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丘平駅の改札を出ると、蝉の声の質が変わったことに気づいた。
実家の裏山で聞いていたものより、ずっと硬く、忙しい。ホームから駅前ロータリーへ抜ける通路には、行き交う人の熱気がそのままこもっていた。丘平の駅前は、記憶にある通りの姿で千綴を迎えた。
変わっていない。
そのはずなのに、千綴はしばらくその場に立ったまま、ロータリーの向こうを眺めていた。
商店街の入口に、見慣れない色があった。
紅白の提灯が、アーケードの梁に沿って連なっている。まだ灯りは入っていない。それでも、白い骨組みと赤い和紙が夏の日差しの中でくっきりと浮かび、いつもは素通りしていた通りの輪郭を変えていた。店先には小さな幟が並び、貼り紙には「夏祭り」の文字と日付が書かれている。
千綴はキャリーケースの持ち手を握り直し、歩き出した。
まず丘平商店に寄るつもりだった。
アパートへ帰るより先に、顔を見せておきたかった。
商店街へ入ると、提灯の下を通る人の数は普段よりわずかに多かった。誰もが特別なことをしているわけではない。買い物袋を提げた主婦、自転車を押す学生、店先を掃く店主。ただ、その誰もが、少し先にある夏祭りを当然のものとして生活の中に組み込んでいるように見えた。
見慣れた酒屋の看板が見えてくる。
丘平商店だった。
開け放たれた戸口からは、いつものラジオの音が流れていた。ニュースではなく、聞き覚えのある懐かしい歌謡曲だった。
店先に、巴の姿があった。飲料の陳列棚を整えながら、缶の向きを一つずつ揃えている。
「店長。ただいまです」
千綴が声をかけると、巴が振り返った。
一瞬、驚いたように目を見開き、それから缶を持ったまま棚の前に立ったまま、千綴の全身へ視線を走らせる。血色、荷物、歩き方。品定めするような目は、いつもと変わらなかった。
「……おかえり」
短い一言だった。
それだけで、力んでいた肩から、少しだけ力が抜けた。
巴はそれ以上何も言わず、缶を棚へ収めた。帰省中のことを細かく聞くつもりはないらしい。
「ちゃんと休めた?」
「はい。ゆっくりしました」
「顔色、悪くない」
千綴はキャリーケースの外ポケットを開け、小さな包みを取り出した。
「これ、お土産です」
巴は包みを受け取り、包装紙の柄を一瞥した。
「これ、あんたの田舎の」
「地元のお菓子屋のです。母と一緒に選びました」
巴は小さく頷き、レジ横の棚へ置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ラジオから流れる曲が変わる。店の奥では、常連らしい年配の男性が新聞を片手に立ち読みをしていた。千綴が会釈すると、男性は軽く手を上げて応える。
「バイト、いつから戻る?」
巴が聞いた。
「まだ決めてないです。もう少し休んでからでいいですか」
「いい。無理して出てこなくていいから」
「大丈夫です、身体は」
「身体だけの話じゃない」
巴の声が、少しだけ低くなった。
千綴はすぐには答えなかった。
言いたいことは分かった。事件のことも、あの夜のことも、まだ整理がついていない。それを分かった上で、巴は無理に聞き出そうとはしなかった。
「戻ってきたら、また普通に働きます」
「普通に、ね」
巴はそれ以上追及せず、話を変えるように棚へ向き直った。
「祭り、今年は行くんでしょう」
「みんなと約束したので」
「そう」
巴の口元が、僅かに緩んだ。
「浴衣、去年のでいいの」
「たぶん」
「サイズ、変わってないなら貸してもいいけど」
「自分の持ってます」
「そう」
やり取りは短く、特別なことは何も話していない。それでも、この店に流れる時間の速度が、千綴にはありがたかった。
「じゃあ、荷物あるので」
「うん。無理しないで」
「はい」
千綴は戸口へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「また来ます」
「待ってる」
巴はそれだけ答え、レジ横に置いた包みへちらりと目をやってから、また棚の整理へ戻った。
千綴は店を出て、再び商店街を歩き出す。
