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スマートフォンのアラームを止めたとき、窓の向こうはもう明るかった。
千綴は布団の中で一度伸びをしてから身体を起こした。昨夜は帰宅してから必要なものだけ取り出し、早めに休んだつもりだったが、まだ少し眠気が残っている。長い飛行機の移動を思えば仕方ないか、と小さく欠伸をした。
ベッドの脇には、昨日持ち帰った旅行鞄が置いてある。ファスナーは半分ほど開いたままで、取り出した洗面道具が机の端に残っていた。
千綴はベッドを下り、カーテンを開けた。外はよく晴れている。向かいの建物の屋根には日が当たっていたが、窓の近くへ寄るとガラス越しにも冷たさが伝わってきた。
「……寒い」
暖房を入れてから洗面台へ向かい、顔を洗う。水の冷たさでようやく目が覚めてきた。タオルで顔を拭き、鏡を見ながら髪を整える。
着替えを済ませると、千綴は机の上のスマートフォンを手に取った。
昨夜、母へ送ったメッセージが画面に残っている。今日は実家へ帰る予定で、列車が決まったら知らせることになっていた。
乗り換え案内を開き、新幹線と特急の時刻を調べる。いくつか候補を見比べ、乗り換えに余裕のある便を選んだ。空席を確かめ、予約まで済ませる。
駅に着く時刻も分かったところで、母へ連絡する。
『おはよう。今日の電車決めたよ。そっちの駅には午後に着く予定。そこからタクシーで帰るね』
列車の到着予定も一緒に送り、スマートフォンを机へ置いた。
朝食を済ませて食器を片づけると、今度は旅行鞄を開く。昨夜使った洗面道具を袋へ戻し、着替えの位置を少し整えた。ギリシャで増えた荷物もあるせいで、出発したときより中身が詰まっている。
ファスナーを閉じる前に、一度手を止めた。
実家へ帰ってしまえば、しばらくこの部屋には戻らない。机の上やベッドの周りを見回して、置き忘れたものがないか確かめる。
「……よし」
鞄を閉じ、持ち手を引き上げた。
最後に暖房を切り、窓と火元を確認する。玄関へ向かおうとしたところで、机に置いたスマートフォンが震えた。
母からだった。
『了解。気をつけて帰ってきてね』
短い返事を読んでから、千綴はスマートフォンを上着のポケットへしまった。
鍵を持ち、旅行鞄を引いて玄関を出る。
扉を閉めると、外の冷たい空気が頬に触れた。朝の日差しは明るいが、風は冷たい。上着の前を合わせ、鍵をかけてから階段へ向かう。
旅行鞄を持ち上げて階段を下り、地面へ降ろす。車輪が舗装の上を転がり始めた。
いつもの住宅街を抜け、丘平駅へ向かう。すれ違う人は厚手の上着を着込み、買い物袋を提げて歩く人もいた。冬休みのせいか、普段なら見かける制服姿は少ない。
千綴は鞄の持ち手を握り直した。
駅前の商店街を通り抜ける。まだ開いていない店もあるが、通りには人の姿があり、車がゆっくりと行き交っていた。
駅が近づくと、千綴は旅行鞄を引く手を替え、改札へ向かった。
新幹線へ乗り換える駅に着くと、千綴は人の流れに混ざって改札へ向かった。
頭上には発車時刻と行き先の表示が並んでいる。足元ではいくつものキャリーケースが音を立て、家族連れや大きな荷物を抱えた人たちが行き交っていた。
千綴は案内表示を見上げ、自分の乗る列車を確かめる。
発車まではまだ少し時間があった。
飲み物を買おうと売店へ向かうと、その隣に駅弁が並んでいた。昼食はまだ決めていなかったし、車内で食べるのもよさそうだ。
棚にはいくつもの弁当が並び、写真のついた包装が目を引く。肉を中心にしたものもあれば、魚や煮物の入ったものもある。千綴は一つずつ眺め、少し迷ってから焼き魚と煮物の入った弁当を手に取った。
