- 13 -
返事はなかった。
千綴はしばらく、その場に立っていた。
人はいる。
すぐ横を、浴衣姿の親子が通り過ぎる。少し離れた屋台では、店主らしい男が何かを焼いている。提灯も灯っているし、参道の先には鳥居も見える。
何もなくなったわけではない。
だからこそ、すぐには異変だと思わなかった。
「……はぐれたか」
口に出してみる。
それが一番普通の答えだった。
千綴は巾着からスマートフォンを取り出した。
画面は点いた。
時刻も表示されている。電波も立っている。
友人たちのグループを開き、綾乃へ通話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「人多いしな……」
一度切り、今度はヴァシリオスへかける。
こちらも呼び出し音だけが続いた。
環も同じだった。
千綴は画面から顔を上げた。
胸の奥に、まだ不安と呼ぶほどではない小さな引っかかりが生まれる。
ヴァシリオスなら、はぐれたと気づけばまず周囲を探すだろう。綾乃も環もいる。誰か一人くらい、スマートフォンを見るはずだ。
けれど、三人とも出ない。
メッセージを送る。
『どこいる? 私、はぐれたみたい』
送信。
表示は変わらない。
千綴はもう一度、周囲を見回した。
人波はさっきより薄くなっていた。
ほんの少しだけ。
境内へ向かう人も、屋台の前に立つ人もいる。それでも、数分前まで肩が触れそうなほどだった混雑が嘘のように、ところどころに空間ができている。
道幅が広がったわけではない。
人が減っている。
太鼓の音は聞こえていた。
ただ、遠い。
同じ境内のどこかで鳴っているはずなのに、山の向こうから響いてくるように輪郭がぼやけている。
千綴は小さく息を吐いた。
「……落ち着け」
自分へ言い聞かせる。
知らない場所ではない。
鏡峰神社の境内だ。
少なくとも、そう見える。
なら、待ち合わせ場所へ戻るか、分かりやすい場所に留まればいい。
千綴は来た道を振り返った。
そこで、一度足を止めた。
さっき通ったはずの屋台が、見つからなかった。
水風船の屋台。
その隣にあった射的。
さらに向こうに、串焼きの赤い暖簾。
どれもないわけではない。
似たような屋台は並んでいる。
けれど、配置が違う。
「……こっちじゃなかった?」
自分が向きを間違えた可能性を考える。
振り返る。
鳥居がある。
境内がある。
石段がある。
見慣れているはずのものが全部そろっているのに、どこを基準にすればいいのかが急に曖昧になった。
それでも、道に迷ったとき特有の感覚とは少し違う。
千綴は昔から、道に迷うことが少なかった。
初めての場所でも、どちらから来たか、どちらへ戻ればいいかはなんとなく分かる。
今も方向は分かっている。
丘平はあちら。
駅はさらにその先。
神社の本殿は背後。
分かっているのに。
そこへ続く道だけが、うまく重ならない。
千綴は眉を寄せた。
以前なら、ただ気味が悪いと思ったかもしれない。
今は、その違和感を無理に否定する気にはなれなかった。
見えているものと、自分が知っているものが、ほんの少しだけ噛み合っていない。
それだけは分かる。
千綴はスマートフォンを握ったまま、ゆっくり歩き始めた。
走らない。
巴に言われたから、というだけではない。
ここで焦って動けば、余計に分からなくなる気がした。
屋台の明かりの下を、一つずつ確かめるように進む。
焼きそば。
飴細工。
金魚すくい。
お面。
どれも祭りにある普通のものだ。
ただ、お面の屋台の前で千綴は足を緩めた。
並んでいる面が、少し妙だった。
狐。
ひょっとこ。
おかめ。
そこまでは普通だ。
けれど、その間に、見たことのない顔がいくつも混じっていた。
鳥のように細長いもの。
目だけが大きく開いたもの。
笑っているのか怒っているのか分からないもの。
何かの郷土面かもしれない。
そう考えれば済む程度だった。
それでも千綴は、少しだけ長く見てしまう。
「買うのかい」
屋台の奥から声がした。
千綴は顔を上げた。
店主らしい老人が座っていた。
「いえ。見てただけです」
「そうかい」
それだけだった。
売り込むでもない。
どれが似合うとも言わない。
老人はすぐに視線を外し、手元の扇子でゆっくり風を送っている。
千綴もその場を離れた。
数歩進んでから、何気なく振り返る。
