- 12 -
翌朝、目を覚ましたとき、腕に少しだけ重さが残っていた。
布団の中で右腕を持ち上げ、手を握ったり開いたりする。
「……遊びすぎた」
ボウリングか、卓球か。それともバッティングセンターで調子に乗ったせいか。
たぶん全部だ。
千綴は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。画面には、昨夜のうちに増えた友人たちのやり取りが残っている。綾乃が送った写真にヴァシリオスが何か言い返し、その横で悠司が短い返事だけを返していた。
そこに混ざっている自分の姿を見て、千綴は少しだけ口元を緩めた。
昨日は楽しかった。
それだけ確認して、スマートフォンを伏せる。
今日は今日で、やることがある。
カーテンを開けると、朝から容赦のない日差しが窓いっぱいに差し込んできた。
夏休みの学校は、普段より音が遠かった。
廊下を歩いていても、聞こえてくるのは蝉の声と、どこかの運動部が上げる掛け声くらいだ。教室の扉はほとんど閉じられ、開いている窓から風が抜けるたび、掲示物の端がかすかに揺れている。
千綴は生徒会室の扉を開けた。
「おはようございます、弥生先輩」
「おはよう、鈴」
机に向かっていた鈴が顔を上げる。
室内には鈴しかいなかった。
千綴は鞄を置き、自分の席へ向かう。机の上には、確認待ちの書類が二つと、付箋の貼られたファイルが一冊。
「会長は?」
「さっきまでいたんですけど……」
鈴が窓の外を見る。
その視線を追って、千綴も窓際へ寄った。
校舎とグラウンドの間を、見覚えのある背中が横切っていく。手には何か長いものを抱えていた。
「今度は何してるの、あの人」
「用務員さんに捕まったみたいです」
「逆じゃない?」
鈴が小さく笑った。
千綴は席へ戻り、ファイルを開く。
夏休み中でも、生徒会の仕事がなくなるわけではない。
むしろ二学期へ向けて確認しておかなければならないことは細々と残っている。提出された書類に目を通し、抜けている箇所へ付箋を貼る。鈴がまとめた一覧と照らし合わせ、必要なものだけ脇へ分けた。
窓の外から、弓を放つ乾いた音が聞こえた。
千綴の手が止まる。
もう一度。
少し間を置いて、また一つ。
「環、今日も来てるんだ」
窓から弓道場までは見えない。それでも、あの音を聞けば分かる。
千綴は手元の書類へ目を落とした。
「これ終わったら、ちょっと見てこようかな」
弓道場の中は、外とは違う静けさがあった。
蝉は鳴いている。
風も通っている。
それなのに、環が弓を構えると、その周囲だけ音が一歩遠ざかったように感じた。
千綴は邪魔にならない場所に腰を下ろしていた。
弦が鳴る。
矢が走り、的へ届く。
乾いた音が遅れて耳へ入った。
「おお……」
思わず声が漏れる。
射を終えた環が、こちらへ顔だけを向けた。
「何、その反応」
「いや、ちゃんとやってるなと思って」
「何しに来たのよ」
「応援」
「仕事は?」
「終わらせてきた」
環は少しだけ目を細め、それから次の矢へ手を伸ばした。
千綴はその様子を眺める。
環が構える。
さっきまで話していた顔から、余計なものが消える。
また弦が鳴った。
机の上に広げた問題集へ、シャープペンシルを置いた。
千綴はそのまま机へ突っ伏す。
「暑い……」
エアコンは動いている。
動いているのだが、数字と文章ばかり追っていると、それとは別のところから疲れてくる。
顔だけ横へ向けると、ベッドの端に昨日から置いたままの鞄が見えた。
その向こう、クローゼットの中には浴衣がしまってある。
祭りの日に着るものだ。
確認しようかと思って、やめた。
まだいい。
代わりにスマートフォンを手に取る。
ちょうど通知が入った。
『明日、空いてる?』
綾乃からだった。
千綴は問題集を見る。
まだ残っている。
もう一度、スマートフォンを見る。
『昼からなら』
返信はすぐに来た。
『決まり』
「早いって」
誰もいない部屋で言ってから、千綴は笑った。
「それ、ちづるに似合うと思う」
