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元日の朝、千綴は布団から抜け出し、洗面所へ向かった。
顔を洗って廊下へ戻ると、台所の方からだしの匂いがしてきた。覗いてみると、母が鍋の前に立っている。
調理台には四人分の椀が並んでいた。
「おはよう。あけましておめでとう」
千綴が声を掛けると、母が振り返った。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「うん、こちらこそ」
母は鍋の火を少し弱め、千綴に顔を向けた。
「お雑煮のお餅、二つでいい?」
「うん、二つお願い」
「わかった。お父さんとおじいちゃんにも、いくつ食べるか聞いてきてくれる?」
「はーい」
千綴は台所を離れ、居間へ向かった。
父はこたつに入って新聞を読んでおり、祖父はテレビを見ていた。画面からは、正月らしい賑やかな音楽が流れている。
「お父さん、おじいちゃん。おはよう、あけましておめでとう」
父が新聞から顔を上げた。
「おめでとう。今年もよろしくな」
「うん、よろしくね」
「おめでとうさん」
「今、お母さんがお雑煮作ってるんだけど、お餅はいくつにする?」
「俺は二つでいいかな」
「おじいちゃんは?」
「わしは一つでええよ」
「わかった。伝えてくるね」
台所に戻ると、母は焼いた餅を用意しているところだった。
「お父さんは二つで、おじいちゃんは一つだって」
「ありがとう。じゃあ、そこの小皿を並べてくれる?」
「うん」
千綴は棚から小皿を取り出し、食卓へ運んだ。母が用意していた正月料理も、器ごと少しずつ並べていく。
黒豆や紅白のかまぼこが加わると、いつもの食卓がずいぶん華やかに見えた。
居間から父がやってきて、残っていた皿を運んでくれた。その間に母は椀へ雑煮をよそい、焼いた餅を加えていく。
「千綴、そっちお願いできる?」
「はーい」
母から盆を受け取り、千綴は雑煮の椀を食卓へ運んだ。椀から上がる湯気が、目の前を白くかすめた。
最後の椀が並ぶ頃には祖父も居間からやってきて、四人が食卓を囲んだ。
「いただきます」
千綴は箸を取り、まず汁を一口飲んだ。温かいだしの味が口に広がる。
餅は表面が柔らかくなっていて、箸で持ち上げると少し伸びた。
「おいしい。やっぱり、お正月はお雑煮だね」
向かいに座る母が笑った。父がかまぼこの皿を母の方へ回し、祖父もそこから一枚取っている。
千綴は黒豆を少し自分の皿に移し、また雑煮を口へ運んだ。
「午後は初詣に行くんだよね?」
父が頷いた。
「ああ、昼を過ぎてからな」
「そっか」
窓から差し込む朝の日差しが食卓の端を照らしていた。
千綴は残っていた雑煮を食べ進めた。
食後、母と一緒に食器を片づけて居間へ戻ると、父が手招きした。
「そうだ、千綴。これ」
差し出されたのは小さな封筒だった。
千綴は一度父の顔を見てから受け取る。
「え、お年玉? ありがとう」
「高校生のうちは、まだな」
「高校生じゃなくなったら終わり?」
「そのときはそのときだ」
父が笑うと、母も脇から別の封筒を出した。
「はい、私からも」
「お母さんも? ありがとう」
二つを手元に揃えていると、祖父がこたつのそばから声を掛けた。
「千綴、こっちもあるぞ」
「あ、はーい」
千綴が近づくと、祖父は封筒を一つ手渡した。
「ちゃんとしまっとけよ」
「うん。おじいちゃんもありがとう」
三つの封筒を両手に持ってみると、少し照れくさい。もう高校二年生なのに、こうしてお年玉を受け取ると、つい顔が緩んでしまう。
「大事に使うね」
「そうしなさい」
母が答え、父は新聞を広げ直した。