お面の屋台は、まだそこにあった。
老人もいる。
おかしいことはない。
なのに、胸の奥の引っかかりだけは消えなかった。
境内の端まで来ると、人の声がさらに遠くなった。
提灯は続いている。
その灯りの下を、ぽつぽつと人が歩いている。
さっきまでの賑わいを知っているだけに、妙に広く見えた。
千綴はスマートフォンを見る。
返信はない。
もう一度通話をかけようとして、指を止める。
画面の時刻が、さっき見た数字と同じだった。
「……え?」
見間違いかと思う。
数秒待つ。
数字は変わらない。
千綴は無意識に息を止めた。
さらに待つ。
変わらない。
けれど、画面そのものは動いている。通話もできた。操作も受け付ける。
時計だけが進んでいない。
「やめてよ……」
思わず声が低くなる。
嫌な記憶が、すぐ近くまで浮かびかけた。
公園。
雨。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく感覚。
千綴は首を振った。
違う。
今は違う。
痛みはない。
息もできる。
身体も動く。
誰かに狙われている気配もない。
怖さだけで、同じものにしてはいけない。
千綴はスマートフォンをしまった。
そのとき。
ちりん。
小さな音がした。
鈴。
千綴は顔を上げた。
少し先。
参道から外れた細い道の入口に、小さな人影が立っていた。
子供だった。
何歳くらいなのかは、遠目では分からない。
祭りの子供らしく浴衣を着ている。
顔には面。
ただし正面からではなく、斜めにずらして着けていた。
口元だけが見えている。
千綴が見ていることに気づいたのか、子供は少し首を傾げた。
「……こんばんは」
千綴が声をかける。
「こんばんは」
返事があった。
普通の声だった。
男の子とも女の子とも、すぐには判断できない。
千綴は少しだけ安心した。
「一人?」
子供は答えなかった。
代わりに、千綴の手元を見る。
「迷った?」
「……たぶん」
自分で言ってから、少し変な返事だと思った。
子供の口元がわずかに笑う。
「たぶん?」
「友達とはぐれたの。ここ、鏡峰神社で合ってるよね」
「そうだよ」
即答だった。
「だよね」
千綴はもう一度、周囲を見る。
「じゃあ、私が迷っただけか」
「うん」
子供はあっさり頷いた。
「でも、帰る道は知ってるでしょ」
千綴は返事をしなかった。
知っている。
そのはずだ。
方向も分かる。
なのに、道だけが合わない。
子供は千綴の沈黙を見て、また少し首を傾げた。
「祭り、まだ見てない?」
「見たよ。結構回った」
「こっちは?」
「こっち?」
子供は細い道の向こうを指した。
提灯が並んでいる。
その先にも屋台の明かりが見える。
さっきまでは気づかなかった。
「そっちにもあるの?」
「あるよ」
「……友達探してるんだけど」
「いないよ」
千綴の表情が止まる。
「何で分かるの?」
子供は答えない。
代わりに言った。
「すぐ戻れるから」
「それ、信用していいの?」
「だめ?」
逆に聞かれた。
困る。
千綴は子供を見る。
逃げる様子もない。
手招きもしない。
ただそこに立っている。
怪しい。
普通に考えれば、かなり怪しい。
知らない子供について行く理由などない。
千綴はそう思った。
思ったのに。
なぜか、この子供が自分をどこか危険な場所へ連れていこうとしている感じはしなかった。
勘。
そう言ってしまえばそれだけだ。
最近、自分の「勘」を以前と同じように扱っていいのか分からなくなっている。
だからこそ、無条件に信じるつもりもない。
「先に一つ聞いていい?」
「なに?」
「あなたも迷子?」
子供は少し考えた。
「違うよ」
「家の人は?」
「いるよ」
「どこに?」
子供は境内の方を指した。
けれど、誰か特定の人を示しているようには見えない。
「ちゃんと帰れる?」
「帰れる」
「ならいいけど」
千綴はため息をついた。
立場が逆な気がする。
「ちょっとだけね」
「うん」
「変なところ行ったら戻るから」
「うん」
「あと、友達探すのが先」
「分かった」
本当に分かっているのか怪しい。
それでも子供は歩き出した。
千綴は一歩遅れて、その後を追った。
細い道を抜けた先にも、祭りはあった。
最初に見えたのは、提灯だった。
低い位置に吊られた灯りが、道の両側へ続いている。
屋台もある。
人もいる。
