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空の結び目  作者: 夕花
8/28

- 8 -

 羽音は、頭上から落ちてきた。


 枝を埋めていた黒い影が一斉に飛び立ち、霧を巻き込みながら低く旋回する。何十もの翼が空気を叩く音は、雨よりも近く、重かった。街灯の光が明滅し、地面を走る影が幾重にも重なる。


 直嗣の左腕が千綴の胸元を横切った。


「下がれ」


 押されたわけではない。ただ、その腕が作った線を越えてはいけないことだけは分かった。


 千綴が一歩退いた時には、直嗣の両手に黒いトンファーが収まっていた。いつ抜いたのか見えなかった。前腕に沿わせた二本をわずかに開き、頭と胴を庇うように構える。


 最初の一羽が、嘴ではなく爪を前へ突き出し、正面から来た。


 直嗣は振り払わなかった。左のトンファーを斜めに立て、黒い腹をその外側へ滑らせる。羽毛が数枚散り、勢いを逸らされたカラスが濡れた砂地へ落ちた。翼をばたつかせ、すぐにまた身を起こす。


 その横を二羽目が抜け、真っ直ぐ千綴の顔へ向かってくる。


 視界いっぱいに黒い翼が広がり、千綴は反射的に腕を上げた。衝突より先に鈍い音が鳴る。直嗣の右手が横から差し込まれ、トンファーの長い軸でカラスを打ち落としていた。


「顔を伏せろ。俺の背中から出るな」


「はい」


 返事をした声が、羽音に呑まれた。


 カラスは一度に襲ってこなかった。


 頭上を大きく回る群れから、二羽、三羽と分かれて高度を落とす。正面から直嗣へ向かうものもいれば、左右へ膨らみ、背後へ回ろうとするものもいる。霧の中で黒い輪が狭まり、そのたびに直嗣は身体の向きを変えた。


 千綴も背中を追って動いた。右へ半歩、次は左。直嗣が退けば、自分も退く。


 足元の砂は夕立を吸って重く、靴底が僅かに沈んだ。視線を上へ向けると地面が見えず、足元を確かめれば、翼がどこから降りてくるのか分からなくなる。


 何かが髪を掠めた。


 千綴が息を呑むより早く、直嗣の肩がぶつかるように寄ってくる。押し退けられた場所へ、カラスの爪が空を切って通り過ぎた。


「怪我は」


「ないです」


「後ろに滑り台がある。そこまで下がる」


 千綴は振り返らずに頷いた。


 公園へ入った時、滑り台は左手にあった。今は霧と羽の向こうで、赤く塗られた支柱だけがぼんやり見えている。あそこまで移れば、少なくとも背後と片側から同時に襲われることはなくなる。


 直嗣が一歩退く。


 それに合わせようとした時、右の植え込みが大きく揺れた。


 低い唸り声が羽音の下を這う。


 痩せた犬が、葉を散らして飛び出した。


 濡れた毛を逆立て、直嗣ではなく千綴を見ている。開いた口の奥で歯が白く光った。


「右!」


 直嗣はもう動いていた。


 千綴の前へ右脚を引き、身体を半分沈める。噛みつこうとした犬の顎を右のトンファーで下から受け、首を捻るように軌道を外す。左手の一本を胴へ添え、その勢いのまま横へ押し流した。


 犬は水たまりへ横倒しになり、濡れた地面を滑った。強く打ち据えたわけではないが、すぐには起き上がれず、爪で砂を掻いている。


 直嗣の視線が一瞬だけ犬へ落ちた。


 その一瞬を、男は待っていた。


 霧の向こうで上げられていた手が、僅かに動く。


 白く細いものが、街灯の光を横切った。


「朝倉さん!」


 針は直嗣の右手へ向かっていた。


 右のトンファーが翻り、硬い音が一つ鳴る。針状のものは弾かれ、濡れた砂の上へ落ちる前に輪郭を失った。


 防いだと思った直後、直嗣の右腕が不自然に止まった。トンファーを戻しかけた姿勢のまま、肘から先だけが一拍遅れる。


 そこへ二羽のカラスが左右から飛び込んだ。


 左の一本が片方を受ける。もう片方の爪が直嗣の右肩を掠め、黒い上着に細い裂け目を残した。


 直嗣は顔色を変えなかった。止まっていた右手を一度強く握り直すと、遅れを取り戻すようにトンファーを振り抜く。追いすがったカラスが風圧に煽られ、群れの中へ押し戻された。


