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今度は、退くためではない。
直嗣が濡れた砂を踏みしめる。その踵が僅かに浮いたのと、〈標本家〉の左手が振り下ろされたのは、ほとんど同時だった。
頭上の輪が崩れ、黒い翼が左右から公園の中央へ雪崩れ込む。植え込みの前にいた犬も地面を蹴った。羽音と足音が重なり、その奥から白い針が真っ直ぐ直嗣の左脚を狙う。
千綴は目を閉じなかった。
カラスと男のあいだ。犬と男のあいだ。直嗣の動かない右手と男のあいだ。
さっき触れた違和感を一度に追おうとした瞬間、それぞれ異なる重さが胸の奥へ押し寄せた。怯えて逃げようとするもの。向けられた先へ怒りを押し込まれているもの。動こうとする意思だけを奪われているもの。
全部を掴もうとするほど、どれも遠ざかる。
「弥生、全部を見るな」
直嗣は迫る針を左のトンファーで外へ流し、その返しで一羽目の嘴を弾いた。続く二羽の下へ身体を沈め、肩口すれすれに通す。
その一連に、さっきまであった僅かな選び直しがない。
「俺の右手だけでいい」
直嗣の身体が左へ傾く。
犬がその脇を抜け、千綴へ向かってきた。
さっきまでなら、直嗣はそこで踏み込みを止めていた。けれど今は男から視線を外さず、左のトンファーを後ろへ差し出す。長い軸が千綴の前へ斜めに伸びた。
「右へ」
千綴は軸の内側へ身体を滑らせた。
犬の牙が空を噛む。脇を掠めた濡れた毛から、獣の熱と泥の匂いが立った。足が竦みそうになる。それでも、直嗣が作った線から外へは出ない。
直嗣は振り返らないままトンファーを引き、犬の肩へ横から当てた。押し流された身体が砂の上を滑っていく。
その間にも、〈標本家〉は次の針を形にしていた。
「見つけろ」
千綴は直嗣の右手を見た。
身体の脇で揺れる指先。雨に濡れた手の甲。
そこから辿るのではない。
動かそうとしているのに、届かない。その境目へ意識を向ける。
直嗣の意思は消えていない。
握ろうとしている。持ち上げようとしている。落としたトンファーを、もう一度掴もうとしている。
その意思だけが、どこかで押し返されている。
「……あった」
千綴は小さく息を吐いた。
掴もうとすると遠ざかる。
力ずくでほどこうとすれば、かえって分からなくなる。
だから追わない。
直嗣が自分の手を動かそうとする、その感覚だけへ意識を重ねる。
その手は、あの男のものではない。
直嗣が動かそうとしている。
なら、その意思が届かない方がおかしい。
胸の奥で、細いものが震えた。
直嗣の右手が僅かに上がる。
男の顔が強張った。左手に作りかけていた針が薄れ、代わりに右手が強く握り込まれる。
「動くな」
押し殺した声が霧を震わせた。
直嗣の腕が一度止まる。
それでも親指が掌へ寄り、人差し指が曲がった。完全な拳にはならない。だが、男に奪われていたはずの手へ、直嗣自身の意思が少しずつ戻っている。
男が千綴を見た。
その瞬間、頭上のカラスが旋回を乱す。
「朝倉さん、今――」
声を待たず、直嗣は踏み込んだ。
千綴が右手へ触れれば、男はそこを押さえ直さなければならない。そのぶん、別の何かが緩む。
直嗣も、もう同じ綻びを見ている。
三歩あった距離が、一息で消えた。
男は針を作り直すより先に後退し、上着の内側へ手を入れる。鈍く光る刃が抜かれた。
直嗣のトンファーとナイフがぶつかる。
金属音が羽音を裂いた。
男は刃を滑らせ、直嗣の左手首を狙う。直嗣は軸を立てて受けると、横へ払わず、そのまま体重を預けた。ナイフを外側へ押さえ込みながら肩を男の胸へ当てる。
男の足が水たまりへ入り、泥が跳ねた。
直嗣が右肩を引く。
遅れて、右腕が身体についてくる。
拳にはならない。それでも肘が曲がり、男の左前腕へ外側からぶつかった。針を作ろうとしていた手が胸元へ押し戻される。
「私のものだ!」
男が叫んだ。