けれど、先ほどまでの祭りとはどこか違っていた。
音が静かだ。
話し声がないわけではない。
笑い声も聞こえる。
金魚をすくう水の音も、屋台で何かを焼く音もする。
それなのに、すべての音が互いにぶつからず、それぞれ少し離れた場所で鳴っているように感じる。
人の数も多すぎず、少なすぎない。
誰かと肩が触れることもない。
屋台の間隔も、少し広い。
「……こんなところあったんだ」
「あるよ」
「毎年?」
「毎年」
子供は迷わず進む。
千綴は周囲へ視線を巡らせた。
参道の石も、境内の木も知っているものと似ている。
けれど、一本の木の位置が違う気がする。
石灯籠も、さっき見たものより古く見える。
提灯に書かれた文字も、読めるものと読めないものが混じっていた。
見慣れない旧字なのかもしれない。
崩し字なのかもしれない。
それ以上の何かなのかもしれない。
「ねえ」
「なに?」
「ここ、いつもこんな感じ?」
「こんな感じって?」
「……静か」
子供は少し考えた。
「今日はにぎやかだよ」
千綴は足を止めかけた。
今までいた祭りと比べれば、どう考えても静かだ。
けれど子供にとってはこちらが普通なのかもしれない。
「そっか」
それだけ返した。
説明を求めても、たぶん今はうまくいかない気がした。
少し先に、飴細工の屋台があった。
店先に並ぶ形が妙に細かい。
鳥。
魚。
狐。
蛇。
その中に、見覚えのない生き物が混ざっている。
角がある。
羽もある。
けれど鳥ではない。
千綴が見ていると、子供が言った。
「欲しい?」
「見るだけ」
「さっきもそう言ってた」
千綴は子供を見る。
「……さっき?」
「お面」
一瞬、言葉が出なかった。
「見てたの?」
「見てたよ」
「どこから」
子供は答えず、歩き出す。
「ちょっと」
千綴も追う。
「それ、普通に怖いんだけど」
「こわい?」
「怖いというか……怪しい」
「ふうん」
「気にしないの?」
「しない」
「強いなあ」
思わず苦笑した。
不思議な子供だ。
何を聞いても、必要なことだけ答える。
それなのに、会話が成立していない感じもしない。
少し先で、子供が足を止めた。
輪投げだった。
景品は小さな木彫りの動物や、色のついた石、鈴、紐飾り。
子供が千綴を見る。
「やる?」
「私?」
「うん」
「さっき水風船で結構本気出したんだけど」
「みずふうせん?」
「知らない?」
子供は首を傾げた。
「こっちにはないの?」
「あるかも」
「曖昧だなあ」
千綴は笑った。
屋台の前へ立つ。
店番の女性が、何も言わず三本の輪を差し出した。
値段を聞こうとして、子供が先に何かを置いた。
小さな丸いもの。
硬貨に見えた。
「え、待って。私が払う」
「いいよ」
「よくない。子供に払わせられないでしょ」
「ぼくのだから」
初めて、自分を指す言葉が出た。
千綴は一瞬だけ子供を見た。
けれど、面に隠れて表情はよく分からない。
「じゃあ、あとで返す」
「いらない」
「そこは返させて」
子供は答えなかった。
千綴は輪を受け取る。
一投目。
外れた。
「……今のは距離確認」
二投目。
小さな木彫りの鳥の角に当たり、跳ねる。
「惜しい」
子供が言う。
「分かってる」
三投目。
千綴は少しだけ狙いを変えた。
投げる。
輪は一度傾き、奥に置かれた小さな鈴の前へ落ちた。
入ってはいない。
「だめか」
そう言ったとき、店番の女性がその鈴を取った。
千綴へ差し出す。
「え?」
女性は何も言わない。
「入ってないですよ?」
返事はない。
代わりに、子供が受け取った。
「もらえるって」
「いや、でも」
「いいんだよ」
子供は鈴を千綴へ渡す。
指先に乗るほど小さい。
鈴には、細い紐が結ばれていた。
ただの蝶結びではない。
何本かの紐を重ねたような、見たことのない結び方だった。
ちりん。
手の中で小さく鳴る。
「……ほんとにもらっていいの?」
店番の女性を見る。
女性は笑った。
それだけだった。
千綴は少し迷ってから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
鈴を巾着へ入れようとして、子供が言った。
「落とさないでね」
「うん」
千綴は紐を巾着の持ち手へ軽く結んだ。
「これなら大丈夫」
子供はそれを見て、満足したように頷いた。
千綴はもう一度、鈴を見る。