「今の……」


「動く」


 直嗣は右手を開き、すぐに握った。


「完全には取られてない。下がるぞ」


 淡々とした声だった。


 けれど、千綴は自分の右手を握っていた。


 あの日、同じ場所へ針を打ち込まれた。


 痛みはほとんどなかった。ただ、そこにあるはずの手が自分のものではなくなった。動かそうとする考えだけが行き場を失い、指一本曲げられなかった。


 それでも直嗣の腕は動いている。自分の時と同じではない。その違いを、男も見ていた。


 霧の奥で口元から表情が消え、上げたままの指がゆっくり曲がる。


「なぜだ」


 静かな声が、羽音の切れ間を通った。


「なぜ、お前は動く」


 直嗣は答えない。


 右肩の傷を確かめることもせず、千綴を背にしたまま滑り台へ向けて後退する。急がず、一歩ごとに足場を選んでいた。


 男の視線が、その肩越しに千綴へ移った。


「お前もそうだった」


 ぞっとするほど平らな声だった。


「私のものになった。それなのに、動いた」


 千綴の指先が冷える。


「あなたのものになんて、なってない」


 男の眉が微かに寄った。


 その変化に呼応するように、周囲の羽音が低くなる。旋回していたカラスが高度を落とし、植え込みの陰では、もう一頭の犬がゆっくり立ち上がった。


「なった」


 今度の声には、押し殺した熱があった。


「右手も、左手も、脚も。最後には息も止まった。お前は、確かに完成した」


 あの夜が、言葉にされて戻ってくる。動かなくなった身体。遠ざかる声。地面から伝わった冷たさに、千綴の足が止まりかけた。


「弥生」


 直嗣は振り返らなかった。


「俺の声を聞け」


 低く、はっきりした声だった。


 千綴は直嗣の背中を見る。


 霧に濡れた黒い上着。右肩に走った裂け目。その向こうで、二本のトンファーがまだ揺らがず構えられている。


「今、右足を下げろ」


 言われた通りにする。


 踵が硬いものへ触れた。滑り台を囲う低い柵だった。


「左へ二歩。支柱を背にしろ」


 千綴は足元を確かめながら動いた。


 赤い支柱が背中へ当たる。右側には滑り台の斜面があり、左には直嗣が立っている。完全に囲われたわけではないが、さっきまでより見なければならない方向は少ない。


「ここを動くな」


「朝倉さんは」


「ここで止める」


 直嗣が半歩前へ出た。


 それまで後退していた動きが止まる。


 男との間には、濡れた砂場とベンチが一つ。十数歩ほどの距離がある。上にはカラスの群れ。右の植え込みに犬が一頭、左手の暗がりにも四つ脚の影が見えた。地面近くを走る小さな影は、もう数えられない。


 公園の入口は直嗣の左後方にあり、応援の車両はその外で待っているはずだった。


 胸元の無線から、ひどく遠い声が漏れた。羽音と唸り声に混じって内容までは聞き取れない。


 直嗣は左手をトンファーから離さず、手首だけを返して送信部を押した。


「接触した。一般要員は入れるな。外周を封鎖、住民を近づけるな」


『了解。応援を――』


「それまで持たせる」


 通信を切る。


 その短いやり取りのあいだ、〈標本家〉は動かなかった。


 けれど、待っているようには見えない。千綴には、男を中心に広がっていた何かが、ゆっくり形を変えていくように感じられた。


 木々を回っていたカラスが、見えない糸を引き寄せられるように公園の中央へ集まり始める。犬たちも低く身を伏せ、地面の影が植え込みの縁へ寄ってきた。


 ばらばらだったものが一つの意思へ揃っていくのを察したのか、直嗣が僅かに腰を落とした。


「来るぞ」


 カラスの群れが、今度は正面ではなく左右へ割れた。


 右から来る群れに直嗣が身体を向ける。その背後を狙うように、左の犬が駆け出した。濡れた土を蹴る音が近づき、同時に足元の植え込みからネズミが何匹も飛び出す。


 上と左右、それに足元。どれか一つなら、直嗣は迷わなかったのだと思う。けれど、背後には千綴がいる。


 右の群れを追い払えば、犬が抜ける。犬を止めるために踏み込めば、頭上が空く。足元を払えば、その一瞬だけ千綴との間に隙間ができる。


 直嗣は踏み込まなかった。


 右のトンファーを長く持ち替えてカラスの軌道を外へ払い、左脚で犬の鼻先を牽制する。足元へ来たネズミは蹴り飛ばさず、靴底を滑らせるようにして進路を塞いだ。


 すべてを倒す動きではない。一本の線も千綴へ通さないための動きであり、そのぶん、直嗣自身へ向かうものが残る。


 犬の爪が脛を掠めた。カラスの嘴が左腕の布を突き、すぐに飛び去る。追う余裕はない。次の一羽を受けたトンファーの向こうで、白い針がまた光った。


 今度は左手だった。


 直嗣が軸を立てる。針は防いだはずなのに、左腕の戻りが僅かに鈍る。


 その遅れへ、男自身が踏み込んできた。


 十数歩あった距離を、動物の陰に紛れて半分まで詰めている。霧の中から伸びた手の先に、もう一本の針があった。


 狙いは直嗣ではない。肩の横を抜け、千綴へ向いている。


「下がれ!」


 下がる場所はなかった。


 背中には滑り台の支柱がある。


 直嗣は止まりかけた左腕を無理に引き戻し、千綴と針の間へ身体を差し入れた。右のトンファーが男の手首を外へ弾く。針の切っ先が逸れ、直嗣の頬を浅く裂いた。


 血が一筋、顎へ伝った。


 その脇腹へ犬がぶつかる。


 直嗣の身体が支柱の前まで押し戻され、千綴は息を呑んだ。背中合わせになるほど近い。けれど直嗣は倒れず、犬の首を左のトンファーで押さえ、右の一本を男へ向けたまま踏み留まっている。


