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暗がりの奥で、何かが動いた。
植え込みの枝が揺れたわけではない。倉庫の壁へ重なっていた影の一部が、形を変えるように前へ出た。
人だった。
千綴は息を止めた。
男は傘を差していなかった。雨に濡れた髪が額へ張りついているのに、歩みは急いでいない。濃い色の上着にも水が染みていたが、寒そうに肩をすくめる様子もなかった。
右手に、細いものを何本か持っている。
街灯のない薄暗さの中で、それだけが鈍く光った。
「こんばんは」
男は、道で知人へ声を掛けるような調子で言った。
千綴は返事をしなかった。
顔には見覚えがない。
公園の奥から出てきたことも、手にしているものも、普通ではなかった。
後ろには車の走る大通りがある。声を上げれば、誰かには届く距離だった。
千綴は公園へ背を向けないまま、一歩だけ後ろへ下がった。
「何をしていたんですか」
「確認だよ」
「何を?」
「音を聞いても、近づかなかった」
男の視線が、千綴の足元から顔までゆっくり動いた。
「慎重だ。けれど、見捨てることもできなかった。だから声を掛けた」
その言い方に、背中が冷えた。
音は偶然ではなかった。
自分がどう反応するか、見られていた。
千綴はスマートフォンを握り直した。画面はまだグループの会話を表示している。緊急通報を開くなら、数回触れるだけでいい。
「そこで止まってください」
できるだけ声を乱さずに言う。
男は従わなかった。
一歩。
靴の下で、濡れた砂がわずかに鳴った。
「近づかないで」
「怖い?」
「警察を呼びます」
「それは困るな」
男の声には、困った様子がなかった。
千綴は画面へ親指を伸ばした。
光が走った。
何かが右手の甲へ触れた。
ちくりとした痛みが走る。
手を引こうとした。
けれど、右手は動かなかった。
握っていたスマートフォンだけが指の間からこぼれ、硬い舗装へ角から当たって、画面を上にしたまま滑っていく。
千綴は動かない右手へ視線を落とした。
手の甲には、縫い針より長い黒い針が立っている。
血がにじんでいた。
抜かなければ。
そう思って左手を伸ばしたが、右手は指一本動かなかった。
痛みはある。雨粒が皮膚へ当たる感覚もある。
それなのに、手だけが自分から切り離されたように、命令を受けつけない。
「最初は手だ」
男が言った。
千綴は左手でスマートフォンを拾おうとした。
二度目の光が、手首の近くへ落ちる。
小さな痛みが走った直後、左腕が沈み、指先が舗装へ触れる直前で止まった。
両手が動かない。
千綴は顔を上げた。
男の手元には、まだ針がある。
投げたようには見えなかった。腕を振る動きすら、ほとんどなかった。
「何をしたの」
「君の手を預かった」
意味が分からなかった。
けれど、その言い方だけがひどく気持ち悪かった。
「……私の手でしょ」
男は少し目を細めた。
「まだ自分のものだと思っているんだね」
千綴は答えず、踵を返した。
大通りまで走ればいい。両手が使えなくても、足は動く。
濡れた地面を蹴った瞬間、右の太腿に針先で刺されたような感触があった。
次の瞬間、膝から力が抜ける。
身体が傾き、肩から地面へ落ちかけた。左足だけで踏みとどまり、どうにか転倒を避ける。
右脚が動かない。
痛みはあるのに、足を着くことも、膝を曲げることもできなかった。
「次は足だ」
その声が近づいてくる。
千綴は左足で地面を蹴った。跳ねるように前へ進み、スマートフォンのある場所へ身体を寄せようとする。
左のふくらはぎが、かすかに痛んだ。
支えを失い、今度こそ倒れた。
膝も手も使えない。頬と肩が濡れた舗装へ当たり、口の中に鉄の味が広がった。
傘が離れた場所へ転がっていく。
細い雨が、髪と制服へ直接落ち始めた。
