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振り返ると、公園の入口近くに一人の男が立っていた。
二十代の後半くらいだろうか。背は高い。薄手の上着に動きやすそうなパンツという、ひどく実用本位な格好をしている。休日に散歩へ来たようには見えないが、制服姿でもない。
千綴が男を見ている間に、隣の巴が半歩だけ前へ出た。
ほんの僅かな動きだった。
けれど、千綴と男の間へ自然に身体を入れたことにはすぐ気づいた。
「何か?」
巴が先に訊く。
男は足を止めたまま、二人を一度見た。
顔から手元へ、手元から足元へ。視線の動きは短く、必要なものだけを拾っていくようだった。そのあと、公園の奥へ目を向ける。
「失礼しました」
低い声だった。落ち着いていて、妙な圧はない。
「ここは先日の事件に関係する場所です。まだ確認が終わっていない箇所があります。できれば、長居はしない方がいい」
巴の表情が少し硬くなる。
「警察の方ですか?」
「ええ。広域の特殊事案を担当しています」
答えは簡潔だった。
千綴は、もう一度男を見る。
警察だと言われれば、そうなのかもしれない。
それでも、どこか引っかかった。
男が見ているものが、公園そのものではない気がした。
ベンチ。植え込み。濡れた地面。外へ続く道。
その一つ一つではなく、そこを誰かがどう通り、どこから入り、どこへ抜けたのか。そんなものを順に確かめているように見える。
その感覚に気づいて、千綴はわずかに眉を寄せた。
まただ。
最近、こういうことが増えた。
道を見ると、その先が気になる。人を見ると、どこから来たのかが妙に目につく。物を見ると、それがそこへ置かれるまでの動きが、以前より自然に意識へ入り込んでくる。
疲れているせいだ。
そう思うことにしていた。
男の視線が千綴へ戻った。
「体調は?」
唐突な問いに、千綴は一瞬答えを遅らせた。
「……私のこと、知ってるんですか」
「事件の関係者については、ある程度」
それ以上は言わなかった。
千綴も、すぐには聞き返さなかった。
公園へ来てから胸の奥に居座っていた重さが、少しだけ形を変える。
この男は、自分がここで何かに巻き込まれたことを知っている。
なら、何を知っているのか。
あの日、自分に何が起きたのか。
聞けば、何か分かるのかもしれない。
けれど、言葉はすぐには出なかった。
代わりに巴が訊いた。
「この子、まだ事件のことをほとんど思い出せてないんです。何か分かってるなら――」
「店長」
千綴は小さく呼んだ。
巴が振り返る。
責めるつもりはなかった。ただ、今ここで知らないことを一気に聞かされるのが、少し怖かった。
男も急かさなかった。
「無理に思い出す必要はありません」
淡々とした言い方だった。
慰めるような響きではない。
だからこそ、千綴には少し楽だった。
「今は、この場所から離れてください。必要な確認があれば、こちらから正式に連絡します」
「正式に、ね」
巴はまだ納得していない顔をしていたが、それ以上は食い下がらなかった。
千綴も頷く。
「分かりました」
男は短く頭を下げた。
そのまま二人の横を通り過ぎ、公園の奥へ向かっていく。
すれ違った瞬間、千綴は妙な感覚を覚えた。
男の足取りには迷いがない。
公園の中を知っているからではなく、見る場所が最初から決まっているような歩き方だった。
千綴は数歩進んでから、もう一度だけ振り返った。
男は植え込みの脇で足を止め、地面を見ていた。
何を探しているのかまでは分からない。
けれど。
あの人は、事件を見に来たんじゃない。
事件のあとに残った何かを、追っている。
そんな気がした。
公園を出てからもしばらく、千綴は後ろを振り返らなかった。
見ようと思えば、入口の向こうにあの男の姿がまだ見えたかもしれない。けれど、確かめる気にはならなかった。
代わりに意識へ入ってきたのは、隣を歩く巴の足音だった。