 〈標本家〉は数歩先で止まった。


 直嗣の頬を流れる血を見て、ようやく口元を歪める。


「守るから、動けない」


 周囲を回る黒い翼の向こうで、その顔だけが白く浮いていた。


「強い者も、弱いものを抱えれば弱くなる」


 直嗣は返事をしなかった。


 押さえていた犬を前へ押し離し、〈標本家〉との間へ戻す。すぐに体勢を立て直したが、もう自分から距離を詰められる位置ではない。


 右にも左にも、頭上にも影があり、背後には千綴がいる。


 直嗣の二本のトンファーは、そのすべてを受け止める角度へ静かに開かれた。


 攻めるためではなく、ここから一歩も通さないために。





「強い者も、弱いものを抱えれば弱くなる」


 直嗣は返事をしなかった。


 二本のトンファーを開いたまま、右足を半歩引く。背後の千綴を支柱との間へ収めるように立ち位置をずらし、それからようやく、頬を伝っていた血を肩口で拭った。


 先ほど押し離した犬が、〈標本家〉との間で低く唸っている。


 その動きを隙と見たのか、〈標本家〉の指が上がった。


 頭上の羽音が膨らむ。


 左右へ散っていたカラスが再び高度を落とし、右の植え込みでは別の犬が地面を蹴る。足元のネズミも濡れた砂を細かく跳ね上げながら、直嗣の靴を回り込もうとしていた。


 さっきと同じだった。


 上と左右、それに足元。どれかへ意識を向けた瞬間、別の何かが千綴へ抜ける。


 直嗣の右腕には針の遅れが残っている。左腕も、先ほどから動きの戻りが僅かに鈍い。今度こそ受けきれない。そう思った千綴の目の前で、直嗣は構えを変えた。


 二本のトンファーを前腕に沿わせていた形から、右だけを長く持ち替える。左は脇を締め、身体の近くに残した。正面を広く庇っていた姿勢が、片側を捨てたように見えた。


「朝倉さん」


「支柱から離れるな」


 それだけ告げて、直嗣は上を見なかった。


 最初のカラスが右上から降りてくる。


 直嗣は羽音が肩口へ迫るまで動かず、長く持ったトンファーを後ろから前へ振り抜いた。翼ではなく、その下から踏み込んできた犬の鼻先を打つ。犬が怯んで足を止めたところへカラスが重なり、降下しかけた黒い影が互いを避けて軌道を乱した。


 その隙間へ右足を踏み入れる。


 靴底がネズミの進路を塞ぎ、逃げた小さな身体が犬の前脚へぶつかる。犬が跳ねるように横へ退き、遅れて降りたカラスの爪は、もうそこにいない直嗣の肩を掠めていった。


 すべてを一つずつ受けていた先ほどとは違う。


 一つを捌いた動きが、そのまま次に来るものの道を塞いでいる。


 直嗣は振り抜いた右手を無理に戻そうとしなかった。針に触れて遅れるなら、戻るまで待つ。左のトンファーだけを短く突き出し、反対側から回り込んだ一羽の胸元へ軸を当てた。


 鈍い衝突音とともに、カラスが霧の中へ押し返される。


 直嗣の右手が戻った時には、周囲にいた動物たちはいったん距離を取っていた。


 〈標本家〉の口元から笑みが消える。


「覚えたのか」


 返事の代わりに、直嗣が右のトンファーを握り直した。


 頬から顎へ落ちた血は止まっていない。上着の両腕には裂け目が増え、犬にぶつかられた脇腹のせいか、呼吸も浅い。それでも、千綴の前に立つ背中は、追い詰められるほど小さくなるのではなく、むしろ足元から輪郭を取り戻していた。


 千綴は赤い支柱へ背をつけたまま、その動きを見つめた。


 直嗣が速くなったわけではない。


 カラスがどこから来るのか。犬がいつ地面を蹴るのか。白い針が、何を見せた後に放たれるのか。さっきまで攻撃が始まってから動いていた直嗣は、今はその一つ前を見ている。


 〈標本家〉が左手を僅かに開く。


 頭上の群れが右へ膨らんだ。


 直嗣の重心は、その前に左へ移っていた。


 次の瞬間、植え込みの陰から犬が飛び出した。狙いはやはり千綴だったが、直嗣は正面から受け止めない。半身になって鼻先を外へ流し、すれ違いざまにトンファーの横軸を前脚へ絡める。勢いを失った犬の身体が砂の上を滑り、その先へ降りてきたカラスを巻き込んだ。


