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空の結び目  作者: 夕花


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 廊下の向こうから、何かを擦るような音が聞こえていた。


 千綴は布団の中で薄く目を開けた。見慣れた天井が視界に入り、少し遅れて、ここが実家の自分の部屋だったことを思い出す。


 窓からは朝の光が差し込んでいた。外はもう十分に明るいのに、布団から出ている顔には昨夜よりも冷えた空気が触れている。


 廊下の方で再び物音がした。何かを動かす音に続いて、母の声が聞こえてくる。


 千綴は枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確かめた。


「あ、もうこんな時間」


 思っていたよりも遅かった。昨日は長い移動のあとだったとはいえ、随分よく眠ってしまったらしい。


 布団をめくると、冷気に思わず肩をすくめた。起き上がって、用意していた服に着替える。髪を軽く整え、脱いだ寝間着を畳んでから部屋を出た。


 廊下へ出ると、さっきから聞こえていた音が近くなった。


 居間では父が窓際に立ち、窓枠を布で拭いていた。足元には掃除道具が置かれ、いつもなら隅にあるものが少し手前へ動かされている。


「おはよう」


「おう、おはよう」


 父が手を止めて振り返る。その向こうでは、台所から母が顔を出していた。


「あ、千綴。起きたのね。朝ご飯、まだあるよ」


「うん、ありがとう。もう掃除始まってたんだ」


「朝からやってるよ。千綴は先に食べちゃって」


「分かった。食べたら手伝うね」


 母は頷き、台所へ戻っていった。


 千綴も手を洗い、朝食の用意を始めた。鍋の蓋を開けると、味噌汁の中に長ねぎが浮かんでいる。昨日の夕食でも使った、祖父が畑から採ってきたものだろうか。


 火にかけている間に茶碗へご飯をよそい、温まった味噌汁を椀へ注ぐ。食卓へ運んで腰を下ろすと、母は棚から取り出した食器や保存容器を台の上へ並べていた。


 味噌汁を一口飲む。温かい汁が喉を通り、身体の内側から少しずつ温まってくる。ねぎは柔らかく、噛むと甘みがあった。


 窓の外へ目を向けると、祖父が倉庫の前で何かを洗っているのが見えた。傍らには片づけ途中らしい道具が並んでいる。山から引いている水は冬になると特に冷たいが、祖父は慣れた様子で手を動かしていた。


「おじいちゃんも朝からやってるんだね」


「そうよ。庭のものを片づけるって、朝から外に出てるの」


「寒くないのかな」


「どうかしら。おじいちゃんは平気そうだけどね」


 千綴はもう一度庭先を見た。祖父は洗った道具を脇へ置き、次のものを手に取っている。


 食事を終えると、千綴は食器を洗って水切りかごへ置いた。母はまだ棚を拭いていたが、台の上に並んでいたものは少し減っていた。


「お母さん、何から手伝えばいい?」


「じゃあ、廊下を拭いてもらおうかな。掃き掃除は終わってるから」


「うん、分かった」


 千綴は掃除用の布巾とバケツを用意し、廊下へ出た。


 水に浸した布巾を固く絞り、床に膝をつく。板の上へ滑らせると、木目に沿って細かなざらつきが指先に伝わってきた。掃き掃除は済んでいるはずだが、長く使われている床には、まだ薄く汚れが残っているらしい。