右手が強く握られる。
直嗣の腕に重さが戻り、肘から先が落ちた。
同時に、頭上の群れが千綴へ向きを揃える。
直嗣の右手を押さえ込みながら、千綴へまで意識を向けたのだ。
黒い影が視界の上を埋める。
直嗣は男と組み合ったまま、左手のトンファーを離せない。ここで戻れば、せっかく詰めた距離がまた開く。
千綴は後ろへ下がらなかった。
水たまりの縁に、直嗣が落としたもう一本のトンファーがある。
駆け寄り、両手で拾い上げる。
重い。
想像していたよりずっと重く、片手では先端がすぐに下がった。これでカラスを打ち落とせるとは思えない。
それでも両手で持てば、顔と胸の前に一本の線を作れる。
「弥生、振るな。軸を立てろ」
直嗣の声に従い、長い部分を斜めに構える。
一羽目が飛び込んだ。
黒い腹が軸へぶつかり、衝撃が両腕を抜けて肩まで届く。千綴は靴を滑らせながらも、手を離さなかった。
弾こうとしない。
直嗣がしていたように、真正面で受けず角度をつける。
カラスの身体が黒い軸を滑り、千綴の左へ逸れた。
二羽目は右から来る。
振り向いてからでは間に合わない。半歩だけ右へ寄り、立てた軸の反対側へ身体を隠す。爪が表面を擦り、甲高い音を残して通り過ぎた。
怖い。
腕も痺れている。
次を受ければ、今度こそ取り落とすかもしれない。
それでも、直嗣が男を押さえている間だけなら、自分のところへ来るものを逸らせる。
「そのまま持たせろ」
直嗣がナイフを押し下げながら言った。
何を、とは訊かなかった。
千綴はもう一度、直嗣の右手へ意識を向ける。
カラスへ向ける力が増えたぶん、さっきより抵抗が浅い。
男が右手へ力を戻すたびに固くなり、別の命令へ意識が割れた瞬間だけ、直嗣の側へ僅かに戻る。
その揺れへ触れる。
直嗣の右手が地面へ落ちきる前に止まった。
指先が動く。
すぐ下でナイフを握っている男の手首へ、二本の指が掛かった。
握り込むほどの力はない。
それでも、男の腕が一瞬止まれば十分だった。
直嗣は左のトンファーを引き、横軸を男の手の甲へ打ち下ろす。
ナイフが指を離れ、水たまりへ落ちた。
返した長軸を胸元へ当て、そのまま男を押し返す。
二人の間に、再び距離が開いた。
今度は直嗣が退いたのではない。
〈標本家〉が自分から距離を作っていた。
男は右手を胸の前へ引き、左腕を庇うように半身になる。
見ているのは直嗣ではなく、その斜め後ろに立つ千綴だった。
怒りより先に、理解できないものへの怯えが浮かんでいる。
直嗣は追わず、千綴の隣まで戻った。
右手はまだ十分には動かない。
それでも肘は曲がり、指先も先ほどのように力なく垂れてはいなかった。
「持てるか」
千綴はトンファーを両手で握り直す。
「長くは無理です」
「十分だ。振らなくていい。自分へ来るものだけ逸らせ」
「朝倉さんの手は」
「今ので分かった。お前が緩めたところは、俺が使う」
直嗣が左の一本を構える。
千綴も、その斜め後ろで黒い軸を立てた。
さっきまで、直嗣の背中は千綴を隠すための壁だった。
今は、その背中の外側へ千綴自身の視界がある。
直嗣が男へ届くあいだ、自分へ来るものは自分で逸らす。
千綴があの違和感へ意識を向けるあいだは、直嗣がその時間を作る。
それだけでいい。
〈標本家〉が後退しながら両腕を広げる。
散っていたカラスが再び頭上へ集まり、犬たちも植え込みの前で低く身を伏せた。先ほどまでと同じ形へ戻ろうとしている。
けれど、千綴にはもう同じには見えなかった。
直嗣が右足を前へ出す。
千綴も、背中に押されるより先に一歩進んだ。
二人の足音が、濡れた砂の上で重なった。
〈標本家〉の右手が握られる。
頭上から四羽のカラスが離れ、直嗣と千綴の間へ黒い楔のように降ってきた。同時に犬が左右へ分かれる。一頭は直嗣の前へ、もう一頭は大きく弧を描き、千綴の背後へ回ろうとしていた。
直嗣は足を止めない。
「右を頼む」