千綴は起き上がろうとした。
腕は動かない。脚も動かない。
腹と背中へ力を入れれば、身体を捻ることはできる。肩を揺らし、少しずつ向きを変えようとした。
男の靴が視界へ入った。
千綴の前で止まる。
「よく動く」
見下ろす声は、感心しているようにも聞こえた。
「手が駄目なら足を使う。足が駄目なら、残ったところで動こうとする」
「……何、言ってるの」
息が上がり、声が掠れた。
「君のことだよ」
男は千綴の反応を確かめるように、わずかに首を傾けた。
意味が分からない。
分かりたくもなかった。
右手はすぐ目の前にある。
雨に濡れ、黒い針を刺されたまま、地面へ投げ出されている。感覚は残っているのに、指一本、自分の思うようにはならない。
自分の手なのに。
この男のものではない。
返してほしいと思った。
違う。
返してもらうものではない。
最初から、これは自分の手だ。
右の人差し指が、舗装を擦った。
千綴は息を止めた。
今、動いた。
どうしてかは分からない。
試すように力を入れると、指がもう一度曲がった。続いて中指が動き、手のひらが濡れた地面を掴む。
男の表情が止まった。
「……何をした」
千綴にも分からなかった。
答える代わりに、動くようになった右腕を引き寄せた。肩まで重かったが、命令は届いている。
右手のすぐ先に、傘の柄が転がっていた。
千綴は動くようになった腕を地面へ押しつけ、肩と腰を僅かにずらした。脚は動かない。それでも身体を引きずるようにして、指先を柄へ届かせる。
男が手の中の針を持ち直した。
「動くはずがない」
その声が近づくより先に、千綴は傘を振った。
開いたままの傘が男の腕へぶつかり、黒い針がいくつか宙へ散った。地面へ触れた先から輪郭を失い、濡れた舗装へ沈んでいく。男が身を引く。
千綴は傘を支えに身体を起こそうとした。脚は動かない。それでも腕さえ使えれば、地面を這ってでも公園の外へ近づける。
柄を握り直した瞬間、右手の甲に小さな痛みが重なった。
指が開く。
傘が落ちた。
もう一度。
動いたはずの右手が、再び地面へ沈んだ。
「今のは何だ」
男の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
千綴は答えられない。
自分でも、何をしたのか分からない。ただ嫌だと思った。自分の手を、この男のもののように扱われることが。
左手にも、もう一度小さな痛みが触れた。
両腕が完全に沈む。
男は千綴を見下ろしていた。呼吸がわずかに速くなっている。
「違う」
何が違うのか、千綴には分からなかった。
男は自分へ言い聞かせるように、もう一度呟いた。
「取得できていた。間違いなく」
その目が、千綴の腕から顔へ移る。
驚きの奥に、別のものが浮かんでいた。
期待だった。
それがすぐに、焦りへ変わる。
「もう一度だ」
男が針を選ぶ。
千綴は身体を少しでも後ろへずらそうと、腰へ力を入れた。
脇腹に、ちくりとした感触があった。
直後、腹に入れていた力が抜けた。
背中も腰も、自分の身体を支えることをやめる。肩が地面へ落ち、胸が押しつぶされるように傾いた。
息を吸おうとした。
胸はわずかに動いたが、空気が足りない。
もう一度、もっと深く吸おうとしても、身体は応えなかった。喉の奥だけがひくつき、浅い息が途切れ途切れに漏れる。
咳をしたかった。
唾を飲み込みたかった。
けれど、どちらも自分ではできない。
肺の中に残った空気だけが、少しずつ失われていく。
苦しい。
そう思った瞬間にも、胸は次の呼吸を始めてくれなかった。
千綴は口を開いた。空気を求めるように顎だけが僅かに動く。それでも入ってくるのは、細く冷たい一息だけだった。
視界の端が暗くなり、耳の奥で血の音が鳴り始める。
首から下が、自分の身体ではない重い塊になっていた。
「これで、静かに見られる」