 少し力を入れて擦ると、ざらつきが消えた。古い木の床には細かな傷や色の濃いところが残る。それでも、拭き進めた板には薄く艶が戻り、窓の光が柔らかく映った。


 玄関へ続く廊下の柱が目に入った。


 昨日も気になった、小さい頃につけた傷が残っている。こうして掃除をしていると、普段なら気にも留めないようなものが妙にはっきり見えた。


 柱の根元に溜まった埃を拭き取り、先へ進んだ。


 窓の外からは、ときどき水の流れる音が聞こえてくる。祖父はまだ庭先で作業をしているようだった。居間では父が窓を拭いており、布の擦れる音が千綴の手元の音と重なる。


 しばらく拭き進めるうちに、冷えていた身体もすっかり温まってきた。袖を少しまくり、廊下の隅に残った汚れを丁寧に拭き取る。


 最後の一角を終えたところで、千綴は身体を起こした。長く屈んでいたせいか背中が少し張っていて、腰を伸ばすと自然に息が漏れた。


 拭き終えた廊下を振り返る。窓からの光が板の表面へ細く伸び、さっきよりも少し明るく見えた。


 千綴は布巾をバケツへ入れ、台所へ戻った。


 母は棚の掃除を終え、出していたものを元へ戻しているところだった。千綴がバケツを置くと、母が食器を持ったまま顔を向ける。


「廊下、終わった?」


「うん。あとは水を捨てるだけ」


「ありがとう。じゃあ、もう少ししたらお墓に行こうか」


「分かった。準備しておくね」


 千綴は布巾を洗い直し、バケツの水を流した。蛇口から出る水が指先に触れると、掃除で温まった手には随分冷たく感じられた。


 手を拭きながら居間を覗くと、父は窓の掃除を終え、使った道具をまとめていた。朝から動かされていたものも片づき始め、部屋の中は少しずつ元の様子に戻っている。


 外ではまだ祖父が作業を続けていた。


 千綴は窓越しにその姿を眺めてから、まくっていた袖を戻した。





 部屋へ戻り、千綴は外出用の上着を羽織った。家の中で動いているうちに身体は温まっていたが、窓越しに見える庭の様子を思い出すと、薄着のまま出る気にはならなかった。


 居間へ戻ると、母が玄関先で出かける準備をしていた。供える花と掃除道具がまとめられており、千綴はそのうちの一つを持ち上げた。


「これ、車に積んでおくね」


「ありがとう。私もすぐ行くから」


 外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。庭では祖父が洗った道具を片づけており、倉庫の前に並んでいたものも朝より少なくなっている。


 千綴は車へ荷物を運び、後部座席に置いた。戻ろうとすると玄関から母が出てきたので、そのまま助手席へ回る。


 車に乗り込むと、車内はほんのり暖かかった。先に暖房を入れていたらしい。千綴は冷えた指先を擦り合わせながら、シートに身体を預けた。


 母が車を発進させた。


 家の前を離れると、道の両側には山が迫り、木々の間から冬の日差しが差し込んでくる。葉を落とした枝の隙間からは、夏には隠れていた奥の斜面まで見えていた。


 千綴は窓の外へ目を向けた。


 昨日は日が暮れてから帰ってきたため、こうして明るい時間に周囲を見るのは久しぶりだった。道の曲がり方や、山の斜面に沿って続く家並みはよく知っている。それでも、夏とは景色の見え方が違っていた。


「あ、あんなところまで見えるんだ」


「冬は葉っぱが落ちるからね。夏は木に隠れて見えないけど」


「うん。なんだかちょっと新鮮」


 千綴はもう一度、木々の向こうへ目を凝らした。見慣れた山のはずなのに、いつもとは少し違う場所を走っているような気がした。


 家を出たときにはまだ掃除の疲れが少し残っていたが、座っているうちに気にならなくなっていた。





 延輝寺(えんこうじ)に着くと、千綴は車から花と掃除道具を下ろした。


 境内へ足を踏み入れると、砂利が靴の下で小さく鳴った。周囲には山の木々が見え、家の近くとは少し違う静けさがある。車を降りたばかりの耳には、風が枝を揺らす音がよく聞こえた。


 千綴は母と並んで墓のある場所へ向かった。


 並んだ墓石の間を進み、見慣れた家の墓の前で足を止める。花を脇に置き、まずは墓石の周りへ目を向けた。


 足元には枯れ葉がいくつか入り込んでいた。風に運ばれてきたのか、隅に寄り集まっている。千綴がそれを拾っている間に、母は持参した道具を取り出していた。


「千綴、先にお水お願いできる?」


「うん」


 千綴は水を用意し、墓石の表面を洗い始めた。


 水をかけると、石の色が濃く変わった。布を当て、上から順にゆっくり拭いていく。平らなところはすぐにきれいになるが、文字の刻まれた部分には汚れが残りやすい。千綴は布を持ち直し、溝に沿って丁寧に動かした。