 黒い羽が濡れた地面へ散る。


 そこへ白い針が走った。


 今度は右脚を狙っている。


 直嗣はトンファーで弾かなかった。


 踏み出しかけた足を引き、針を砂地へ通す。白い切っ先が靴先の前を過ぎ、輪郭を失う。その間も、左手は千綴へ向く線を塞いだままだった。


「なぜ……」


 男の声に、初めて焦りが混じった。


「なぜ、分かる」


「同じ手を見せすぎた」


 直嗣の答えは短かったが、呼吸は乱れていた。


 余裕があるわけではない。


 一度受けたから、次は変える。それでも初めて来る組み合わせまでは防ぎきれず、針に触れた両腕の遅れも消えてはいない。現に右手が戻るまでの間、直嗣は左肩だけを前へ出し、千綴へ届く道を身体で塞いでいた。


 それを見て、〈標本家〉の視線が細くなる。


 男が両腕を広げた。


 公園の奥にいたカラスまでが一斉に枝を離れ、黒い群れが街灯の周囲を覆う。光が羽の向こうで細切れになり、滑り台の下へ濃い影が落ちた。


 犬たちも動きを止め、低く身を伏せる。


 その静止が、かえって千綴の耳を圧迫した。


 次は、さっきまでより多い。


 そう思ったのに、直嗣は群れではなく男を見ていた。


「弥生。見える範囲だけでいい。動物が動く前に、あいつが何をしているか教えろ」


「何をって……」


「指、目線、身体の向き。何でもいい」


 千綴は霧の向こうへ目を凝らした。


 男との距離は先ほどより近い。それでも旋回するカラスが何度も間を横切り、全身を一度に見ることはできなかった。白い顔。上げられた右手。濡れた上着の裾。その一部だけが、黒い翼の隙間に現れては消える。


 〈標本家〉の右手が直嗣へ向く。


「右手、朝倉さんの方です」


 直嗣が左のトンファーを立てた。


 白い針が霧を裂き、硬い軸の表面を滑る。まともに受けず、角度をつけて外へ逃がしたためか、左腕は止まらなかった。


 直後、男の目が千綴へ移る。


「こっちを見た」


 直嗣が身体を半歩ずらす。


 頭上から三羽が降りた。いずれも直嗣ではなく、肩越しに千綴へ向かっている。右のトンファーが円を描き、二羽をまとめて外へ払う。残った一羽は左肩で受け、爪を布地へ食い込ませたまま前へ踏み出した。


 千綴との距離が、初めて開く。


「朝倉さん!」


「そこにいろ」


 直嗣は肩に取りついたカラスを左手で掴み、地面へ叩きつけず、そのまま正面へ放った。


 飛ばされた黒い身体に、〈標本家〉の視線が反射的に向く。


 犬は動かなかった。


 足元のネズミも、植え込みの縁で止まっている。


 ほんの一瞬だった。


 けれど千綴には、その止まり方がひどく不自然に見えた。


 これだけの動物が、男の怒りに合わせて一斉に襲っているのだと思っていた。けれど違う。カラスが来る時、犬は待っている。犬が駆ける時、頭上の輪は僅かに遠ざかる。針が放たれる直前には、動物たちの動きが単純になる。