「買わないよ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてある」
綾乃が手にしていた帽子を戻す。
二人で歩く店内には夏物の服が並び、入口近くには祭り向けなのか、髪飾りや小さな巾着までまとめて置かれていた。
「浴衣あるんだよね?」
「ある。去年の」
「じゃあ髪飾りくらい変えれば?」
「見てるだけ」
「それ、買う人の言い方」
「綾乃が買わせようとしてるだけでしょ」
二人で棚を覗き込む。
ガラス玉のついた簪が照明を受けて揺れていた。
千綴は一つを手に取り、少し眺めてから元へ戻す。
「ほんとに買わないの?」
「今日は息抜き」
「買い物に来て買わないの?」
「見るだけでも買い物」
「強い」
綾乃が感心したように頷いた。
店を出ると、外の熱気が一気にまとわりついてきた。
「暑っ」
「次、涼しいとこ」
「賛成」
二人は顔を見合わせ、そのまま次の店へ逃げ込んだ。
「無理するなよ」
「してません」
「その返事する奴が一番怪しいんだよ」
丘平商店のレジ越しに、巴がじろりと千綴を見る。
久しぶりに着たエプロンの紐を結び直しながら、千綴はため息をついた。
「本当に大丈夫ですって」
「ならいいけどな」
巴はそれ以上言わなかった。
店先の冷蔵ケースへ飲料を補充する。
箱を開け、一本ずつ棚へ並べていく。冷気に触れていたペットボトルの表面が、すぐに白く曇った。
入口の戸が開く。
「いらっしゃいませ」
考えるより先に声が出た。
自分でも少し驚く。
客は近所の顔見知りで、千綴を見ると「あら、戻ったの」と笑った。
「はい。今日からまた」
そんなやり取りをして、会計を済ませる。
次の客が来る。
品物を補充する。
レジを打つ。
巴に頼まれて、奥から段ボールを一箱運ぶ。
やっていることは、以前と何も変わらない。
それが妙に心地よかった。
夕方になると、商店街の軒先に吊られた提灯が目につくようになった。
まだ明るい。
けれど日が傾くにつれ、赤と白の色だけが少しずつ濃くなっていく。
「もうすぐだな」
巴が店先から外を見た。
「ですね」
「祭り、行くんだろ?」
「みんなで」
「なら、当日は入れなくていい」
「最初からそのつもりです」
「お前な」
千綴は笑いながら、空になった箱を畳んだ。
夜。
風呂を上がってから、千綴はクローゼットを開けた。
奥から浴衣を取り出す。
去年着たものだ。
畳んだままベッドへ置き、帯と一緒に一度広げて確認する。
問題はなさそうだった。
スマートフォンが震える。
友人たちのグループに、新しいメッセージが入っていた。
『集合、予定通りでいい?』
綾乃。
続いてヴァシリオス。
『俺は大丈夫』
少し遅れて環。
『練習終わったら向かう』
悠司からは、しばらく返事がなかった。
千綴は浴衣を畳み直しながら待つ。
やがて通知が一つ増えた。
『先に始めてて。俺は神社にいる』
千綴は画面を見て、短く笑った。
『了解』
送ってから、浴衣を椅子の背へ掛ける。
窓の外では、夏の夜が静かに続いていた。
遠くから、祭囃子の練習らしい音が聞こえてくる。
笛と太鼓。
風に乗って届いては、途切れる。
千綴は窓際へ寄った。
丘の向こうにある鏡峰の方角は、ここからでは見えない。
それでも、音だけは届いていた。
祭りは、もうすぐそこまで来ていた。
夕方になっても、昼間の熱はまだ街のあちこちに残っていた。
千綴は鏡の前で帯の位置を確かめ、最後に髪を整えた。
去年も着た浴衣だった。
新しいものではない。それでも、普段着とは違う布の重なりや、歩くたびに足元へ触れる裾の感覚には、毎回少しだけ落ち着かないものがある。
椅子の背には、昼のうちに用意しておいた小さな巾着が掛かっていた。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
家の鍵。
中身をもう一度確認してから、千綴は巾着を手に取った。
窓の外から、かすかに太鼓の音が届いている。
何日か前までは、遠くで練習しているだけだった音だ。
今日は違う。