何の変哲もない、小さな鈴。
なのに。
その結び目だけが妙に目へ残った。
それから二人は、いくつかの屋台を見て回った。
子供は食べ物にはほとんど興味を示さなかった。
代わりに、面や玩具、飾り物の屋台ではよく足を止めた。
千綴は途中で小さな焼き菓子を買った。
形は丸い。
味は、どこか懐かしい。
「これ何?」
店主に聞いたが、返ってきた名前は聞き取れなかった。
もう一度聞こうかと思って、やめた。
食べられないものではない。
甘くて、少し香ばしい。
「食べる?」
子供に差し出す。
「いい」
「本当に何も食べないね」
「食べたよ」
「いつ?」
「さっき」
「私と会う前?」
「うん」
ならいいか、と千綴は残りを食べた。
歩いているうちに、不安は少しずつ薄れていた。
おかしい。
それは変わらない。
スマートフォンの時計は止まったまま。
友人からの返信もない。
祭りの配置も違う。
目の前の子供も、普通ではない気がする。
それでも、怖くはなかった。
むしろ。
子供と歩いていると、知らない場所へ迷い込んだというより、昔からそこにあった場所へ、今まで気づかず通り過ぎていただけのように感じる。
千綴はその感覚を言葉にしようとして、やめた。
たぶん、うまく言えない。
「お姉ちゃん」
子供が呼んだ。
「なに?」
「祭り、好き?」
「好きだよ」
千綴は少し考えてから答えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「楽しいし。友達と来るのも好き。でも、地元の祭りは子供の頃、ちょっと面倒だった」
「どうして?」
「決まりが多かったから」
思い出す。
この道は通るな。
ここから先へ入るな。
この時間には橋を渡るな。
祭りの夜には、呼ばれても振り返るな。
大人たちは理由を説明しなかった。
昔からそうだから。
決まりだから。
それだけだった。
「今思うと、意味があったのかもしれないけどね」
「あるよ」
子供は即答した。
千綴は横を見る。
「分かるの?」
「決まりには、だいたいあるよ」
「だいたい?」
「なくなったのもある」
「意味が?」
「うん」
子供は前を向いたまま歩く。
「意味がなくなっても、決まりだけ残ることもある」
千綴は少し驚いた。
子供の口から出るには、妙に大人びた言葉だった。
「誰かに教わった?」
「みんな知ってるよ」
「みんなって?」
また答えはない。
千綴は苦笑した。
「ほんと、答えたくないことには答えないね」
「聞かなくてもいいことだから」
「それ、自分で決めるの?」
「うん」
「強い」
どこか環に似ている。
そう思って、少し笑った。
子供が千綴を見る。
「何?」
「友達思い出した」
「さがしてる人?」
「うん。その一人」
「大事?」
「大事だよ」
今度は迷わず答えた。
綾乃。
環。
ヴァシリオス。
悠司。
ほかにもいる。
会長や鈴。
巴。
家族。
直嗣。
事件の前からいた人も、事件のあとに知った人もいる。
千綴は自分でも気づかないうちに、ずいぶん多くの顔を思い浮かべていた。
「いっぱいだね」
子供が言った。
千綴は足を止めた。
「……何が?」
「大事な人」
子供も止まる。
面の下から見える口元は、笑っているようにも見えた。
「分かるの?」
「顔に出てた」
「ほんとに?」
「うん」
「なら、まあいいけど」
千綴は少しだけ警戒を解いた。
自分の考えを読まれたのかと思った。
そんなことがあり得ないとは、もう言い切れない。
けれど、今のところ子供から敵意は感じない。
「あなたは?」
「なに?」
「大事な人」
子供は少し考えた。
それから周囲を見た。
祭り。
提灯。
屋台。
境内。
木々。
その全部を見ているようだった。
「いるよ」
短い答えだった。
千綴はそれ以上聞かなかった。
どれくらい歩いたのか、分からなくなった頃。
子供が足を止めた。
前には、鳥居があった。
さっき見たものより小さい。
朱色ではなく、暗い木の色をしている。
その向こうには石段が続いていた。
「ここまで」
子供が言う。
「ここまで?」
「うん」
「友達のところに戻れるの?」
「戻れるよ」
千綴は鳥居の向こうを見る。
石段の先は暗い。
祭りの明かりが届いていない。
「そっち?」
「違う」
子供は反対側を指した。
千綴は振り返る。
さっきまで歩いてきた祭りがある。
提灯。