飲み物も買い、袋を受け取ってホームへ上がる。
屋根の下に出ると、少し冷たい風が吹いていた。ホームにはすでに乗客が並んでいる。千綴も乗車位置を確かめ、その列の後ろへ並んだ。
やがて遠くから走行音が近づいてくる。白い車体がホームへ入り、ゆっくりと速度を落とした。
扉が開き、降りる人が一通り出てから、千綴も車内へ乗り込んだ。
指定された座席を見つけ、旅行鞄を収めて腰を下ろす。窓側の席だった。手荷物から飲み物とスマートフォンを出し、買った弁当の袋を座席の前へ置く。
上着の前を少し緩めると、暖房の効いた車内が思ったより暖かかった。
窓の外では、ホームを歩く人たちが行き来している。千綴は背もたれへ身体を預けた。
ほどなく案内放送が流れ、扉が閉まる。小さく振動が伝わったあと、列車はゆっくりと動き始めた。
ホームの柱が後ろへ流れていく。隣の線路に停まった車両を過ぎると、建物の並ぶ街が窓いっぱいに広がった。
到着まではまだ何時間もある。千綴はスマートフォンを開き、しばらく画面を眺めてから膝の上に伏せた。
長い飛行機の移動を終えたばかりなのに、また何時間も座っている。ただ、今日は窓の外が次々と変わるのを眺めているだけでも、あまり退屈しなかった。
いつの間にか高い建物が減り、住宅地の向こうに畑や低い山が見え始めていた。
雲は少なく、冬の青い空が広がっている。
千綴は窓へ少し顔を向けた。畑の土は乾いた色をしていて、ところどころに緑が残っている。遠くの山も、夏の頃とは違う落ち着いた色をしていた。
線路沿いの建物が増えたかと思うと、すぐにまた途切れる。遠くの景色はゆっくり動くのに、近くの電柱や柵だけが一瞬で通り過ぎていった。
しばらくして、千綴は足元の袋を持ち上げた。
朝食を食べてから時間も経っている。少し早い気もしたが、周囲でも弁当を広げる人が出始めていた。
包装を外して蓋を開けると、白いご飯の横に焼き魚があり、煮物や漬物が小さく仕切られていた。千綴は箸を取り、まずご飯を一口食べた。
冷めてはいるが、思ったよりおいしい。
魚をほぐして口へ運ぶ。しっかりした味付けで、ご飯が進んだ。
窓の外を見ながら食べていると、遠くに山並みが続いているのが見えた。雲の影が斜面へ落ち、列車が進むにつれて形を変えていく。
千綴は箸を止め、少しだけその景色を眺めた。
次に口へ運んだ煮物にも、しっかりと味が染みていた。
駅弁を買って正解だったかもしれない。
千綴は残りをゆっくり食べ、最後にお茶を一口飲んだ。空になった容器をまとめて袋へ戻し、手元を片づける。
袋を足元へ寄せ、背もたれに身体を預ける。しばらく車窓を眺めてから、千綴は目を閉じた。
列車の揺れが背中から伝わってくる。ときどき短い振動が混ざり、遠くで誰かが小声で話していた。
眠ろうと思ったわけではなかったが、しばらく目を閉じているうちに、少しだけ意識が遠のいた。
次に目を開けたとき、窓の外の景色は変わっていた。
遠くには山があり、その手前に街が広がっている。千綴は身体を起こし、スマートフォンで時刻を確かめた。
思っていたより時間が進んでいた。
残りの移動時間を確認すると、乗り換えまでにはもう少し余裕があった。
千綴は飲み物を手に取り、窓の外へ目を戻した。
新幹線を降りると、長く座っていた足が少し重かった。千綴は旅行鞄を引き、案内表示に従って特急のホームへ向かった。
乗り込んで窓側の席に落ち着く。ここからは故郷に近い駅まで、乗り換えずに行ける。
発車してしばらくは、住宅や店が続いていた。道路を走る車が窓の下を通り過ぎ、建物の間から遠くの山が覗く。町を離れると畑が現れ、途中の駅へ停まると、また家並みが続いた。
