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空の結び目  作者: 夕花


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- 54 -

 目を開けると、カーテンの隙間が明るくなっていた。


 千綴は枕元へ手を伸ばし、スマートフォンの画面を点ける。アラームが鳴るまで、まだ少しある。


 隣では、綾乃が顔の半分を枕へ埋めたまま眠っていた。


 千綴は音を立てないようベッドを抜け、カーテンを少し開ける。差し込んだ光の向こうで、窓の下を車が流れていった。


「……朝?」


 背後から声がした。


「おはよう」


「おはよう……何時?」


 千綴が時刻を答えると、綾乃はまた目を閉じた。


「二度寝しないでね」


「今、起きようと思ってた」


「目閉じてたけど」


「考えてただけ」


 そう言って身体を起こした綾乃の髪が、片側へ大きく跳ねていた。千綴は少し笑う。


「なに?」


「髪」


 綾乃が手をやる。


「……ほんとだ」


 洗面所で顔を洗って髪を整え、千綴が戻ると、綾乃もようやくベッドを出ていた。


「私も顔洗ってくるね」


「うん」


 入れ替わりに荷物をまとめ始め、充電器を外して洗面道具をしまい、手荷物の中も一度確かめてから、大きな鞄のファスナーを閉じた。


「ちづる、もう準備終わった?」


 戻ってきた綾乃が足を止める。


「うん」


「早い」


「綾乃もやった方がいいよ」


「分かってる。今やる」


 綾乃は自分の鞄の前へ座り込み、荷物をまとめ始めた。千綴もベッドの周りやテーブルを確かめたが、忘れ物はなさそうだった。


 しばらくして、綾乃の方からファスナーを閉じる音がした。


「できた」


「ちゃんと見た?」


「今から見る」


「じゃあまだじゃない」


「すぐ終わるから」


 綾乃はベッドの下を覗き、洗面所まで見て戻ってきた。


「今度こそ終わり」


「じゃあ行こっか」


「うん」


 回収に出す大きな鞄をまとめ、二人は手荷物だけを持って部屋を出た。廊下には、朝食へ向かう生徒が何人か歩いている。


「朝、何あるかな」


 綾乃が言った。


「昨日あれだけあったし、朝も期待していいんじゃない?」


「パンは食べたい。あとオムレツあったら嬉しい」


「もう決めてるじゃん」


「ホテルの朝ご飯って、そういうの考えるところから楽しいでしょ」


「それは分かる」


 二人で話しながらエレベーターへ向かった。


 先に待っていた生徒たちと一緒に乗り込み、階数表示が下がっていく。


 途中で扉が開いた。


「おはよう」


 悠司が乗ってくる。


「おはよう、悠司」


「守屋くん、おはよう」


「ああ、おはよう」


 扉が閉まる。


「今日はどっち回るんだ?」


 悠司が聞いた。


「最初は美ら海。昼は西海岸の方」


「俺たちも昼はそっちだな」


「じゃあ、どこかで会うかもね」


 千綴が言うと、悠司が頷いた。


「ありそうだな」