男がしゃがみ込む。
濡れた地面へ膝をつくことを気にする様子はない。
千綴の顔を覗き込み、呼吸の間隔を数えるように見ていた。
「やめ……」
声になりきらなかった。
「まだ声は出る」
男は千綴の口元を見た。
「怖い?」
答えようとして、息だけが漏れた。
怖いに決まっている。
店長に連絡したい。守屋を呼び戻したい。誰でもいいから、ここへ来てほしかった。
男は、そんな千綴の顔を待っていたように見えた。
「その顔になるまでが長かった」
ぞっとした。
この男は、自分の言葉を聞いているのではない。
痛がるところも、逃げようとするところも、最初から決めた順番に当てはめて見ているだけだ。
「……ちがう」
掠れた音が、ようやく喉を抜けた。
「何が?」
千綴自身にも、うまく説明できなかった。
「しら……ない」
それ以上、息が続かなかった。
男の目がわずかに細くなる。
「何を?」
千綴は唇を動かした。
「……わたし」
声にはならない。
それでも、男が何かを分かったように話すことだけは、ひどく気持ちが悪かった。
「身体は分かる」
千綴は僅かに首を振ろうとした。
動かなかった。
「動かなくなった。なら、それで十分だ」
違う。
そう思った。
けれど、もう言葉にはできなかった。
男の口元から、薄い笑みが消えた。
千綴は息を吐こうとして、浅い空気だけを漏らした。
何も知らない。
千綴はそう思った。
けれど、喉から漏れたのは浅い息だけだった。
男の指が、手の中の針を強く握った。
手の中の黒い針が触れ合い、かすかな音を立てる。
「違う」
それまでの穏やかな声ではなかった。
男は千綴の顔を見たまま、浅く息を吸った。目だけが落ち着きなく動き、何かを探すように頬や唇、濡れた髪へ順に向けられる。
「一度、外した」
誰に言うでもなく、言葉がこぼれた。
「だったら、もっと出るはずなんだ。逃げられないと分かれば、もっと――」
途中で声が止まる。
千綴には、その先が分からなかった。ただ、男が自分の顔にないものを探し続けていることだけは分かった。
男の眉が歪んだ。
「君には関係ない」
吐き捨てるような声だった。
立ち上がろうとして膝が滑り、男は濡れた地面へ一度手をついた。すぐに身体を起こしたが、乱れた呼吸は戻らなかった。
「違う。これも違う」
手の中の針を選び直す。
一度取ったものを戻し、別の一本へ触れ、それも払い捨てる。黒い輪郭は地面へ届く前に薄れた。
「何も知らないくせに、そんな目で見るな」
千綴がどんな顔をしているのか、自分では分からなかった。
男はそれ以上見ていられないように、わずかに顔を逸らした。
「君は、標本には向かない」
言い聞かせるような声だった。
なりたくない。
千綴はそう返そうとした。
けれど、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
それでも、千綴は男から目を逸らさなかった。
「黙れ」
初めて、怒鳴り声に近い音が混じった。
男は一本の針を掴む。指先が震えていた。
「残す価値もない」
千綴は針の先を見た。
次に何が起きるかを、身体が先に理解した。
声を上げようとする。
助けを呼ぼうとする。
けれど、男の指が動く方が早かった。
首の付け根に、小さな痛みが触れた。
喉が閉じ、声が消える。
視線を動かそうとしても、瞼も眼球も命令を受けつけない。耳へ届いていた雨音が遠ざかり、胸の動きが一度、浅く途切れた。
もう一度吸おうとしても、身体は応えなかった。
濡れた舗装の冷たさだけが、頬に残っていた。
それも、少しずつ遠のいていく。
胸は、もう動かなかった。
胸は、もう動かなかった。
雨の音も、頬に触れていた冷たさも、遠くなっていく。
暗くなるのではなかった。
何も見えなくなるより先に、別の景色が浮かんだ。
雨の中、守屋が傘を少し持ち上げている。