それだけを残し、正面の犬へ踏み込んだ。
千綴は借りたトンファーを両手で立てる。右から来た一羽が長い軸へぶつかり、続いた爪が黒い表面を滑った。腕が痺れ、握った指の間へ雨水が滲む。それでも、衝撃に逆らって押し返そうとはしない。軸の角度を保ち、翼が自分の横へ抜けるまで身体を小さくする。
視界の端を、犬の濡れた背が横切った。
振り向けば、次のカラスを見失う。
千綴は犬そのものではなく、その身体と男のあいだに残る違和感へ意識を向けた。
さっきまで一つに重なっていたものが、今は少しずつ分かれて感じられる。男が直嗣へ針を向ければ、犬を押す力が弱くなる。カラスを千綴へ集めれば、直嗣の右手を止めている抵抗が浅くなる。
全部を見る必要はない。
今、自分へ届こうとしているものだけでいい。
背後へ回った犬が砂を蹴った。
男の意思が、犬の向きを千綴の背中へ揃える。その瞬間、胸の奥に細い引っ掛かりが触れた。
「そっちじゃない」
千綴は無理にほどこうとしなかった。
耳を伏せている。尾は腹へ巻き込まれ、足は前へ出ながら、身体の奥では後ろへ逃げようとしている。
なら、その犬がもともと向こうとしている方へ、ほんの少しだけ重ねる。
前脚が砂を深く掻いた。
犬の身体が半歩ぶん外へ流れ、牙はカーディガンの裾を掠めただけで、赤い支柱へ肩からぶつかった。
男が犬を引き戻そうと、右手へ力を込める。
その瞬間、直嗣の右腕が上がった。
まだ肩の高さにも届かない。それでも肘は自分の意思で曲がり、男の左手首を下から打つ。指先に生まれかけていた白い針が、形を結ぶ前に霧へ散った。
左のトンファーが続く。
長い軸が男の脇腹を捉え、湿った音がした。男は息を詰まらせ、二歩、三歩と後ろへよろめく。踵がベンチの脚へ当たり、座面へ片手をついて辛うじて倒れるのを免れた。
直嗣は追う。
犬が横から飛びかかるより早く身体を沈め、鼻先の下へ左肩を入れる。持ち上げるのではなく、走る勢いを上へ逃がす。犬の前脚が直嗣の背を越え、身体はベンチ脇の草地へ転がった。
そこへ白い針が走る。
「左脚です!」
千綴の声と同時に、直嗣が踏み込む足を変えた。
針がズボンの布を浅く裂き、背後へ抜ける。直嗣は崩れかけた重心を右脚で支え、そのままトンファーの短い軸を男の胸元へ突き込んだ。
男の背がベンチへ落ちる。
濡れた木板が軋んだ。
直嗣の右手が、その肩を掴みかける。
男が叫び、両手を胸の前で握り込んだ。
直嗣の指から再び力が抜けた。
同時に、頭上を乱れていたカラスが一斉に向きを変え、直嗣の後頭部へ降下する。千綴は走り、立てたトンファーをその進路へ差し入れた。
一羽が軸へ衝突する。
重さに腕を持っていかれ、千綴の膝が砂へついた。二羽目の翼が髪を打ち、三羽目の爪が肩口を掠める。
痛みより先に、男の意識が散ったのが分かった。
直嗣の手を止める。
三羽のカラスを動かす。
倒れた犬まで起こそうとしている。
向ける先が増えるたび、一つひとつの抵抗が薄くなる。
「朝倉さん、今なら」
「分かってる」
直嗣の右手が、男の肩口で止まる。
落ちきらない。
親指が服地へ食い込み、残る指も一本ずつ閉じていく。男が腕を振っても、もう離れなかった。
直嗣は右手で相手をベンチへ押さえたまま、左のトンファーを振り上げる。狙いは頭ではない。針を作る右腕、その肘の内側だった。
黒い軸が落ちる。
男は身体を捻り、ベンチの背を越えて後ろへ転がった。トンファーが空いた座面を打ち、溜まっていた水が白く跳ねる。
右手に掴まれていた上着が裂けた。
男は布の一部を残したまま芝生へ落ち、四つん這いになって遊具の奥へ逃げる。先ほどまでのように距離を選んで退く動きではない。片方の足をもつれさせ、滑り台の階段へ肩をぶつけながら、それでも直嗣から離れようとしている。
動物たちは追わなかった。
カラスは旋回を失い、街灯の外へ散っていく。犬は草地で身を起こしたものの、男へ近づくどころか耳を伏せて植え込みへ下がった。ネズミの気配も、いつの間にか消えている。