公園へ来るまでより、少しだけ速い。
「店長」
「ん?」
「怒ってます?」
「誰に」
「……あの人に」
巴はすぐには答えなかった。
住宅街へ続く道を曲がり、日差しの残る歩道へ出る。夏の午後はまだ明るかったが、建物の影は朝よりずっと長くなっていた。
「警察だって言うなら、もう少し警察らしくしてほしいとは思ってる」
「それはちょっと分かります」
「でしょ」
そこで巴は息を吐いた。
「まあ、あんたに無理やり何か聞こうとしなかっただけマシかな」
千綴は小さく頷く。
聞きたいことはあった。
あの男が事件をどこまで知っているのか。自分が公園で何に遭ったのか。どうして鞄も傘も置き去りにしたまま帰宅できたのか。
今までなら、分からないものをそのままにしておく方が落ち着かなかったはずだ。
それなのに今は、知りたい気持ちと同じくらい、知るのが怖い。
そのことが、千綴には少し悔しかった。
「……店長」
「今度は何」
「私、面倒くさいですね」
「知ってる」
「即答します?」
「十代なんて大体そんなもんでしょ」
巴の口調はいつも通りだった。
それだけで、胸の奥に引っかかっていたものが少し緩む。
公園から離れるほど、街は普通の顔へ戻っていった。
自転車で通り過ぎる学生。軒先へ打ち水をする家。買い物袋を提げて歩く人。遠くで鳴く蝉。交差点を曲がっていく車。
誰も、千綴が二日前にあの公園で何を失ったのか知らない。
千綴自身ですら、まだ知らない。
それでも道は続いていて、人はそれぞれの場所へ帰っていく。
その当たり前の流れを眺めながら歩いているうちに、千綴はようやく肩の力を抜いた。
巴の家へ戻ると、玄関を上がるなり腹が鳴った。
自分でも驚くほど分かりやすい音だった。
巴が振り返る。
千綴は目を逸らした。
「……聞かなかったことにしてください」
「無理」
「ですよね」
「そういえば、まともに昼食べてなかったわ」
警察署へ行き、そのまま公園へ寄った。途中で何か口に入れるという話も出なかったわけではないが、千綴自身があまり食欲を感じていなかった。
それが家へ戻った途端に思い出したらしい。
「何か作る?」
「いや、軽くでいいです。私やりますよ」
「あんたは座ってなさい」
「もうだいぶ平気ですって」
「病院で安静にしろって言われた人間の『平気』は信用しないことにしてる」
「それ昨日の話ですよね」
「昨日でも一昨日でも同じ」
押し問答の末、千綴が湯を沸かし、巴が冷蔵庫から残り物を出すことで決着した。
食卓へ並んだのは、冷やしてあった麦茶と、小さめのおにぎり、それに昨夜の惣菜を温め直したものだった。
遅い昼食というより、早すぎる間食に近い。
それでも空腹だった身体には十分だった。
千綴は二つ目のおにぎりへ手を伸ばしながら、向かいの巴を見る。
「店、今日はどうするんです?」
巴の箸が止まった。
「……閉めたままでもいいんだけどね」
そう言いながらも、声音には迷いがあった。
丘平商店は大きな店ではない。
だからこそ、毎日そこを頼りにしている客がいる。飲み物や食品だけなら他でも買えるが、年配の客の中には歩いて行ける場所がそこしかない人もいた。
「夕方から少しだけ開けようかと思ってる」
「じゃあ手伝います」
「そう言うと思った」
「一人にする気ないでしょう」
「ないね」
「なら同じじゃないですか」
巴はしばらく千綴を見たあと、諦めたように肩を落とした。
「無理したら即上がりだから」
「了解です」
「重い物は持たない」
「はい」
「店番中に勝手にどっか行かない」
「子ども扱いしてません?」
「今のあんたは保護対象」
「高校二年なんですけど」
「事件に巻き込まれて二日で一人前扱いに戻してもらえると思うな」
反論しようとして、千綴は口を閉じた。
そこまで言われると分が悪い。
巴は満足そうに麦茶を飲んだ。
丘平商店は、巴の家からそう離れていない。
二人で店へ向かう頃には、陽射しの色がわずかに柔らかくなっていた。
