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霧の向こうで、赤色灯の光が滲みはじめていた。
最初に届いたのは音ではなく、光の揺れの方だった。濡れたアスファルトに反射し、公園の入口の水たまりまで淡く色を変えていく。千綴はその光を見ながら、直嗣の腕にまだ体重を預けていた。
直嗣は動かなかった。
拘束された〈標本家〉の呼吸と脈を、もう一度だけ指先で確かめる。それから応援の方向へ顔を上げ、短く息を吐いた。
最初に駆け込んできたのは制服の警官二人だった。懐中電灯の光が地面を這い、倒れた男、散らばったトンファー、泥に刻まれた足跡の上を順に通り過ぎていく。続いて救急隊員が入ってくる。担架の車輪が砂利を噛む音がして、それでようやく、この場所が本当に終わったのだと千綴は思った。
「負傷者二名、意識あり。対象は確保済み、生存」
直嗣の声は、さっきまでの静けさと変わらなかった。
救急隊員が二手に分かれる。ひとりが〈標本家〉の方へ、もうひとりがこちらへ膝をつく。ライトが千綴の顔を照らし、瞳孔と呼吸を確認する短い問いかけが続いた。名前を聞かれ、答える。今日の日付を聞かれ、少し遅れて答える。それだけのやり取りに、思っていたより長い時間がかかった。
肩の傷は浅いと言われた。
両腕の痺れは、じきに引くだろうとも。
それでも担架に乗せられかけた時、千綴は首を振った。
「歩けます」
「弥生」
直嗣が短く名を呼ぶ。咎める響きではなかった。ただ、無理をするなという意味だけがそこにあった。
「本当に、歩けるので」
救急隊員と一度目を合わせ、直嗣は小さく頷いた。それ以上は止めなかった。かわりに、千綴が最初の一歩を踏み出すまで、すぐ横から離れなかった。
膝は震えていた。
それでも、地面を踏む感覚は自分のものだった。
制服警官のひとりが直嗣に何かを確認し、直嗣は短い言葉でそれに応じる。千綴には聞き取れない業務的なやり取りが、霧の中を行き交った。〈標本家〉が担架に乗せられ、両手を拘束されたまま運ばれていく。その横顔は、まだ意識を取り戻していなかった。
千綴はその横顔を見た。
あの公園で見上げた顔と同じはずなのに、今は驚くほど何も感じなかった。恐怖も、怒りも、遠くにあるもののように薄かった。ただ疲労だけが、身体の底に重く沈んでいる。
担架が視界の外へ運ばれていく。
千綴はそれを見送らなかった。
直嗣の方を見た。
右手はもう普通に動いている。頬の傷から、細い血が一筋乾きかけていた。
「病院、行きますか」
千綴が聞くと、直嗣は一度だけ自分の手を見て、それから頷いた。
「二人とも行く」
「私も、ですか」
「肩をやられてる」
言われて、初めて肩口の感覚を思い出した気がした。カラスの爪が掠めた場所だった。血はもう乾きかけていたが、動かすたびに皮膚が引きつる感触がある。両腕にはまだ痺れも残っていた。それでも直嗣は譲らなかった。
「軽傷でも診せる。それが条件だった」
巴との約束のことだと分かった。
千綴は、それ以上は何も言わなかった。
その後の現場処理を、千綴はあまり細かく覚えていない。写真撮影、簡単な現場確認、直嗣による短い報告。制服警官たちがテープを張り、公園の入口へ規制線が伸びていく間、千綴は用意された車の後部座席に座らされていた。窓の外では、まだ何人かの隊員が動いていたが、その動きはもう緊迫したものではなかった。気づけば、車は静かに走り出していた。
直嗣が運転席に乗り込む。
エンジンがかかり、ワイパーが一度だけ、乾いたガラスを空振りした。
「病院へ向かう」
「はい」
それだけで、車は動き出した。
病院へ寄った時間のことを、千綴はあまり覚えていなかった。待合室の白い光、肩の傷を確認する看護師の手、包帯の感触。直嗣が別室で処置を受けている間、千綴は椅子に座ったまま、ただ天井の模様を見ていた。何かを考えようとしても、考えの形になる前に崩れていく。
病院を出た頃には、夜はさらに深くなっていた。
街灯の間隔が空き、車は住宅街の細い道へ入っていく。窓の外を流れる景色に、千綴は見覚えがあった。丘平商店へ続く道だった。何度も歩いた坂と、何度も曲がった角。今夜は、その全部が少しだけ遠くに見えた。
やがて、見慣れた明かりが見えてきた。
