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玄関を出ると、冷たい風が頬に当たった。千綴は鞄を肩に掛け直し、鍵をかけて階段を下りた。
学校へ続く坂道には、制服姿の生徒が何人も歩いていた。普段ならそれほど気に留めない足音や話し声が、冬休み明けの今朝は少し賑やかに聞こえる。坂の向こうには、校舎の屋根が見えていた。
「ちづる!」
振り返ると、少し下の方で綾乃が手を振っていた。千綴も立ち止まって、追いつくのを待つ。
「おはよう! あけましておめでとう」
「おはよう、綾乃。あけましておめでとう」
綾乃は千綴の隣へ並ぶと、首元の襟を寄せて歩き始めた。
「実家、どうだった?」
「ゆっくりしてきたよ。久しぶりにお母さんのご飯も食べられたし」
「いいなあ。私もお正月は家でのんびりしてたけど、あっという間だったなあ」
「ほんと、休みってすぐ終わるね」
坂を上る間にも、前を行く生徒たちの話し声が聞こえてくる。校門の近くでは、立ち止まっていた生徒の間を抜けるように、登校する列がゆっくり進んでいた。
その先に悠司の姿を見つけ、千綴は手を上げた。
「悠司、おはよう」
「おはよう。あけましておめでとう」
「おめでとう。今年もよろしくね」
「おはよう、守屋くん。あけましておめでとう!」
「おめでとう。綾乃も今年もよろしくな」
三人で昇降口へ入り、それぞれ靴を履き替える。外から続いてきた冷たい風が遮られ、周りには下駄箱を開け閉めする音が響いていた。
「じゃあ、俺はこっちだから」
悠司が自分の教室の方へ歩き出す。千綴と綾乃も階段を上り、廊下を進んだ。
教室の扉を開けると、暖房の空気が流れてきた。窓際の席にいたヴァシリオスが千綴たちを見つけ、席を立ってこちらへ歩いてきた。
「お、二人とも。あけましておめでとう!」
「おめでとう、ヴァシリオス。おかえり」
「ただいま。そっちも帰省はどうだった?」
「うん、楽しかったよ」
「おかえり、中村くん。あけましておめでとう!」
「綾乃もおめでとう。今年もよろしくな」
千綴は自分の席へ鞄を置いた。綾乃もすぐ前の席で上着を脱いでいる。窓側では、ヴァシリオスの後ろに座る環が机に腕を組んだまま、こちらへ顔を向けた。
「環、おはよう。あけましておめでとう」
「……おめでとう」
「まだ眠そうだね」
「朝だから」
「新学期早々それかよ」
ヴァシリオスが笑うと、環は顔を上げずに返した。
「バカは朝から元気だね」
「元気で悪かったな」
千綴が笑いながら鞄から筆箱を取り出すと、ヴァシリオスが口を開いた。
「そういや、新しい先生が来るらしいな。海外からだって」
「あ、それなら生徒会で少し聞いたよ」
「そうなの?」
「三年生の外国語の授業に入るみたい。詳しいことはまだ知らないけど」
「どんな先生だろうな」
教室の前の扉が開き、出席簿を持った山田先生が入ってきた。
「ほら、席つけ。始めるぞ」
ヴァシリオスは自分の席へ戻り、綾乃も前を向いた。教室のあちこちで椅子を引く音が重なる中、千綴も筆箱を机の端へ寄せた。
出欠を取り終えると、山田先生は出席簿を閉じた。
「じゃあ、体育館へ移動するぞ。廊下に並んでくれ」
千綴も立ち上がり、綾乃と一緒に教室を出た。廊下ではほかのクラスも移動を始めていて、階段のあたりには生徒の列ができていた。
体育館は教室より冷え込んでいた。千綴たちが所定の場所へ並ぶ頃には、先に集まっていた生徒の話し声が高い天井の下で響いている。やがて開式が告げられ、ざわめきが収まっていった。
校長の挨拶が始まる。冬休みが終わり、三学期が始まったこと。三年生はいよいよ卒業が近いこと。千綴は前を向いて話を聞いていたが、立ったままの足元から冷えが伝わってきて、時折そっと重心を移した。
挨拶が終わると、司会の教師が新任教職員を紹介した。
一人の女性が前へ出てくる。短く整えた髪に、落ち着いた色の服。女性がマイクの前で顔を上げたとき、千綴は息を呑んだ。
検査施設で向き合った女だった。
撃たれた左腕の感触が、一瞬だけ蘇る。千綴は思わず袖の上から腕に触れかけ、すぐに手を下ろした。
司会の教師は、その女性をセリーン・チャンと紹介した。アメリカから来た教員・指導員で、市の国際交流の取り組みによる受け入れだという。主に三年生の外国語授業で、補助や指導を担当するらしい。
女性がマイクを少し下げた。
「はじめまして。セリーン・チャンです。よろしくお願いします」
〔皆さんと一緒に勉強できるのを楽しみにしています〕
軽く頭を下げると、体育館に拍手が広がった。千綴も少し遅れて手を叩く。
女性はほかの教員たちの列へ戻っていった。千綴の周りでは、何事もなかったように式が進んでいく。
もう一度女性の方を確かめたかったが、前に並ぶ生徒の肩で姿が見えなくなっていた。
式が終わり、千綴は綾乃と教室へ戻った。生徒たちが席に着くと、山田先生から新学期の連絡があり、プリントが列ごとに回ってきた。
千綴は自分の分を受け取り、残りを後ろへ渡した。机の上には、提出が必要なものと持ち帰るものが何枚か重なっている。