屋台。
人。
同じ景色。
「戻るだけ?」
「うん」
「それで?」
「帰れる」
信用しろという方が難しい。
千綴は腰へ手を当てた。
「私、結構歩いたと思うんだけど」
「歩いたね」
「戻るの?」
「うん」
「最初から言ってよ」
「祭り見たかったでしょ」
千綴は言葉に詰まった。
確かに、途中からは自分も普通に楽しんでいた。
「……まあ、そうだけど」
子供が笑った。
千綴もつられて息を漏らす。
「ほんと不思議な子」
「お姉ちゃんも」
「私?」
「うん」
「どこが」
子供は答えなかった。
代わりに、千綴の巾着へ視線を落とす。
結んだ鈴が、かすかに揺れている。
「それ、持っててね」
「これ?」
「うん」
「何か意味あるの?」
子供は少し考えた。
答えるのかと思った。
けれど。
「なくさないで」
それだけだった。
「……分かった」
千綴は鈴へ触れた。
冷たい金属の感触。
普通の鈴だ。
「あなた、名前は?」
今まで聞いていなかったことに気づく。
子供は少しだけ首を傾げた。
「名前?」
「そう。私は弥生千綴」
千綴はいつものように、きちんと名乗る。
「あなたは?」
子供の口が開きかける。
その瞬間。
「――づる!」
遠くから声がした。
千綴は反射的に振り返った。
聞き覚えのある声。
「……綾乃?」
もう一度。
「千綴!」
今度ははっきり聞こえた。
ヴァシリオス。
さらに別の声も重なる。
「ちづる!」
環。
「みんな?」
千綴は一歩、声の方へ進んだ。
祭りの音が急に近くなる。
太鼓。
笛。
人の話し声。
屋台の呼び込み。
それまで薄い膜の向こうにあったものが、一度に耳へ戻ってきた。
千綴は思わず顔をしかめる。
「うるさ……」
目の前を、浴衣姿の人が横切る。
一人。
二人。
その後ろにも、何人もいる。
肩が触れそうになる。
「すみません」
避ける。
顔を上げる。
人が多い。
さっきまでの静かな祭りが嘘のように、境内は人で埋まっていた。
「千綴!」
すぐ近くから声がした。
「ヴァシリオス!」
人の間から、背の高い姿がこちらへ向かってくる。
その後ろに綾乃と環もいた。
「いた!」
綾乃が千綴の腕をつかむ。
「どこ行ってたの!?」
「いや、私もそれ聞きたいんだけど」
「急にいなくなるから!」
「人に流されて――」
「流されてって、すぐ後ろ見たらいなかったんだぞ」
ヴァシリオスが息を切らしている。
いつもの調子より、少し声が強い。
「電話も出ないし」
「かけたよ、私も」
「来てない」
「え?」
「何回もこっちからかけた」
千綴は巾着からスマートフォンを取り出す。
画面を見る。
時刻。
動いている。
さっきまで止まっていた数字が、普通に進んでいた。
通知も一気に入る。
不在着信。
綾乃。
ヴァシリオス。
環。
メッセージも何件も届いている。
「……今、来た」
「今?」
綾乃が覗き込む。
「電波悪かったんじゃない?」
環が言った。
「境内、人多いし」
「それならまだ分かるけど」
千綴は画面を見つめる。
自分が送ったメッセージには、今になって送信済みの表示がついた。
さっきまで送れていなかったのかもしれない。
そう考えれば説明できる。
時計のこと以外は。
「本当に大丈夫か?」
ヴァシリオスが顔を覗き込む。
「うん。怪我もしてない」
「どこまで行ってた?」
「……境内の、向こう」
「向こう?」
ヴァシリオスが千綴の背後を見る。
「そっち、何もないぞ」
「え?」
千綴も振り返った。
そこには木々があった。
境内の端。
立入を避けるための低い柵。
その向こうに暗い林が続いている。
細い道はない。
提灯もない。
屋台もない。
小さな鳥居もなかった。
千綴は黙った。
「……千綴?」
綾乃が呼ぶ。
「さっき、ここに道なかった?」
「道?」
「屋台が並んでて」
三人が顔を見合わせる。
ヴァシリオスが慎重に言った。
「俺ら、ずっとこの辺探してたけど……そんなの見てないぞ」
環が柵の向こうを見る。
「林だけ」
「だよね」
千綴は呟いた。
自分でも、何を期待していたのか分からない。
見間違い。
勘違い。
人混みに流されて、別の場所を歩いていた。
そう言われれば、それが一番自然だ。
けれど。
「子供は?」
「子供?」
綾乃が聞き返す。
千綴は自分のすぐ横を見る。
誰もいない。
人はいる。
通り過ぎる人も、立ち止まる人もいる。