 冬の空気の中で水に触れていると、指先がじんと冷えてくる。家の掃除でも何度か水を使ったが、外ではその冷たさが一層はっきり感じられた。


 息を軽く吹きかけてから、残ったところを拭き取る。


 母も足元の掃除を進めていた。拾い集めた枯れ葉をまとめ、汚れの残ったところを確かめている。千綴が墓石を洗い終える頃には、周囲もすっかり片づいていた。


「これくらいでいいかな」


 千綴が少し離れて確かめると、母も顔を上げた。


「うん、きれいになったね。ありがとう」


 母が花を供えている間、千綴は使った道具をまとめた。花を生け終えると、墓石の前が先ほどより明るく見える。


 二人で並び、静かに手を合わせた。


 目を閉じると、周囲の小さな音が耳に入ってきた。どこかで葉が擦れる音がして、少し離れたところから鳥の鳴き声が聞こえる。


 千綴はしばらくそのままでいた。


 やがて手を下ろし、隣の母に合わせて一歩下がる。母は供えた花の向きを少し整えてから、掃除道具を手に取った。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


「うん」


 千綴も荷物を持ち、墓の前を離れた。


 境内を歩きながら、千綴は山の方へ視線を向けた。木々の間に続く道を見つけ、少し歩調を緩める。


 車のそばまで戻っても、ついもう一度山の方を見た。


「あ、私、歩いて帰ろうかな」


「ここから?」


「うん。久しぶりに歩きたくなっちゃった」


 母は千綴を見て、小さく頷いた。


「いいけど、寒いから早めに帰ってきなさいね」


「うん、分かった」


「気をつけてね」


「はーい」


 千綴は持っていた荷物を車に積み込み、母が運転席へ乗るのを見送った。


 エンジンがかかり、車がゆっくりと動き出す。千綴は軽く手を振り、曲がり角の向こうへ見えなくなるまでその場に立っていた。


 車の音が遠ざかると、辺りはまた静かになった。


 千綴は上着の前を整え、歩き出した。





 延輝寺から続く道は、最初だけ少し下っていた。


 舗装された道の端には枯れ葉が溜まり、風が吹くと乾いた音を立てて転がっていく。千綴は足元を確かめながら坂を下り、道が上りに変わるところで顔を上げた。


 この先へ進めば、滝へ向かう道に出られる。


 そのまま坂を登り始めた。舗装された道は見た目よりも勾配があり、しばらく進むと自然に歩幅が狭くなった。


 背中へ回る風は冷たい。それでも足を動かしているうちに、上着の内側は少しずつ温まっていく。


 振り返ると、登ってきた道が斜面に沿って下へ続いていた。


「結構、坂きつかったんだ」


 思ったよりも高さを上がっている。普段から走っているおかげか息はそれほど乱れていないが、脚にはじんわりと疲れが溜まっていた。


 道の脇には木々が続いていた。日差しの届く場所では舗装が明るく見え、山の陰に入ると急に色が濃くなる。空気の冷たさも、日なたと日陰では少し違うように感じられた。


 襟元を直し、坂を登り続けた。


 やがて、道の先が開けた。


 滝を訪れる人のための駐車場だ。千綴は入口を横目に見ながら通り過ぎ、その先へ続く坂へ足を向けた。


 ここから少しの間、さらに勾配がきつくなる。


 短い坂だが、先ほどまでよりも足に力が要る。少し前かがみになって登り切ると、道の様子が変わった。


 舗装路から外れるように、細い道が木々の間へ続いている。幅は広くなく、人が歩くところだけ土が踏み固められていた。


 入口から奥を覗くと、道は木々の向こうへ緩やかに曲がっていた。落ち葉が重なり、地面の凹凸が見えにくい。足元を選びながら進んだ。


 細道は緩やかに上ったかと思えば、すぐに少し下っていく。歩く場所によって地面の硬さが違い、靴の下で小石が動くこともあった。


 木々が近くなったせいか、舗装路にいたときよりも風が弱く感じられる。その代わり、枝葉の擦れる音や、足元で落ち葉を踏む音がはっきり聞こえた。


 しばらく進んだところで、別の音が混じり始めた。


 低く、絶え間なく響く水音だった。


 千綴は少しだけ顔を上げる。


 まだ滝の姿は見えないが、進むにつれて音が大きくなっていく。細かな水の流れる音とは違い、もっとまとまった量の水が落ちているような響きが、木々の間から伝わってきた。


 千綴は足元に気をつけながら先へ進んだ。


 道が緩やかに下り、木々の向こうが少し明るくなる。


 そこでようやく、白く流れ落ちる水が見えた。


 千綴は歩みを緩めた。


 滝は以前と変わらず、岩肌を伝って水を落としている。周囲の木々は冬の姿になっていたが、水の音だけは記憶の中にあるものとよく似ていた。


 さらに進むと、滝壺の近くへ出た。


 水が落ちる音は、もう周囲の小さな物音を覆うほどになっている。千綴は足を止め、目の前の流れを見上げた。


 見上げたまま、しばらくその場に立っていた。





 岩肌の濡れたところは黒く光り、その脇には苔が張りついていた。滝壺の周りにも大小の石が転がっている。


 足元を確かめながら少し水辺に近づくと、湿った冷気が頬に触れた。坂を登って温まった身体には、その冷たさが心地よい。


「……気持ちいいな」


 上着の襟元を緩め、深く息を吸う。


 冬の日差しは山に遮られ、滝の周囲には陰が落ちている。その中で、水の流れだけが白く浮かび上がって見えた。


 高いところから落ちた水は岩に当たって砕け、滝壺へ広がり、また岩の間を流れていく。目で追っていると、どこまでが落ちてきた水で、どこからが流れ出す水なのか分からなくなった。


 水音が耳いっぱいに広がる。


 枝の揺れも、岩に貼りついた苔も、視界の端にあるはずなのに、次第に一つずつくっきりと浮かんできた。滝を見上げているのか、その周りを見渡しているのか、意識しなくなっていた。