「見つけたら声かけるね」


 綾乃が笑う。


「こっちが先に見つけるかもしれないけどな」


 一階へ着き、扉が開く。ロビーには朝の光が入り、朝食会場へ向かう生徒たちが行き交っていた。


「あ、いた」


 悠司が少し先へ目を向ける。同じ班の生徒が数人集まっていた。


「じゃ、またあとで」


「うん、またね」


「守屋くん、また」


 悠司は片手を上げ、その輪へ向かった。千綴と綾乃はそのまま朝食会場へ入る。料理台を見た綾乃が、すぐに目を動かした。


「あ、オムレツある」


「ほんとだ」


「言ってみるもんだね」


「別に出してもらったわけじゃないでしょ」


 綾乃は笑いながら皿を取った。


 千綴も並び、目についたものから少しずつ選んでいく。朝から迷うくらいには種類があった。


 その途中、綾乃がふと奥の席へ視線を向けた。


「中村くん、もう食べてる」


 千綴もそちらを見る。ヴァシリオスが同室の生徒と話しながら、料理を取りに立つところだった。


「早いね」


「朝から元気そう」


 ヴァシリオスもこちらに気づき、軽く手を上げた。千綴たちも手を返してから、自分たちの席へ向かった。


「いただきます」


 綾乃はまずオムレツへ箸を入れた。


「おいしい」


「よかったね」


「ちづるも取ればよかったのに」


「あとで食べたくなったら取ってくる」


 千綴も自分の皿へ箸を伸ばして温かい料理を食べ、途中で気になったものをもう一度取りに行った。戻るところで、ヴァシリオスとすれ違う。


「おはよう」


「おはよう」


 ヴァシリオスは軽く笑い、料理台の方へ向かっていった。席へ戻ると、綾乃が千綴の皿を見る。


「それ何?」


「気になったから取ってみた」


「おいしい?」


「まだ食べてない」


「じゃあ感想待ち」


 千綴は一口食べる。


「うん、おいしい」


「じゃあ私もあとで取ってこよ」


 食べ終わる頃には、綾乃の前の皿もきれいに空いていた。二人で会場を出ると、ロビーのソファに環とヴァシリオスが座っていた。


「おはよう」


 千綴が声をかける。


「おはよ」


「おはよう」


 二人が返す。


「環、朝ご飯食べた?」


 綾乃が聞く。


「食べた」


 ヴァシリオスが立つのに続いて環も腰を上げ、四人で教師のいる方へ向かった。


 班ごとに確認を受けていて、千綴たちの前にも一組いる。順番が来ると、教師が四人を見回した。


「全員いるな。予定は変更なし?」


「はい」


「何か変えるときと、遅れそうなときは連絡すること。車も来てる。行っていいぞ」


「分かりました」


 四人で礼をして、その場を離れる。


 正面玄関の自動扉が開くと、朝の空気が入ってきた。


 玄関前には何台か車が停まっている。


 案内された車の前で、運転手が会釈した。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 千綴とヴァシリオスが中列へ、綾乃と環が後ろへ乗り込む。シートベルトを締めたところで、運転手が振り返った。