閉じたシャッターの前に立つと、千綴は妙な懐かしさを覚えた。
ほんの数日前まで、ここで普通に働いていた。
レジを打って、飲料を補充して、顔なじみの客に声を掛けられて。
その時間が、ずっと昔のことのようにも思える。
「開けるよ」
巴の声で、千綴は我に返った。
「はい」
二人で店頭を整えていく。
シャッターを上げ、営業札を表へ返す。入口脇へ出していた商品の位置を確認し、冷蔵ケースの温度を見る。
千綴はいつもの癖で飲料棚へ向かいかけ、巴に肩を掴まれた。
「重いの禁止って言ったよね」
「まだ何も持ってないです」
「持つ顔してた」
「どんな顔ですか、それ」
「いつもの顔」
仕方なく、千綴はレジ周りの整理へ回った。
釣銭。袋。レシート用紙。カウンター脇の小さな菓子棚。
どこに何があるか、身体が覚えている。
ひとつずつ確認していくうちに、胸の奥へ残っていた公園のざらつきが、店の手順に少しずつ押し流されていった。
店の奥では、巴が冷蔵庫の扉を開け閉めしている。
ラジオの電源を入れると、少し古い夏の曲が流れ始めた。
聞き覚えのあるイントロに、千綴は思わず笑う。
「これ、またですか」
「夏なんだからいいでしょ」
「先週も聞きましたよ」
「名曲は何回流れても名曲なの」
いつものやり取りだった。
店先の向こうには、まだ明るい丘平の街がある。
公園も、あの男も、思い出せない記憶も消えたわけではない。
それでも今は、レジ台の上へ差し込む西日と、ラジオから流れる歌と、奥で作業をする巴の気配の方が近かった。
千綴はエプロンの紐を結び直す。
「店長、こっち準備できました」
「じゃあ開けるよ」
「はい」
入口の向こうで、人の足音が近づいてきた。
見つけた。
公園の中に、あの日、自分が殺したはずの少女がいる。
立ち、歩き、隣の女と言葉を交わしている。遠目にも分かるほど、その動きには生きている人間の重さがあった。
男の胃の奥が冷えた。
指先が冷える。
あの夜と同じだった。
理解できない。
その感覚を、二日のあいだ違う言葉で塗り替えようとしていた。
驚いただけだ。
状況を整理するため、距離を取っただけだ。
だが違う。
逃げた。
自分は、あの少女から逃げた。
屈辱だった。
それだけなら、別の相手を探せばよかった。
なのに、次を探す気になれない。
あの少女が残っている。
それが、どうしても気に入らない。
完成したはずのものが、勝手に元へ戻った。
そんなはずはない。
ならば、もう一度やればいい。
今度は途中で目を離さない。呼吸が止まった程度では終わりにしない。
男は手を握った。
爪が掌へ食い込むまで。
「違う」
声に出した途端、震えが少しだけ収まった。
身体の奥には、渇きも戻っていた。
新しい誰かでは駄目だった。
まず、あれを終わらせる。
男の中では、いつの間にかそう決まっていた。
男自身は、公園のすぐそばにはいなかった。
近くの電線には、一羽のカラスが止まっている。
先ほどから同じ場所を離れず、時折、公園の中へ首を向けていた。餌を探し、周囲を警戒する。その単純な動きへ少しだけ方向を与えておけば、離れた場所からでも少女たちの位置を確かめる助けにはなる。
それで十分だった。
少女の隣には、年上の女がいる。あの日のあと、少女を保護した人間だろう。
二人だけなら問題はない。
だが、もう一人いた。
公園の入口近くに立つ男。
薄手の上着。無駄のない姿勢。周囲を見る目。
男は少女たちへ声を掛け、しばらく話したあと、公園の外へ送り出した。
そして一人で奥へ戻ってくる。
歩き方に迷いがない。
何かを探している。
男は植え込みの脇で一度しゃがみ、地面を確認した。それから立ち上がり、視線を巡らせる。
ふと、その目が電線で止まった。
カラスがいる場所だった。
こちらを見たわけではない。
そう思ったのに、背中を冷たいものが走る。
長い。
視線が、ほんの少し長すぎた。