丘平商店の二階、巴の部屋の窓に灯りが点いている。シャッターは下りたままだったが、その脇の通用口の前に、人影があった。
巴だった。
腕を組み、じっとこちらを見ている。車が停まるより先に、もう気づいていたのかもしれない。
直嗣がエンジンを切る。
千綴はシートベルトを外しながら、一度だけ深く息を吸った。
ドアを開けると、夜の湿った空気が流れ込んだ。蒸し暑さの中に、確かに涼しさが混じっている。それは公園で感じたものと同じだった。
「店長」
声をかけるより早く、巴が駆け寄ってきた。
千綴の腕を掴み、肩を、頬を、確かめるように見る。包帯の巻かれた肩に気づくと、その手が一瞬止まった。
「……その肩」
「爪で切れただけです。浅いって言われました」
「浅いって」
巴の声が震えた。
怒っているのか、安堵しているのか、その両方なのか、千綴には判断がつかなかった。
次の瞬間、腕を引かれ、そのまま抱き寄せられた。
巴の身体も、微かに震えている。
「無事に帰すって言ったの、どっちだと思ってるの」
それは千綴にではなく、車から降りてきた直嗣へ向けられた言葉だった。
直嗣は何も言い返さなかった。
巴の前に立ち、頭を下げた。
「結果的に、傷を負わせました」
「分かってる。分かってるけど」
巴は千綴を抱いたまま、直嗣を睨むように見た。
「生きて帰ってきた。それだけで、今は良しとする」
その声には、まだ怒りが残っていた。けれど、その下にあるものの方が、ずっと大きいことは千綴にも分かった。
「約束、守ったから」
千綴が言うと、巴の腕の力が少しだけ強まった。
「まだ言うことある」
「はい」
「山ほどある」
「聞きます」
「今日はいい」
巴はそう言って、ようやく身体を離した。目元を一度、乱暴に拭う。
「中入りなさい。二人とも」
直嗣が僅かに目を見開いた。
「俺は、ここで」
「駄目」
巴は振り返らずに言った。
「あんたも、ちゃんと座って話す。それくらいの義理はあるでしょう」
直嗣は一瞬、千綴を見た。
千綴は小さく頷いた。
通用口を抜けると、階段下の小さな居間へ通された。普段は千綴が休ませてもらう部屋だった。座卓の上には、巴が用意していたらしい麦茶のグラスが三つ並んでいる。氷はもう半分溶けていた。
三人が座ると、部屋はいつもより狭く感じられた。
巴がまず口を開く。
「それで。何がどうなったの」
直嗣は簡潔に話した。
〈標本家〉と呼ばれる犯人を確保したこと。事件そのものは、この時点で一区切りとなること。詳細な組織名称や体系までは話さず、それでも巴が実際に経験したことを嘘で塗り替えない範囲で伝えた。
巴は黙って聞いていた。
途中で麦茶へ手を伸ばすこともなく、ただ直嗣の言葉を追っていた。
「……終わったの、本当に」
「この事件については、はい」
「本当に、あの男はもう来ない?」
「拘束済みです。今後は俺たちの管轄で扱う」
巴は長く息を吐いた。
その息の分だけ、肩から力が抜けていくのが分かった。
「よかった」
短い言葉だった。
それでも、これまでのどんな言葉より重みがあるように、千綴には聞こえた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
グラスの氷が、かすかな音を立てて崩れる。
千綴はグラスへ手を伸ばし、一口飲んでから、姿勢を正した。
「あの」
巴と直嗣が同時に千綴を見る。
「一つ、お願いがあります」
「お願い?」
巴が眉を寄せた。
千綴は、膝の上で手を組んだ。
「私に起きたこと――今の感覚とか、あの日のこととか。あれが何なのか、ちゃんと知りたいです」
巴の表情が硬くなる。
「……何言い出すの」
「怖がってるだけじゃ、前に進めない気がして」
千綴は続けた。
「分からないまま抱えてるより、少しでも分かった方がいい。店長を巻き込んだのも、結局、私が何も分かってなかったからだと思うので」
巴はすぐには何も言わなかった。
直嗣も黙って千綴を見ている。
「今すぐじゃなくていいです。今日は無理だって分かってます」
千綴は付け加えた。
「でも、いつか。ちゃんと調べたいです」
直嗣は少し間を置いてから答えた。
「組織側でも、お前の件は例外として記録する予定だ」
「記録……」
「異常事例として扱う。詳しい検証には、俺たちの管轄が必要になる」
直嗣は一度、巴を見た。
