- 4 -
目を開けると、天井に白い光が広がっていた。
薄いカーテン越しの日差しが、朝よりも高いところから部屋へ差し込んでいる。
千綴はしばらく、その明るさを見つめていた。
見慣れない天井。
けれど、今度はどこにいるのか分かった。
巴の家だ。
朝、一度ここで目を覚ました。
台所へ出て、巴の作ったおかゆを少し食べた。昨日のことを聞き、鞄とスマートフォンと傘が公園で見つかったことを知った。
それから、また眠った。
そこまで思い出して、千綴はゆっくり息を吐いた。
眠ったというより、身体が勝手に意識を手放したような感覚だった。
どれくらい経ったのかは分からない。
枕元へ手を伸ばしかけ、スマートフォンがないことを思い出す。
手だけが、何もない場所で止まった。
昨日の公園に残されていた。
自分が覚えていない場所に。
千綴は手を引き戻し、毛布の上で指を握った。
曲がる。
開く。
手首も、肘も、肩も動く。
身体を起こすと、わずかな重さはあったが、朝よりも足元はしっかりしていた。頭痛もない。吐き気もない。どこかが痛むこともなかった。
何もないことが、かえって落ち着かなかった。
公園から自宅までの記憶は戻っていない。
暗がりに誰かがいた。
細いものが光った。
手が動かなくなった。
そこから先は、考えようとするたびに形を失う。
無理に思い出さなくていい。
朝、巴はそう言った。
けれど、思い出そうとしなくても、空白がなくなるわけではない。
千綴は毛布を退け、床へ足を下ろした。
部屋の外は静かだった。
耳を澄ますと、遠くで車の走る音がする。エアコンの低い運転音。その向こうから、ときおり食器の触れ合う音が聞こえた。
巴は起きているらしい。
立ち上がり、扉を開ける。
台所のテーブルには書類とメモ帳が広げられていた。巴はその前に座り、スマートフォンを耳から離したところだった。
千綴に気づくと、画面を伏せて立ち上がる。
「起きた?」
「うん」
巴は千綴の顔を見たあと、壁際の時計へ目を向けた。
「思ったより眠ったね」
「今、何時?」
「もう昼過ぎ」
朝からかなり時間が経っていたらしい。
それでも、長く眠った実感はなかった。
「気分は?」
「大丈夫」
「頭痛」
「ない」
「吐き気は」
「ない」
「身体、痛いところは?」
千綴は腕を動かし、肩を回した。
「ないと思う」
巴の目が少し細くなる。
「思う、じゃなくて」
「ない」
「記憶は?」
最後の問いだけ、声がわずかに低くなった。
千綴は答える前に、視線を落とした。
朝から何度か確かめた。
眠れば戻るかもしれないと思っていた。
けれど、残っているものは変わらない。
「戻ってない」
「公園から?」
「うん」
「部屋の前にいたところまでも?」
「そこは少しだけ。店長に名前を呼ばれたのは覚えてる」
「その前は」
千綴は首を横に振った。
巴はそれ以上聞かなかった。
「分かった」
短く答え、テーブルの書類を揃える。
「病院、午後から診てもらえることになったから」
「もう予約したの?」
「予約っていうより、事情を話して受け入れてもらった。少し待つかもしれないけど」
書類の上には、病院名の印刷された紙と、千綴の名前が書かれたメモがあった。
学校や警察にも連絡したのだろう。
巴のスマートフォンには、伏せられた画面の端から新しい通知が一つだけ見えていた。
「学校は?」
「今日は短縮授業。千綴は休みで話を通してる」
「でも、生徒会の仕事が」
「悠司たちがいる」
「昨日の対応も途中で――」
「千綴」
名前を呼ばれ、言葉が止まった。
巴は怒ってはいなかった。
ただ、反論を許さない顔をしていた。
「今は、自分の心配をして」
「……してる」
「してないから言ってるの」
千綴は返せなかった。
巴は小さく息を吐き、テーブルの端に置いてあったコップへ水を注いだ。
「病院へ行くまで、何か食べられそうなら食べて。無理なら水だけでもいい」
「店は?」
「今日は休む」
「私のせいで?」
「違う」
答えは早かった。
「私が休むって決めたの。店のことはどうにでもなる」
巴はコップを千綴の前へ置いた。
「千綴の代わりはないから」
千綴はコップへ手を伸ばした。
冷たい水が喉を通る。
身体は確かに戻ってきている。