けれど、面を斜めに着けた子供はいなかった。
「……いない」
「誰かと一緒だったの?」
「さっきまで」
千綴は周囲を探す。
お面の屋台。
似たものはある。
けれど、さっき見た屋台とは違う。
あの子供の姿もない。
「どういう子?」
ヴァシリオスが聞く。
「浴衣で、面つけてて……」
そこまで言って、千綴は止まった。
祭り会場でその説明は、あまりに当てにならない。
周りを見れば、似たような子供はいくらでもいる。
ただ。
あの面だけは、たぶん見れば分かる。
「探す?」
綾乃が聞く。
千綴は少し迷った。
そして首を振る。
「……いや。大丈夫」
「でも」
「あの子、自分で帰れるって言ってたから」
「知り合い?」
「今日初めて会った」
「それ大丈夫か?」
ヴァシリオスが真顔になる。
「私も途中で同じこと思った」
「途中じゃ遅いだろ」
「でも、変なことはされてないよ」
「そういう問題じゃ――」
言いかけたヴァシリオスが止まる。
千綴の巾着を見た。
「それ、さっきあった?」
「何が?」
「鈴」
千綴は視線を落とした。
小さな鈴。
複雑に結ばれた紐。
そこにある。
幻でも、見間違いでもない。
千綴は指先で触れた。
ちりん。
小さく鳴った。
「……なかった」
綾乃が言う。
「最初、こんなの付けてなかったよね」
「うん」
「買ったの?」
環が聞く。
「もらった」
「子供に?」
「正確には、輪投げの屋台でもらった」
「輪投げ?」
三人の視線が揃う。
千綴は自分で言っていて、説明するほど変になっていくのが分かった。
「えっと……」
どこから話せばいいのか分からない。
時計が止まったこと。
屋台の配置が違ったこと。
知らない祭り。
面。
子供。
鈴。
全部話したとして、自分でも説明できない。
千綴は一度息を吐いた。
「あとで話す」
そう言った。
「……今は大丈夫?」
綾乃が心配そうに見る。
「うん。今は大丈夫」
少しだけ考えて、付け足す。
「怖い感じじゃなかったから」
三人は納得していない顔だった。
特にヴァシリオス。
けれど、千綴が本当に怪我をしていないことを確認すると、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、とりあえず人少ないところ行こう」
ヴァシリオスが言う。
「今度は絶対はぐれるなよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「今度は私も気をつける」
「そうじゃなくて、俺らも気をつける」
少し強い声だった。
千綴はヴァシリオスを見る。
彼はすぐに視線を逸らした。
「……探すの、結構大変だったから」
「ごめん」
「謝らなくていい。事故みたいなもんだし」
環が横から言う。
「ヴァシ、泣きそうだった」
「泣いてねえよ!」
「顔」
「普通だっただろ!」
「必死」
「それはそうだろ!」
綾乃が吹き出した。
千綴も少し遅れて笑う。
張りつめていたものが、ようやく緩んだ。
「ごめん。ありがとう」
「だから謝んなって」
「ありがとうはいいでしょ」
「それは……まあ」
ヴァシリオスが頭をかく。
環が狐面の横からじっと千綴を見る。
「ほんとに平気?」
「うん」
「ならいい」
環はそれだけ言った。
綾乃はまだ腕を離していない。
「綾乃」
「何?」
「もう離しても逃げないよ」
「だめ」
「何で」
「また消えたら困る」
「消えてないって」
「私たちから見たら消えたの」
その言葉に、千綴は一瞬だけ返せなくなった。
消えた。
大げさな言い方のはずなのに。
今は、妙に引っかかる。
「……じゃあ、しばらくそのままでいい」
「うん」
綾乃は満足そうに頷いた。
四人は境内の端を離れ、人の流れが少し緩い場所まで戻った。
そこから先は、また普通の祭りだった。
屋台の声。
太鼓。
笑い声。
提灯。
何も変わらない。
千綴は何度か振り返った。
けれど、さっきの道は見つからなかった。
鳥居も。
静かな屋台も。
面をつけた子供も。
全部、人の向こうへ消えてしまったようだった。
しばらく歩いたところで、ヴァシリオスが足を止めた。
「飲み物買おう」
「また?」
千綴が言う。
「お前探して喉乾いたんだよ」
「それ言われると何も言えない」
「私もほしい」
綾乃が手を上げる。
「猫は?」
「ラムネ」
「さっき飲んでなかったか?」