「無理に急がせるつもりはない。ただ、知りたいという希望自体は、こちらとしても無視できない」
巴はまだ迷っているようだった。
けれど、やがて小さく頷いた。
「……今すぐじゃないなら」
「はい」
「ちゃんと、この子の身体と気持ちが落ち着いてから」
「それは約束します」
直嗣が言い切ると、巴はようやく肩の力を抜いたように見えた。
千綴は直嗣へ向き直る。
「じゃあ、これからは、どうやって連絡すればいいですか」
直嗣は懐から名刺のような小さなカードを取り出した。表向きの部署名と、電話番号が一つだけ書かれている。
「この番号にかければ、俺に繋がる」
「本当にこれだけですか」
「これで十分だ」
千綴はカードを受け取り、両手で持ったまま眺めた。
ただの番号だった。
それでも、これがあれば、また繋がれるという事実の方が、今は大きかった。
「〈標本家〉事件に限る、暫定バディでしたよね」
千綴が確認すると、直嗣は頷いた。
「その通りだ。今回の件はこれで一区切りになる」
「じゃあ、これは」
「何かあった時のための番号だ」
直嗣はそこで、僅かに言葉を選ぶような間を置いた。
「事件の続きでも、お前自身のことでも。連絡していい」
千綴はカードを鞄の内ポケットへ、丁寧にしまった。
巴がその様子を見て、小さく息を吐く。
「まだ納得したわけじゃないからね」
「知ってます」
「でも、今日のところは」
巴はそう言って、麦茶のグラスをようやく手に取った。
「よく、生きて帰ってきた」
千綴は頷いた。
言葉にはしなかったが、隣の直嗣も、同じことを思っているような気がした。
窓の外では、いつの間にか雨も霧も止んでいた。
夜はまだ深かったが、蒸し暑さの中に、確かな涼しさが残っている。
千綴は、その夜の静けさを、久しぶりに怖くないと感じた。
階下から、包丁がまな板を叩く小さな音が聞こえていた。
味噌汁らしい匂いが、階段の下から薄く上ってくる。
千綴は薄く目を開けた。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、もう見慣れた角度で壁を照らしている。木目の天井、壁際に畳まれた予備の布団――巴宅の客間だった。何度か世話になった部屋の匂いと音が、今朝は妙にありがたかった。
肩に鈍い痛みがある。
昨夜のことは、覚えている。
公園、霧、サイレン。巴の腕。直嗣が渡してくれた小さなカード。すべてが、夢ではなく実際にあったことだと、痛みが教えてくれていた。
千綴はゆっくり身体を起こし、布団を畳んだ。
階段を下りると、台所に立つ巴の背中が見えた。エプロンの紐はいつも通りきつく結ばれ、コンロにはすでに味噌汁の鍋がかかっている。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
「思ったより、ぐっすり」
巴は振り返り、千綴の顔を一通り確かめた。血色、目の下の隈、身体の動かし方。品定めするような視線が、すぐにいつもの表情へ戻る。
「傷、痛む?」
「少しだけ」
「無理しないの」
「してません」
巴は小さく鼻を鳴らし、コンロの火を弱めた。
「座ってて。もうすぐできる」
千綴は座卓につき、テレビの方へ何気なく目をやった。
巴がリモコンで音量を少し上げる。
朝のニュース番組が映っていた。天気予報が終わり、キャスターが次の話題を読み上げている。
『――継見市内で発生した事件について、警察は昨夜、関連する一連の事件との関わりを含めて捜査を進めていると発表しました』
画面には、夜間に規制線が張られた住宅街の映像が短く挿入される。撮影されたのは別の場所だったが、千綴には、それがどこの近くを撮ったものか、なんとなく分かった。
『警察は、被害者や関係者の安全に配慮し、詳しい状況については捜査上の理由から公表を控えるとしています』
それだけだった。
千綴は味噌汁の湯気を見ながら、その短いニュースを最後まで聞いた。
「……もう終わってるのにね」
巴が、鍋を混ぜながらぽつりと言った。
「みんな、まだ捜査中だと思ってる」
「そうですね」
千綴は頷いた。
昨夜、この目で見た。担架に運ばれていく男の横顔も、直嗣の「対象を確保。生存」という声も、確かに聞いた。
それなのに画面の向こうでは、まだ何も終わっていないことになっている。