眠れば目が覚める。
水を飲めば、冷たいと感じる。
呼吸も、手足も、何一つおかしくない。
それでも、自分の昨日だけが途中で切れていた。
千綴はコップを両手で包み、窓へ目を向けた。
カーテンの隙間には、雲のない青空が見えた。
昨日の雨が嘘のように、明るかった。
病院の待合室は、広さのわりに静かだった。
受付や案内を済ませたあと、千綴と巴は診察室の並ぶ一角へ通されていた。正面の壁には診療科ごとの表示が並び、その下を看護師や患者が行き来している。空調の効いた室内は涼しかったが、薄手の羽織り越しにも冷気が残った。
巴は隣に座ったまま、無理に話しかけてはこなかった。
膝の上には受付でもらった書類があり、ときどき目を落としている。それでも、千綴が少し姿勢を変えるたび、視線だけはこちらへ向いた。
千綴は両手を膝の上で重ねた。
学校で臨時下校の対応に残ったことは覚えている。悠司と途中まで一緒に帰り、巴との合流場所へ向かったことも。その先、公園の近くで足を止めたところまでは、ぼんやりとつながっていた。
けれど、そこから自宅前で巴に見つけられるまでがない。
持ち物は公園に残されていた。自分だけがそこから離れ、部屋の前まで戻っていた。
歩いたのかもしれない。
誰かと話したのかもしれない。
誰かに運ばれたのかもしれない。
そのどれも、自分には分からなかった。
思い出せないことよりも、その時間に身体だけが動いていたかもしれないことの方が怖かった。自分の意思で歩いたのか、それとも何も分からないまま動かされていたのか。その間、自分が何をしていたのかさえ確かめられない。
千綴は息を吐き、正面へ視線を戻した。
少し離れた席で、年配の男性が椅子に立てかけていた杖を倒しかける。隣の女性が手を伸ばし、音を立てる前に受け止めた。
受付近くでは、一人の男性が鞄の中を探している。その足元には番号票が一枚落ちていた。
普段なら気に留めないようなことが、今日は妙に目についた。
千綴は小さく眉を寄せる。
「気分悪い?」
巴の声に、千綴は顔を上げた。
「ううん。ちょっと疲れただけ」
「無理してない?」
「してないよ」
そう答え、千綴は背もたれへ身体を預けた。
ただ落ち着かないだけだ。
昨日のことを何度も考え、病院まで来て、これから診察を受ける。周囲のことばかり気になるのも、そのせいだろう。
「弥生千綴さん」
名前を呼ばれ、巴が先に立ち上がった。
「行こう」
「うん」
千綴も腰を上げ、診察室へ向かった。
問診では、覚えている範囲を順に説明した。学校を出たこと。途中まで友人と一緒だったこと。公園の近くまで行ったこと。その先が抜け落ちていること。
医師は何度か確認しながら話を聞き、必要な検査を指示した。
その後は、別の部屋へ移り、いくつかの検査を受けた。頭部の確認や身体の反応、簡単な受け答え。何度も同じような質問をされ、千綴はそのたびに、分からないものは分からないと答えた。
検査が終わる頃には、身体よりも頭の方が疲れていた。
再び診察室へ戻ると、医師は画面と手元の資料を見比べながら、淡々と説明した。
「現時点では、明確な外傷は確認できません。脳や身体にも、目立った異常は見つかっていません」
隣で巴の息がわずかに緩んだ。
千綴も安心するべきだと思った。
けれど、その言葉は、空白の時間を埋めてはくれなかった。
「記憶については、強い心労や疲労によって、一時的に抜け落ちることがあります。時間が経って戻る可能性もありますが、無理に思い出そうとしないでください」
「戻らないこともありますか」
千綴が尋ねると、医師は少し間を置いた。
「可能性としてはあります。ただ、今の段階で断定はできません。まずは数日、できるだけ安静にしてください」
さらに、頭痛や吐き気、意識がぼんやりする症状が出た場合は、すぐに再受診するよう説明された。
巴は一つずつ確認し、必要なことを聞いていた。千綴はその横で、医師の言葉を頭の中へ並べ直す。
身体に異常はない。
一時的な記憶障害かもしれない。
時間が経てば戻る可能性がある。
無理に思い出してはいけない。
どれも間違ってはいないのだろう。
それでも、自分がどうやって公園から離れたのかという問いだけは残ったままだった。