背中越しに、ラジオの音が少しずつ遠のいていった。
商店街を抜けると、道は大通りへ合流する。行き交う車の音が増え、日差しを遮るものも少なくなった。
いつもと同じ道だった。
それなのに、歩調を刻む足取りの中で、千綴は妙な感覚に気づいた。
道の脇に立つ電柱。塀の隙間から伸びる夏草。通り過ぎる自転車の軋み。それらがばらばらに存在しているのではなく、どこかで互いに関わりを持っているような感じがする。以前もこの道を、同じ速度で、同じ角度から歩いていたはずだった。けれど今は、道そのものが、少しだけ違う手触りで千綴に触れてくる。
説明できない。
説明する必要もない、と自分に言い聞かせた。
アパートの前に着く頃には、日差しはさらに強くなっていた。郵便受けの中には、案内チラシと請求書が数枚溜まっている。鍵を差し込み、回す。玄関の扉を開けると、閉め切られていた部屋の熱がまとまって流れ出てきた。
「ただいま」
誰もいない部屋へ、声だけが返ってくる。
それでも、実家にいた間よりも、この静けさの方が身体に馴染んだ。
千綴はキャリーケースを玄関に置いたまま、窓を開けて回った。外の熱気が入り込み、部屋の空気とぶつかって、一瞬だけ重たい風になる。それでも、閉じ込められていた匂いが少しずつ薄れていくのが分かった。
カーテンを開けると、光がまっすぐ差し込んでくる。壁のカレンダーは、実家へ発つ前のままだった。書き込まれた小さな予定は、もうずいぶん昔のことのように見える。
千綴はカレンダーの前で少しだけ手を止め、それから台所へ向かった。
冷蔵庫はほとんど空だった。買い出しは後回しにして、駅で買ったペットボトルの麦茶をグラスへ注ぐ。開け放った窓の外を眺めながら、それを一口飲んだ。
住宅の屋根の向こうに、夏の入道雲が立っている。
どこか、あの日を思わせる空だった。
あの公園で倒れた日も、決戦の夜も、こんな風に空を見上げる余裕はなかった。今のあまりに乾いた青空が、かえって現実感を薄くしている気がした。
グラスを流しに置いたところで、スマートフォンが鳴った。
友人グループ「無事に帰る」に、新しいメッセージが届いていた。
既読だけつけていたやり取りの続きに、新しいメッセージが積み重なっている。
『ちづる、まだ実家?』
『こっちはもう提灯出てる』
『祭り楽しみすぎる』
最後に、悠司からの短い一言があった。
『戻ったら連絡しろ』
千綴はしばらく画面を見つめてから、指を動かした。
『今日戻った。提灯、もう見た』
送信して数秒も経たないうちに、既読の表示が並ぶ。
『はやっ』
『帰ってきたばっかりでしょ』
『猫、まだ二匹だよ』
立て続けに届く返信に、千綴は小さく笑った。
実家にいた間、電話やメッセージで簡単なやり取りは交わしていた。それでも、こうして画面越しに軽口が飛び交うのを見ていると、日常の速度がようやく元に戻ってきたように感じられる。
窓の外で、蝉の声が一段と強くなった。
千綴は、もう一度だけ町の方角を見た。
提灯の連なる商店街。行き交う車の音。住宅の屋根。その向こうの夏空。
どれも、前からそこにあった。
それなのに、帰ってきた町は、以前より少し近く感じられた。
千綴はキャリーケースを開け、荷物を取り出し始めた。
夏祭りまでは、まだ数日ある。
それまでの間に、日常を取り戻す時間もある。
千綴は窓を半分だけ閉め、外の熱気を少し遮ってから、部屋の片づけを続けた。
荷解きを終える頃には、部屋の中の熱気もだいぶ落ち着いていた。
畳んだ衣類を引き出しへしまい、キャリーケースをクローゼットの奥へ押し込む。空になった鞄の軽さに、旅そのものが終わったことを実感した。
台所に立ち、買ってきた食材で簡単な夕食を作る。一人分の量に慣れた手つきで野菜を刻み、鍋を火にかける。実家の食卓の賑やかさとは違う、慣れた静けさだった。
食事を終え、洗い物を済ませた頃、スマートフォンがまた鳴った。
またグループの通知だった。
『ちづる、新辺行こうよ』
綾乃からだった。
『せっかく戻ってきたんだし』
続けてヴァシリオスのスタンプが飛んでくる。何かの生き物が両手を上げて喜んでいる、意味の分からないイラストだった。