 全部が同時に襲っているように見えていただけで、男はすべてへ同じだけ意識を向けているわけではない。


「朝倉さん、今です!」


 何が今なのか、自分でもまだ説明できなかった。


 それでも直嗣は迷わなかった。


 濡れた砂を蹴り、〈標本家〉との間にあった距離を詰める。男の右手が上がるより先に、左のトンファーがその手首を外側から打った。


 乾いた音が霧の中へ抜ける。


 男の腕が跳ね、形になりかけていた白い針が崩れた。


 直嗣は止まらない。右の一本を短く持ち替え、脇腹へ軸の先端を打ち込む。〈標本家〉の身体が折れ、肺から押し出された息が掠れた声になった。


 そこから顎を狙わず、肩へ掌底を入れる。


 男の足が砂の上を滑り、ベンチの縁へ背中からぶつかった。濡れた木板が大きく軋む。


 初めて、〈標本家〉と直嗣の間から動物が消えた。


 カラスは頭上で旋回を乱し、犬たちは立ち上がった場所から動けずにいる。男の意識が直嗣だけへ寄ったのか、千綴を取り囲んでいた気配まで一度遠のいた。


 直嗣が踏み込み、右のトンファーを男の喉元へ突きつける。


「終わりだ」


 荒い呼吸の合間から、男が笑った。


 勝ち誇ったものではなかった。痛みに顔を歪めながら、それでも何かを確かめたような笑いだった。


「違う」


 ベンチの背へ預けていた左手が、ゆっくり持ち上がる。


 その指先は直嗣ではなく、赤い支柱の前に残された千綴を向いていた。


 直嗣が振り返る。


 頭上を回っていた黒い群れのうち、一羽だけが輪から外れていた。


 街灯の届かない滑り台の上から、音もなく翼を畳む。


 千綴の視界に、黒い影が落ちてきた。





 翼を畳んだカラスは、霧を切り裂くように真っ直ぐ顔へ向かってくる。避けようにも、背中は赤い支柱へ触れたままだった。千綴は咄嗟に顎を引き、頭を庇って両腕を上げた。


 衝突はなかった。


 数歩先で砂を蹴る音がし、直嗣の身体が割り込む。振り上げた左のトンファーがカラスの胸を下から捉え、黒い影を滑り台の斜面より高く弾き返した。


 その瞬間、ベンチの前にいた男の右手が動いた。


「朝倉さん、後ろ――」


 直嗣は振り返らない。


 右手のトンファーを背後へ回し、脇腹を庇うように軸を立てる。そこへ白い針が触れ、金属とも木とも違う、硬く澄んだ音が鳴った。


 防いだ。


 そう思った直後、直嗣の右手から力が抜けた。


 トンファーが指を離れ、濡れた砂地へ落ちる。重い音を立てて一度だけ跳ね、そのまま水たまりの縁で止まった。


 直嗣は空になった手を見なかった。左の一本を正面へ戻しながら、千綴を庇う位置まで下がる。けれど右腕は、走った勢いのまま身体の脇で揺れているだけだった。


「右手が……」


「分かってる」


 直嗣は肩を引いた。腕そのものを持ち上げようとしたのだと、千綴には分かった。


 それでも指先は動かない。


 男がベンチから背を離す。脇腹を押さえていた左手を下ろし、湿った息を吐きながら砂地へ一歩踏み出した。


「覚えても、同じだ」


 先ほどまで浮かんでいた焦りは、その声から消えていた。


「どれほど上手く動けても、その手が、お前の手でなくなればいい」


 直嗣は左のトンファーを構えたまま、動かない右手を背中側へ回した。千綴との間に挟み込み、攻撃に巻き込まれないようにしたのだろう。


 片腕を奪われても、立つ位置は変わらない。


 そのことが、千綴にはかえって怖かった。


 二日前、自分の右手も同じように落ちた。感覚が消えたわけではない。指が地面へ触れた冷たさも、爪が砂を擦った感触も残っていた。ただ、動かそうとする意思だけが、そこへ届かなくなった。


 直嗣の右手も、まだ彼の身体についている。


 血も通い、重さもある。それなのに、彼の命令を聞かない。


「〈標本化〉」


 男が、自らの力を慈しむように口にした。


「右手。左手。次に右脚、左脚。胴を整え、最後に頭を静かにする。順に留めれば、誰も抗わない。誰も私の手を離れない」


 言葉に合わせ、男の指先へ白い輪郭が集まっていく。


 細い針だった。


 けれど今度は、街灯を横切る一瞬だけではない。霧の中で形を保ったまま、男の親指と人差し指の間に留まっている。縫い針より長く、根元から先端まで濁りのない白で、その周囲だけ夜の色が薄く見えた。


 千綴の脇腹が疼いた。


 傷は残っていない。それでも、あれが身体へ入ってきた時の冷たさを、皮膚の内側が覚えている。


「次は左手か」


 男の視線が、直嗣の残った腕へ向く。


 直嗣は僅かに腰を落とした。


 頭上を乱れていたカラスが、再び輪を作り始める。植え込みの前で止まっていた犬たちも、男へ顔を向けたあと、濡れた地面を踏み直した。


 動物が先に来る。


 その陰から、針が左手を狙う。


 同じ手順なら、直嗣も分かっているはずだった。


 最初の犬が地面を蹴る。直嗣は左足を軸に身体を開き、突き出された鼻先をトンファーの短い軸で外へ逸らした。右から降りたカラスには肩を入れ、翼の下へ潜り込むようにしてかわす。


 片腕になっても、動きは崩れていない。


 むしろ守る範囲を狭めたことで、足の置き方は先ほどより迷いがなかった。犬の勢いを次の一羽へぶつけ、空いた方向へ千綴を背中で押し込む。攻撃を受けるたびに直嗣の立つ場所が変わり、男との間にあった線も絶えずずれていく。


 白い針が放たれた。


 左手ではない。


 直嗣が踏み出そうとした右脚へ、低く走る。


 直嗣は寸前で軸足を入れ替えた。


 避けきれない。


 白い切っ先が右腿の外側を掠めた。


 直嗣の右脚が一拍だけ沈む。


 だが、膝は落ちなかった。


 足裏はまだ砂を捉え、次の瞬間にはもう重心を左へ移している。


 二日前とは違う。


 千綴の時は、一つ奪われるたび、その部位は完全に自分から遠ざかった。


 今の直嗣の脚には、遅れはある。それでも動いている。


「順番を……飛ばした」


 千綴の呟きに、男の目が動く。


 右手。


 左手。


 右脚。


 左脚。


 今、男自身がそう言った。


 それなのに左手を残したまま、右脚へ進んだ。


 できないわけではない。


 けれど、同じではない。


 直嗣の脚が止まりきらなかったことが、その違いを示している。


「朝倉さん」


「ああ」


「たぶん、順番を飛ばすと浅くなります。私の時は……もっと、完全に止まりました」


 直嗣は右脚を一度踏み直した。


「動けるなら十分だ」


 男の口元が歪む。


 図星を刺されたのか、それとも自分の手順を崩したこと自体が気に入らないのか、千綴には分からなかった。


 ただ、右手に浮かぶ次の針は、先ほどより早く形を結んだ。


 同時に三羽のカラスが高度を落とす。正面と左右から直嗣へ迫り、その足元を縫うようにネズミの群れが走る。どれも千綴へは向かっていない。直嗣をその場から動かし、次にどこを狙うのか悟らせないための動きに見えた。