「着いたら送れよ」
「悠司もね」
ついさっき交わしたばかりの言葉だった。
分かれ道の向こうへ歩いていく背中を見送り、自分は大通りの方へ向かった。
店長が迎えに来る。
だから大丈夫だと答えた。
場面が途切れる。
昼休みの教室だった。
机の上には空になりかけた弁当箱と、ヴァシリオスが買ってきた奇妙なパンが並んでいる。
「帰ったら、ちゃんと送れよ」
「分かってる、ヴァシリオス」
「絶対だぞ」
「絶対」
自分の声が、ひどく近くに聞こえた。
まだ送っていない。
そのことだけが、胸のない場所へ重く残った。
次に見えたのは、今よりずっと低いところにあった空だった。
故郷の夏祭り。
提灯の灯り。人の声。遠くで鳴る太鼓。浴衣の袖を気にしながら、人の間を縫うように歩いていた幼い自分。
誰かとはぐれないように、祖父の手を握っていた。
夜空には星が少なく、代わりに祭りの明かりが低く浮かんでいる。
境内の端で、千綴は何かを見上げていた。
何を見ていたのかは、もう思い出せない。
ただ、あのとき自分が言ったことだけが残っていた。
あれは、きっとそうだ。
根拠もなく、幼い千綴はそう言った。
祖父は否定しなかった。
「そう思うなら、それでいい」
その言葉の意味が、当時は分からなかった。
正しいとも、間違っているとも言わなかった。
ただ、自分がそう思ったことを、そのまま受け取ってくれた。
今になって、言葉が別のものへ繋がった。
守屋と別れた道。
昼休みに交わした約束。
迎えに来ると言った巴。
故郷の祭りで握っていた祖父の手。
離れているのに、なくなってはいない。
ここで自分が終わったとしても、最初から何もなかったことにはならない。
そう思うなら、それでいい。
祖父の声が、もう一度聞こえた。
死んだんだと思う。
それでも、帰りたいと思った。
約束を返したいと思った。
店長に会いたい。
悠司に、ちゃんと着いたと伝えたい。
明日の朝も、あの坂を上りたい。
それが正しいのかは分からない。
できることなのかも分からない。
それでも、千綴はそう思った。
その瞬間、それまで別々だったものが一つに重なった。
雨。
地面。
遠くを走る車。
自分を待っている人。
もう動かない身体。
帰りたいと思う自分。
どれも離れているはずなのに、完全には切れていない。
どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。
境目が、ほんの一瞬だけ分からなくなった。
言葉にはできなかった。
けれど、それまで見えなかったものが、ほんの一瞬だけ繋がった。
切れたと思っていたものの向こうに、まだ何かが残っている。
動かない身体と、帰りたいと思う自分のあいだにも。
何かが触れた。
次の瞬間、冷たさが戻った。
濡れた舗装が、頬へ触れている。
雨粒が瞼を打つ。
胸の奥が強く縮んだ。
空気が喉へ流れ込み、千綴は大きく息を吸った。
吸い込んだ空気が肺を刺す。
身体が痙攣し、喉の奥から掠れた音が漏れた。
息が続かない。
胸が何度も不規則に跳ね、そのたびに空気が途切れ途切れに入ってくる。
千綴は咳き込み、濡れた地面へ額をつけた。
指先が震えた。
右手が動く。
左手も、遅れて地面を掴んだ。
脚の感覚が戻り、腹と背中へ力が入る。
何が起きたのかは分からなかった。
考えようとすると、さっきまでそこにあったはずの記憶が崩れていく。
祭りの灯り。
祖父の声。
誰かと交わした約束。
どれも掴もうとするほど遠ざかった。
ただ、ここから離れなければならないという感覚だけが残っていた。
千綴は両手を地面へつき、膝を引き寄せた。
一度では立てなかった。
腕が震え、足が滑る。
それでも、もう一度力を入れる。
何度かよろめきながら、どうにか立ち上がった。
男が、すぐ近くにいた。