男はすぐにカラスへの干渉を切った。
鳥は我に返ったように翼を広げ、慌ただしく電線を離れていく。
公園の男は追わなかった。
ただ、その飛び去る方向を一度だけ目で追った。
それだけで十分だった。
気づいた。
どこまでかは分からない。
だが、ただの警察ではない。
男は舌打ちした。
今ここで仕掛ける必要はない。欲望に従うことと、愚かになることは別だ。強い者と正面から争う理由もない。
弱い者を支配し、自分の下へ置く。
それが自然だ。
それが正しい。
ならば、待てばいい。
少女たちを追うこと自体は難しくなかった。
一羽を長く使う必要はない。住宅街には鳥もいれば、路地へ入り込む犬もいる。少女たちが進む先を確かめるだけなら、それで足りる。
交差点の手前で一羽を離す。
少し先で、別の鳥の動きを借りる。
地上では、道端にいた野良犬が少女たちの残した匂いへ鼻を向けた。少しだけ興味をそちらへ寄せると、犬は自然に歩き出す。
人間より扱いやすい。
それだけだった。
人間は、同じ恐怖を与えても同じ動きをしない。
逃げる者もいる。
怒る者もいる。
死にたくないはずなのに、他人を庇う者もいる。
あの少女のように。
男はそこで思考を切った。
その記憶は、まだ不愉快だった。
やがて、少女たちは一軒の建物へ入った。
住宅街の中にある、古い商店だった。
しばらくすると、閉じていたシャッターが上がる。
年上の女が店先へ出て、そのあとに少女も続いた。商品を動かし、レジ周りを整え、互いに言葉を交わしている。
迷いのない動きだった。
何度も繰り返してきたのだろう。
学校でも、自宅でもない。
それでも、少女が自然に振る舞える場所。
あの少女の日常。
男は遠くから店の出入りを見た。
良い。
ここなら逃げにくい。
しかも、あの女がいる。
先に女を止めればいい。
少女の前で、自分が何をできるのかもう一度見せる。それから、最初からやり直す。
手。
足。
胴。
頭。
順番は変えない。
一つ前が自分のものになったことを確かめてから、次へ進む。急ぐ必要はない。むしろ急げば、余計な抵抗を残す。
あの夜は最後まで終えたはずだった。
だからこそ、今度はその「はず」を残さない。
少女が何も返せなくなるまで。
自分の理解の外へ、二度と戻ってこられなくなるまで。
男は店へ近づかなかった。
まだ早い。
人の出入りがある。
一般人がいること自体は障害にならない。だが、余計な目が多ければ動きにくい。何より、公園にいた男が近くを警戒している可能性も残っている。
急ぐ必要はない。
少女がここにいる。
生活圏も分かった。
なら、待てばいい。
客が一人、また一人と店へ入っていく。
普通の店だった。
普通の時間だった。
だからこそ、そこへ自分が入ったとき、何が壊れるのかも分かりやすい。
男は静かに待った。
陽が落ちるまで。
客が減るまで。
店が閉まるまで。
今度こそ、自分が恐れる必要などなかったのだと証明するために。
営業を始めてしまえば、店は思ったよりもいつも通りだった。
最初に来たのは、近所に住む年配の女性だった。
「あら、今日は開いてたのね」
「夕方だけね」
巴がそう返すと、女性は棚から牛乳と食パンを取り、ついでのように千綴を見た。
「ちづるちゃん、もう大丈夫なの?」
千綴は一瞬だけ言葉に詰まった。
事件のことが、どこまでこの辺りに伝わっているのか分からない。
「はい。だいぶ」
「無理しちゃ駄目よ」
「ありがとうございます」
それ以上は聞かれなかった。
女性は会計を済ませると、巴に「ちゃんと休ませなさいよ」と念を押して帰っていった。
「ほらね」
巴が言う。
「何がです?」
「地域の監視網」
「店長含めてですよね、それ」
「私は管理側」
「一番厳しいやつじゃないですか」
そんなやり取りをしているうちに、次の客が来た。
飲み物だけを買っていく人。
夕食用の調味料を探す人。
いつもの菓子を一つだけ買っていく学生。