「最初は美ら海水族館ですね」


「はい、お願いします」


 車がゆっくり動き出す。ホテルを離れ、朝の那覇の街へ出る。


「やっと行けるな」


 ヴァシリオスが窓の外を見ながら言った。


「計画してたときから楽しみにしてたもんね」


 綾乃が返す。


「そりゃな。最初が水族館ってのもいい」


「上から見るやつ、忘れないでよ」


「忘れないって。綾乃が一番楽しみにしてるだろ」


「うん」


 返事が早い。千綴は笑った。


「そんなに楽しみなんだ」


「だって、同じ水槽でも上から見たら全然違うと思うんだよ。普段見られないし」


「それはちょっと分かる」


「だろ?」


 ヴァシリオスが頷く。


「俺は大水槽の方も気になるな。あの中を実際に泳いでるところ、ずっと見てられそうだ」


「そっちも楽しみなんだ」


「せっかく行くなら、見たいものは多い方がいいだろ」


 少しして、綾乃が昨日撮った写真をスマートフォンで開いた。


「昨日の夜、これ撮れてた」


 後ろの席から、スマートフォンを千綴たちの方へ差し出す。


 千綴は身体を少しひねり、画面を見る。


 宴会場で撮った一枚に、ヴァシリオスが横から目を向けた。


「俺、目閉じてないか?」


「閉じてる」


「なんでそれ残したんだよ」


「面白いから」


「消せとは言わないけど、送るなら別のやつにしてくれ」


「じゃあ両方送る」


「増やすな」


 綾乃が笑う。何枚か見せてもらってから、千綴は前へ向き直った。窓の外では建物の間が少しずつ空き、ところどころで空が大きく見えるようになっていた。


「昨日はすぐ寝た?」


 綾乃が環とヴァシリオスへ聞く。


「私は寝た」


 環が答える。


「俺も。少しスマホ見てから寝た」


 綾乃がスマートフォンをしまった。


 会話が途切れると、車内には道路を走る音が戻ってくる。


 千綴は窓の外へ目を向けた。


 少しずつ開けていく景色の先に、青い空が広がっている。


 しばらくして、運転手が前から声をかけた。


「もう少しで着きますよ」


 綾乃がすぐに窓の外を見る。


「どっち?」


「まだ見えないって」


 環が言う。


「分かってるけど」


 案内表示が見え、車が大きく曲がる。駐車場へ入ると、綾乃が今度こそ身を乗り出しかけた。


「あ、見えた」


 千綴もその先を見る。





 車を降りて少し歩くと、建物より先に、その向こうの海が目に入った。コンクリートの柱とガラス屋根の向こうまで視界が抜け、朝の光を受けた青が広がっている。


「ここからもう海見えるんだ」


 綾乃が言った。


「入口からもう景色いいな」


 ヴァシリオスも足を止めかけたが、前を歩いていた環はそのまま進んでいく。千綴も数歩進んだところで、後ろの足音が消えたことに気づいた。振り返ると、綾乃が少し離れたところでスマートフォンを構えている。


「綾乃、行くよ」


「今行く」


 入口と、その奥に見える海を一枚撮ってから、綾乃が小走りで追いついてきた。海人門(ウミンチュゲート)をくぐり、案内に沿って館内へ入る。外の明るさを背にしたまま、展示へ向かって下りていくと、最初の水槽が見えてきた。


「かわいい」


 綾乃がすぐに足を止めた。


 ガラスの向こうを、小さな魚の群れがまとまって動いている。


 綾乃はスマートフォンを構え、何度か角度を変えた。


「動くから難しい」


 何枚か撮ったあと、綾乃が画面を覗く。


「今の撮れたかも」


 少し笑ってもう一度水槽へスマートフォンを向ける綾乃の横を、千綴も通り過ぎかけたが、岩陰に一匹だけ群れから外れた魚を見つけて戻った。近づいて見ていると、環も隣で足を止めた。