千綴は封筒を自分の鞄にしまってから、こたつの空いたところへ座った。膝の辺りまでじんわりと暖まり、つい足を伸ばした。
玄関の戸が開く音がしたのは、千綴がテレビを見ながらお茶を飲んでいたときだった。
「おめでとう」
聞こえてきた声に祖父が顔を上げる。
「おう、入れ入れ」
千綴も湯呑みを置いて立ち上がった。玄関には、隣に住む祖父の兄夫婦が来ていた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう。千綴も帰ってきてたんだね」
「はい。年末から帰ってます」
「そうか、そうか」
千綴が頭を下げると、二人も笑って応じた。
母が居間から顔を出し、座っていくよう声を掛ける。
千綴は戸口から少し身を引いて通り道を空けた。
こたつのそばへ座ってもらう間に、母がお茶を淹れて運んできた。千綴は盆から湯呑みを一つ取り、座卓の上へ置いた。
ほどなくして、今度は祖父の弟夫婦も訪ねてきた。玄関と居間で新年の挨拶が重なり、静かだった家の中が少し賑やかになる。
千綴がもう一度立ち上がって挨拶すると、親戚の一人が封筒を差し出した。
「はい、千綴にも」
「わ、ありがとうございます」
もう一方からも渡され、千綴はそのたびに頭を下げた。
「大事に使わせてもらいます」
「うん、そうして」
受け取った封筒を部屋にしまい、居間へ戻った。母と親戚たちは正月の料理のことや近所の話で盛り上がっている。
千綴はこたつの端に座り、湯呑みを両手で包んだ。テレビでは正月の番組が続いていて、画面に映った人たちの笑い声が居間の話し声と重なった。
母の声が少し大きくなったので顔を向けると、親戚たちも笑っていた。千綴も口元を緩め、またテレビに目を戻した。
湯呑みが空になり、千綴は台所へ立った。急須に湯を足して戻り、お茶を注ぐ。
まだ熱かったので少し冷ましてから口をつけた。
窓から入る光がこたつの脇まで伸びていた。千綴は温まった足を少し伸ばし、親戚たちの話し声を聞きながらテレビを眺めた。
午後、父が車の鍵を手に取った頃には、午前中に来ていた親戚たちも帰り、居間はいつもの静かさに戻っていた。
千綴は居間の祖父へ声を掛けた。
「おじいちゃん、じゃあ行ってくるね」
「おう。行ってこい」
祖父がこたつに座ったまま片手を上げた。千綴は玄関で靴を履き、父と母の後に続いて外へ出た。
父が運転席に乗り、母が助手席へ座る。千綴は後部座席でシートベルトを締め、車が動き出すのを待った。
家の並ぶ道を抜けると、畑が途切れ、山沿いの道に入った。路肩に吹き寄せられた落ち葉が、車の風で少し舞い上がる。
千綴がその様子を見ていると、前の席から父の声がした。
「もうすぐ三学期だな」
「うん。帰ったらすぐ学校だよ」
「春には三年生か。早いもんだな」
「私もそう思う。二年生になったの、ついこの間だった気がするのに」
母が少し振り返った。
「進路の話も、そろそろ増えるんじゃない?」
「そうだね。学校でも少しずつ話が出てるよ」
「大学は考えてるのか?」
父に聞かれ、千綴は少し考えた。
「大学かなぁ、とは思ってる。でも、どこで何を勉強したいとかは、まだ決まってないんだよね」
「そうか。まあ、これから考えていけばいいさ」
「うん」
車がカーブに差しかかり、千綴は窓の外へ目を戻した。卒業後のことを考えていないわけではない。
ただ、どこへ進みたいかと聞かれると、まだ答えが出てこなかった。
最近になって知った世界にも、もっと知りたいことがある。けれど、その話を父と母にするわけにはいかないし、将来どう関わっていきたいのかも、自分ではまだ分からない。
ガードレールの向こうに谷が見え、やがて道の両側を木々が囲むようになった。
神社の駐車場には、すでに何台か車が停まっていた。