窓を開けると、日が傾き始めた街の向こうに、赤や白の提灯が点々と見えた。駅前から続く通りにも人の姿が増えている。普段なら買い物袋を提げた近所の人が歩いている時間なのに、今日は浴衣姿の親子や、連れ立って歩く学生の方が目についた。
千綴は窓を閉めた。
「よし」
誰に聞かせるでもなく言って、玄関へ向かった。
アパートを出たところで、空はまだ明るかった。
西へ傾いた日差しが建物の壁を橙色に染めている。けれど、商店街へ近づくにつれて、昼とは別の明るさが増えていった。
軒先に並んだ提灯には、もう灯りが入っている。
帰省から戻った日に見たときは、まだただ吊られているだけだった。
それが今は、通りの奥まで連なっている。
赤と白の光の下を、人が途切れず流れていた。
商店街の店先も普段とは違う。惣菜屋は揚げ物を表へ並べ、菓子屋の前には子供向けのくじが置かれ、酒屋では冷やした飲み物を大きな桶へ沈めている。
その中に、見慣れた丘平商店もあった。
店先へ簡易の台が出され、巴が冷えた缶やペットボトルを並べている。
「店長」
「おう」
顔を上げた巴は、千綴を見るなり作業の手を止めた。
「ちゃんと祭りの格好してるじゃん」
「しますよ、それくらい」
「似合ってる似合ってる」
「軽いなあ」
「褒めてんだから受け取っとけ」
巴は笑いながら、冷蔵ケースから一本の水を取り出した。
「持ってけ」
「いや、払いますって」
「今日くらいいい。どうせこのあと食うんだろ、色々」
「それとこれとは別じゃないですか」
「細けえな。じゃあ従業員割引」
「休みの日ですけど」
「元気そうで安心した記念」
「何ですか、それ」
結局押し切られ、千綴は水を巾着へ入れた。
「ありがとうございます」
「無茶すんなよ。人すごいからな」
「分かってます」
「あと、浴衣で走るな」
「……分かってます」
少し間が空いたせいで、巴が目を細める。
「今、一瞬走る可能性考えただろ」
「考えてません」
「ならいい」
絶対に信じていない顔だった。
千綴は苦笑しながら店を離れた。
駅前へ近づくほど、人の密度が上がっていく。
鏡峰神社の祭りとはいっても、人が集まるのは神社の境内だけではない。
丘平側から鏡峰へ向かう通りにも屋台が並び、途中の広場や商店街まで祭りの範囲に入っている。道路の一部は車両通行止めになり、普段なら車が行き交う道の中央を、人が横に広がって歩いていた。
焼きそばのソース。
炭火の煙。
甘い綿菓子。
どこかから流れてくる笛の音。
匂いも音も、一つに混ざっている。
千綴は待ち合わせ場所へ向かった。
駅前の時計が見える辺りで、先にこちらへ手を振ったのは綾乃だった。
「ちづるー!」
「見えてるって」
人の向こうから大きく手を振っている。
綾乃も浴衣だった。普段より落ち着いた色合いなのに、本人が着ているせいかあまり大人しくは見えない。
その隣に環がいる。
環は屋台で買ったらしい冷たい飲み物を片手に持って、ぼんやり人の流れを眺めていた。
「もう買ってるし」
千綴が近づくと、環が視線だけこちらへ向ける。
「暑かったから」
「待ち合わせ前でしょ」
「待ちながら飲んでる」
「そういう問題?」
「ちづる、似合う」
唐突に言われ、千綴は言葉を止めた。
「……ありがとう」
「私も言おうと思ってたのに」
綾乃が不満そうに口を挟む。
「じゃあ言えばいいでしょ」
「似合ってる。すごく」
「はい、ありがとう」
「反応違わない?」
「気のせい」
三人で話していると、少し離れたところから背の高い男が人の間を抜けてきた。
「悪い。遅れた?」
ヴァシリオスだった。
「ぎりぎり」
環が即答する。
「まだ時間前だろ」
「私たちより遅い」
「それはお前らが早いだけだ」
「バカなのに遅い」
「関係ないだろ、それ」
いつものやり取りを始めた二人を見て、千綴は笑った。
ヴァシリオスは浴衣ではなかった。涼しそうな半袖のシャツに動きやすそうなパンツという、普段より少しだけ整えた格好だ。
こちらを見たあと、綾乃、環と順番に視線を向ける。
「三人とも浴衣なんだな」