 二人でしばらく見ていると、魚は岩の隙間から出て、また奥へ入った。環はその隙間をもう少しだけ見てから歩き出した。


 先では、綾乃が別の水槽の前で手を振っていた。


「ちづる、これ」


 千綴が近づくと、少し遅れてヴァシリオスも隣へ来た。水槽の底に、不思議な形の生き物がじっとしている。


「なにこれ」


「顔すごくない?」


 綾乃が笑いながら写真を撮る。


「かわいいって言ってたのに」


「これはこれで好き」


 ヴァシリオスも水槽を覗き込んだ。


「確かにずっと見てると面白いな」


「中村くんも好き?」


「こういう変わったのは嫌いじゃない」


 そのまましばらく見てから、四人で先へ進んだ。


 展示を下へたどるにつれて、水槽も少しずつ大きくなっていく。


 曲がった先で、視界が一気に青くなった。


 千綴は思わず足を緩める。


「……大きい」


 綾乃の声が隣から聞こえた。目の前いっぱいに水が広がっている。魚の群れが遠くを横切り、その奥からジンベエザメがゆっくり近づいてきた。


「来た」


 ヴァシリオスが一歩前へ出る。頭上近くまで伸びたガラスの向こうを、ジンベエザメが滑るように通っていく。


「これはしばらく見てたいな」


 綾乃がスマートフォンを構え、すぐに少し下げた。


「全体入らない」


「端まで遠いもんね」


 千綴も水槽の端から端へ視線を動かした。


 近くを泳ぐ魚と、その奥を通る魚。


 さらに遠いところにも、別の群れが見える。


 ジンベエザメが上へ向かう。


 その動きを追って顔を上げると、水面から落ちてくる光が揺れていた。


「ちづる、四人でも撮ろ」


 綾乃が言った。


「いいよ」


 近くにいた人へ頼み、四人で水槽を背に並ぶ。撮ってもらった写真を綾乃が確認する。


「いい感じ」


「水槽も入ってる?」


「うん。ちゃんと分かる」


 千綴も横から画面を見た。背後の青が、思っていたより広く写っている。


「あとで送って」


「もちろん」


 少し離れた場所へ移っても、ヴァシリオスは一度だけ振り返った。


「上から見ると、これがどう見えるんだろうな」


 綾乃がすぐに顔を上げる。


「それ、私も気になってる」


 予約の時間が近づいて係員に従い普段の順路から外れ、見学場所へ向かった。扉を抜けると、さっきまで正面に広がっていた水が、今度は足元にあった。


「……あ」


 千綴は足を止めた。水面が近い。下から見上げていた魚が、今は背中を見せながら水面のすぐ下を通っていく。


「すごい」


 綾乃が柵のそばまで進む。


「背中まで見える」


 ヴァシリオスも隣へ並び、水面を覗いた。


 千綴も少し遅れて近づく。


 ジンベエザメが真下を横切った。


 正面ではほとんど見えなかった背中の模様が、水面越しにははっきり見える。


「下から見たときの方が、大きく感じたかも」


 千綴が言った。


「こっちの方が近いのにね」


 綾乃が答える。


 千綴は水面へ目を戻した。そのすぐ先を、マンタがゆっくり横切る。


「あ、来た」


 綾乃の声に意識がそちらへ戻る。四人でその動きを追った。環は少し離れたところで、一匹の魚を長く目で追っている。


「環、それ気に入った?」


 千綴が聞く。


「うん。見てて飽きない」


 それだけ言って、また水面へ目を戻した。千綴も隣でしばらく見ていた。見学を終えて通常の順路へ戻ると、綾乃が振り返った。


「よかった」


「一番楽しみにしてたもんね」


 千綴が言う。


「うん。来てよかった」


 ヴァシリオスも満足そうに頷く。


 そのまま順路を進み、深い海の展示へ入った。


 照明が落ち、さっきまでの明るい青とは空気まで変わったように感じる。


 千綴の足が自然と遅くなる。


 暗い水の中に、見慣れない形の生き物が浮かんでいた。