短時間営業だと知って立ち寄ったのか、思っていたより人の出入りはあった。
千綴はレジに立ち、袋を開き、釣銭を渡す。
身体は覚えている。
声を掛けられれば返し、商品を探している人がいれば場所を案内する。
その一つ一つを繰り返しているうちに、公園で感じていた重さは少しずつ遠のいていった。
誰かが店へ入ってくる。
必要なものを選び、代金を払い、それぞれの家へ帰っていく。
当たり前の流れだった。
以前なら、ただの仕事として見ていたはずなのに。
今日は妙に、客と手に取った物の組み合わせが意識へ残る。
いつも牛乳を買う女性は、今日も同じ棚へ迷わず手を伸ばした。菓子を一つだけ買った学生は、会計を終えると見慣れた住宅街の方へ歩いていく。調味料を探していた客も、棚の前を二度行き来したあと、ようやく目当ての一本を選んだ。
人と物。
店と客。
そこへ来るまでの道と、帰っていく方向。
以前なら背景へ流れていたはずのものが、今日は妙にひとまとまりに感じられる。
千綴は一度だけ首を振った。
まただ。
疲れているだけだ。
そういうことにしておく。
「ぼーっとしてるなら上がる?」
奥から巴の声が飛んできた。
「してません」
「今してた」
「考え事です」
「余計駄目じゃない」
「なんでですか」
巴は笑いながら、空いた棚へ商品を補充していく。
千綴もつられて笑った。
ラジオからは、さっきとは別の曲が流れていた。
どこかで聞いたことのある歌だったが、題名までは思い出せない。
店の外はまだ明るい。
けれど、陽は確実に傾いていた。
ガラス越しに差し込む光が、少しずつ床の奥へ伸びていく。
客足が落ち着き始めた頃、巴が時計を見た。
「そろそろ閉めようか」
「もうです?」
「短時間営業って言ったでしょ」
「まだ全然働いた感じしないです」
「それでいいの」
巴は迷いなく言った。
「今日は店を開けられた。それで十分」
千綴は少しだけ黙った。
店を開けられた。
その言い方が、妙に胸に残った。
いつもなら、開いていて当たり前の店。
自分もここに立っていて当たり前だった。
けれど今は、それが少し違って見える。
「……はい」
千綴は短く答えた。
最後に入ってきた二人組の客が、飲み物を買って帰っていく。
入れ替わるように、外の音が少なくなった。
昼間より蝉の声も遠い。
店の前を通る車の数も減っている。
「店長、外やります?」
「お願い。私は中見るから」
「了解です」
千綴は店先へ出た。
営業札を裏返す。
店頭へ出していた小さな籠や箱を中へ戻し、入口脇を軽く整える。
シャッターはまだ下ろさない。
客が残っていないか確認してからだ。
店内へ戻ると、巴はレジ周りを片づけていた。
「こっち終わりました」
「じゃあ、奥の段ボールまとめてもらえる?」
「はい」
千綴は店の奥へ向かう。
畳んであった段ボールを重ね、紐を探す。
いつもの閉店作業。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
背後では巴が店内を回っている。
棚の位置を確認し、消し忘れがないかを見る。
入口近くで足音が止まった。
「すみません」
巴の声がした。
客がまだいたらしい。
千綴は段ボールを持ち上げかけて、やめた。
重い物は禁止。
言われたばかりだ。
仕方なく一枚ずつ運ぶことにする。
「もう閉めるところなんですけど」
巴の声が続く。
返事は聞こえなかった。
千綴は手を止めた。
少しだけ間が空く。
「お客さん?」
今度は、さっきより近い声だった。
やはり返事がない。
千綴は顔を上げた。
店内は静かだった。
ラジオだけが、変わらず音楽を流している。
それまで気にならなかった音が、急に大きく感じられた。
「店長?」
千綴は奥から声を掛けた。
返事はない。
胸の奥が、わずかにざわついた。
千綴は手にしていた段ボールを置いた。
店頭の方へ、一歩踏み出した。
2026/08/10 反芻している表現を整理