 直嗣は下がった。


 左足を引くと見せ、砂を擦るだけで止める。身体は右へ傾けながら、重心を中央へ残していた。


 男の手が左へ振れる。


「左手!」


 千綴が叫ぶ。


 白い針が走る。


 直嗣は残った左腕を引き、トンファーの軸を立てた。針は黒い表面を滑り、外へ逸れる。


 その瞬間、男の視線が下がった。


「脚も来ます!」


 直嗣は迷わず右足を引く。


 二本目の白い線が、さっき掠めた腿の前を通り過ぎた。


 正規の順番へ戻そうとしている。


 けれど、動物を動かしながら、左手と右脚の両方を狙っている。


 男自身が、もう一つの手順だけに集中できていない。


 千綴の胸の奥に、小さな違和感が残った。


 順番はある。


 守れば強い。


 飛ばすこともできる。


 けれど、その分だけ浅くなる。


 そして今の男は、その順番すら守り切れないほど急いでいる。


 直嗣はその間に男へ二歩迫っていた。


 片腕だけでは、先ほどのように手首を弾いて身体まで打ち込むことはできない。男もそれを分かっている。針を作っていた手を引き、直嗣のトンファーを外側へ受け流すと、すぐに距離を取った。


 けれど、退いた顔にはもう余裕がなかった。


 直嗣の右手は動かないままだ。


 右脚にも僅かな遅れが残っている。


 それでも完全には奪われていない。


 男は針をすぐには放たず、直嗣と千綴を交互に見ている。


 千綴は息を整えながら、その視線を追った。


 男が直嗣を見る。


 白い針の輪郭が濃くなる。


 千綴へ目を向ける。


 頭上のカラスが旋回を狭める。


 もう一度直嗣へ戻ると、犬が地面を蹴った。


 針も、カラスも、犬も、男が選んだ相手へ向かってくる。操っているのが男なら、当然のことに思える。


 なのに、何かが引っかかった。


 男が見ている間だけ動くわけではない。


 命令を声にしているわけでもない。


 視線を外したあとも、カラスは決められた相手を追い続ける。犬は直嗣に弾かれても逃げず、また同じ方向へ身体を向ける。


 動物自身が襲う相手を選び直しているようには見えなかった。


 千綴は地面へ落ちたトンファーを見る。


 そのすぐ近くに、直嗣の右手が垂れている。


 手そのものは傷ついていない。針も刺さったままではない。ただ、直嗣が動かそうとしても応えず、男の言葉どおり、余計な動きを失っている。


 動物たちも、似たことをされているのではないか。


 身体を直接操っているのではなく、先に何かを狭めている。


 どこへ行くか。何を見るか。誰を恐れるか。


 本来ならその身体が自分で選ぶはずのものを削り、男が望む一つへ寄せている。


 そう考えた瞬間、ばらばらだった光景が一つに重なった。


 動かない直嗣の右手。


 僅かに遅れながらも動く右脚。


 何度打たれても襲いかかる犬。


 空を埋め尽くすカラス。


 そして二日前、地面へ倒れた自分を見下ろしながら、男が繰り返した言葉。


 ――私のものだ。


 胸の奥が強く脈打った。


 男と動物のあいだに、何かがある。


 目には見えない。それでも、男が指を向けるより先に、細い何かに引かれるように動物たちの意識が揃う。その中心だけが、周囲の霧より深く沈んで感じられた。


 千綴は瞬きを忘れ、その感覚を追った。


 見ようとするほど遠ざかる。


 目で捉えるものではないのかもしれない。


 視線を外しても、胸の奥には微かな引っ掛かりだけが残った。二つのものが、どこかで無理に繋がれているような感触。


「弥生!」


 直嗣の声で、千綴は息を吸った。


 犬が一頭、正面から迫っている。


 けれど千綴の意識は、その牙ではなく、犬と男のあいだに残る違和感へ向いていた。





 見えない。


 それでも、そこに何かがある。


 犬は濡れた砂を蹴り、真っ直ぐ千綴へ向かってくる。自分からこちらを選んだようには見えなかった。逃げることも、怯むことも許されず、一本だけ残された道を走らされている。