『賛成』
『暇』
立て続けに送られてきた二言に、ヴァシリオスの調子がよく表れていた。
『暇なのはいつもだろ』
悠司の一言に、すぐさま抗議のスタンプが返る。
千綴はソファに座り、画面を眺めながら小さく笑った。
実家にいる間も、こうした軽いやり取りは続いていた。それでも、こうしてみんなの名前が並んで動き出すのを見るのは、久しぶりだった。
『いいよ。新辺、何しに行くの』
千綴が打つと、すぐに返信が来る。
『あのボウリングとかできるとこ』
『卓球もある』
『バッティングセンターも』
ヴァシリオスの提案に、綾乃がすかさず付け足す。
『環は?』
千綴が聞くと、少し間が空いた。
『環は多分無理』
悠司が答えた。
『大会近いから、練習休めないって』
『あと外暑すぎて死ぬって言ってた』
ヴァシリオスが付け加える。
『分かる』
綾乃のスタンプが続いた。
環自身からの返信は少し遅れて届いた。
『行けたら行く』
『でも多分無理』
『みんなで楽しんできて』
短い言葉だったが、そこに拗ねた気配はなかった。夏の盛りに大会を控えている環にとって、それが当然の判断だということは、千綴にも分かった。
『了解。また今度』
千綴が返すと、環はスタンプだけを返してきた。
話題は再び新辺へ戻る。
『で、守屋くんは』
綾乃が水を向けた。
しばらく既読がつかない。
千綴がグラスに水を注ぎに立ったところで、ようやく返信が来た。
『祭りの準備がある』
『神社の手伝い、この時期は結構忙しい』
ヴァシリオスがすぐに食いつく。
『毎日じゃないだろ』
『毎日じゃないけど』
『じゃあ行けるじゃん』
悠司からの返信は、また少し間が空いた。
千綴はグラスを片手に、画面が動くのを待った。
『……聞いてみる』
それだけの一言だったが、綾乃が即座に反応する。
『聞いてみるってことは行きたいんじゃん』
『そうは言ってない』
『言ってるようなものだよ』
しばらくして、悠司から続きが届いた。
『母さんに聞いたら行ってこいって』
『学生のうちくらい遊んどけって』
その一文に、千綴は思わず声を出して笑った。
『いいお母さんだ』
千綴が返すと、悠司からは短い返信だけがあった。
『うるさい』
それでも、拒む言葉ではなかった。
『じゃあ四人で決定』
綾乃がまとめる。
『いつにする』
しばらくやり取りが続き、駅前で待ち合わせることになった。祭りの準備や大会の練習で予定が動きやすいことを考えると、あまり先に延ばす理由もない、というのが全員の一致した意見だった。
『じゃあ駅前で』
『了解』
『楽しみ』
最後にヴァシリオスの張り切ったスタンプが連投され、しばらくして画面が静かになった。
千綴はグラスの水を飲み干し、画面を閉じた。
窓の外はすっかり暗くなっている。網戸越しに、遠くで虫の声が鳴いていた。
実家では聞かなかった音だった。
継見市の夜は、確かにこの音でできている。
千綴はカーテンを閉め、部屋の照明を落とした。
近いうちに、四人で新辺へ行く。
それだけのことが、今の千綴には、ずいぶん大きな約束のように思えた。
新辺駅の改札を出ると、すでに三人が待っていた。
綾乃が真っ先に手を振る。
「ちづる、おはよう!」
「おはよう」
悠司は日陰に立ち、スマートフォンを見ていた。ヴァシリオスはその隣で、待ちきれないというように片足で体重を移し替えている。
「遅いぞ」
「まだ時間前でしょ」
「気持ちの問題」
軽口を交わしながら、四人は駅前を歩き出した。
夏休みらしい若者の姿が目立つ通りを抜け、賑やかな店舗の並びへ入っていく。
複合レジャー施設は、新辺駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
大型スーパーに隣接する形で建つ、真新しい建物だった。入口のガラス越しに、色とりどりの照明と、ボウリングのレーンが並んでいるのが見える。
「うわ、広い」
綾乃が声を上げた。
施設内は、冷房の効いた空気と、あちこちから聞こえるゲーム機の電子音、ボウリングのピンが弾ける音で満ちていた。ヴァシリオスが真っ先にフロアマップへ駆け寄る。
「ボウリングからにしよう」