そのうち、窓の外がふっと明るくなった。
山と建物の間から、広い水面が見えた。
「あ、海」
それまで続いていた街並みの向こうに、青い海が広がっていた。
冬の日差しを受けた水面は、遠くでは深い青色をしている。岸に近いところは少し色が薄く、波の立ったところだけが白く光っていた。
千綴は窓へ顔を寄せた。
海は穏やかに見えたが、よく見ると細かな波がいくつも重なっている。日が当たる場所は銀色に輝き、列車が進むにつれてその光が水面を滑るように移動していった。
しばらくすると建物が間へ入り、海が見えなくなる。
千綴はもう少し見ていたかったが、窓の外には住宅の屋根が続いていた。
やがてまた視界が開ける。
今度は海岸沿いの道路が近くを走り、その向こうに波打ち際が見えた。岸へ寄せる波が細く白い線になっては消えていく。
千綴は遠ざかる海を目で追った。
列車は海沿いの区間を走り、少しずつ山の近くへ入っていく。右へ緩く曲がると車体がわずかに傾き、座席へ預けた身体にもその動きが伝わった。
千綴は膝の上に置いていた上着を畳み直した。
窓の外では、小さな集落が現れては後ろへ流れていく。家々の向こうに海が見えることもあれば、木々が続いてほとんど外の景色が見えなくなることもあった。
短いトンネルを抜けるたび、窓に映る自分の顔と外の明るさが入れ替わる。
千綴はそのたびに少し目を細め、また景色を追った。
しばらくして、海が見える区間は少なくなった。
山が近くなり、田畑の間を走る時間が増えてくる。家の数も少しずつ減り、窓の向こうには低い山並みが続いていた。
千綴はスマートフォンを取り出し、到着までの時間を確かめた。
もうそれほど遠くない。
旅行鞄を見下ろしてから、足元に置いた手荷物を引き寄せる。開いたままになっていたファスナーを閉じた。
窓の外では、午後の日差しが山の斜面に当たっている。
しばらく眺めていると、列車が緩やかに速度を落とし始めた。
次の停車駅を知らせる放送が流れる。
千綴は顔を上げた。
「あ、そろそろだ」
上着を羽織り、手元の荷物を確かめる。
列車が止まるのを待ちながら、千綴は窓の外を眺めた。
線路沿いの家々がゆっくりと近づいてくる。
見覚えのある山の形が、その向こうに見えた。
列車がホームへ滑り込むと、窓の外を流れていた景色がゆっくりと止まった。
千綴は座席から立ち上がり、鞄を取り出した。長く座っていたせいか、腰を伸ばすと背中が少し固まっている。肩に手荷物を掛け、前の乗客が通路を進むのを待ってから出口へ向かった。
扉の外へ出た途端、ひやりとした空気が顔に当たる。暖かな車内にいたせいで、思った以上に冷たく感じた。
小さなホームには、降りてきた人がまばらに歩いている。千綴は旅行鞄を引きながら駅舎の方へ向かった。すぐ近くには住宅の屋根が並び、その向こうに低い山が見える。乗ってきた列車が発車し、走行音が少しずつ遠ざかっていった。
改札口では、駅員が降りてきた人から切符を受け取っていた。千綴も切符を渡し、駅舎の外へ出る。
駅前の乗り場には、タクシーが一台停まっていた。道路の向こうには小さな店が並び、買い物袋を持った人が歩いている。
帰ってきた、というほど家の近くではない。それでも、この辺りまで来ると知っている景色が増えてくる。
千綴がタクシーへ近づくと、運転手が窓を開けた。
「すみません、乗れますか?」
「はい、どうぞ」
運転手が降りてきて旅行鞄を受け取った。千綴は後部座席に乗り、行き先を告げる。シートベルトを締めると、車はゆっくりと走り出した。