「どう?」
綾乃がその場で少しだけ袖を広げる。
「似合ってる」
「もっと何かないの?」
「え?」
「感想」
「似合ってる、でよくないか?」
「減点」
「厳しくない?」
ヴァシリオスが本気で困った顔をする。
環が飲み物のストローをくわえたまま言った。
「勉強不足」
「祭りで何を勉強するんだよ」
「女心」
「それ学校で教えてくれないだろ」
「自習」
「無茶言うな」
千綴は耐えきれずに吹き出した。
「もういいから行こう。ここにいても人増えるだけだし」
「賛成」
綾乃がすぐに千綴の横へ並んだ。
四人は人の流れに乗って、鏡峰方面へ歩き始めた。
まだ神社までは距離がある。
それでも通りの両側には、すでに屋台が並んでいた。
たこ焼き、焼きそば、串焼き、フランクフルト。
少し先には金魚すくいと射的。その向こうでは、小さな子供が光る玩具を振り回している。
「先に食う?」
ヴァシリオスが言った。
「始まって三分で?」
千綴が聞き返す。
「だって匂いするだろ」
「その理屈なら最後までずっと食べることになるよ」
「祭りってそういうもんじゃないのか?」
「半分くらいは合ってる」
環が頷いた。
「猫、お前は味方なのか敵なのかどっちだ」
「面白い方」
「最悪だ」
結局、最初に止まったのは串焼きの屋台だった。
ヴァシリオスが買った一本を、環が当然のように一口もらう。
「お前、自分の買えよ」
「一口でいい」
「それ毎回やったら俺のがなくなるだろ」
「じゃあ守れば?」
「祭りで串焼きを防衛することになるとは思わなかった」
千綴と綾乃は、その横で焼きとうもろこしを半分ずつにしていた。
「これ、浴衣で食べるのちょっと危ないね」
綾乃が慎重に持ち直す。
「今さら?」
「醤油ついたら終わる」
「だからさっきから私、綾乃の袖見てる」
「え、ほんと?」
「もう二回入りそうになってた」
「言ってよ!」
「止めてたでしょ」
千綴が袖の端を軽く持ち上げる。
綾乃は自分の袖ととうもろこしを見比べてから、少し考えた。
「ちづる、食べさせて」
「嫌」
「即答」
「自分で食べなさい」
向こうでヴァシリオスが笑う。
「お前らも大変だな」
「何その他人事みたいな顔」
綾乃が言う。
ヴァシリオスはまだ何か返そうとしていたが、横から人の流れが強くなり、自然と一歩車道側へ寄った。
「こっち詰まってる。中入った方がいい」
言いながら、自分が人の多い側へ回る。
千綴たち三人を歩道寄りにし、そのまま歩調を合わせた。
それがあまりに自然だったので、千綴も最初は何も言わなかった。
しばらくしてから、綾乃が気づく。
「中村くん、今日なんか紳士じゃない?」
「今日なんかって何だよ」
「いつもより」
「いつも紳士だろ」
「それはない」
環が言う。
「猫、お前さっきから俺に厳しくない?」
「いつも通り」
「なら余計悪い」
ヴァシリオスは文句を言いながらも、前から来た家族連れを避けるときにはまた外側へ動いた。
千綴はその背中を見て、少しだけ笑う。
「何だよ」
「別に」
「今笑っただろ」
「紳士だなと思って」
「だろ?」
急に機嫌が直った。
「単純」
環の一言で、また崩れた。
通りを進むにつれて、提灯の数が増えていった。
店の軒先だけではない。
道の上にも紐が渡され、左右から吊られた灯りが頭上を連なっている。
空は少しずつ青さを失い、屋台の照明が目立ち始めていた。
途中の広場では、子供たちが小さな太鼓を叩いていた。
揃っているような、揃っていないような音に、周囲の大人たちが笑いながら拍手を送っている。
「こういうの、昔からあるの?」
ヴァシリオスが綾乃に聞いた。
「祭り自体は昔から。今みたいな形になったのがいつかまでは知らないけど」
「へえ」
千綴は人の流れの先へ目を向けた。
「今日、悠司どこにいるんだ?」
「神社じゃない?」
「この人混みで探せる?」
環が前を見る。
神社へ近づいているはずなのに、人の頭ばかりで先が見えない。
「向こうから見つけてくれるでしょ」
綾乃が軽く言った。
「仕事してんだぞ」