自分だけが知っていることと、世間が知っていることのあいだに、薄い膜が一枚挟まっているようだった。
「これからニュース見るの、ちょっと変な気分だと思うよ」
巴が味噌汁の椀を置きながら言う。
「変な気分?」
「知ってるのに、知らない顔しなきゃいけないってこと」
千綴は苦笑した。
「分かってます。誰にも言いません」
「友達にも」
「言えることと言えないこと、分けます」
「それでいい」
巴は自分の椀を持ち、千綴の向かいへ座った。
朝食は、いつも通りの白飯と味噌汁、焼き魚と漬物だった。特別なものは何もなかったが、その普通さが、今朝は妙にありがたかった。
食事が半分ほど進んだ頃、玄関のインターホンが鳴った。
巴が箸を置き、応対に出る。戻ってきた時には、少し困ったような顔をしていた。
「警察の人。ホテルに置いてきた荷物、届けに来たって」
千綴も立ち上がった。
玄関先には制服の警官が一人立っていて、預かっていた荷物袋を差し出してくる。中には、あの夜のうちに慌ただしく持ち出した数日分の着替えと、洗面用具が入っていた。
簡単な確認と署名を済ませ、警官は「これで一時保護の措置は終了になります」とだけ告げて帰っていった。
足音が遠ざかり、門扉の閉まる音がする。
千綴は荷物袋を抱えたまま、しばらく玄関に立っていた。荷物の重さより先に、静けさの方が身体へ染み込んでくる。
「これで、本当に終わりなんですね」
独り言のようにこぼすと、巴が後ろから肩を叩いた。
「そう。だから、今日はもう休みなさい」
「はい」
「学校も休みだし、バイトも入れない」
「入れないです、そもそも」
「口答えしない」
千綴は思わず笑った。
荷物を客間へ運び、簡単に整理する。ホテルで使っていたタオルや、着替えなかった予備の服。日常のはずのものが、今はどこか他人事のように感じられた。
昼過ぎ、巴に付き添われて自分のアパートへ戻った。
鍵を開け、玄関へ入る。
「ただいま」
誰もいない部屋へ、いつもの言葉が返ってくることはなかった。
それでも、見慣れた靴箱、見慣れた廊下、見慣れた台所の匂いが、じわりと身体へ染み込んでくる。
巴は部屋の中を一通り見て回り、冷蔵庫の中身を確認した。
「食材、少し買ってきてあげる。今日は何も作らなくていいから」
「そこまでしなくても」
「今日だけは」
巴はそう言うと、あまり反論を許さない口調で続けた。
「今日は、何もしないで休みなさい。分かった?」
千綴は素直に頷いた。
巴が買い物へ出ている間、千綴はベッドに腰掛け、部屋を見回した。
開けっぱなしのカーテン。使われなくなって久しいゲーム機。壁に貼った小さなカレンダー。事件の起きる前につけた予定の書き込みが、そのまま残っていた。
千綴は鞄から、あの小さなカードを取り出した。
表向きの部署名と、電話番号だけが書かれている。
しばらくそれを眺めてから、財布の内側へ丁寧にしまった。
巴が戻ってくると、二人で簡単な昼食を取った。食欲は思ったよりあったが、途中で少し疲れを感じ、千綴は珍しく食べきれなかった。
「無理しなくていい」
「はい」
巴はそれ以上何も言わず、残りを片づけた。
午後は、ほとんど眠って過ごした。
浅い眠りと深い眠りを繰り返しながら、時折目を覚ましては、天井や窓の外を確かめた。夢の中に公園や霧が出てくることはなかった。ただ、身体の奥に溜まっていた疲労が、少しずつ抜けていくのが分かった。
夕方、巴が様子を見に来て、また簡単な食事を用意してくれた。
「今夜はもう、うちに泊まらなくていい?」
巴が聞くと、千綴は少し考えてから頷いた。
「大丈夫だと思います。何かあったら、すぐ連絡します」
「本当に何かあったら、な」
「はい」
巴はしばらく千綴の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、今夜は一人で」
「ありがとうございます、店長」
「礼はいい。ちゃんと寝るのよ」
巴が帰っていくと、部屋は再び静かになった。
千綴は窓を開け、外の空気を入れた。
昼のあいだに溜まった熱が、少しずつ流れていく。
スマートフォンには、友人グループ『無事に帰る』にいくつかの通知が残っていた。今日は返事をする気力がまだ湧かず、既読だけをつけて画面を閉じた。
明日は返信しよう。
そう思いながら、千綴は早めに布団へ入った。