「別腹」
「飲み物に別腹あるの?」
いつもの会話。
いつもの調子。
千綴はそれを聞きながら、巾着の鈴へそっと触れた。
ちりん。
祭囃子に紛れれば、誰にも聞こえないほど小さな音だった。
それでも千綴には、はっきり聞こえた。
その後、四人は改めて本殿へ向かった。
混雑はまだ続いていたが、さっきより列は少し短くなっている。
今度は千綴が真ん中だった。
前に綾乃。
後ろに環。
ヴァシリオスは列の外側。
「これ、完全に囲まれてない?」
「安全策」
綾乃が振り返る。
「逃亡防止」
環が言う。
「私は何なの」
「重要人物」
「それ、絶対意味違うでしょ」
ヴァシリオスが笑った。
順番が来る。
四人で並び、賽銭を入れる。
鈴を鳴らす音が重なる。
千綴は手を合わせた。
何を願うか少し迷う。
事件が終わったこと。
友人たちとこうして祭りへ来られたこと。
これから検査があること。
自分に何が起きているのか、まだ分からないこと。
いくつも浮かんだ。
結局。
これからも、こういう時間がありますように。
そんなことを願った。
目を開ける。
隣で綾乃も顔を上げる。
「何お願いした?」
「言わない」
「えー」
「綾乃は?」
「秘密」
「じゃあ聞かないでよ」
「聞くのは自由」
「ずるい」
参拝を終え、列から外れる。
千綴は本殿を振り返った。
鏡峰神社。
昼間に見れば、古い神社の一つだ。
悠司の家。
地域の祭りの中心。
それ以上でも以下でもないと思っていた。
けれど今夜だけは、少し違って見えた。
長く残っているものには、長く残るだけの理由がある。
さっき子供が言った言葉を思い出す。
決まりには、だいたい意味がある。
意味がなくなっても、決まりだけ残ることもある。
では。
意味が残ったまま、理由だけ忘れられているものもあるのだろうか。
「千綴」
声に振り返る。
少し離れたところに悠司がいた。
法被姿のまま、こちらへ歩いてくる。
「見つかったって聞いた」
「誰から?」
「兄貴。境内で友達とはぐれた女子がいるって話が回って、特徴聞いたらお前っぽかった」
「そんな大事になってたの?」
「人多いからな。迷子も珍しくないけど、一応」
悠司は千綴の顔を見る。
「大丈夫か?」
「うん」
「怪我は?」
「ない」
「ならよかった」
短く息を吐く。
それだけで、悠司も心配していたのが分かった。
「ごめん、仕事増やした?」
「俺は増えてない。兄貴たちが少し探したくらい」
「それ増えてるじゃん」
「気にすんな」
悠司の視線が千綴の巾着へ落ちた。
「それ」
また鈴だ。
「何?」
「……いや」
悠司は少しだけ眉を寄せた。
「見たことある?」
千綴が先に聞く。
「紐がちょっと古い結び方に見えたから」
「古い?」
「たぶん。祭具とかに使うやつに似てる気がしただけ」
千綴は鈴を見る。
「神社の?」
「うちのとは違うと思う」
「そっか」
「どこで買った?」
「買ってない。もらった」
「誰に?」
千綴は少し迷った。
「……子供」
悠司の眉がさらに寄る。
「知り合い?」
「今日会った」
「何で知らない子供から鈴もらってるんだよ」
「話すと長い」
「長いならあとで聞く」
「聞くんだ」
「そりゃ聞くだろ」
悠司は真顔だった。
千綴は笑う。
「分かった。今度ね」
「忘れるなよ」
「うん」
奥から悠司を呼ぶ声がした。
「守屋ー!」
「今行きます!」
返してから、悠司は四人を見る。
「悪い、まだ戻る」
「仕事がんばって」
綾乃が手を振る。
「お前、さっきと同じこと言ってないか?」
「応援は何回してもいいでしょ」
「気楽だなあ」
悠司は呆れながらも笑った。
「じゃあ、また学校で」
「うん」
背を向ける。
数歩行ってから、悠司が振り返った。
「千綴」
「何?」
「今度は、ちゃんと一緒にいろよ」
「分かってる」
「ならいい」
それだけ言って、今度こそ仕事へ戻っていった。
祭りの終わりが近づく頃には、人の流れも少しずつ出口へ向かい始めていた。
四人も神社をあとにする。
途中で環が買った狐面は、まだ頭の横に掛かったままだった。
綾乃は最後に綿菓子を買い、ヴァシリオスは「さすがにもう食えない」と言いながら焼きそばの屋台を目で追っていた。
「見てるじゃん」
千綴が言う。
「見るだけ」
「私と同じこと言ってる」
「見るだけなら無料だろ」
「でも買いたそう」
環が言う。