 白い水の向こうに岩があり、岩の上には木の根が伸びている。足元にも石がある。そのどれもが、手を伸ばせば触れられるほど近く思えた。


 けれど、少し遠くから一帯を眺めているようでもあった。


 不思議なほど、滝も木々も、今立っている場所も、ひと続きに感じられる。


 息を吸う。胸が動く。


 それでも、水の音に包まれているうちに、その小さな動きさえ、周囲の揺れと重なるような気がした。


 怖さはなかった。不思議なくらい気持ちは落ち着いていて、ただ目の前の水を見つめていた。


 ふいに、頬へ冷たいものが触れた。


「……っ」


 千綴は思わず肩をすくめた。


 滝から飛んできた水滴だろうか。


 反射的に頬へ手を当てると、冷えた指先が皮膚に触れた。


 その瞬間、足の裏に地面の硬さを感じた。


 靴の中で指先が少し動き、上着の袖が手首に触れる。自分の息が白くなって目の前へ流れ、すぐに消えていった。


 耳を満たしていた水音が、目の前で岩を打つ滝の音として聞こえた。


 千綴は何度か瞬きをし、改めて周囲を見回した。


 岩も、木々も、水の流れも、先ほどと変わらずそこにある。


「……あれ?」


 自分でも何に驚いたのか、よく分からなかった。


 千綴は手を下ろし、滝壺を見つめた。


 今のは、何だったのだろう。


 少しぼんやりしていただけだと言われれば、そうなのかもしれない。ずっと水の流れを見ていたから、目が疲れたのだろうか。


 けれど、それにしては妙な感じだった。


 千綴はもう一度、滝を見上げる。


 水は相変わらず同じ場所を流れ落ち、白い飛沫を散らしていた。


 何かが変わっているようには見えない。


 その景色を眺めているうちに、夏の鏡峰神社が頭に浮かんだ。


 人で賑わっていた境内が、いつの間にか見知らぬ祭りのように感じられた、あのとき。


 さっきの感覚と、どこか似ている。


 けれど、目の前の滝も岩も、少しも変わっていないように見える。


「……どうなんだろ」


 比べようとしても、うまく思い出せないところがあった。千綴はもう一度水の落ちる先を眺め、それ以上考えるのをやめた。


 千綴はしばらくその場に立っていたが、再び頬に冷たい空気が触れたところで、上着の襟元を閉じた。


「……寒くなってきた」


 歩いてきたときの暖かさは、もう残っていなかった。


 手を擦り合わせてみると、指先もかなり冷えている。


 母には早めに帰ると言ってある。


 千綴はもう一度だけ滝を見上げ、それからゆっくり踵を返した。





 細い道へ戻ると、落ち葉が靴の下で乾いた音を立てた。背後の水音は木々を挟むたびに遠ざかり、やがて風に枝の擦れる音が聞こえるようになった。


 あそこで感じたことを思い返しても、うまく形にならない。水の白さや苔のついた岩は覚えているのに、景色のどこを見ていたのかが曖昧だった。


 冷えた指先を上着のポケットへ入れる。


 帰ったら、温かいものでも飲もう。


 舗装された坂へ出ると、低い日差しが山の斜面を照らしていた。急な下りでは歩幅を抑え、滑らないよう足を運ぶ。やがて木々の間から見慣れた家並みが見えてきた。