「連絡は以上。今日はこれで終わりだ。忘れ物するなよ」
山田先生が教室を出ると、あちこちで椅子を引く音がした。千綴もプリントを鞄へしまい、帰り支度を始める。
「あ、そうだ」
窓側の席からヴァシリオスが立ち、千綴たちのところへ来た。
「エディ、日本に戻ったって」
「え、本当?」
「ああ。最初から迎えに来る予定だった人が来てくれた。エディも知ってる人だよ」
「そっか。よかった……」
ギリシャの玄関先で、エディが日本に戻りたいと話していたことを思い出す。あのときの少年の顔が、ふと浮かんだ。
「今はどうしてるの?」
「そこまではまだ聞いてないんだ。日本に着いたことは分かったけど」
千綴が頷くと、ヴァシリオスは上着を取りに窓際の席へ戻った。環も自分の鞄を肩に掛けている。
綾乃は先に支度を終え、千綴の席の横で待っていた。
「ちづる、帰ろっか」
「うん」
千綴は鞄を肩に掛け、環とヴァシリオスへ軽く手を振ってから、綾乃と教室を出た。
校門を出ると、坂道には下校する生徒たちが続いていた。千綴と綾乃も並んで坂を下る。始業式だけで帰る日とあって、周りにはまだ朝の続きのような賑やかさがあった。
いつもの分かれ道まで来ると、綾乃が足を止めた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
手を振って別れ、千綴は住宅地の方へ向かった。学校から離れるにつれ、背後の話し声も少しずつ遠くなっていった。
アパートへ戻ると、制服の上着を脱ぎ、暖房をつけた。冷蔵庫にあるもので簡単に昼食を済ませ、食器を片づけた。
始業式で見た女性のことが気になり、千綴はスマートフォンを手に取った。直嗣とのメッセージ画面には、次の休みに受ける定期検査の日程を決めたやり取りが残っている。その下に、今日のことを打ち始めた。
『朝倉さん、今日の始業式で、セリーン・チャンという新しい先生が紹介されました。検査施設で会った女性と同じ顔に見えたんですが、何かご存じですか?』
送信してスマートフォンを机に置いた。アルバイトへ向かうまでにはまだ少し時間があったので、千綴は椅子に腰を下ろした。
丘平商店の引き戸を開けると、店内にはいつものラジオが流れていた。巴はレジの奥で伝票を揃えている。
「お疲れさまです」
「お、千綴。お疲れ。着替えたら、菓子棚の補充お願いね」
「はい」
千綴は奥で鞄を置き、エプロンをつけて売り場へ戻った。補充用の箱を開け、棚に残った袋を手前へ寄せる。隙間に新しい商品を収めていると、引き戸の音がした。
「いらっしゃいませ」
年配の女性が籠を持って入ってきた。菓子棚の前まで来ると、並んだ袋をしばらく見比べる。
「あれ、小さいおせんべいはどこだったかしら」
「こちらですよ」
千綴が隣の棚を示すと、女性は「ああ、これこれ」と言って一袋を籠へ入れた。そのまま飲み物を見に行ったので、千綴も途中だった補充へ戻る。
客が増えるとレジに入り、落ち着いたところでまた棚を整える。巴も会計の合間に奥から商品を運んできて、手の届かない棚を先に補充してくれた。
「こっちは私がやっとくから、千綴はレジ見てて」
「分かりました」
ラジオの曲が変わる頃、また引き戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
一人の男性が入ってきた。千綴が声を掛けると、男性は軽く頭を下げ、店の奥へ歩いていく。
千綴は次の客が持ってきた商品を受け取り、会計を始めた。バーコードを読み取る音が続く間にも、店の引き戸が何度か開閉した。
夕方になって客足が落ち着くと、千綴はレジの周りを片づけ、残っていた補充用の箱を畳んだ。
「千綴、今日はそろそろ上がっていいよ」
巴が伝票から顔を上げた。
「はい。棚だけ確認してきます」
「それが済んだら帰りな。明日も学校だろ」
「分かりました」
入口の菓子棚で、前へ倒れかけていた袋を直す。通路にはみ出したものがないのを確かめ、千綴は奥でエプロンを外した。上着を羽織ると、店を出る支度が整う。
「お先に失礼します」
「お疲れ。気をつけて帰りな」
「はい。店長もお疲れさまです」
巴が手を上げて応える。千綴も軽く頭を下げ、引き戸を開けた。
商店街には明かりのついた店がまだ残っていて、買い物袋を提げた人たちが行き交っていた。千綴は駅とは反対の方へ歩き、住宅地へ続く道に入る。
夕食をどうしようかと考えながら歩いていると、道の脇に暗い色のコートを着た男性が立っていた。何かを眺めているようだったが、千綴はそのまま通り過ぎようとした。
「……私は、何を望んでいるんだろう」
小さな声が聞こえた。
千綴は思わず振り返った。
男性はまだ同じ場所に立っていたが、ふとこちらへ顔を向けた。街灯の光が、その顔を照らす。
千綴は目を見開いた。以前、ヴァシリオスに見せてもらった写真の人物、天原 識によく似ていた。
男性も千綴を見ていた。目が合ったまま、しばらくどちらも口を開かなかった。
やがて、男性が静かに口を開いた。
「……あなたには、私は誰に見えますか?」