駅前の通りには店や住宅が続いている。信号で停まるたび、道路脇の歩行者や向かいの車が目に入った。年末だからだろうか、スーパーの駐車場には車が多い。
しばらく走ると、建物の間隔が広がってきた。道の片側には畑が現れ、家々の背後に山の斜面が見えるようになる。冬の畑には土の見えているところも多かったが、低い葉が並んでいる一角もあった。
やがて道は緩やかに曲がり、山の方へ向かい始めた。
町中で見かけた大きな建物はなくなり、道路に沿って家々が点々と続く。川に架かった橋を渡ると、窓の下に水面が見えた。浅いところでは石が透けて見え、日陰になった岸辺だけが暗い。
昔から通っていた道だ。車で走ることの方が多かったが、曲がり角や橋の位置はよく覚えている。久しぶりに見る景色なのに、次に何が現れるかは何となく分かる。
次の曲がり角を過ぎると、道の脇に木々の茂った斜面が迫ってきた。道路との間には石を積んだ壁が続いている。
千綴は口元を緩め、窓の外へ目を戻した。
山に入るにつれて、日の当たる場所と当たらない場所がはっきり分かれてきた。開けた場所では西寄りの日差しが畑を照らしているのに、木々の陰へ入ると道路の色まで冷たく見える。
道幅が狭くなり、ガードレールの向こうに斜面が落ち込んでいる。対向車が見えると、運転手は道の広いところで速度を落としてすれ違った。端に溜まった枯れ葉が、車の動きに合わせてふわりと舞う。
車は山裾に沿って進み、小さな集落を一つ通り抜けた。庭先に洗濯物を干している家があり、その先では道路脇の畑に人の姿が見えた。
千綴は少し目を凝らしたが、通り過ぎるまでの間に誰なのかは分からなかった。
それからしばらくして、見覚えのある家並みが近づいてきた。
数軒の家が少しずつ高さを変えて建ち、その間に畑や小さな作業小屋がある。屋根のすぐ後ろまで木々の茂った斜面が近づいていた。
千綴は家並みを目で追った。山側へ伸びる道が見えてくる。
タクシーが細い道へ入り、速度を落とす。
「この先でいいですか」
「はい。あの家の前でお願いします」
千綴が指した先には、古い木造の平屋があった。
車が家の前で停まる。料金を支払って降りると、運転手が後ろから旅行鞄を下ろしてくれた。
「ありがとうございました」
車を見送り、千綴はあらためて家の方を見た。
低く張り出した軒、日に焼けた木の壁、玄関へ続く短い通路。家の脇には畑があり、葉を広げた野菜が寒そうに並んでいる。
夏に帰ったときとは、周りの色がずいぶん違う。庭の土は乾き、山の木々も濃い緑ばかりではなくなっていた。それでも、玄関の位置も、横に置かれた道具の並びも、見慣れたままだ。
玄関を開けると、奥からテレビの音が聞こえてきた。
「ただいまー」
「おう、帰ったか」
「うん、今着いた」
千綴は靴を脱いで上がった。足元の板がかすかに鳴る。
玄関から続く廊下は、外より幾分暖かい。木の柱や建具は使い込まれた色をしていて、少し暗い廊下の奥に居間の明かりが見える。
旅行鞄を持ち直したとき、廊下の柱の下に細い傷が残っているのが見えた。小さい頃につけたものだ。普段は思い出しもしないのに、こうして通りかかると自然に目が向く。
鞄を廊下の邪魔にならないところへ寄せ、上着を脱ぐ。居間を覗くと、祖父がテレビの前に座っていた。千綴に顔を向けて頷く。
「先にお仏壇に挨拶してくるね」
「おう」
千綴は旅行鞄から家族へのお土産が入った紙袋を取り出した。仏壇の前に座って手を合わせ、紙袋をその脇へ置いた。
居間へ戻ると、祖父がこちらを向いた。
「茶でも飲むか」
「うん、お願い。先に手、洗ってくるね」
千綴は台所へ行き、蛇口をひねった。
「冷たっ」
指先を引っ込めかけたが、そのまま手を洗う。山から引いている水は、冬になると特に冷たい。