「ちづる、こういうの好きそう」


 綾乃が横から言った。


「なんで?」


「ここ入ってから、見る時間長い」


「そう?」


「そう」


 言われてみれば、さっきから水槽と説明を何度も見比べている。派手ではないのに、妙に目が離せない。


「これとか」


 千綴が一つを指す。


「……ちょっと怖い」


 綾乃が少しだけ身を引いた。


「さっき変なのかわいいって言ってたのに」


「これは方向が違う」


「どう違うの?」


「なんか、顔が本気」


 ヴァシリオスが横から覗く。


「俺は好きだな。どうしてこんな形なのか気になる」


「中村くんも好きなんだ」


「面白いだろ、この形」


 綾乃がもう一度水槽へ目を向けた。環は少し先の展示の前で足を止めていた。三人が追いつくと、小さな生き物が水槽の底でほとんど動かずにいる。


「動かないね」


 千綴が言うと、環は一度だけ頷いた。四人で次の展示へ進んだ。


 水族館を出ると、その先にショップが続いていた。綾乃は入ってすぐ、小さなぬいぐるみの並ぶ棚へ足を向ける。


「これかわいい」


 手のひらほどのぬいぐるみを持ち上げる。


「顔、ちょっと間抜けじゃない?」


「そこがいいの」


 環はキーホルダーをいくつか手に取り、裏返して見ている。ヴァシリオスは少し離れた棚で足を止めた。


「これいいな」


 手にしていたのは、ジンベエザメの小さなキーホルダーだった。


「それにするの?」


 千綴が言う。


「ああ。今日見た中じゃ一番印象残ってるし」


 千綴も棚を見て回り、揃えるつもりはなかったが四人とも気に入った小物を一つずつ選んだ。自分の分を手にすると、千綴は別の棚へ目を向けた。


「悠司と鈴にも何か選んでく?」


「あ、いいね」


 綾乃が寄ってくる。


「エレディトにも?」


「うん。何か選ぼうか」


 ヴァシリオスも一緒に棚を見る。いくつか手に取って、誰にどれが合いそうかを話しながら選んだ。


 会計を済ませ、それぞれ買ったものを鞄へしまう中、綾乃だけは一度袋を覗いてから満足そうにファスナーを閉じた。四人はそのままショップを出た。





 さっきまで館内にいたぶん、外の光が少しまぶしかった。


 千綴は目を細める。


 駐車場へ戻る途中、綾乃は一度だけ後ろを振り返った。水族館の建物と、その向こうに見える海をスマートフォンへ収めてから、追いついてくる。


 車へ戻ると、行きと同じように千綴の隣へヴァシリオス、後ろへ綾乃と環が座った。


 走り出すと、千綴は窓の外へ目を向けた。


 建物の間を抜けるたびに、海が見えたり隠れたりする。


 やがて前方の景色が大きく開いた。


「見えてきた」


 ヴァシリオスの声に少し身を起こすと、道路の先がそのまま海へ伸びているように見えた。古宇利大橋(こうりおおはし)へ入った途端、左右の海が一気に近くなった。


「わあ」


 綾乃の声が後ろから上がる。水族館で見ていた青とは、同じ色には見えなかった。陽を受けた水面が細かく光り、その向こうまで視界を遮るものがない。千綴は窓に近づいた。


「すごいね、これ」


「橋の上まで来ると、また違うな」


 ヴァシリオスも外を見ている。


「うん」


 橋の上を進むほど、陸が後ろへ離れていく。後ろから、綾乃が何度かシャッターを切る音が聞こえた。


「窓、少し開けていいか?」


 ヴァシリオスが聞いた。


「私は平気」


 千綴が答えると、後ろから綾乃も「いいよ」と返した。


 ヴァシリオス側の窓が少し下がると、冷たい風が車内へ入り込んだ。


「冷たっ」


 後ろで綾乃が笑う。流れ込んだ風に千綴の髪先も揺れた。日差しの暖かさとは違って、海の上を渡ってきた空気には冬の冷たさが残っている。風の音に混じって、かすかに潮の匂いがした。千綴は髪を耳へ掛けながら、もう一度海を見る。