千綴には一瞬、男がすべてを手放して逃げたように見えた。
「弥生、その場にいろ」
直嗣が駆ける。
千綴は返事をしようとして、声を止めた。
男と動物のあいだにあった違和感が急速に薄れている。直嗣の右手を押さえていた感覚も、ほとんど消えかけていた。
その代わり、もっと近いところで何かが軋んだ。
胸の奥だった。
脇腹の傷など、もう残っていない。
それでもあの日、白い針が身体へ入り、手を、足を、胴を奪っていった。その時に触れたものが、千綴の内側に薄い痕のように残っている。
逃げるために捨てたのではない。
男は、散らしていたものを自分の近くへ戻している。
〈標本家〉が滑り台の向こうで振り返った。
その目は直嗣ではなく、千綴だけを見ていた。
「お前は、一度、私のものになった」
低い声が届く。
胸の奥に残っていた痕が、強く引かれた。
千綴の両手からトンファーが滑る。
地面へ落ちる重い音を聞きながら、指一本動かせなかった。
足は砂を踏んだまま、膝も曲がらない。息を吸おうとしても胸が広がらず、喉の奥だけが狭く鳴った。
あの時と同じだった。
感覚はある。
身体もそこにある。
ただ、自分の意思が届かない。
「弥生!」
直嗣の足が止まる。
男まで、あと二歩だった。
その二歩を詰めれば、左のトンファーは届く。男にはもう犬もカラスもいない。針を作る時間さえ与えなければ、ここで終わらせられる。
けれど男の右手は、千綴へ向けて握られていた。
「動けば、次は足だ」
白い輪郭が、その左手に集まり始める。
直嗣は男と千綴の間で、僅かに腰を落とした。
前へ出るためではない。
戻るための構えだと、千綴には分かった。
「来ないで」
声になったかどうかも分からなかった。
来れば、自分を守るために直嗣は背を向ける。
来なければ、男を捕まえられるかもしれない。
どちらを選んでも、男はその迷いを使える。
直嗣の視線が、男の左手へ向く。
白い針が形を結んだ。
その切っ先が千綴の脚へ定まるより早く、直嗣は地面を蹴った。
男へではなく、千綴へ向かって。
同時に〈標本家〉の左腕が振られる。
直嗣は千綴との間へ身体を滑り込ませ、左のトンファーを低く薙いだ。白い針が黒い軸に触れ、硬く澄んだ音を残して霧へ逸れる。
千綴の身体を引いていた力が、一瞬だけ緩んだ。
膝が折れる。
直嗣の右腕がすぐに支えた。戻りかけた手が千綴の肩を掴み、砂へ倒れる寸前で抱き留める。
その肩越しに、男の姿が遠ざかっていく。
滑り台の脇を抜け、公園の出口へ向かっている。足取りは乱れ、片手で脇腹を押さえている。追えば届く距離に見えた。
けれど直嗣は動かない。
動けない千綴を支え、男とその逃げ道を同時に見ている。
男が一度だけ振り返った。
霧の向こうで、その口元が歪んだ。
あと二歩だった。
その二歩を、直嗣は詰めなかった。
詰められなかったのではない。
千綴を守るために、戻った。
公園の出口へ向かって遠ざかる背中を見ながら、千綴はその事実だけを強く理解した。
直嗣の腕に支えられたまま、千綴は遠ざかる男を見ていた。
公園の出口までは、もう十数歩もない。霧の向こうには歩道のガードレールが淡く浮かび、その先を車の灯りが滲んで通り過ぎていく。男がそこへ出れば、暗い住宅街へ紛れる。追える距離ではあっても、動かない身体を抱えた直嗣には遠かった。
〈標本家〉も、それを分かっている。
脇腹を押さえながら足を引きずり、それでも足を止めない。直嗣が追ってこないと確かめた口元には、痛みとは別の歪みが残っていた。
「……私のものだ」
霧へ溶けかけた声が、胸の奥をもう一度引いた。
千綴の指は動かない。膝から力が抜けたまま、呼吸さえ自分のものではないように浅かった。二日前の公園で、地面へ倒れながら見上げた男の顔が重なる。白い針。脇腹へ入ってきた冷たさ。身体の内側から、ひとつずつ扉を閉じられていく感覚。