診察を終え、会計までの手続きを済ませる頃には、窓から差し込む光が少し傾いていた。
自動扉を抜けた瞬間、熱を含んだ空気が全身を包んだ。
病院の中に長くいたせいか、外の音と光が一度に押し寄せてくる。車道を走る車。信号を待つ人の話し声。駐車場から歩道へ出ようとする自転車。遠くで鳴ったベルに反応し、道を空ける人の動き。
千綴は足を止めた。
目に入ったものが、それぞれ別々の景色としてではなく、ひと続きの流れとして意識へ入ってきた。
横断歩道へ向かう人の列。前の車が途切れるのを待つ、駐車場出口の車。その先で商店街へ続く道と、そこから反対側へ身体を向けている巴。
街路樹の影を避けて歩く人。
建物の入口を探して足を緩める人。
手にした紙袋を、隣を歩く相手へ渡そうとしている人。
誰がどこから来て、どこへ向かい、何と何がつながっているのか。
考えようとしていないのに、次々と形になって頭へ入ってくる。
情報が多すぎた。
千綴は目を細め、こめかみに指を当てた。
検査で疲れたせいだ。
同じ質問を繰り返され、白い部屋をいくつも移動し、長い説明を聞いた。病院の静かな空間から急に外へ出たから、音も光も人の動きも、普段より強く感じているだけだ。
そう考えれば、おかしくはない。
千綴は小さく息を吐き、時刻を確かめようと羽織りのポケットへ手を入れかけた。
そこで、スマートフォンがまだ手元にないことを思い出す。
指先が空のポケットに触れ、そのまま止まった。
「どうした?」
少し先を歩いていた巴が振り返る。
「何でもない。時間、気になっただけ」
「まだ明るいけど、結構かかったね」
「うん」
千綴は巴の隣へ追いついた。
身体には異常がない。
医師はそう言った。
けれど、病院を出たあとの世界は、以前より少しだけ多くのものがつながって見える気がした。
帰り道の途中で、巴は幹線道路沿いのスーパーへ車を入れた。
夕方の駐車場は、出ていく車と空いた場所を探す車でゆっくり動いていた。入口に近い区画はほとんど埋まり、買い物袋を提げた人たちが車の間を縫うように歩いている。
巴は少し離れた場所へ車を停め、エンジンを切った。
「夕飯の材料だけ買ってくるけど、どうする?」
「どうするって?」
「一緒に来るか、ここで待ってるか」
千綴はフロントガラスの向こうへ目を向けた。
店の入口では、自動扉が開くたびに人の姿が入れ替わっている。子どもの手を引いて入っていく母親と、重そうな袋を両手に提げて出てくる男性。返却場所へ押されていくカート。その脇を避けて進む自転車。
病院を出た直後ほどではないが、見ようとしていない動きまで目へ入ってきた。
「待ってる」
「大丈夫?」
「うん。ちょっと疲れたし、人が多いところは今はいいかな」
巴は千綴の顔を見たあと、車の鍵を持ち直した。
「暑くなったらエアコンつけて。鍵は置いていくから」
「分かった」
「何か欲しいものある?」
「特には」
「本当に?」
「プリン」
少し考えて答えると、巴が笑った。
「そういうのは早く言って」
鍵を残し、巴は店へ向かった。
千綴は助手席の背もたれへ身体を預ける。
一人になると、車内は急に静かになった。外では人も車も動き続けているのに、窓を隔てるだけで音は遠くなる。
入口へ向かった巴の姿は、買い物客の間へすぐに紛れた。それでも、どの扉から入ったのか、戻るときにどの方向から来るのかが、なぜか頭に残っている。
千綴は目を閉じた。
検査で疲れたのだ。
今日一日、知らない場所で何度も同じことを聞かれ、自分でも分からないことを説明し続けた。周囲の動きが気になるのも、神経が落ち着いていないだけだろう。
しばらくして目を開けると、空はまだ明るかったが、駐車場へ落ちる影は病院を出たときより長くなっていた。
巴は予定より少し多い買い物袋を提げて戻ってきた。
「材料だけじゃなかったの?」
「必要なものが増えた」
「プリン三つも必要?」
「明日の分」
後部座席へ袋を置きながら、巴は当然のように答えた。
車が再び動き出す。
窓の外を流れる町並みを眺めているうちに、千綴はいつの間にか眠っていた。
巴の家へ戻ったあと、時間は穏やかに過ぎていった。