「このままでいいか?」


「うん」


 橋の先へ近づくまで、窓は少し開いたままだった。島へ渡ってからほどなく、車は海辺近くで停まった。外へ出ると、さっきより直接風が当たる。


「やっぱ外だと寒いね」


 綾乃が髪を押さえた。


「風が冷たいな」


 ヴァシリオスが海の方を見る。


 砂浜の向こうまで、水の色が明るい。


 千綴たちはそのまま古宇利ビーチへ下りた。


 靴の下で砂が沈む。


 波打ち際へ近づくにつれて、波の音がはっきりしてきた。


「ここで四人撮ろ」


 綾乃がスマートフォンを持ち上げる。少し後ろで待っていた運転手へ頼み、四人で海を背に並ぶ。風に髪を持っていかれそうになりながら、綾乃が笑った。


「ちょっと待って、髪」


「今さらじゃない?」


「写真に残るんだよ」


 千綴も自分の髪を押さえる。


「ありがとうございます」


 スマートフォンを受け取った綾乃が、すぐに四人へ画面を見せる。


「これいい」


 海も橋も入り、四人の髪が揃って風に流されていた。


「風すごいな」


 ヴァシリオスが笑う。


「こういうのも修学旅行っぽくていいかも」


 千綴はそう言って、もう一度写真を見る。綾乃がそのままグループチャットへ送った。少しして、画面上に既読が増える。


「あ、守屋くん見た」


 千綴もスマートフォンを開く。悠司から短い返信が来ていた。


『景色いいな』


 続けて、向こうの班で撮ったらしい写真が一枚送られてくる。綾乃も画面を覗き込む。


「こっちも後で何枚か送っとこ」


「水族館の分も、あとで選んで送るね」


 綾乃が自分のスマートフォンへ戻る。


 環は少し離れた波打ち際で、寄せては戻る水を見ていた。


 ヴァシリオスもそちらへ歩いていく。


 千綴はスマートフォンをしまい、二人の方へ向かった。


 車へ戻る頃には、靴の縁へ細かな砂が付いていた。


 四人とも乗り込む前に、足元の砂を軽く払った。


 島を離れ、西海岸の方へ向かう。


 今度は窓を閉めたまま、千綴は座席へ背を預けた。


 さっきまで外にいたせいか、車内の空気が少し暖かく感じる。


「腹減った」


 ヴァシリオスが言った。


「私もそろそろ」


 後ろから綾乃の声が返る。千綴も時計を見て、もう昼時が近いことに気づいた。


「次、予約してたカフェでお昼だよね?」


 綾乃が聞いた。


「うん」


 千綴は答えた。


 そこからしばらく、車内は静かになった。


 千綴は流れていく景色を眺める。


 やがて車は海沿いの道へ入り、速度を落とした。


 通りに面した建物の先に、海が見える。


 ほどなく車が停まった。


「着きましたよ」


 運転手の声に、四人はそれぞれ手荷物を持って車を降りた。


 店の入口は派手ではなく、落ち着いた色合いでまとめられていた。


 扉を開けると、外から見た印象より奥行きがある。


 木を使った家具の向こうには海が見え、その手前にテラス席が並んでいる。


「ここ、いいな」


 ヴァシリオスが小さく言った。


 店員に案内され、四人はテラスへ出た。


 古宇利で受けた風よりずっと穏やかで、日差しもある。


 千綴は海側の椅子を引いた。


 座ると、手すりの向こうに水面が広がった。


 テーブルの上へメニューが置かれる。


 表紙には、ViaCafe(ヴィアカフェ)と書かれていた。





 メニューを開くと、綾乃がすぐに身を乗り出した。


「これ気になる」


 指した先には、カマンベールチーズフォンデュ・デラックスとある。


「一人で食べるには多そうだな」


 ヴァシリオスが写真を見る。


「じゃあ、みんなで分ける?」


「いいんじゃない」


 環が答えた。


 千綴はページをめくり、大人のオムライスのところで手を止める。


「私はこれにしようかな」


「ちづる、オムライス?」


「うん」


 ヴァシリオスは自家製タンドリーチキンカレーを選ぶ。綾乃と環もそれぞれ自分の料理を決め、注文を終える。


 海から来る風が、メニューの端をわずかに揺らした。


「写真、ちょっと見よ」


 綾乃がスマートフォンを出した。


「水族館の?」


「それも。古宇利のも」