「守屋くんなら私たち見つけても仕事優先するよ」
「それはそう」
全員が妙に納得した。
参道へ入る手前で、環が足を止めた。
「射的」
視線の先に屋台がある。
「急だな」
「やる」
「大会の練習してた人が祭りでまで狙うの?」
千綴が言うと、環は首を傾げた。
「別物」
「そういうもの?」
「ちづるもやる?」
「私はいい」
「逃げた」
「何から」
「勝負」
「してないでしょ」
環はもう屋台へ向かっている。
ヴァシリオスが後を追った。
「じゃあ俺やる」
「バカは三発でいい」
「何でお前が決めるんだよ」
「ハンデ」
「俺が負ける前提なの腹立つな」
千綴と綾乃は少し離れて見ていることにした。
結果は、環が小さな菓子を一つ落とし、ヴァシリオスは一発目を大きく外したあと、二発目で軽い箱を倒した。
「見たか」
得意げに振り返る。
「三発目残ってるよ」
「もう勝っただろ」
「まだ」
「勝負に厳しいな、お前」
三発目は、景品の端をかすめただけだった。
環が黙って手を出す。
「何だよ」
「戦利品」
「俺のだぞ」
「勝った方がもらう」
「そんなルール聞いてない」
「今できた」
「横暴すぎる」
結局、箱の中身が小さなラムネ菓子だと分かると、環は一粒だけ取って返した。
「いらないなら取るなよ!」
屋台の前でヴァシリオスの声が響いた。
参道へ入ると、さらに人が増えた。
石畳の両側に屋台が続いている。
頭上には提灯。
境内の方角から太鼓と笛が重なって聞こえ、ときどき拍手や歓声が混ざった。
千綴は歩幅を少し狭くした。
慣れない下駄で、普段と同じようには歩けない。
すぐ横を通り過ぎようとした人と肩が触れそうになり、身を引く。
「大丈夫?」
綾乃が振り返る。
「平気。下駄がちょっと」
「だからゆっくりでいいって」
「俺、荷物持つか?」
ヴァシリオスが言う。
「巾着しかないけど」
「じゃあ持つ」
「それはいい」
「何でだよ」
「自分で持てる」
「そういう問題じゃ――」
「ヴァシ」
前から声が飛んだ。
ヴァシリオスがそちらを見る。
人の流れの脇、関係者用らしい細い通路に悠司が立っていた。
普段着ではない。
神社側の揃いの法被を着て、片手に紙の束を持っている。
「お、悠司」
「お前ら、来てたのか」
「来るって言っただろ」
「そうじゃなくて、もうここまで来てたのかって意味だ」
悠司は四人を順番に見て、それから千綴たちの浴衣姿で一瞬だけ目を止めた。
「……似合ってるな」
「今の間なに?」
綾乃がすぐに拾う。
「別に何もない」
「守屋くん、言い慣れてないでしょ」
「うるさい」
耳が少し赤くなった気がした。
環が面白そうに眺めている。
「悠司、忙しい?」
千綴が聞く。
「まあな。今から向こうの配置確認。終わったらまた別のところ」
「祭り楽しんでる場合じゃないね」
「毎年こんなもんだよ」
「本人が祭り回れないの、どうなんだ?」
ヴァシリオスが言う。
「別にいい。子供の頃からやってるし」
悠司はそう答えながら、通路の向こうへ視線を向けた。
誰かを待たせているらしい。
「悪い、もう行く」
「働け働け」
綾乃が手を振る。
「お前は他人事だと思って」
「だって今日は遊びに来てるし」
「こっちは遊びじゃないんだよ」
「知ってる」
楽しそうに返され、悠司はため息をついた。
そのとき、奥からもう一人、法被姿の男性が歩いてきた。
「悠司、そろそろ――」
言いかけて、こちらを見る。
「友達か?」
「兄貴」
悠司が短く紹介した。
「こんばんは。兄の征一郎です。悠司がいつも世話になってるみたいで」
「こんばんは。お邪魔してます」
「逆じゃないですか?」
千綴が言うと、征一郎が笑った。
「それなら、お互い様かな」
「兄貴、もう行かないと」
「ああ。悪い」
征一郎は四人へ軽く頭を下げた。
「人が多いから、気をつけて楽しんで」
「はい」
悠司もつられるように一歩下がる。
「あと、参道の奥、今かなり詰まってる。境内入るなら右側から回った方がまだ動く」
「了解」
ヴァシリオスが答えた。
「じゃあな」
「がんばって、守屋くん」