「いきなり全力じゃん」
「準備運動」
言っている意味はよく分からなかったが、誰も反対しなかった。
受付でシューズを借り、レーンへ向かう。
最初のフレームで、ヴァシリオスは思い切り腕を振りかぶり、ボールを溝へ落とした。
「あー!」
「本当に運動部?」
「これは違う筋肉を使う」
「言い訳が早い」
悠司が静かに続く。振りかぶりも構えも大きくないが、ボールはまっすぐレーンの中央へ転がり、綺麗にピンを倒した。
「……悠司、うまくない?」
「昔、家族でよく来てた」
悠司は表情を変えずに言った。二投目もほぼ同じフォームで、また倒れる。ヴァシリオスが悔しそうに唸った。
千綴の番になる。
助走をつけ、腕を振る。ボールは思ったよりまっすぐ進み、ピンの半分ほどを弾き飛ばした。
「おお」
「ちづる、運動神経いいもんね」
綾乃が拍手する。
その綾乃自身は、次の投球で盛大にガーターへ吸い込まれ、天井を見上げて長い息を吐いた。
「……うん、見なかったことにする」
「見た見た」
「見てない」
二フレーム目、ヴァシリオスは助走の幅を変えた。
「本気出す」
「さっきのは?」
「準備運動って言っただろ」
振り下ろしたボールが、今度はまっすぐレーンの中央を割る。ピンが勢いよく弾け飛び、ヴァシリオスが両手を突き上げた。
「見たか」
「たまたまでしょ」
「たまたまじゃない」
それからは、変に力の抜けたフォームで安定し始めた。ガーターの回数が目に見えて減っていく。
悠司は変わらず淡々と投げ続けていた。フォームも歩数も、毎回ほとんど同じだった。
「悠司、絶対何か企んでるでしょ」
ヴァシリオスが言う。
「企んでない」
「守屋くん、そのフォーム崩れなさすぎるよ」
綾乃も加勢する。
綾乃とヴァシリオスが、悠司の投球の直前にわざと名前を呼んだり、後ろで奇声を上げたりし始めた。悠司は振り向きもせず、それでもピンを倒し続ける。
「無駄」
「無駄なのは分かってきた」
千綴は、目立った波もなく着実にスコアを重ねていた。極端に良くも悪くもない。それでも、投げるたびにピンの並びを一度だけ見て、狙いを微調整している様子に、綾乃が気づく。
「ちづる、意外とちゃんと考えて投げてる」
「考えないと当たらないから」
その言葉に、ヴァシリオスが真顔になった。
「俺も考えて投げてる」
「今の、全然考えてなかったよね」
六フレーム目、綾乃の番でスペアが出た。
「出た! 出たー!」
綾乃が両手を突き上げ、その場で跳ねる。
「今までの、何だったの」
「奇跡は誰にでも一回は来るの」
「一回だけ?」
「一回だけ」
あっさり認めた綾乃に、全員が笑った。
電光掲示板の数字が並ぶ頃には、綾乃が両手で顔を覆っていた。誰もそれ以上、点数には触れなかった。
「次、卓球行こうよ」
綾乃が話を変えるように立ち上がる。
卓球コーナーでは、ヴァシリオスがラケットを構えるなり、鋭いサーブを放った。
千綴はどうにか一度だけ返したが、続く一打は角度をつけて隅を抜かれ、ラリーにすらならなかった。
「……速すぎない?」
「反射神経は繋がってる」
「詭弁くさい」
悠司がラケットを受け取り、次の相手に立つ。短いラリーの応酬の末、最後は際どいコースへ落とされて肩をすくめた。
「お前も無理か」
「無理」
あっさり返し、ラケットを綾乃へ渡す。綾乃は構えた瞬間から腰が引けており、サーブを一球も返せないまま両手を上げた。
最後はバッティングセンターへ流れた。
千綴はケージに入り、バットを構える。
最初の一球は差し込まれて詰まり、二球目は空振りだった。三球目でようやく芯を捉えたが、打球は力なくファウルゾーンへ転がっていく。
「まあまあだね」
「まだ慣れてないだけ」
四球目。
機械が唸り、球が射出された。
白い球が、思ったより速く迫ってくる。
軌道を追う。
高さ。速度。間合い。
考えるより先に、身体の方が動いていた。
右足が踏み込む。
腰が回り、肩が続き、腕が最後に伸びる。
バットの芯が、球を正確に捉えた。
乾いた音が響く。
打球は迷いのない直線を描いて、奥のネットへ吸い込まれていった。
振り切った姿勢のまま、千綴はしばらく動かなかった。
伸びきった右腕。ネットの奥へ向いたままの視線。