流しの脇には野菜の入った籠があり、長ねぎが何本かのぞいていた。根元にはまだ少し土が付いている。
祖父も台所へ入ってきて、お茶の用意を始めた。
「それ、畑の?」
「ああ。さっき抜いてきた」
「立派だね」
「持って帰るなら、帰るときに言えよ」
「まだ来たばっかりだよ」
祖父がお茶を注ぎ、二人で湯呑みを持って居間へ戻った。
千綴は座って湯呑みを両手で包む。湯気に少し顔を近づけると、指先がじんわりと温まった。
「お母さんは?」
「まだ仕事だ。帰りに買い物もしてくるだろ」
「そっか。じゃあ、着いたことだけ連絡しとこう」
千綴はスマートフォンを取り出した。
『無事に着いたよ。今おじいちゃんとお茶飲んでる』
送信してスマートフォンを置くと、祖父が湯呑みを持ち上げながら言った。
「向こうでも元気にしてるか」
「うん、変わらないよ」
「そうか。それならいい」
千綴も湯呑みに口をつけた。
祖父はテレビに視線を戻した。窓から入る日差しは畳の端まで届いている。千綴は湯呑みを置き、伸ばした足を少し曲げ直した。
何時間も電車に乗って、そのあと車に揺られてきた。座っている時間ばかりだったのに、こうして落ち着くと身体が重い。
「疲れたなら、少し休んどけ」
「うん。荷物だけ片づけてくる」
千綴は湯呑みを持って立ち上がった。
台所へ戻る途中、縁側の窓から畑が見えた。日に照らされた葉が風に揺れ、その向こうの山はもう少しずつ陰に入っている。
家の中へ戻ってきたのは夏以来だが、いつもの場所に物があるせいか、あまり久しぶりという感じはしなかった。
荷物を一通り片づけ終えた頃、玄関の開く音がした。
「ただいま」
聞き慣れた声に、千綴は部屋を出た。
「おかえり」
台所へ向かおうとしていた母が、振り向いて笑った。
「あ、千綴。もう落ち着いた?」
「うん。ちょうど片づけ終わったところ」
「ギリシャ、楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。移動が長かったから、まだちょっと眠いけどね」
「そう。お腹は空いてない?」
「新幹線でお弁当食べたから、今は大丈夫」
「じゃあ、夕飯まで少しゆっくりしてて」
母は買い物袋を台所の台へ置き、中身を取り出し始めた。肉の入ったパックや豆腐が並び、その横へ野菜が置かれる。
千綴はその様子を見てから、袖を少しまくった。
「何か手伝う?」
「いいの? じゃあ、野菜切ってもらおうかな」
「うん」
母がまな板を出し、千綴は冷蔵庫の横にある包丁を取った。
籠から持ってきた長ねぎを洗い、まな板に置いた。包丁を入れると、しゃく、と軽い音がした。
「このねぎ、おじいちゃんがさっき採ってきたんだって」
「そうよ。寒くてもよく畑に出てるの」
「帰るときにも持っていくかって、もう聞かれたよ」
「あら、気が早いね」
「ほんと。まだ着いたばっかりなのに」
母が笑い、千綴もつられて笑った。
切った長ねぎを皿へ移し、今度は白菜を手に取る。外側の葉をめくると、中の葉は淡い色をしていた。芯を落とし、食べやすい大きさに切っていく。
母はその横で鍋を用意し、肉のパックを開けていた。
千綴は最後の白菜を切り終え、包丁を置いた。皿を母の方へ渡すと、湯気の立ち始めた鍋からふわりと温かい匂いがした。
台所の窓はすっかり暗くなりかけている。つい先ほどまで明るかったはずなのに、山に囲まれたこの家では、日が隠れると暮れるのが早い。
「お父さん、もうすぐ帰る?」
「そろそろじゃないかな」
「そっか」
千綴は使った包丁とまな板を洗い、布巾で手を拭いた。
夕食の支度が進むうちに、外はすっかり暗くなった。