そして最後には、息まで止まった。
怖い。
身体はまだ、その先を覚えている。
逃げろと訴えているのに、足は命令を聞かない。直嗣に追ってほしいと思う一方で、支えている腕が離れることを想像するだけで喉が塞がった。
男の背が、赤い車止めの脇を抜けようとする。
このままでは、また逃げられる。
白い針。
雨に濡れた舗装。
動かなかった巴の指。
浮かんでは消える、それだけで十分だった。
あの時と同じだ。
今度は自分の身体が、男の逃げ道にされている。
胸の奥に残る痕へ意識を向ける。
外から巻きついたものではない。二日前、白い針に触れられた場所から、男の側へ引かれている。自分の手を動かそうとする意思も、膝を立てようとする力も、その細い道を逆向きに押し返されていた。
犬やカラスに触れた時より、ずっと近い。
近すぎて、これまでは自分自身の恐怖と見分けられなかった。
男が公園の外へ踏み出す。
「違う」
声は掠れ、直嗣の胸元へ落ちた。
それでも、胸の奥の引っ掛かりが僅かに揺れた。
千綴は歯を食いしばる。
切り方など知らない。
ほどき方も、力の使い方も分からない。
ただ、何を拒むのかだけは、今なら分かる。
怖がっていることまで、男に与えるつもりはない。
動けない身体も、二日前に一度奪われた命も、あの男のものになったことなどない。
「私の身体は――私のものです」
胸の奥で、何かが軋んだ。
引かれていた感覚が消えたわけではない。
それでも、その上から千綴自身の意思が押し返す。
右の人差し指が曲がった。
次に、砂へついていた爪先が沈む。
〈標本家〉が足を止めた。
振り返った顔から、先ほどまでの笑みが消えている。男は千綴へ向けて右手を握り直した。胸の奥を引く力が強まり、戻りかけた呼吸が詰まる。
「動くな」
その言葉へ従うように、千綴の膝が再び崩れた。
けれど、指は開かなかった。
掌へ食い込むほど強く、握ったままだった。
「朝倉さん」
直嗣の腕が肩から離れる。
何が起きたのかを訊くことも、確かめることもしなかった。千綴の足が一瞬だけ自分を支えた。その事実だけで十分だった。
濡れた砂を蹴る音が、すぐそばで鳴る。
〈標本家〉は逃げかけた身体を返し、左手を振り上げた。白い輪郭が指先から伸びる。だが、針は形を結びきらない。千綴を押さえ込む右手へ力を集めるほど、左手の白さが霧の中へ薄れていく。
直嗣は千綴のそばへ落ちたトンファーを拾わなかった。
左手の一本だけを身体へ沿わせ、最短の線で男へ走る。
男の左腕が振り下ろされる。
不完全な針が直嗣の頬を掠め、細い血の筋を引いた。直嗣は顔を背けず、その腕の内側へ踏み込む。トンファーの長い軸を男の前腕へ添え、脇へ抱え込むようにして外側へ捻った。
男の肩が上がり、身体が横を向く。
右手の握りが緩んだ。
千綴の胸が、大きく空気を吸い込む。
「離して」
今度の声は、霧の向こうまで届いた。
胸の奥に残っていた引っ掛かりが強く震え、男の側へ引かれていた感覚が途切れる。
千綴の膝が自分の意思で曲がった。
倒れるのではなく、地面を踏むために。
同時に、男の右手が大きく開く。
直嗣の右腕も動いた。
肩から前へ出た手が、男の上着を胸元で掴む。
驚いて見開かれた目の前で、直嗣は軸足を入れ替えた。
引き寄せた身体へ腰を当て、逃げようとする勢いをそのまま地面へ返す。
男の両足が浮いた。
濡れた砂が弾け、背中が地面へ落ちる。肺から押し出された息が、短い呻きになった。
直嗣は右手で襟元を押さえたまま、左膝を男の肘へ置く。トンファーの長い軸を首の脇へ立て、起き上がる方向だけを塞いだ。
〈標本家〉の左指が震える。
白いものが、爪の先に滲んだ。
直嗣はそれを見た瞬間、力を強めた。
手首を固定していた膝を引き、右腕ごと男の上体を引き起こす。首を制して絞めへ移行した。
再発動の兆候を、もう一度待つつもりはなかった。