 ――違う。


 走らされている、でもない。


 もっと手前だ。


 この犬が、自分で別の道を選ぶことを奪われている。


「弥生、伏せろ!」


 直嗣の声が飛ぶ。


 千綴は反射的に身を沈めた。


 直嗣が左のトンファーを横へ振る。犬の鼻先へ当てるのではなく、肩口へ軸を添えて進路だけを外すつもりだった。


 だが、右手が使えない。


 右脚にも、ほんの僅かな遅れが残っている。


 それでも、順番を飛ばして受けた支配は完全ではない。


 直嗣は沈みかけた右脚を踏み直し、身体を捻った。


 その分だけ千綴との間が開き、その隙間へ頭上から二羽のカラスが降りてきた。


 一羽を左肩で受ける。


 爪が上着を裂き、直嗣の身体が僅かに沈んだ。


 もう一羽が千綴へ向かう。


 逃げなければ。


 そう思ったのに、足がすぐには動かなかった。


 千綴の意識はまだ、犬と男のあいだへ引かれている。


 胸の奥に残っていた微かな引っ掛かりを、今度は逃さないように追った。


 男。


 犬。


 二つを結ぶ何か。


 それを切るのではない。


 壊すのでもない。


 ただ――これは違う、と感じた。


 犬が男だけを選ぶ必要はない。


 この犬の身体は、この犬のものだ。


 その考えが形になるより早く、胸の奥で何かがほどけた。


 音はなかった。


 光も見えない。


 ただ、千綴へ飛びかかろうとしていた犬の前脚が、不意に地面を滑った。


 身体が横へ流れ、勢いのまま砂の上を転がる。


 直嗣が作った軌道ではない。


 犬自身が、最後の一歩で踏み込みを躊躇したように見えた。


 同時に頭上の一羽も羽ばたきを乱し、千綴の髪を掠めるだけで横へ抜けていった。


 〈標本家〉の顔が強張る。


「何をした」


 千綴にも分からない。


 答えられず、転がった犬を見た。


 犬はすぐには起き上がらなかった。濡れた砂の上で荒く息をし、首を振っている。視線が〈標本家〉へ向きかけ、途中で止まる。


 そして初めて、周囲を見るように目を動かした。


「朝倉さん」


 千綴の声が震えた。


「今、この子……」


「見えてる」


 直嗣は短く答えた。


 その声にも、僅かな変化があった。


 千綴が顔を上げる。


 直嗣の右手が動いていた。


 完全ではない。


 脇に垂れていた腕が、ほんの少しだけ肘から曲がっている。指先も、さっきまで力なく開いていたのに、今は二本だけ僅かに内側へ寄っていた。


「手……」


「まだ戻ってない」


 直嗣は右手を見ずに言った。


「でも、さっきより通る」


 千綴は息を呑む。


 犬だけではない。


 直嗣と男のあいだにも、同じような違和感があった。


 右手を奪われた瞬間から、男の側へ引かれていた何か。


 それが今、少しだけ薄くなっている。


 何をしたのかは分からない。


 犬へ向けたつもりだった。


 けれど、自分と直嗣は近い。


 直嗣を助けたいと思っていた。


 その二つが重なった瞬間、別の何かにまで触れてしまったのかもしれない。


 考えようとすると、胸の奥が強く脈打った。


 感覚が揺らぐ。


 犬と男のあいだに感じていたものも、直嗣の右手へ繋がる違和感も、一度に遠くなる。


「無理に追うな」


 直嗣が言った。


「でも」


「今ので十分だ」


 〈標本家〉の指が動く。


 直嗣はすぐに千綴の前へ戻った。


 右手はまだ武器を握れない。


 右脚の遅れも消えてはいない。


 それでも先ほどより肩が動き、肘が身体の内側へ寄る。その僅かな差だけで、構えの形が変わった。


 男の右手に白い針が生まれる。


 同時にカラスが三羽、左右へ散った。


「朝倉さん、犬の方が薄いです」


「何が」


「上手く言えません。でも、今は犬より針の方が……強い」


 直嗣は問い返さなかった。


 右足を半歩引き、左のトンファーを針へ向ける。


 その判断を見た瞬間、千綴にも分かった。


 伝わっている。


 自分が何を見ているのかは説明できない。


 それでも「どこへ力が寄っているか」だけなら、直嗣は戦い方へ変えられる。


 白い針が放たれた。


 直嗣は正面から弾かず、軸を斜めに立てて外へ滑らせる。


 左腕の動きが僅かに鈍る。


 その瞬間、犬が一頭だけ駆けた。


「左!」


 千綴が叫ぶ。


 直嗣は振り返らず、左脚を半歩引いた。


 犬の鼻先が空を切る。


 そこへトンファーの短軸を首筋へ添え、身体を捻る。犬の勢いを殺さず、そのまま直嗣の右側へ流した。


 犬は転ばない。


 数歩よろめいてから立ち止まり、〈標本家〉へ顔を向ける。


 すぐには戻ってこなかった。


 男の眉が歪む。


「なぜ」


 右手の指が強く曲がる。


 犬の身体がびくりと震えた。


 千綴の胸の奥にも、同じ瞬間、鋭い引っ掛かりが生まれる。


 男がもう一度、犬の向きを一つへ絞ろうとしている。


「そこです」


 千綴は思わず一歩前へ出た。


「弥生」


「今、強くなりました。犬のところ」


 直嗣の視線が一瞬だけ犬へ落ちる。


 〈標本家〉は針を作る手を止めていない。


 犬を戻そうとしている。


 針も維持している。


 頭上ではカラスも回っている。


 全部を同じ強さでは持てない。


 順番を飛ばせば支配が浅くなる。