「お前ほんと気楽だな」
綾乃に最後の一言を残し、悠司は兄と一緒に人の向こうへ消えていった。
「似てたね」
綾乃が言う。
「兄弟だし」
千綴が返す。
「雰囲気」
「悠司が尊敬するの分かる気はする」
ヴァシリオスが二人の消えた方を見る。
環がその横で呟いた。
「バカも見習えば」
「何をだよ」
「落ち着き」
「今の流れで俺に来る?」
また四人の歩みが始まった。
悠司に言われたとおり右側へ回ると、少しだけ流れが緩かった。
それでも境内へ近づくほど、肩と肩の間隔は狭くなっていく。
鳥居の向こうは、提灯の光で明るかった。
石段の手前には行列ができ、参拝を待つ人が何列にも並んでいる。
少し外れた場所では御守りや縁起物が並び、その隣で子供たちが親に何かをねだっていた。
「先に参る?」
綾乃が聞く。
「今行ったらかなり待つぞ」
ヴァシリオスが列の先を見る。
「あとでもいいんじゃない?」
千綴も同意した。
「じゃあ食べる」
環が言う。
「さっき食べたでしょ」
「串焼き一口とラムネ一粒」
「数え方が細かい」
「腹減った」
「猫って燃費悪いの?」
ヴァシリオスが聞いた。
「バカよりはいい」
「何で俺基準なんだよ」
そう言いながら、本人も屋台の列を見ている。
「何食う?」
「結局あんたもじゃん」
千綴が笑った。
四人は境内脇の屋台が集まる一角へ入った。
綾乃はりんご飴。
環は焼きそば。
ヴァシリオスは大きな肉串。
千綴は少し迷って、かき氷を選んだ。
「その色すごい」
綾乃が千綴のカップを見る。
「普通のブルーハワイでしょ」
「舌、青くなるよ」
「綾乃のりんご飴よりは安全」
「何が?」
「浴衣」
「それまだ言う?」
綾乃は笑いながら、りんご飴を慎重に口へ運んだ。
すぐ隣では、ヴァシリオスが肉串を環から遠ざけている。
「今回はやらんぞ」
「まだ何もしてない」
「目が狙ってる」
「一口」
「自分の焼きそば食え」
「交換」
「何とだよ」
環が焼きそばの容器を差し出す。
ヴァシリオスは一瞬考えた。
「……一口ずつな」
「成立」
「交渉うまいな」
千綴が言う。
「最初からこれ狙いだったんじゃない?」
綾乃も笑う。
「猫、恐ろしい奴だな」
「今さら」
祭囃子が近くで鳴った。
会話が一瞬、太鼓の音に飲まれる。
千綴はかき氷のスプーンを口に運びながら、境内を見渡した。
人がいる。
本当に、どこを見ても人がいる。
子供の手を引く親。
浴衣姿の学生。
仕事帰りらしい格好のまま屋台へ並ぶ人。
観光客らしい集団。
知らない顔ばかりなのに、不思議と雑然としているだけには見えなかった。
屋台の灯り。
人の声。
太鼓。
笛。
煙。
食べ物の匂い。
全部が重なって、今夜だけの街を作っている。
「ちづる?」
綾乃に呼ばれ、千綴は顔を戻した。
「何ぼーっとしてるの」
「いや。人、多いなって」
「今さら?」
「分かってたけど、ここまでとは思わなかった」
「毎年こんな感じだよ。今日は多い方かも」
鏡峰で育った綾乃にとっては、見慣れた景色なのだろう。
「千綴の地元の祭りは?」
ヴァシリオスが聞く。
「もっと小さいよ。こんなに屋台もないし」
「神社?」
「神社も使うけど、それだけじゃないかな。地域全体でやる感じ」
「ここも似たようなものじゃない?」
綾乃が言う。
「規模が全然違う」
千綴は笑った。
故郷の祭りを思い出す。
山の暗さ。
古い石段。
提灯。
大人たちが昔から知っている手順で動いていく様子。
同じ「祭り」でも、ここはずっと明るく、開けている。
けれど。
太鼓の音を聞きながら境内を見ていると、ほんの少しだけ似たものもある気がした。
何が、と聞かれても説明はできない。
千綴はそれ以上考えるのをやめ、溶けかけた氷を口へ運んだ。
日が完全に落ちると、祭りの景色はもう一度変わった。
空の青さが消え、頭上の提灯と屋台の裸電球が主役になる。
人の顔も、建物も、木々も、明るい場所だけが浮かび上がって見える。
四人は境内を一度抜け、参道の別側へ回った。
そこで水風船の釣りを見つけた綾乃が立ち止まり、今度は千綴まで巻き込まれた。