先ほどまでとは違い、何もせずに千綴を見ている。
その顔に浮かんでいるものを、千綴は読み取れなかった。
「何を……」
男の声が途切れる。
千綴はそちらを見た。
誰なのか。
何をされたのか。
どうして自分が倒れていたのか。
どれも、すぐには形にならなかった。
男のすぐ脇を通り過ぎる。
「待て」
声がした。
千綴は止まらなかった。
少し離れた場所に、鞄が落ちている。
傘も転がっていた。
スマートフォンは、舗装の上で画面を光らせている。
通知がいくつも重なり、名前と短い言葉が画面を埋めている。内容までは読めなかった。ただ、誰かが何度も自分を呼んでいることだけは分かった。
拾わなければならない。
そう思ったはずなのに、身体はそちらへ向かなかった。
公園の入口を抜ける。
車の音が戻ってくる。
信号の光が濡れた路面へ滲み、人の話し声が遠くから聞こえた。
どこへ向かえばいいのか、はっきりとは分からない。
それでも足は、帰る道を知っていた。
千綴は振り返らず、その場を離れた。
動かなくなった胸を、男はしばらく見下ろしていた。
雨粒が制服の背へ落ちている。
肩は上下しない。
喉も動かない。
先ほどまで男を睨んでいた目は閉じられ、そこに意志の残りは見えなかった。
男は千綴の首筋へ指を当てた。
脈はない。
口元へ手をかざしても、息は触れなかった。
終わった。
そう確かめた瞬間、張りつめていたものが僅かに緩んだ。
手順は崩れた。
一度、奪ったはずの手を取り戻された。
理由は分からない。
それでも最後には、すべてを奪った。
動きも、声も、呼吸も。
自分から目を逸らさなかった少女は、もう何も返さない。
男はその顔を見つめた。
求めていたものとは違う。
恐怖はあった。抵抗もあった。最後には逃げられないことも分かったはずだ。
それなのに、足りなかった。
縋らなかった。
認めなかった。
最後まで、自分の内側へ入ることを拒んだ。
「違う」
声にすると、胸の奥に残っていた渇きがかえって強くなった。
これではない。
こんな終わり方では、何も満たされない。
男は千綴の頬へ手を伸ばしかけた。
そのとき、舗装の上でスマートフォンが震えた。
短い振動が止まり、すぐにまた震える。
光った画面には、いくつもの通知が重なっていた。
誰かが、この少女を探している。
このまま応答がなければ、周囲を探し始める者もいるだろう。
男は大通りへ目を向けた。
雨音の向こうから車の走る音が続いている。公園の入口を通り過ぎる人影はまだない。だが、ここにいられる時間は長くなかった。
男は立ち上がり、公園の入口へ向かった。
ここを離れなければならない。
そう思って数歩進んだ、そのときだった。
背後で、喉の奥から掠れた息が漏れた。
男は振り返った。
少女の胸が大きく持ち上がり、指先が濡れた舗装を掻いた。
男は動けなかった。
脈はなかった。
息もなかった。
確かに終わっていた。
それを、自分の指で確かめた。
「何を……」
声が途中で消えた。
少女は咳き込みながら両手を地面へつき、ゆっくりと身体を起こしていく。
奪ったはずの手も、脚も、胴体も、すべてが動いている。
解除されたのではない。
あれは一度、完全に止まった。
男の中で、積み重ねてきた手順が音を立てて崩れた。
針が外れたからではない。
取得が浅かったわけでもない。
死んだ者は動かない。
それだけは、これまで一度も違わなかった。
少女が立ち上がる。
何度も足を滑らせ、腕を震わせながら、それでも立った。
男は手の中の針を握った。
刺せばいい。
もう一度、手から奪えばいい。
そう考えたのに、指が動かなかった。
先ほど一度だけ、支配を外された感覚が蘇る。
何をされたのか分からなかった。
今も分からない。
自分が奪ったものを、この少女は、自分には理由も分からないまま取り戻した。
そして今度は、死そのものから戻ってきた。