夕食は、スーパーで買った野菜と鶏肉を使った雑炊だった。昼にうどんを食べていたため、千綴はもっと普通の食事でも大丈夫だと主張したが、巴は聞かなかった。
「病院で安静にしろって言われたばかりでしょ」
「安静と雑炊は関係ないと思う」
「消化がいい」
「それはそうだけど」
「反論終了」
味は薄めだったが、空腹だったこともあり、千綴は思っていたより食べられた。食後には約束どおりプリンも出てきた。
入浴を済ませ、借りた服へ着替える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
朝から何度も眠っていたはずなのに、身体にはまた重い疲労が戻っていた。長く歩いたわけでも、激しく動いたわけでもない。病院で過ごした時間だけで、普段の一日より消耗しているように感じた。
居間へ戻ると、巴はテーブルの上で明日の予定を確認していた。
「警察から連絡が来てた」
千綴が座るのを待ってから、巴が言った。
「鞄と傘とスマホ、明日受け取れるって」
「見つかったんだよね」
「うん。公園に残ってたものと、千綴の持ち物で間違いないみたい」
朝にも聞いた話だった。
それでも、スマートフォンという言葉を聞いた途端、連絡できていない相手の顔が浮かんだ。
「みんなに何も送ってない」
「学校には私から連絡してあるよ」
「先生じゃなくて、友達」
昨日、帰宅したらグループへ連絡する約束をしていた。
綾乃も、環も、ヴァシリオスも、悠司も送ったはずだ。千綴だけが何も返していない。
それに、今日は学校も休んだ。
何か届いているに決まっている。
「私のスマホ使う?」
巴が自分の端末を持ち上げる。
千綴は少し迷い、首を横に振った。
「今日はいい」
「連絡したいんじゃなかったの?」
「したいけど、何て言えばいいか分からない」
無事だった、とだけ伝えればいいのかもしれない。
けれど、なぜ連絡できなかったのかと聞かれたら、説明できることがなかった。公園に持ち物を置いたまま、自宅前まで戻っていた。途中の記憶がない。病院で検査を受けた。
どこまで話せばいいのか、自分でも決められない。
「スマホが戻ってから考える」
「分かった」
巴はそれ以上勧めなかった。
「明日は警察署で受け取りと、簡単な確認があるって。体調が悪かったら私だけで行くけど」
「行くよ」
「今決めなくていい」
「でも、私のことだから」
巴は少しだけ眉を寄せたが、すぐには否定しなかった。
「朝の体調を見てから」
「うん」
そこで話は終わった。
千綴は寝る前の水を受け取り、借りている部屋へ戻った。
布団へ入っても、すぐには眠れなかった。
カーテンの隙間から、向かいの建物の明かりが細く差し込んでいる。エアコンの音は一定で、巴が家の中を歩く気配も、しばらくすると聞こえなくなった。
医師の言葉を思い返す。
身体に目立った異常はない。
一時的な記憶障害の可能性がある。
時間が経てば戻ることもある。
無理に思い出そうとしなくていい。
何度並べ直しても、安心できる言葉のはずだった。
記憶が戻るなら、それで元どおりになる。
そう考えようとする一方で、本当に戻ってほしいのかと自分へ問いかけると、素直にはうなずけなかった。
抜け落ちた時間に何があったのか。
それを知りたい気持ちはある。
けれど、思い出した瞬間に、今はまだ形のない何かが現実になる気もした。
公園の近くで足を止めたこと。
そこから先がないこと。
鞄も傘もスマートフォンも残され、自分だけが自宅前へ戻っていたこと。
記憶が戻れば、その理由まで分かるかもしれない。
同時に、知らないままでいた方がよかったと思うことまで、思い出してしまうかもしれない。
千綴は毛布を胸元まで引き上げた。
もう一つ、気になることがあった。
病院の待合室で、普段なら見過ごすようなものが妙に目についた。外へ出たあとは、人や車がどこへ向かうのか、道がどこへ続くのかまで、一度に頭へ入ってきた。
スーパーの駐車場でも同じだった。
誰が店へ入り、誰が戻り、カートがどこへ返されるのか。巴がどの入口から戻ってくるのか。
どれも見れば分かることだった。
ただ、以前からあれほど自然に意識していただろうか。
千綴は目を閉じた。
疲れているだけだ。