「買わない」
「あと五秒」
「何のカウントだよ」
「五、四」
「やめろ」
「三」
「買わないって」
「二」
「……一個だけなら」
「負けた」
「お前が煽ったんだろ!」
結局、ヴァシリオスは焼きそばを一つ買った。
四人で笑いながら歩く。
千綴はその中で、何度か鈴の音を聞いた。
歩くたび。
巾着が揺れるたび。
ちりん。
小さな音がする。
誰も気にしていない。
千綴も、もう立ち止まらなかった。
神社から少し離れたところで、綾乃が足を緩めた。
「私、こっち」
鏡峯家へ戻る道を示す。
「今日は楽しかったね」
「うん」
「途中、ほんとにびっくりしたけど」
「ごめんって」
「責めてないよ」
綾乃が笑う。
「でも、ちづるが見つかったとき、ちょっと変な顔してた」
「どんな?」
「なんていうか……迷子から戻ってきたっていうより、夢から起きたみたいな」
「何それ」
「私も分かんない」
綾乃は少し考えた。
「でも、怖そうではなかった」
千綴は返事をしなかった。
その通りだった。
怖くはなかった。
奇妙だった。
理解できなかった。
説明もできない。
それでも、あの場所を思い出したとき最初に出てくる感情は、恐怖ではない。
「綾乃」
「ん?」
「鏡峰神社って、昔から何か変な話ある?」
「変な話?」
「昔話とか。神隠しとか、祭りの夜だけ何かあるとか」
「急にどうしたの」
「ちょっと気になって」
綾乃は首を傾げた。
「昔話なら色々あると思うよ。鏡峰って古い地区だし。うちにも古い資料とかあるし」
「家に?」
「たぶん。おじいちゃんに聞けばもっと知ってると思う」
「そっか」
「調べる?」
「今すぐじゃなくていい」
千綴は鈴へ触れた。
「そのうち、ちょっとだけ」
「じゃあ今度うち来る?」
「いいの?」
「資料見るくらいなら。勝手に触れないやつもあると思うけど」
「そこはちゃんと聞く」
「ちづる、そういうところ真面目だよね」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、またね」
「うん。また」
「今度は消えないでね」
「まだ言う?」
「しばらく言う」
綾乃は笑いながら手を振った。
千綴も手を振り返す。
環とヴァシリオスもそれぞれ声をかけ、三人で再び歩き出した。
鏡峰の南側へ進んだところで、今度は環が足を止める。
「私はこっち」
丘平との境に近い住宅地へ続く道だった。
「じゃあね」
「うん。おやすみ」
「またな」
環が狐面を揺らして手を振る。
残った千綴とヴァシリオスは、そのまま中央交差点の方へ歩いた。
祭り帰りの人影は少しずつ減っていく。
幹線道路へ出てからもしばらく、二人の帰る方向は同じだった。
やがて、千綴のアパートへ向かう道の前で足を止める。
「私、こっちだから」
「ああ」
ヴァシリオスが道の先を見る。
「着いたら連絡しろよ」
「ここからすぐだよ」
「すぐでも」
「分かった」
「じゃあな」
「うん。またね」
ヴァシリオスはそのまま新辺方面へ歩いていった。
千綴も背を向け、自宅へ続く住宅地へ入る。
祭りの音は、少しずつ遠ざかっていった。
夜の住宅地は静かだった。
さっきまでの人混みが嘘のように、聞こえるのは虫の声と、自分の下駄が地面を打つ音だけ。
ちりん。
鈴が鳴る。
千綴は足を止めた。
街灯の下で、巾着の持ち手へ結んだ鈴を見る。
小さい。
どこにでもありそうな形。
けれど紐の結び方だけは、やはり見覚えがない。
指でなぞる。
一本が輪になり、別の一本をくぐり、さらに折り返されている。
無理に解こうとすれば、たぶん簡単に崩れる。
千綴は触るのをやめた。
「なくさないで、か」
子供の声を思い出す。
名前は聞けなかった。
正体も分からない。
そもそも、本当にそこにいたのかさえ、説明できない。
それでも鈴は残っている。
千綴は顔を上げた。
夜空が広がっていた。
祭りの明かりから離れた分、星が少しだけよく見える。
あの賑やかな祭りのすぐ隣に、もう一つ、静かな祭りがあった。
そう思えてならなかった。
同じ神社で、同じ夜だったはずなのに。
確かめる方法はない。
千綴はまた歩き出した。
ちりん。
小さな音がついてくる。
不気味ではなかった。
むしろ、帰り道を確かめるような音だった。
千綴は振り返らない。
そのまま、いつもの自分の部屋へ向かって歩いていった。