照明を消すと、窓の外に狭く切り取られた夜空が見えた。
星は少なく、遠くの街灯りに紛れている。
それでも、今夜は誰にも脅かされていない、ただの夜空だった。
千綴は目を閉じた。
その日は、それ以上何も起きなかった。
待ち合わせ場所は、駅前商店街にある喫茶店だった。
千綴が店の扉を開けると、ドアベルの音に合わせて奥の席から手が上がった。
「ちづる、こっちこっち!」
綾乃だった。
その隣にはヴァシリオスと環が並び、向かいには悠司が座っている。四人とも、いつもの見慣れた顔だった。それだけのことに、千綴は少し胸が詰まった。
「お待たせ」
「全然。座って座って」
綾乃に促され、千綴は悠司の隣へ腰を下ろした。
テーブルの上には、すでに何人か分の飲み物が並んでいる。ヴァシリオスの前には見たことのない色のジュース、環の前にはアイスココア、悠司はホットコーヒーだった。
店員が注文を取りに来て、千綴はアイスティーを頼んだ。
それだけの時間、誰も何も言わなかった。
注文が終わり、店員が離れると、綾乃がまず口を開いた。
「その……身体、大丈夫?」
「うん。もうだいぶ」
「本当に?」
綾乃の目が、千綴の腕や、シャツの上からでも分かる包帯の膨らみをちらりと見た。
「無理してない?」
「してないよ。歩けるし、普通に食べられるし」
千綴はできるだけ軽く答えた。
嘘ではなかった。実際、身体はもう、日常の動きへ戻りつつある。
ヴァシリオスが身を乗り出した。
「巻き込まれたって聞いた時、本当に心配した。何があったんだ」
「ヴァシ」
悠司が短く呼ぶ。
「いきなり聞くことじゃないだろ」
「気になるだろ、普通」
「気になるのと、聞いていいのは違う」
二人のやり取りに、環がアイスココアのストローを咥えたまま、ちらりと視線を寄越した。
「ちづるが話せる範囲でいいよ」
その一言に、テーブルの空気が少し緩んだ。
千綴は、みんなの顔を順番に見た。
心配そうな綾乃。
まだ落ち着かない様子のヴァシリオス。
いつも通り眠たげだが、こちらをちゃんと見ている環。
黙って続きを待っている悠司。
どこまで話せばいいのか、正直まだ迷っていた。
「詳しいことは、あんまり話せないんだ」
千綴はゆっくり切り出した。
「事件に巻き込まれて、怪我もして、しばらく警察の人に保護されてた。それは本当」
「その、犯人は」
「捕まった、って聞いてる」
完全な嘘ではなかった。
組織的な部分や、〈標本家〉という呼び名、直嗣の本当の所属までは、話せることの外側にある。
綾乃が小さく息を吐いた。
「よかった……」
「心配かけて、ごめん」
「謝らないでよ。ちづるのせいじゃないでしょ」
その言葉に、千綴は少しだけ喉の奥が熱くなるのを感じた。
「うん」
「無事だったのが一番」
ヴァシリオスが頷きながら、それでもまだ何か言いたそうにしている。
「保護って、どんな感じだったんだ。ホテルとか?」
「そこは、ちょっと」
「話せない?」
「話せない」
千綴がはっきり言うと、ヴァシリオスは少し不満そうにしながらも、それ以上は踏み込まなかった。
「分かった。無理には聞かない」
「ありがとう」
悠司がコーヒーカップを置いた。
「学校の方は、聞いてるか」
「聞いてないかも」
「臨時休校のあと、夏期講習の予定も少し動いてる。生徒会の引き継ぎ資料は、後で送っておく」
「悠司、ありがとう。……本当にごめん、休んでる間」
「気にするな。むしろ、そんな状態で生徒会の心配なんかするな」
言葉は素っ気なかったが、その口調の奥には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
千綴のアイスティーが運ばれてくる。
ストローの袋を開けながら、千綴はグラスの氷が溶けていく様子をしばらく眺めた。
言えないことは、まだたくさんある。
あの公園で、自分の呼吸が一度止まったこと。
あの時、何かとても大きなものへ、ほんの少しだけ触れたらしいこと。
直嗣と力を合わせて、あの夜、〈標本家〉と対峙したこと。
それらは、今この場所では言葉にできない。
けれど、目の前にいる四人が、心から自分の無事を喜んでくれていることだけは、疑いようもなく分かった。
「そういえば」
環が唐突に口を開いた。
「猫、見た? 商店街の入口にいる茶トラ」