病院で何度も検査を受け、自分の記憶について考え続けた。周囲へ神経が向くのも、昨日のことを警戒しているからだろう。
そう結論づけると、少しだけ息が楽になった。
明日になれば、スマートフォンが戻る。
友人たちから届いているはずの連絡を確認し、何を伝えるか考える。警察からも話を聞かれる。
一つずつ確かめていけばいい。
千綴はそう自分へ言い聞かせ、眠りを待った。
記憶の空白は残ったままだった。
それでも、その夜は夢を見ることなく眠った。
翌朝、千綴は昨日より軽くなった身体で朝食の席に着いた。
窓の外には白い日差しが広がり、蝉の声が響いている。頭痛も吐き気もなく、立ち上がったときのふらつきもなかった。
テーブルの端に置かれていた巴のスマートフォンが短く震えた。画面を確認した巴が、わずかに表情を曇らせる。
「学校から?」
「先生から。今日から臨時休校だって。夏休みまで、そのまま休みになるみたい」
千綴は箸を止めた。
周辺で続く事件を受け、夏休みまで登校を見合わせるという内容だった。
夏休みまで、あと数日だった。
教室へ戻ることも、友人たちと直接顔を合わせることもないまま、学期が終わる。
「みんな、どうしてるかな」
「今日、連絡できるでしょう」
「うん」
そのためにも、まずは警察署へ行かなければならない。
千綴は止めていた箸を動かした。
警察署では、いくつかの確認と署名を求められた。
記憶がどこまで残っているか、返された持ち物に間違いや不足がないかを順に確認された。
昨日の病院でも似たような質問を受けたため、答えること自体には慣れ始めていた。それでも、「覚えていません」と口にするたび、空白の部分だけが自分から切り離されていくような感覚は残った。
手続きは思っていたより早く終わった。
机の上へ戻された鞄を見た瞬間、千綴は小さく息を止めた。
見慣れた色と、持ち手の内側に残った薄い擦れ。手を伸ばして握ると、指に馴染む感触があった。
続いて渡されたスマートフォンは、画面を点けるとすぐに明るくなった。通知の数字が一瞬見えたが、ここで開く気にはなれず、そのまま鞄へしまう。
折り畳み傘には泥が残り、骨の一本がわずかに歪んでいた。発見されたときからこの状態だったらしい。
どれも自分のものだった。それでも、一度、自分の知らない場所へ置き去りにされていた事実だけが、手の中に残った。
「全部、合ってる?」
隣にいた巴が尋ねる。
「うん。大丈夫」
千綴は鞄を肩へ掛けた。覚えていた重さが戻ってくると、自分の生活もわずかに戻ったように思えた。
署を出るため、巴と並んで廊下を歩く。
受付の前では何人かが順番を待ち、出入口からは外の明るさが差し込んでいた。千綴は鞄の位置を直しながら、そのまま自動扉へ向かった。
扉が開き、一人の男性が入ってくる。
すれ違いざま、千綴はなぜかその人へ目を向けた。男性は千綴を見ず、そのまま受付へ向かっていく。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
「千綴?」
先を歩いていた巴が足を止める。
「……何でもない」
受付前へ向かう男性の背中をもう一度見たが、なぜ気になったのかは自分でも分からなかった。
巴が自動扉の外へ出る。
千綴もそのあとを追った。
腕に掛けた鞄の中で、戻ってきたスマートフォンが小さく震えた。
車へ戻ると、巴はすぐにはエンジンをかけなかった。
「見る?」
運転席から尋ねられ、千綴は膝の上の鞄へ手を置いた。
「うん」
取り出したスマートフォンは、手の中に収まる重さこそ覚えていたものと同じだったが、保護ケースの角には見覚えのない擦り傷が増えていた。
画面を点ける。
明るくなった途端、通知が重なって表示された。
不在着信や個別のメッセージ、グループの通知に、学校と生徒会からの連絡まで重なっていた。その間には、巴の名前も何度も並んでいる。
数字だけでは、どれから見ればいいのか分からなかった。
千綴は画面へ指を置いたまま、動かせずにいた。
自分が覚えていない間も、時間は進んでいた。
誰かが電話をかけ、返事を待ち、もう一度連絡を送っていた。その一つひとつが、何も知らずにいた時間の形を持って、狭い画面へ詰め込まれている。