「一個だけだからね」
「そう言う人が一番本気になる」
「ならない」
三分後。
「ちょっと待って、今の絶対いけたでしょ!」
紙のこよりが切れ、水風船が水面へ落ちる。
綾乃が横で笑っていた。
「本気じゃん」
「違う。今のは納得いかないだけ」
「もう一回やる?」
「やる」
「ちづる、負けず嫌い」
「違うって」
結局二回目で一つ釣り上げた。
青い水風船を手に立ち上がる。
「取った」
「嬉しそう」
「普通」
「顔が違う」
「うるさい」
環は少し離れた場所からその様子を眺めていた。
「何?」
「ちづる、祭り楽しんでる」
「悪い?」
「別に」
環は少しだけ口元を上げた。
「いいんじゃない」
その言い方が妙に素直で、千綴は返事に迷う。
「……環も楽しみなさいよ」
「楽しんでる」
手にはいつの間にか、狐の面があった。
「いつ買ったの、それ」
「さっき」
「全然気づかなかった」
「バカが肉食べてるとき」
「俺を時間の基準にするな」
ヴァシリオスが後ろから言う。
環は狐の面を顔の横へ斜めに当てた。
「似合う?」
「猫なのに狐」
「両方」
「欲張りだな」
ヴァシリオスが笑う。
環はそのまま面を頭の横へ掛けた。
祭りはまだ終わる気配がなかった。
むしろ夜が深くなるにつれ、人は増えているように見えた。
境内へ戻る道で、前方が急に詰まった。
「止まった?」
綾乃が背伸びする。
人垣の向こうから、太鼓の音が近づいてくる。
さっきまで境内の奥で鳴っていたものとは違う。
もっと低く、腹に響く音。
続いて、周囲から歓声が上がった。
「何か通るみたい」
前の人が話している声が聞こえた。
人の流れが左右へ割れ始める。
ヴァシリオスがすぐに後ろを振り返った。
「こっち寄れ。真ん中いると挟まれる」
千綴と綾乃が道の端へ寄る。
環も続いた。
その直後、向こうからまとまった一団が見えた。
揃いの法被。
担がれた大きな飾り。
提灯。
掛け声。
それを見ようと、周囲の人が一斉に動いた。
千綴の前を親子連れが横切る。
「千綴、こっち」
ヴァシリオスの声がした。
「分かってる」
一歩、そちらへ寄ろうとする。
けれど下駄では、思ったほどすぐに動けない。
右から人が来た。
避ける。
今度は左から、子供の手を引いた女性が通る。
千綴は足を止めた。
ほんの数秒だった。
前を見る。
綾乃の浴衣が、人の肩越しに見えた。
その少し先に環の狐面。
ヴァシリオスの頭も見える。
まだ近い。
千綴は人の切れ目を待った。
太鼓が鳴る。
掛け声が上がる。
目の前を、何人もの人が横切った。
視界が途切れる。
また一歩進む。
さっき綾乃がいた場所へ向かう。
けれど、人の流れが今度は逆側から押し寄せた。
「すみません」
肩が触れそうになった相手を避ける。
水風船が手元で揺れる。
千綴は切れないよう指へ紐を巻き直した。
その直後、横から押された人を避けた拍子に、指から紐が抜けた。
「あ」
水風船は人の足元を跳ね、すぐに人波の向こうへ見えなくなる。
追いかける余裕はなかった。
千綴は顔を上げる。
「綾乃?」
声は太鼓に消えた。
少し先へ進む。
さっきまで見えていた狐面がない。
「環?」
返事はない。
ヴァシリオスなら背が高い。
この程度の人混みなら、少しくらい離れても見つけられるはずだった。
千綴は周囲を見回した。
いない。
一度立ち止まり、背伸びする。
提灯。
人の頭。
屋台の灯り。
知らない顔ばかりだった。
「……え?」
スマートフォンを出そうとして、巾着へ手を入れる。
そのとき。
さっきまで腹に響いていた太鼓の音が、ふっと遠くなった。
止まったわけではない。
祭囃子も聞こえている。
人の話し声もする。
なのに、急に一枚薄いものを隔てた向こう側から聞いているような距離ができた。
千綴は手を止めた。
顔を上げる。
人はいる。
屋台もある。
提灯も、変わらず灯っている。
それでも。
「……綾乃?」
もう一度呼んだ。
今度は、自分の声だけが妙にはっきり耳へ残った。
返事はなかった。