やがて玄関で戸の開く音がして、父の声がした。
「ただいま」
「おかえり」
千綴が台所から顔を出すと、父は上着を脱ぎながらこちらを見た。
「お、千綴。おかえり」
「ただいま。ちょうど夕飯の手伝いしてた」
「そうか。もうすぐ食べられそうだな」
父は上着を片づけ、手を洗いに向かった。
千綴は台所へ戻ると、母と一緒に食器を並べ始めた。
食卓へ鍋が運ばれ、湯気が上がる。白菜はすっかり柔らかくなり、長ねぎも熱で透き通っていた。取り皿に少しずつよそい、祖父にも声を掛けて席に着く。
「いただきます」
千綴は白菜を少し冷ましてから口に運んだ。柔らかく煮えた葉に、だしの味が染みている。
「うん、おいしい」
「よかった。味、薄くない?」
「ちょうどいいよ」
母は頷き、自分の取り皿にも白菜をよそった。
父が千綴の方へ顔を向けた。
「向こうでの生活はどうだ。学校もバイトも忙しいか?」
「忙しい日もあるけど、いつもどおりだよ。困ってることもないし」
父は頷き、湯呑みに口をつけた。
千綴がねぎを取ろうとすると、母が鍋を少し寄せてくれた。
「旅行の写真も撮ってきたんでしょ?」
「うん。ご飯のあとに見せるね」
食卓の上では鍋からまだ湯気が立っている。窓の外は真っ暗だが、部屋の中は暖かかった。
千綴は取り皿に残った具を食べ、空になった皿を持ち上げた。
「おかわり、取っていい?」
「もちろん。まだあるよ」
母に促され、千綴は鍋の方へ手を伸ばした。
夕食が終わり、食器を片づけてから、千綴はスマートフォンを持って居間へ戻った。
「写真、見る?」
「見せて見せて」
母が隣へ座り、父も湯呑みを手にこちらへ寄ってきた。祖父は少し離れたところに座ったままだったので、千綴はそちらからも見えるように画面を傾ける。
綾乃が送ってくれた写真の中から、アクロポリスで四人並んで撮った一枚を選んだ。白い石の柱を背に立つ自分の髪が、風で片側へ流れている。
「あら、千綴。髪、すごいことになってる」
「風が強かったんだよ。撮ったときは気づかなかったけど」
母が笑い、父も画面を覗き込んだ。
「ずいぶん大きな建物だな」
「近くで見上げるともっと大きいよ。そこまで階段を上っていくんだけど、上から街もよく見えた」
千綴は画面を滑らせ、夕方の街を高い場所から撮った写真を出した。屋根が遠くまで重なり、街の向こうまで建物が続いている。
「わあ、こんなに広いの」
「うん。見渡しても、まだ先があるくらいだった」
祖父も少し身を乗り出して画面を見た。千綴はしばらくその写真を見せてから、昼に食べた料理の一枚へ切り替える。
「こっちはご飯?」
「そう。街を歩いたあとに食べたやつ。おいしかったよ」
母は皿に並んだ料理を眺め、千綴へあれこれ尋ねた。千綴も覚えていることを答えながら、ほかの写真を何枚か見せていった。
ひと通り見せ終わる頃には、湯呑みのお茶もすっかり減っていた。
千綴はスマートフォンを置くと、仏壇の脇に置いた紙袋を取りに立った。
「そうだ。これ、お土産。向こうで買ったお菓子」
居間へ戻って母に差し出すと、父と祖父もそちらを見た。
「あら、ありがとう。あとでみんなでいただこうね」
「うん」
母は紙袋を受け取って座卓の端に置き、立ち上がった。
「明日は家の掃除もあるからね。手伝ってもらうよ」
「うん、そのつもり。お墓も行くんでしょ?」
「そうね。明日のうちに行っておきたいし」
「分かった」
千綴も湯呑みを持って台所へ向かった。洗って水切りかごに置き、居間の明かりを背に廊下へ出る。
奥からは父と祖父の話す声が聞こえていた。千綴はそれを聞きながら、荷物を置いた部屋へ戻った。