「急がなくていいよ」
巴は前を向いたまま言った。
「でも、見ないと」
千綴は着信履歴を開いた。
最初は巴からだった。そのあとに綾乃、悠司、また巴。時間が進むにつれ、間隔が短くなっている。ヴァシリオスからも、環からも着信があった。
履歴を下まで確認し、閉じる。
次に開いたのは、『無事に帰る』というグループチャットだった。
昼休みに作られたばかりの、五人だけのやり取り。
未読の数字が、名前の横に残っていた。
千綴は一度息を整えてから、最初の未読まで画面を戻した。
綾乃の帰宅報告があった。
『着いたよ。家の前まで迎えに来てた』
その少しあとに、環の短いメッセージ。
『帰宅』
ヴァシリオスは雨粒のついた車窓の写真と一緒に、
『俺も生還』
と送っていた。
悠司の報告は、そのあとだった。
『今着いた。千綴は店長と合流できた?』
まだ、この時点では普段の会話に近い。
『たぶんもうすぐじゃない?』
綾乃が返し、ヴァシリオスが、
『巴さん待ってるなら、もう向かってるんじゃない?』
と続けている。
環は、
『遅い』
とだけ送っていた。
千綴は画面を少しずつ下へ動かす。
『千綴、着いたら一言送って』
『既読つかないね』
『店長と話してるんじゃないか』
『電話してみる』
悠司のメッセージを境に、やり取りの間隔が短くなっていく。
『出ない』
『私もかける』
そのあとには、学校に残っている可能性や、巴との待ち合わせ場所についてのやり取りが続いた。同じ名前が何度も並び、その間に不在着信の通知が重なっていた。
ヴァシリオスの文章から、冗談が消えている。
『誰か巴さんの連絡先知らない?』
『先生に聞けないかな』
『俺、学校に連絡する』
悠司がそう送ったあと、しばらくメッセージが途切れていた。
画面の中にも、待っていた時間があった。
次に表示された綾乃の文章は、それまでより長かった。
『巴さんから連絡が来た。千綴は見つかったって。今は休んでる。詳しいことはまだ分からないけど、無事みたい』
その下に、四人の返信が続いている。
『よかった』
『本当に?』
『怪我は』
『本人と話せた?』
綾乃が、今は眠っているらしいと答えていた。
それで会話は終わっていなかった。
『起きたら連絡ほしい』
『返事はいらないから、読めたら既読だけでも』
『休ませろ』
『分かってる』
最後の方で、少しだけいつもの調子が戻っていた。
それでも、最新のメッセージは今朝のものだった。
『千綴、落ち着いたらでいいから連絡してね』
綾乃からだった。
千綴の指が止まった。
昼休みに、絶対に送ると答えた。
悠司と別れるときにも、帰ったら連絡すると言った。
約束を忘れていたわけでも、連絡を無視したわけでもない。
それでも、四人は何も知らないまま待っていた。
画面が少し滲み、千綴は一度スマートフォンを伏せた。
「大丈夫?」
巴が尋ねる。
「うん」
声は思ったより普通に出た。
目元を指で拭い、もう一度画面を開く。
入力欄へ触れる。
何があったのか、自分にも分からない。記憶がないことや病院へ行ったことまで書けば、余計に心配させるかもしれなかった。
「何て書けばいいと思う?」
「千綴が今伝えられることだけでいいんじゃない」
巴は画面を覗かなかった。
「全部説明しなくても、今は無事だって分かれば安心するよ」
千綴は小さくうなずき、文字を打つ。
『心配かけてごめん。今は巴さんの家にいます。身体は大丈夫です。少し休んでます。詳しいことは、落ち着いたら話すね』
読み返してから、送信の印へ指を置いた。
押せば、四人の待っていた時間へ自分の言葉が加わる。
千綴は一度息を吸い、そのまま指を離した。
メッセージが送られる。
ほとんど間を置かず、既読の数字が増えた。
『千綴!』
最初は綾乃だった。
『よかった。本当に心配した』
続いて悠司。
『連絡ありがとう。今は休んで。返事はしなくていいから』
環からは、
『生きてるならいい』
と届き、その直後に、
『あとで話す』
ともう一つ増えた。
最後にヴァシリオスから、大きな文字で、
『無事ならよし!』
と送られてくる。
すぐに悠司が、
『声が大きい』
と返し、綾乃が、
『文字だよ』
と続けた。
千綴は画面を見つめたまま、息を吐いた。