 複数へ力を散らせば、一つひとつも弱くなる。


 別々に見えていた綻びが、千綴の中で一つの形へ寄り始めた。


「朝倉さん」


「ああ」


「一つに強くすると、他が弱くなります」


 直嗣は男を見たまま答えた。


「俺もそう見てる」


 それだけで、胸の奥にあった不安が少しだけ薄くなった。


 自分だけが感じているものではない。


 直嗣も、戦いの中で同じ綻びを見つけている。


 男の指が犬へ向く。


 千綴はそこへ意識を向けた。


 さっきと同じように、「違う」と思う。


 犬には別の向きがある。


 男だけが決めるものではない。


 今度は、胸の奥が痛むほど強く脈打った。


 視界が一瞬白くなる。


 それでも千綴は感覚を離さなかった。


 犬の身体が前へ出る。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で足が止まった。


 男の指がさらに曲がる。


 犬は前へ出ようとして、出られない。


 同時に、直嗣の右手が動いた。


 人差し指が曲がる。


 次に中指。


 それだけだった。


 完全には戻っていない。地面へ落ちた右のトンファーを拾えるほどでもない。


 それでも、肩から先を自分の意思で引き寄せられる。その僅かな戻りを、直嗣は逃さなかった。


 左手の一本だけを構え直す。


 それでも直嗣の足運びが変わった。


 今まで千綴を中心に円を描くように動いていた身体が、初めて男へ向かって真っ直ぐ線を作る。


 〈標本家〉もそれに気づいた。


 犬へ向けていた指を直嗣へ返す。


 その瞬間、犬の身体から力が抜けた。


「今です!」


 直嗣が踏み込んだ。


 一歩目で犬の横を抜ける。


 二歩目でカラスの降下をトンファーの軸で外へ払う。


 三歩目。


 男との距離が、一気に近づく。


 白い針が直嗣の左脚へ走る。


 千綴には、その瞬間だけはっきり分かった。


 犬が弱い。


 カラスも遅い。


 男の力が、針へ集まっている。


「針だけです!」


 直嗣は左脚を止めなかった。


 針が届く直前、足首だけを外へ返す。


 白い線が靴の側面を掠める。


 同時にトンファーが男の右手首へ届いた。


 硬い音。


 白い針が消える。


 〈標本家〉の身体が大きく後ろへ傾いた。


 直嗣は追う。


 けれど、その瞬間。


 千綴の胸の奥で張り詰めていたものが、一気に途切れた。


 呼吸が浅くなる。


 視界の端が暗くなり、膝から力が抜けた。


「……っ」


 千綴が支柱へ手をつく。


 同時に、止まっていた犬が動いた。


 頭上のカラスも一斉に羽ばたく。


 直嗣は男へ伸ばしかけていた左手を止め、すぐに千綴の側へ身体を返した。


 〈標本家〉はその隙に距離を取る。


 数歩。


 さらに数歩。


 霧の向こうへ下がりながら、自分の右手首を押さえた。


 今度は直嗣が追わない。


 千綴の前へ戻り、左のトンファーを構える。


「弥生」


「大丈夫、です」


「嘘つけ」


 短く言いながら、直嗣は視線を男から外さなかった。


 千綴は乱れた呼吸を整える。


 さっきまで感じていたものは薄くなっている。


 それでも消えてはいない。


 男と動物。


 男と直嗣の右手。


 それぞれの間に、無理に向きを決められたような違和感が残っている。


 全部を消す必要はないのかもしれない。


 一瞬だけ緩めればいい。


 直嗣が動けるだけの隙を作る。


 直嗣なら、その一瞬を使える。


「朝倉さん」


「何だ」


「たぶん、勝てます」


 直嗣の眉が僅かに動いた。


 千綴は男を見たまま続ける。


「全部は無理です。でも、一つなら……少しだけ、弱くできるかもしれません」


 自分でも、何を弱くするのかは正確に説明できない。


 それでも直嗣は笑わなかった。


「何秒だ」


「分かりません」


「一秒あるか」


 千綴は犬が止まった瞬間を思い出す。


「たぶん」


「十分だ」


 直嗣が答えた。


 霧の向こうで、〈標本家〉が再び両腕を上げる。


 カラスが集まり始める。


 犬たちも、男の周囲へ戻っていく。


 けれど、さっきまでと同じには見えなかった。


 どこか一つを強く握れば、別のどこかが緩む。


 そして緩んだ場所へ、自分たちは触れられる。


 千綴は支柱から背を離した。


 直嗣が横目でそれを見る。


「離れるなよ」


「はい」


 今度は守られるためだけの返事ではなかった。


 千綴は直嗣のすぐ後ろへ一歩寄る。


 その距離で、胸の奥に残った違和感が僅かに濃くなった。


 直嗣の足が動く。


 速くなったわけではない。


 ただ、それまで一つずつ選び取っていたはずの足場や角度が、今は迷いなく次の動きへ繋がっているように見えた。一度受けた攻撃への答えが、考えるより先に身体へ落ちている。


 千綴には、それが自分と関係しているのかどうかまでは分からなかった。


 直嗣自身も、気づいた様子はない。

2026/08/11 時系列修正

2026/08/10 異能の表示形式修正

2026/08/10 シーン接続の調整

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