男の指がもう一度動こうとする。
だが白いものは、指先を離れる前に消えた。
数秒。
男の身体から力が抜けていく。
抵抗していた足が止まり、開いていた目が閉じていく。声にならない息だけが漏れ、それきり動かなくなった。
直嗣は絞めを緩め、首元へ指を当てる。
脈はある。
呼吸も、浅いが規則的に続いている。
生きている。
それを確かめてから、ようやく腰の後ろへ手を伸ばした。
意識のない身体をうつ伏せへ返し、右手首へ拘束具の輪を掛ける。乾いた音を立てて締まる。左手も背中へ引き寄せ、二つ目の輪を閉じた。
男の両手が、背中で繋がれた。
指は動かない。
爪の先にも、もう何も滲んでいない。
直嗣は男の顔を一度確かめ、それ以上手を触れなかった。近くへ膝をついたまま、意識が戻る様子がないか目だけを離さずにいる。
千綴は膝をついたまま、その一部始終から目を離さなかった。
胸の奥に残っていた引っ掛かりが、ゆっくりと薄くなっていく。
二日前からずっとそこにあったものが、今になって初めて、輪郭を失っていくのが分かった。
「もう、来ない」
声に出してから、それが誰に向けた言葉なのか、千綴自身にも分からなかった。
直嗣が振り返る。
「終わりだ」
直嗣は男から視線を外さないまま、耳元の通信機へ手を伸ばした。
「対象を確保。生存。意識なし。負傷者二名」
短く場所と状況を伝える声は、戦っている時と同じ温度だった。
その途中で、直嗣の視線が千綴へ向く。
千綴は赤い車止めの手前に立っていた。
立っているつもりだったが、膝はまだ頼りなく、両腕も自分のものではないように重い。指を開いてみる。曲げる。掌へ爪の跡が残っていた。
ちゃんと動く。
確かめた途端、全身から力が抜けた。
「弥生」
通信を終えた直嗣が近づき、倒れる前に腕を取る。
「どこをやられた」
「どこも……たぶん、どこも」
答えながら、自分でも頼りないと思った。
肩にはカラスの爪が掠めた痛みがあり、両手にはトンファーを受け続けた痺れが残っている。けれど、二日前のように身体の一部が遠ざかる感覚はなかった。
千綴は直嗣の右手を見る。
自分の腕を支えている。
指も、手首も、迷いなく動いていた。
「朝倉さんの手は」
直嗣は一度、右手を開閉した。
「戻ってる。痛みもない」
それから左手のトンファーを下ろし、ようやく浅く息を吐いた。
「お前が何かした時に、戻った」
千綴は直嗣の右手を見たまま、ゆっくり首を振る。
「……何をしたのか、分かりません」
「今はそれでいい」
自分が何をしたのかは、まだ分からない。
もう一度同じことができるとも思えなかった。
男と動物のあいだにあったものも、直嗣の右手を押さえていたものも、今はもう感じ取れない。
ただ、あの瞬間に自分が拒んだことだけは覚えている。
「一人では、無理でした」
「俺もだ」
直嗣はそれだけ答えた。
〈標本家〉は目を閉じたまま動かない。
怒鳴りもせず、指一本動かさない。
二日前に死んだはずの人間が立っていることも、自分が支配したはずの身体を拒まれたことも、理解できないまま意識を失った。
千綴はその横顔をしばらく見ていた。
胸の奥が冷え、脇腹には刺された時の感覚が蘇る。
それでも、直嗣の腕を借りたまま目を逸らさなかった。
遠くで、サイレンの音がした。
霧に吸われながら、少しずつこちらへ近づいてくる。街灯の下には水の跳ねたベンチも、泥に刻まれた足跡も、落ちたトンファーも残っていた。公園の景色はひどく荒れているのに、動くものがいなくなっただけで、急に広く見えた。
千綴は空を見上げる。
厚い雲に覆われ、星は一つも見えない。
けれど、黒い翼に塞がれていた時とは違う。
ただの夜空が、霧の向こうにどこまでも続いていた。
濡れた風が頬を撫でる。
蒸し暑さの中に、ようやく僅かな涼しさが混じっていた。
2026/08/11 時系列修正
2026/08/10 不要な文言削除