返事をしなければと思っていたのに、四人は誰も事情を問い詰めなかった。怒るより先に、戻ってきたことを喜んでくれている。
胸の奥に残っていた硬いものが、少しずつほどけていく。
『ありがとう。落ち着いたらまた連絡する』
それだけ送ると、綾乃からすぐに、
『待ってる』
と返ってきた。
千綴はスマートフォンを胸元へ寄せた。
警察署で持ち物は戻ってきた。
けれど、その中に残されていた言葉を読んで、ようやく、自分のいた場所へ少しだけ戻れたような気がした。
画面を閉じても、公園のことは頭から離れなかった。
膝の上には、戻ってきた鞄がある。中にはスマートフォンと、泥の残った折り畳み傘が収まっていた。どれも自分のものなのに、それらが見つかった場所だけが、自分の中から抜け落ちている。
千綴は鞄の持ち手へ指を掛けた。
公園の近くまで行ったことは覚えていた。けれど、なぜ足を止めたのか、そのあと何があったのかは分からない。
見に行けば、何か思い出すかもしれない。それだけなら、自然な考えのはずだった。
それでも、ただ確かめたいだけではない気がした。このまま別の道を通って帰ることに、わずかな違和感がある。
「店長」
「どうしたの?」
「荷物が見つかった公園、ここから近いよね」
巴はエンジンをかける手を止めた。
「寄りたいの?」
「外から見るだけでいい」
「無理に思い出すのは駄目だからね」
「うん」
巴はすぐには答えなかった。フロントガラスの向こうでは、警察署を出た人が駐車場を横切り、停めてあった車へ向かっている。
「具合が悪くなったら、すぐ戻るよ」
「分かった」
条件を確かめるように言ってから、巴はエンジンをかけた。
公園へ近づくにつれ、見覚えのある道が増えていった。
交差点を曲がり、住宅の間を抜ける。事件の日、悠司と別れた道。巴との待ち合わせ場所へ向かう途中で通った角。
巴は迷うことなく車を進めていた。
そこまでは、千綴にも記憶がある。
けれど、その先へ進むほど、自分が何を見て、どう歩いたのかが曖昧になった。
千綴は窓の外を見たまま、鞄の持ち手を握っていた。
やがて、道路脇の木々の向こうに低い柵が見えた。
「ここだ」
千綴が小さくつぶやくのとほとんど同時に、巴は公園を少し通り過ぎ、邪魔にならない場所へ車を停めた。
外へ出ると、日差しに熱せられた空気が肌へまとわりついた。蝉の声が近く、車内にいたときよりも夏の音が大きい。
公園は、普段どおりには見えなかった。
入口近くには立入を控えるよう促す表示があり、植え込みの一部には細い規制線が残されている。遊具の周囲に人影はなく、道路の反対側から中を眺めている者が一人いるだけだった。
「ここからね」
巴が隣で言った。
「うん」
千綴は入口の手前で足を止めた。
地面の多くは乾いていたが、植え込みの陰にはまだ湿った色が残っている。踏み荒らされた土と、向きを変えた草。調べられた跡なのか、誰かが通っただけなのかは分からない。
視線が、自然に公園の奥へ向かった。
そこに何があるのかは見えない。それでも、鞄が見つかったのはあちらだと思った。警察署でも詳しい位置までは聞いていないのに、間違っている気がしない。
千綴は柵の向こうを見つめた。
入口から植え込みへ続く地面。木の根元。その手前にある、わずかに開けた場所。
自分は、そこにいた。
そう思った瞬間、濡れた空気が肌へ触れた。
実際には、雨など降っていない。
視界の端を、黒いものが横切る。
身体が地面へ押しつけられ、息ができなくなる。
指先が動かない。
声が出ない。
千綴は浅く息を吸った。
目の前には、乾きかけた公園があるだけだった。
「千綴?」
巴の声が、少し遠く聞こえた。
「大丈夫」
答えた声は、自分で思っていたより小さかった。
記憶が戻ったわけではない。何をされたのかも、誰がいたのかも分からない。ただ、出来事の前と後の間に、触れられない場所がある。
そこだけが切り取られたまま、自分と公園の間に残っていた。
千綴はもう一歩、入口へ近づいた。
「そこ、あまり近づかない方がいいですよ」
背後から、男の声がした。
2026/08/09 文章の均一化
2026/08/07 千綴の巴の呼び方を修正