「見てない」
「今日、二匹に増えてた」
「増えるものなの」
「知らない。でも増えてた」
脈絡のない話題に、綾乃が笑い出す。
「それ、今する話?」
「したい時にする」
ヴァシリオスもつられて笑った。
「猫、俺も気になってた。前は一匹だったよな」
「うん。今は二匹」
「三匹目、探しに行くか」
「行かない」
環はきっぱり言い切ってから、ストローを咥え直した。
その軽いやり取りを聞きながら、千綴の中で、何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。
事件のことも、身体の傷のことも、まだ消えたわけではない。
それでも、この四人が変わらずいつも通りにいてくれることが、千綴にとっては何よりの支えだった。
話題は少しずつ移り変わっていった。
夏休みの予定、補習の範囲、部活動の大会結果、綾乃が読み終わらなかった文芸部の本。
誰かが事件の話を蒸し返すこともなく、自然に、いつもの会話の速度へ戻っていく。
千綴は、その流れに身を任せた。
アイスティーが半分ほど減った頃、千綴はふと思い出したように切り出した。
「あのさ」
四人が同時に千綴を見る。
「明日から、しばらく実家に帰ろうと思ってる」
「実家?」
綾乃が目を丸くした。
「そう。いろいろあったし、店長にも勧められて」
「いいと思う」
悠司が頷いた。
「ゆっくり休んでこい。無理して継見市にいる必要はない」
「うん」
千綴は少し照れくさくなって、グラスへ視線を落とした。
「どれくらい帰るんだ?」
ヴァシリオスが聞く。
「まだはっきり決めてないけど……少しの間かな。八月に入ったら戻ってくると思う」
「夏祭りには間に合う?」
環が聞いた。
千綴は少し考えた。
鏡峰神社の夏祭りまでは、まだ少しある。故郷でゆっくり過ごす期間を考えても、そこには十分に間に合うはずだった。
「間に合うと思う。むしろ、みんなで行きたい」
「約束な」
ヴァシリオスが指を突きつけてくる。
「うん、約束」
綾乃が両手を合わせた。
「じゃあ、戻ってきたらまた集まりたいね」
「そうしよう」
「今日ので満足しないでよ」
「してないよ」
千綴は笑った。
窓の外では、夏の午後の光が商店街のアーケードへ差し込んでいる。人通りは多くも少なくもなく、いつも通りの、何でもない午後だった。
それぞれの飲み物がほとんど空になった頃、悠司が伝票を手に取った。
「今日は俺が出す」
「悠司?」
「たまにはいいだろ」
「いつもより男前だな」
ヴァシリオスがからかうと、悠司は軽く睨んだだけで、それ以上は言い返さなかった。
店を出ると、日差しはまだ強かったが、夕方に近い柔らかさが混じり始めている。
五人は商店街を並んで歩いた。
途中、環の言っていた茶トラの猫が、本当に二匹並んで日陰にいるのを見つけて、ヴァシリオスが大げさに驚いてみせた。綾乃はその様子を写真に収め、友人グループへ送った。
『無事に帰る』というグループ名は、もう本来の役目を終えているはずだった。
それでも、誰もその名前を変えようとは言い出さなかった。
駅前で、それぞれの帰る方向へ分かれる。
「じゃあ、また戻ってきたら連絡して」
綾乃が手を振る。
「うん。楽しみにしてる」
「気をつけてな」
悠司が言い、ヴァシリオスと環もそれぞれ短く別れの言葉をかけた。
千綴は、四人の背中が人混みに紛れていくのを、しばらく見送った。
それから、丘平商店へ向けて歩き出した。
夕方の光の中、坂の上に見える校舎の輪郭は、いつもと同じ場所にあった。
その日の夜、千綴は自分の部屋で荷造りをした。
着替え、洗面用具、実家で読み残していた本。荷物をまとめながら、財布の内側に挟んだままの、あの小さなカードを一度だけ取り出して眺めた。
何も書かれていない裏面に、指先で触れる。
しばらくして、千綴はそれを丁寧に元の場所へ戻した。
実家には、明日の朝から向かう予定にしていた。
しばらく荷造りの手を止め、千綴は窓の外を見た。
狭く切り取られた夜空に、いつもより星が多く見える気がした。
鞄のポケットには、あの番号が入っている。
友人たちとの約束も、まだ続いている。
千綴は荷造りを終え、灯りを消した。
夏の夜は、静かに更けていった。
2026/08/11 呼称整理
2026/08/11 時系列修正