音の余韻が消えても、身体はまだその一瞬の形を覚えていた。
誰も、すぐには声を出さなかった。
「……え?」
我に返ったように、千綴は自分のバットを見下ろした。
「今の何」
ヴァシリオスが真顔で聞いてくる。
「打っただけだけど」
「いや、そうなんだけど」
次の球では、あっさり空振りした。
「今のもう一回やって」
「無理」
「なんでだよ」
「なんとなく」
隣のケージで、悠司が淡々とミートを重ねている。派手さはないが、当たれば当たっただけ着実に前へ飛ぶ。
ヴァシリオスは力任せに振り回し、空振りのたびに大きく身体をよろめかせた。
「今の惜しかった」
「全然当たってない」
綾乃は構えだけは様になっていたが、球が来るたびにタイミングがずれ、最後まで一度もバットに当たらなかった。
「センスの問題じゃないと思う」
「うるさい」
一通り遊び終える頃には、四人とも汗ばんでいた。冷房の効いた館内にいても、動き回った分だけ身体は熱を持っている。
「休憩しよう」
ヴァシリオスが真っ先に言い出した。
「賛成」
千綴もタオルで額を拭いながら頷いた。
四人は施設内の休憩スペースへ向かい、自販機で飲み物を買って、並んだテーブル席に腰を下ろした。
テーブルに着くと、誰からともなく大きく息を吐いた。
冷えた飲み物のパッケージには、細かな水滴が浮いていた。千綴はストローに口をつけ、冷たさが喉を通り過ぎる感覚に、ようやく身体の熱が引いていくのを感じた。
「さっきのバッティング、結局なんだったの」
綾乃が思い出したように聞いてくる。
「分からない」
「分からないって」
「本当に分からない」
千綴は肩をすくめた。
「まあ、次はまた普通に外してたし」
「それはそう」
その話題はそこで終わった。
しばらくは、それぞれの飲み物を飲みながら、たわいない話が続いた。ボウリングの点数、卓球の速さ、バッティングの構え方。誰かが誰かをからかい、誰かがそれに言い返す。休憩スペースの隣のテーブルでは、学生らしい一団が、同じように賑やかに話し込んでいた。
ヴァシリオスがスマートフォンの画面を親指でなぞりながら、思い出したように言った。
「そういえば、新辺のこのへん、中高生の間でサプリが流行ってるらしい」
「へえ」
綾乃が気のない返事をする。
「俺はプロテイン派だけど」
「中村くん、もう十分ムキムキじゃない」
綾乃が呆れたように言うと、ヴァシリオスは真剣な顔で腕を曲げてみせた。
「全然足りない。もっと欲しい」
「どこに」
「見た目に分かりやすいところ」
「今でも十分わかりやすいけど」
千綴が言うと、ヴァシリオスは不満そうに腕を下ろした。サッカーで鍛えられた身体は、すでに引き締まっている。それでも、本人の理想はもっと別のところにあるらしかった。
「プロテインって、飲むだけで筋肉つくんじゃないの?」
綾乃が真顔で聞く。
「飲むだけじゃ無理だろ」
ヴァシリオスが即答した。
「え、そうなの」
「運動しないと意味ない」
「知らなかった」
その答えに、今度は悠司が口を挟んだ。
「お前が言うと説得力ないな」
「なんでだよ」
「真面目に飲んでる割に、体格そんな変わってないだろ」
「体質のせいだ」
「毎回それ言うよな」
「今度こそ変える」
ヴァシリオスがその流れで、今度は悠司へ視線を向けた。
「悠司も、もう少し筋肉つけた方がいいと思う」
「余計なお世話だ」
「神社の手伝いって、力仕事あるだろ」
「あるけど、お前が思ってるような感じじゃない」
悠司はコーヒー牛乳のパックにストローを挿しながら、そっけなく答えた。
「祭りの準備、今どのくらい進んでるの」
千綴が聞くと、悠司の表情が少しだけ緩んだ。
「提灯の設置と、屋台の場所決めは終わった。あとは当日の人手の割り振りとか」
「悠司、毎年何やってるの」
「基本は雑用。今年は少し裏方の管理も任された」
「偉くなったね」
「偉いっていうか、人手が足りないだけだ」
それでも、話す口調にはわずかな誇らしさが滲んでいた。
「私たちも祭り行くの、楽しみにしてる」
綾乃が言うと、悠司は小さく頷いた。
「浴衣ってもう決めてるの?」
綾乃が聞く。