 実家へ戻ると、庭先はすっかり片づいていた。


 玄関へ向かおうとしたところで、庭にいた祖父が千綴に気づいて顔を上げた。


「よう帰ってきた」


「……ただいま」


 いつもの「おかえり」とは少し違う言い方に、千綴は祖父の顔を見た。祖父はわずかに目を細めている。


「寒かったやろ」


「うん。歩いてるときはよかったんだけど、途中でちょっと冷えちゃって」


「そうか」


 祖父は玄関の方へ目を向けた。


「冷えたなら、はよ中に入り」


「うん、そうする」


 千綴は頷き、玄関へ向かった。


 戸を開けると、家の中から食器の触れ合う音が聞こえてきた。


「ただいまー」


「あ、おかえり。随分歩いてきたのね」


 台所から母の声が返ってくる。


「うん。ちょっと遠回りしちゃった」


「お茶でも飲む?」


「飲む。ありがとう」


 千綴は靴を脱ぎ、上着を掛けてから台所へ向かった。


 母は湯飲みを用意し、急須へ湯を注いでいた。食卓の上には片づけ途中の布巾が畳まれ、朝に出していた掃除道具はもう見当たらない。


「掃除、もう終わったの?」


「だいたいね。あとは細かいところだけ」


「じゃあ、ちょっと休ませてもらおうかな」


「そうしなさい」


 千綴は椅子に腰を下ろした。


 母が湯飲みを置いてくれる。両手で包むと、冷えていた指先にじんわりと熱が伝わってきた。


 千綴は少し冷ましてから口をつけた。


「あったかい……」


「外、寒かったでしょう」


「うん。歩いてる間はよかったんだけど、滝のところでじっとしてたら冷えちゃって」


「あら、滝まで行ってきたの?」


「うん。久しぶりに見たくなって」


「あそこ、冬は寒いでしょう」


 母はそう言いながら、使い終えた急須を片づけ始めた。


 千綴は湯飲みを持ったまま、窓の外へ目を向けた。


 さっきまで歩いていた山が、家々の向こうに見えている。


 あの滝も、この山のどこかにある。


 滝の水音と、濡れて黒く光っていた岩肌が、ふと頭に浮かんだ。


 千綴は手元の湯飲みへ視線を戻した。


 温かな陶器の感触が、掌にはっきり伝わってくる。


 もう一口、お茶を飲んだ。


 居間の方では、父が何かを動かす音がしている。母は夕食の準備を始めたらしく、冷蔵庫を開けて食材を取り出していた。


 千綴は湯飲みを置き、少しだけ椅子の背にもたれた。


 朝から続いていた大掃除も、もうほとんど終わっている。


 窓から差し込む光は、出かけたときよりも低くなっていた。


 千綴は湯飲みに残ったお茶を飲み干すと、台所に立つ母へ声をかけた。


「お母さん、何か手伝おうか?」


「じゃあ、野菜を洗ってもらおうかな」


「うん、分かった」


 千綴は椅子から立ち上がり、袖をまくった。


 蛇口をひねると、冷たい水が指先に触れる。


 その感触に一瞬だけ滝の飛沫を思い出したが、千綴はすぐに目の前の野菜へ手を伸ばした。


 台所には、水の流れる音と母が食器を動かす音が重なっていた。


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