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処分が決まった。
研究施設で一人になってからも、男はしばらくその事実を受け止められずにいた。考えを巡らせれば、なぜそうなったのかは分かる。これまでに得られた結果を思い返しても、別の判断に至る理由は見つからない。
それでも、分かることと納得できることは違っていた。
男は自分の手に目を落とした。指をゆっくり曲げ、開く。掌に触れる指先の感触は確かに自分のものだった。こうして手を動かしたという記憶も、今、ここで新しく生まれている。
最初から、何もかもがそうだったわけではない。
意識を持ったとき、すでに膨大な記憶があった。言葉も、物事の仕組みも、考えを進めるための知識も、初めから備わっていた。知らないことを一つずつ覚えたのではない。自分では過ごしていないはずの時間が、確かに過去としてそこにあった。
天原 識の記憶だった。
初めて目にしたものなのに、何という名で、どのように扱われるものかを知っている。その場で知ったわけでも、誰かに教わったわけでもなかった。頭の中にある記憶を辿れば答えが見つかり、何の不自由もなく説明できてしまう。
けれど、自分の目で見た覚えはない。
本来なら知っているはずのないものを前にするたび、その食い違いが生じた。初めのうちは、何を不思議に思えばよいのかさえ分からなかった。記憶の中には、見知らぬものを調べ、考え、理解してきた長い積み重ねがある。だからこそ、目の前のものに初めて触れたときの感触が、そのどこにもないことを奇妙に思った。
記憶にある過去を思い起こすことはできた。そこで何を知り、何を考えたかも分かる。だが、そのとき感じたはずのことを自分のものとして確かめようとすると、どこかで立ち止まってしまう。
自分が経験したことではないからだ。
それは、やがてはっきりした違いになった。生まれてから見聞きしたことは、自分がその場にいた記憶として積み重なっていく。初めて知ったことに戸惑い、考え直し、後になって思い出す。その一つ一つは小さくても、天原の記憶の続きを生きているようには思えなかった。
天原が経験した時間は、あるところで止まっている。そこから先にあるのは、自分が過ごした時間だけだった。持っている知識が増えるほど、二つの記憶の違いは薄れるどころか、かえって意識されるようになった。
男は握っていた手を緩めた。指先に残る感触を確かめても、過去の記憶が自分のものになるわけではない。
なぜ自分が造られたのかは、初めから知っていた。
天原 識を複製するための研究。天原が持つ記憶や知識だけでなく、異能〈解〉をも再現することが求められていた。その目的を知らされたときの記憶を探す必要もない。目的そのものが、生まれた時点ですでに頭の中にあった。
自分が何をするために存在するのかを、疑問に思うより先に知っていたのだ。
知識はあった。考えることもできた。目の前の問題について情報を集め、順序立てて検討し、答えを導くこともできる。
天原の〈解〉は、答えを何もないところから得る力ではない。観察し、解析し、推論を重ね、検証する。必要な過程を、他者とは比べものにならない速さで進める力だった。
男はその力がどのようなものかを知っていた。天原の記憶を持っているのだから、知らないはずがない。だが、知っていることと、実際にできることは違う。
その力は、自分には現れなかった。
検査が行われ、実験が重ねられた。すぐに結果が出なくても、その後の変化を確かめる時間が続いた。今日こそ何かが変わるのではないかと考えたこともある。しかし、いくら時間が経っても、求められていた異能は発現しなかった。
何度目からだろう。変化がないことを確かめるたび、結果を知る前から同じ結果を思い浮かべるようになった。自分に何が足りないのか、考えられることは考えた。持っている知識から答えを探しても、その知識を持つことと、天原本人であることの間には埋まらない隔たりがあった。
記憶が足りないのだろうか。知識が足りないのだろうか。
そう考えるたび、どちらも違うと思い知らされた。自分は多くのことを知っている。けれど、その過去を生きてはいない。生まれたときに与えられた膨大な記憶の中に、自分自身が経験した出来事は一つもなかった。
天原 識ならば、この状況をどう考えただろう。
その問いが頭に浮かんで、男は目を伏せた。自分の中にあるのは天原の記憶なのだから、考え方を辿ることはできる。それでも、天原ならどうしたかと考えている時点で、自分は天原ではないのではないか。
同じ顔を持ち、同じ記憶を持ち、同じ知識を使える。それだけあれば、同じ人物だと言えるのだろうか。ならば、自分がここで経験したことは、誰のものになるのだろう。
いつの間にか、研究が何を求めているかよりも、そのことばかり考える時間が増えていた。目的を果たせない自分に価値がないと判断されることは、理解できた。異能が再現されなければ、研究が期待した成果にはならない。そうして処分が決まったことにも、理由はあった。
けれど、その理由をいくら考えても、自分がここで生きてきた時間までなくなるわけではなかった。
