞬だけ自分を支えた。その事実だけで十分だった。


 濡れた砂を蹴る音が、すぐそばで鳴る。


 〈標本家〉は逃げかけた身体を返し、左手を振り上げた。白い輪郭が指先から伸びる。だが、針は形を結びきらない。千綴を押さえ込む右手へ力を集めるほど、左手の白さが霧の中へ薄れていく。


 直嗣は千綴のそばへ落ちたトンファーを拾わなかった。


 左手の一本だけを身体へ沿わせ、最短の線で男へ走る。


 男の左腕が振り下ろされる。


 不完全な針が直嗣の頬を掠め、細い血の筋を引いた。直嗣は顔を背けず、その腕の内側へ踏み込む。トンファーの長い軸を男の前腕へ添え、脇へ抱え込むようにして外側へ捻った。


 男の肩が上がり、身体が横を向く。


 右手の握りが緩んだ。


 千綴の胸が、大きく空気を吸い込む。


「離して」


 今度の声は、霧の向こうまで届いた。


 胸の奥に残っていた引っ掛かりが強く震え、男の側へ引かれていた感覚が途切れる。


 千綴の膝が自分の意思で曲がった。


 倒れるのではなく、地面を踏むために。


 同時に、男の右手が大きく開く。


 直嗣の右腕も動いた。


 肩から前へ出た手が、男の上着を胸元で掴む。


 驚いて見開かれた目の前で、直嗣は軸足を入れ替えた。


 引き寄せた身体へ腰を当て、逃げようとする勢いをそのまま地面へ返す。


 男の両足が浮いた。


 濡れた砂が弾け、背中が地面へ落ちる。肺から押し出された息が、短い呻きになった。


 直嗣は右手で襟元を押さえたまま、左膝を男の肘へ置く。トンファーの長い軸を首の脇へ立て、起き上がる方向だけを塞いだ。


 〈標本家〉の左指が震える。


 白いものが、爪の先に滲んだ。


 直嗣はそれを見た瞬間、力を強めた。


 手首を固定していた膝を引き、右腕ごと男の上体を引き起こす。首を制して絞めへ移行した。


 再発動の兆候を、もう一度待つつもりはなかった。


 男の指がもう一度動こうとする。


 だが白いものは、指先を離れる前に消えた。


 数秒。


 男の身体から力が抜けていく。


 抵抗していた足が止まり、開いていた目が閉じていく。声にならない息だけが漏れ、それきり動かなくなった。


 直嗣は絞めを緩め、首元へ指を当てる。


 脈はある。


 呼吸も、浅いが規則的に続いている。


 生きている。


 それを確かめてから、ようやく腰の後ろへ手を伸ばした。


 意識のない身体をうつ伏せへ返し、右手首へ拘束具の輪を掛ける。乾いた音を立てて締まる。左手も背中へ引き寄せ、二つ目の輪を閉じた。


 男の両手が、背中で繋がれた。


 指は動かない。


 爪の先にも、もう何も滲んでいない。


 直嗣は男の顔を一度確かめ、それ以上手を触れなかった。近くへ膝をついたまま、意識が戻る様子がないか目だけを離さずにいる。


 千綴は膝をついたまま、その一部始終から目を離さなかった。


 胸の奥に残っていた引っ掛かりが、ゆっくりと薄くなっていく。


 二日前からずっとそこにあったものが、今になって初めて、輪郭を失っていくのが分かった。


「もう、来ない」


 声に出してから、それが誰に向けた言葉なのか、千綴自身にも分からなかった。


 直嗣が振り返る。


「終わりだ」


 直嗣は男から視線を外さないまま、耳元の通信機へ手を伸ばした。


「対象を確保。生存。意識なし。負傷者二名」


 短く場所と状況を伝える声は、戦っている時と同じ温度だった。


 その途中で、直嗣の視線が千綴へ向く。


 千綴は赤い車止めの手前に立っていた。


 立っているつもりだったが、膝はまだ頼りなく、両腕も自分のものではないように重い。指を開いてみる。曲げる。掌へ爪の跡が残っていた。


 ちゃんと動く。


 確かめた途端、全身から力が抜けた。


「弥生」


 通信を終えた直嗣が近づき、倒れる前に腕を取る。


「どこをやられた」


「どこも……たぶん、どこも」


 答えながら、自分でも頼りないと思った。


 肩にはカラスの爪が掠めた痛みがあり、両手にはトンファーを受け続けた痺れが残っている。けれど、二日前のように身体の一部が遠ざかる感覚はなかった。


 千綴は直嗣の右手を見る。


 自分の腕を支えている。


 指も、手首も、迷いなく動いていた。


「朝倉さんの手は」


 直嗣は一度、右手を開閉した。


「戻ってる。痛みもない」


 それから左手のトンファーを下ろし、ようやく浅く息を吐いた。


「お前が何かした時に、戻った」


 千綴は直嗣の右手を見たまま、ゆっくり首を振る。


「……何をしたのか、分かりません」


「今はそれでいい」


 自分が何をしたのかは、まだ分からない。


 もう一度同じことができるとも思えなかった。


 男と動物のあいだにあったものも、直嗣の右手を押さえていたものも、今はもう感じ取れない。


 ただ、あの瞬間に自分が拒んだことだけは覚えている。


「一人では、無理でした」


「俺もだ」


 直嗣はそれだけ答えた。


 〈標本家〉は目を閉じたまま動かない。


 怒鳴りもせず、指一本動かさない。


 二日前に死んだはずの人間が立っていることも、自分が支配したはずの身体を拒まれたことも、理解できないまま意識を失った。


 千綴はその横顔をしばらく見ていた。


 胸の奥が冷え、脇腹には刺された時の感覚が蘇る。


 それでも、直嗣の腕を借りたまま目を逸らさなかった。


 遠くで、サイレンの音がした。


 霧に吸われながら、少しずつこちらへ近づいてくる。街灯の下には水の跳ねたベンチも、泥に刻まれた足跡も、落ちたトンファーも残っていた。公園の景色はひどく荒れているのに、動くものがいなくなっただけで、急に広く見えた。


 千綴は空を見上げる。


 厚い雲に覆われ、星は一つも見えない。


 けれど、黒い翼に塞がれていた時とは違う。


 ただの夜空が、霧の向こうにどこまでも続いていた。


 濡れた風が頬を撫でる。


 蒸し暑さの中に、ようやく僅かな涼しさが混じっていた。


2026/08/11 時系列修正

2026/08/10 不要な文言削除

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