 画面を横向きにして、まず水族館の写真から見せていく。小さな魚や大水槽、上から見た水面に続いて、千綴たち四人で撮った一枚が出てきた。


「後ろの水槽、結構きれいに入ってる」


 千綴が言う。


「ほんとだ」


 次へ送ると、車内で撮られた写真が出てきた。


「これいつ撮ったの?」


 千綴が聞く。


「橋渡るちょっと前」


 綾乃が答える。


 千綴は窓の外を見ていて、ヴァシリオスも前を向いている。環だけが後ろでカメラを見ていた。


「西園寺さんだけ気づいてる」


 綾乃が笑って次へ送る。


 古宇利ビーチで撮った集合写真が出た。


 髪が風に流れ、四人とも少し顔をしかめながら笑っている。


「やっぱこれ好き」


 綾乃が言う。


「ちゃんと旅行って感じする」


 千綴も頷いた。そのとき、風に煽られた紙ナプキンが隣のテーブルから滑ってきた。ヴァシリオスが足元へ落ちる前に押さえる。


〔ありがとう〕


 隣のテーブルにいた若い客が手を伸ばした。


〔どういたしまして〕


 ヴァシリオスが渡すと、相手がそのまま笑って続けた。


〔観光で来てるの?〕


〔修学旅行。東京から来た〕


〔沖縄は初めて?〕


 今度の質問は、千綴にも聞き取れた。


〔初めて〕


〔どう?〕


 ヴァシリオスが海の方へ目を向ける。


〔楽しいよ。朝からいろいろ回ってる〕


〔帰りたくなくなるかもね〕


〔それは困る。学校あるし〕


 向こうのテーブルで笑いが起きた。千綴も意味が分かって、少し遅れて笑う。話しかけてきた相手が千綴たちへも軽く会釈し、綾乃が手を振り返した。さらに少し話したあと、相手が笑って手を上げる。


〔残りも楽しんで〕


〔ありがとう。そっちも〕


 ヴァシリオスも軽く手を上げて、席へ向き直った。


「普通に話してたね」


 綾乃が言う。


「話しやすい人だったしな」


 水を一口飲むヴァシリオスの横顔は、教室で話すときと少し違って見えた。さっきの会話も全部ではないが大まかな流れは追えた。少し前なら知らない言葉のところで止まっていた気がする。それでも、ヴァシリオスのように間を置かず自然に返せるまでは、まだ遠い。


 ちょうど料理が運ばれ、千綴の前にオムライス、ヴァシリオスの前にタンドリーチキンカレーが置かれた。綾乃と環の料理も続き、中央にはカマンベールチーズフォンデュが据えられた。


「これ、四人でちょうどよさそう」


 綾乃が中央の皿を見る。


「いただきます」


 千綴はスプーンで卵を崩し、その下から広がったソースと一緒に一口すくって食べた。


「おいしい」


「オムライスどう?」


 綾乃が聞く。


「ソースと卵が合う。これ好きかも」


 ヴァシリオスはすでにカレーを一口食べていた。


「これ当たりだな」


「辛い?」


「少し。でも食べやすい」


 環が具材を一つ取り、チーズへくぐらせる。綾乃も続いた。


 四人で分けながら食べる。


 伸びたチーズが途中で切れず、綾乃が少し困った顔をする。


「待って、長い」


「皿近づければ?」


 千綴が自分の皿をずらす。


「ありがと」


 どうにか落とさずに乗せて、綾乃が笑った。


「これおいしい」


「頼んでよかったね」


 食事の途中、隣のテーブルからまた笑い声が聞こえた。ヴァシリオスも一度だけそちらを見て、相手と目が合うと軽く手を上げる。それだけで、今度はすぐ自分の皿へ戻った。千綴も海へ目を向ける。テラスから見える水面は、午後の日差しを受けて穏やかに光っていた。


「次、アメリカンビレッジだよね」


 綾乃が言った。


「そう」


 ヴァシリオスが答える。


「着いたら、まずどこ行く?」


「それは向こうで見てから決めたい」


 綾乃がすぐに返す。


「店も景色も見たいし」


「私もそれでいい」


 千綴が言う。


 環も頷いた。


 綾乃が残っていた具材を一つ取り、チーズへくぐらせる。


 食事を終え、少しだけ休んでから席を立った。


 会計を済ませて外へ出ると、日差しは朝より少し高くなっていた。


 ヴァシリオスが先に車の方を見る。


「次行くか」


「うん」


 千綴は鞄を掛け直し、四人で車へ向かった。

2026/10/12 全体改訂

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