掌をもう一度見た。そこにある線も、動かした指も、今感じている重さも、自分にとっては確かなものだった。初めから与えられた記憶ではない。自分が見て、考え、過ごしてきた時間がある。
それなのに、何のために生まれたのかという問いには、すでに答えがあった。その答えを果たせなかった今、そこから先をどう考えればよいのか分からない。
天原 識ではない。
そう思うほどに、自分を指す別の言葉が見つからなかった。
男は手を下ろした。考え続けていれば何かに辿り着けると思っていたが、もう何を確かめればいいのかも分からない。処分が決まったという事実は変わらず、頭の中にはそれを理解するための知識だけが残っている。
では、それを理解している自分は、いったい何者なのだろう。
答えは、どこにも見つからなかった。
千綴は、すぐには答えられなかった。
目の前の男性が誰に見えるかと聞かれれば、思い浮かぶ名前はある。ヴァシリオスに見せてもらった写真の人物、天原 識だ。顔立ちはよく似ているし、写真を見たときの印象が今も残っている。
けれど、似ているからといって本人とは限らない。世の中には自分と似た顔の人が三人はいるとも言うし、何より、写真で見たことがあるというだけで本人だと言い切るのは無理があった。
それよりも、千綴には質問の仕方が気になった。
名前を知っているかでも、誰かに似ていると思わないかでもない。男性は、自分が誰に見えるかと尋ねてきた。もし本当に天原本人なら、なぜ見知らぬ自分へそんなことを聞くのだろう。
千綴は男性の顔を見た。視線は合っているのに、どう答えればいいのか分からない。写真の人物の名を挙げていいのか迷いながら、逆に自分が同じことを聞くとしたら、と考えた。
誰かに間違われたときだろうか。あるいは、自分について何かを決めつけられていると感じたとき。相手が最初に思い浮かべた誰かではなく、目の前にいる自分を見てほしい。そんな気持ちで尋ねることはあるかもしれない。
有名な人なら、なおさらそうなのだろうか。テレビに映る姿や、名前から思い浮かべられる人物像があっても、それがその人のすべてとは限らない。知られている自分と、実際の自分を、同じものとして見られたくないことだってあるかもしれない。
もちろん、この男性がそう考えているとは分からない。千綴が自分に置き換えて思いついたことにすぎなかった。
「あの……」
何か言おうとして、言葉が続かなかった。
男性はしばらく千綴を見ていたが、やがて視線を落とした。
「すみません。変なことを聞きました。今の質問は、忘れてください」
静かな声だった。千綴が返事をする前に、男性は少し間を置いて続けた。
「突然、引き留めてしまって。申し訳ありません」
「いえ、そんな……」
謝られるようなことをされたとは思わなかった。ただ、相手はもう話を終えるつもりらしい。男性が身体の向きを変えるのを見て、千綴は何となく、このまま行かせていいのだろうかと思った。
何が気になるのか、うまく説明できない。初めて会った相手だし、事情も知らない。そもそも、何か困っていると分かったわけでもない。
それでも、男性が歩き出したとき、声が出た。
「あの、ちょっと待ってください」
男性が足を止めた。千綴も自分の声に驚いて、次に何を言えばいいのか分からなくなる。
そのとき、頬に冷たいものが触れた。顔を上げると、街灯の明かりの中に細かな雨粒が見えた。いつの間にか、雨が降り始めていた。
「これから、どこへ行くんですか?」
尋ねてから、ずいぶん変なことを聞いていると思った。見知らぬ高校生に行き先を聞かれて、正直に答える人がどれほどいるだろう。答えてもらったところで、自分に何ができるのかも考えていない。
それなのに、もう一つ聞かずにはいられなかった。
「帰る場所は……あるんですか?」
言い終えてから、千綴は唇を結んだ。そんなことまで尋ねる理由はないはずだった。相手には帰る場所があるかもしれないし、ただ一人で考え事をしていただけかもしれない。勝手に心配するのも失礼だろう。
男性はゆっくり振り返った。
街灯の光が、こちらを向いた顔にかかる。千綴は何か返事があるのかと待ったが、男性は口を開かなかった。視線が合ったまま短い時間が過ぎ、それから男性は前へ向き直った。
そのまま、歩き出す。
千綴は呼び止めなかった。雨音が少しずつ大きくなり、足音は遠ざかっていく。街灯の光を受けた雨粒の向こうで、暗い道の先へ進む後ろ姿が見えにくくなっていった。追いかけようと思えば追いかけられたかもしれないが、そうする理由も、追いついてから掛ける言葉もなかった。
やがて男性の姿が暗がりに紛れ、見えなくなった。
千綴はしばらく、その方向を見ていた。どうしてあんなことを聞いてしまったのだろう。自分でもおかしな質問だと分かっていたのに、言わずにはいられなかった。
顔が天原に似ていたからだろうか。それなら、名前を確かめる方が先だったはずだ。でも、千綴が知りたかったのは、どうやらそれだけではなかったらしい。
何が知りたかったのかと考えても、答えは出ない。男性がどこへ行ったのかも、帰る場所があるのかも、結局分からないままだった。
冷たい雨粒を頬に受けながら、千綴はもう一度、男性が消えた方へ目を向けた。そこには暗い道が続いているだけだった。
それでも、あの後ろ姿だけが、なかなか頭から離れなかった。