千綴は車を降り、上着の前を合わせた。木立の中を通る風に、どこかで葉の擦れる音が混じっている。
父と母の後について歩いていくと、石段の下へ出た。
段は木々の間をまっすぐ上へ続き、途中から先が見えなくなっていた。端に寄った枯れ葉を踏まないよう、千綴は石の中央へ足を置く。
上からは参拝を終えた人たちが下りてきた。小さな子供の手を引いた人と行き違い、千綴は少し脇へ寄る。
頭上では高い枝が揺れていたが、石段の足元までは風が届かない。
父の上着の背中を見ながら、一段ずつ上っていく。
途中で足を止めて振り返ると、歩いてきた石段が木々の間を下へ伸びていた。駐車場はもう見えず、枝の隙間に空が細く覗いている。
千綴は再び足を進め、父と母の後ろを上っていった。
やがて石段が途切れ、目の前が開けた。
境内は木々に囲まれていたが、社殿の前には広く砂利が敷かれ、人の通るところもきれいに整えられていた。参拝を終えて脇へ退く人、手をつないで歩く親子、列の最後尾を探す人の姿が見える。
あちこちから聞こえる話し声に、砂利を踏む音が重なっていた。
千綴たちも列の後ろについた。
前の人が進むたびに少しずつ間を詰める。
千綴はポケットから財布を出し、小銭があることを確かめた。
順番が回ってくると、千綴は小銭を賽銭箱へ入れ、父と母に並んで頭を下げた。すぐ横で手を打つ音が重なり、千綴も手を合わせて目を閉じる。
しばらくして顔を上げると、父が先に横へ退いていた。
千綴も母と一緒に場所を空ける。
社殿の屋根には、木々の隙間から差した日が当たっていた。
千綴は一度そちらを見上げ、二人の後を追った。
帰りの石段では、下から上ってくる人とすれ違うたびに足を止めた。端へ寄って道を譲り、足元を確かめながら下りていった。
家へ戻ると、祖父は居間でテレビを見ていた。
「ただいまー」
「おう、帰ったか」
千綴は上着を脱いでこたつへ足を入れた。石段を上り下りしてきた脚を伸ばすと、膝の辺りが少し重い。
父もこたつに座り、母は台所の方へ向かった。
その晩は、母の料理を四人で囲んだ。
食後、千綴が食器を台所へ運んで居間へ戻ると、テレビでは正月の特番が続いていた。
祖父が画面を見ながら小さく笑い、父がその隣で何か言っている。
千綴もこたつへ戻り、湯呑みを手元へ引き寄せた。
母がやってくると、少し身体をずらして隣を空ける。母はそのまま腰を下ろし、こたつ布団を膝へ掛けた。
テレビの中で誰かが大きな声を上げると、父が笑い、母も顔を上げた。千綴は湯呑みに口をつけ、四人で同じ画面を眺めていた。
旅行鞄のファスナーを閉じようとして、千綴は手を止めた。
机の上に、充電器が残っている。昨夜使ったあと、そのままにしていたものだ。
千綴はコードをまとめて鞄の隙間へ収め、もう一度中を確かめてからファスナーを引いた。
「よし」
窓の外には、祖父の畑が見えた。冬の野菜が植わった畝に朝の光が当たっている。
千綴は鞄を立て、部屋の中を見回した。
寝間着はしまったし、持ってきたものも鞄に収めてある。最後に枕元を確かめてから、手荷物を肩へ掛けた。
廊下へ出ると、居間から祖父と父の声が聞こえてきた。千綴が鞄を持って入ると、二人がこちらへ顔を向けた。
「荷物、まとまったよ」
祖父が足元の鞄を見て、声を掛けた。
「千綴、長ねぎはあとで送っとこうか」
「え、いいの?」
「畑にまだあるからな」
「じゃあ、お願い。ありがとう」
祖父は頷き、湯呑みに口をつけた。
千綴は鞄を廊下の脇へ寄せて座った。こたつに足を入れると、出かけるために履いた靴下越しにも暖かい。
ずっとここに座っていると、出発の時間を気にするのが少し面倒になりそうだった。
台所から母が顔を出した。
「千綴、車出すから、荷物持ってきてね」