「去年ので、いいかなって。店長にもそう言われた」
「そうなんだ」
「じゃあ、帯だけでも合わせない?」
「色を?」
「うん、系統だけでも。うちにあるやつ、今度持ってくるよ」
「いいの?」
「うん、任せて」
男子二人は、揃って興味なさそうな顔をした。
「男は関係ないよな、これ」
悠司が言うと、ヴァシリオスも頷く。
「関係ない」
「俺たちは適当に選ぶ」
悠司があっさり言った。
話題は自然と、夏祭りへ移っていった。誰が何を食べるか、屋台は何が出るか、去年はどうだったか。
手元の飲み物は、どれもほとんど空になっていた。
「そろそろ戻る?」
千綴が聞くと、ヴァシリオスが真っ先に立ち上がった。
「まだ遊ぶ」
「体力あるね」
「若いから」
「私たちも若いけど」
軽口を交わしながら、四人は席を立った。
休憩を終えると、四人はもう一度フロアへ戻った。
残りの時間は、これといった勝負にはこだわらず、アーケードコーナーで適当なゲームを回したり、余った時間でもう一度ボウリングを一ゲーム挟んだりして過ごした。誰の得点も、もう誰も気にしていなかった。
施設を出る頃には、日差しが傾き始めていた。
新辺駅までの道を、四人並んで歩く。買ったばかりのアイスを手に、ヴァシリオスと綾乃が先を歩き、千綴と悠司がその後ろに続いた。
「今日、楽しかった」
千綴が言うと、悠司が横目でこちらを見た。
「そうか」
「うん」
それ以上の言葉はいらなかった。
新辺駅へ戻る途中、住宅街へ続く道の前で、ヴァシリオスが足を止めた。
「俺、こっちだから」
示された先は、新辺の住宅地へ続いている。
「じゃあ、また」
「おう。今度は祭りな」
ヴァシリオスは片手を上げると、そのまま三人とは別の道へ歩いていった。
新辺駅まで戻ると、残る三人もそこで分かれることになった。
「じゃあ、また」
綾乃が手を振る。
「今度は祭りで」
「うん、祭りで」
「浴衣、忘れないでよ」
「忘れない」
千綴は丘平方面へ戻る電車に乗った。
窓の外を、傾いた光に染まった新辺の街並みが流れていく。
丘平駅に着く頃にも、まだ日差しは残っていたが、光の色はだいぶ柔らかくなっていた。
千綴は一人でアパートへ向かう坂道を上る。駅前商店街で見た提灯には、まだ灯りが入っていなかったが、店先の飾りは、昼間よりも祭りらしい色を帯びて見えた。
アパートに戻り、汗を流してから、簡単な夕食を済ませる。
身体は疲れていたが、悪くない疲れだった。
風呂上がり、髪を乾かしながらスマートフォンを見ると、通知が一件届いていた。
友人グループではなかった。
見覚えのある番号からのメッセージだった。
『検査の件、調整がついた。お盆明けで問題ないか』
直嗣からだった。
千綴はしばらく画面を見つめた。
今日一日、〈標本家〉のことも、公園のことも、ほとんど考えずに過ごせていた。友達とただ遊んだだけの、他愛のない一日のはずだった。
その裏側で、別のことが静かに進んでいたのだと、今になって思い出す。
異能検査。
自分に起きたことを、いつかちゃんと調べたいと言ったのは、他ならぬ自分自身だった。
それでも、こうして具体的な話が来ると、身構える気持ちが先に立つ。
千綴はしばらく画面を見つめてから、返信を打った。
『大丈夫です。お盆明けで』
送信すると、すぐに既読がついた。
『詳細は近くなったら連絡する』
それだけの、短いやり取りだった。
千綴はスマートフォンを机に置き、窓を少し開けてから、ベッドの縁に腰掛けて外を眺めていた。
虫の声に混じって、遠くを車が一台通り過ぎていく音がする。
今日一日の疲れが、少しずつ身体の底に沈んでいくのが分かった。
千綴はスマートフォンを充電器に繋ぎ、電気を消してベッドへ入った。
窓の外では、まだ虫の声が続いている。
今日という日は、間違いなく楽しかった。
友人たちと過ごした時間も、巴との再会も、久しぶりの日常も、全部本物だった。
それでも、その日常のすぐ隣に、まだ終わっていないものが残っている。
千綴は目を閉じた。
お盆明けまでは、まだ少し時間がある。
それまでは、今日みたいな日を、もう少し重ねていたいと思った。
2026/08/11 街の位置関係整理