「はーい、今行く」
立ち上がって廊下へ出る。
旅行鞄の持ち手を握ると、来たときより軽くなっている気がした。家族へ渡した土産の分だけ、少し余裕ができている。
玄関で靴を履き、戸を開けた。
冷たい空気が頬に当たる。庭先は朝の光が届いているのに、軒下の地面にはまだ冷えが残っていた。
母が車の後ろを開けてくれたので、千綴は鞄を持ち上げて積み込んだ。肩に掛けた手荷物を直し、玄関の方を振り返る。
父と祖父が出てきていた。
「じゃあ、行ってきます」
「おう。気をつけて帰れよ」
「うん。着いたら連絡するね」
父が頷くと、祖父も千綴の方を向いた。
「元気でな」
「うん。おじいちゃんも元気でね」
千綴は二人へ手を振り、母の運転する車に乗り込んだ。
走り出してからも、家の前の二人の姿がしばらく見えた。曲がり角を過ぎると見えなくなり、千綴は前へ向き直った。
道の両側には山が続き、斜面の高いところには朝の光が差している。
「お母さん、毎日ご飯作ってくれてありがとう。おいしかったよ」
「何よ、急に」
「帰る前に言っとこうと思って」
母が笑うのが横顔から分かった。千綴もつられて笑い、少し座り直した。
車は川に架かった橋を渡り、山裾から少しずつ家の多い方へ進んでいった。
駅前に着くと、千綴は車から鞄を下ろした。駅舎の前では、旅行鞄を引く人や買い物袋を持った人が行き交っていた。
千綴は手荷物から切符を取り出し、乗る列車の時刻を確かめた。
「じゃあ、お母さん。送ってくれてありがとう」
「気をつけてね」
「うん。またね」
母が頷いた。
千綴は手を振り、改札へ向かった。
ホームに出ると、山の方から風が吹いてきた。上着の襟を少し合わせ、足元の鞄を持ち直す。
やがて列車が入ってきて、短いブレーキの音を立てて停まった。
扉が開く。千綴は手荷物を確かめて乗り込み、窓側の席へ腰を下ろした。
発車すると、駅の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。家々の屋根が続き、その向こうには山が見えた。
やがて線路は曲がり、車窓の景色から見覚えのある山並みが少しずつ離れていった。
千綴はしばらく外を眺めた。さっきまで家の前に立っていた父と祖父の姿が、ふと浮かんでくる。
窓の向こうでは、見慣れた家並みが遠ざかっていた。
スマートフォンで時刻を確かめると、乗り換えまではまだ時間がある。
千綴は画面を閉じ、背もたれへ身体を預けた。
列車が進むにつれ、山の間から町が現れ、窓の外に広い水面が見える区間もあった。冬の光を受けて細かくきらめく水面を眺めているうちに、車内放送が次の停車駅を告げた。
千綴は手荷物の位置を直し、乗り換えの案内を確かめた。
新幹線へ乗り換えて席に落ち着くと、千綴は上着を脱いで膝の上に畳んだ。
窓の外では、ホームを歩く人の姿が行き交っている。扉が閉まる前に、乗り込んできた乗客が席を探しながら通路を進んでいった。
千綴は足元に収めた荷物が通路へ出ていないことを確かめ、シートへ座り直す。
列車が動き始めてから、スマートフォンを取り出した。
直嗣には、帰省が終わったら定期検査の相談をすると伝えてあった。千綴はメッセージ画面を開き、少し考えてから新年の挨拶を打ち始めた。
『あけましておめでとうございます。今、帰省先から戻る途中です。次の定期検査のことなんですが、日程を相談させてもらえますか? ご都合のいいときで大丈夫です』
読み直してから送信し、千綴はスマートフォンを手荷物へしまった。窓の外では建物が後ろへ流れ、その向こうに冬の空が広がっている。
千綴は背もたれに深く腰を落ち着けた。列車の小さな揺れが、肩から背中へ伝わってきた。