少女がこちらを見た。
焦点の合わない目だった。
怒りも、恐怖もない。
男を見ているのに、男の存在を捉えていない。
そのことが、怒鳴られるよりも恐ろしかった。
少女は一歩踏み出した。
男の方へ来る。
反射的に針を構えた。
だが、少女は手を伸ばさなかった。
男のすぐ脇を、そのまま通り過ぎる。
「待て」
絞り出した声に、少女は反応しない。
濡れた歩道へ向かい、公園の入口を抜けていく。
男は追えなかった。
背中が遠ざかっても、足は地面に縫いつけられたように動かなかった。
生き返った。
その言葉を考えただけで、喉の奥がひどく乾いた。
あり得ない。
けれど、あり得ないものが目の前を歩いていった。
理解できない。
自分が。
男は強く奥歯を噛んだ。
その事実が、死者が歩き出したこと以上に耐え難かった。
またスマートフォンが震えた。
男は我に返った。
公園の外で、車が速度を落とす音がする。
大通り側から、人の話し声が聞こえた。
ここにいてはいけない。
少女はすでに公園を出ていたが、鞄と傘、スマートフォンはその場に残されている。
足元に落ちていた黒い針は、すでに輪郭を失い始めていた。雨に濡れた舗装へ沈むように細くなり、やがて暗がりへ紛れていく。
「違う」
何に対する言葉なのか、自分でも分からなかった。
あれは失敗ではない。
確かに殺した。
間違えていない。
間違っているのは、戻ってきた少女の方だ。
そう言い聞かせても、指の震えは止まらなかった。
男は鞄と傘、何度も震えるスマートフォンへ一度だけ目を向け、植え込みの奥へ視線を移した。
来た道を戻るべきではない。
大通り側には人がいる。
反対側の低い柵を越えれば、建物の裏手へ抜けられる。
少女を追うという考えが、一瞬だけ浮かんだ。
確かめなければならない。
何をしたのか。
どうして戻ったのか。
今度こそ理解しなければならない。
だが、足は少女の後を選ばなかった。
今追えば、見つかる。
捕まれば、もう確かめることもできない。
男は公園の奥へ走った。
濡れた土を踏み、植え込みを押し分ける。枝が頬を掠めても止まらない。
背後で、またスマートフォンが震えた。
誰かが少女を呼び続けている。
男は振り返らなかった。
低い柵へ手を掛け、雨に滑りながら向こう側へ身体を落とす。
着地した足がもつれた。
壁へ手をつき、息を整える間もなく路地の暗がりへ入った。
逃げなければならない。
今は、それだけだった。
目を開けたとき、最初に見えたのは、知らない天井だった。
薄い色の壁紙。見覚えのない照明。カーテンの隙間から差し込む朝の光。
千綴はしばらく瞬きを繰り返した。
身体を起こそうとして、肩に掛けられていた毛布がずれる。着ているものも、自分の服ではなかった。少し大きめの長袖と、柔らかい生地のズボン。
そこでようやく、部屋の隅に置かれた棚と、窓際の小さな観葉植物に見覚えがあることへ気づいた。
巴の家だった。
「……なんで」
声は掠れていた。
喉が乾いている。
枕元には水の入ったコップが置かれていた。手を伸ばし、一口飲む。冷たい水が喉を通る。
昨夜のことを考えようとした。
学校を出たこと。
守屋と別れたこと。
そこまでは覚えている。
その先へ進もうとすると、頭の中に白い空白が広がった。
次に残っているのは、自分の部屋の前だった。
巴の声を聞いた。
振り向いた。
そこから先は、また何もない。
千綴は毛布の上で手を握った。
指は動く。
痛みも、目立った傷もない。
それなのに、何か大切な部分だけが抜け落ちている感覚があった。
部屋の外から、食器の触れ合う音がした。
千綴は毛布を退け、ゆっくり立ち上がった。
足元は少し頼りなかったが、歩けないほどではない。
扉を開けると、台所にいた巴がすぐに顔を上げた。
「起きた?」
「……うん」
巴は手を止めたまま、千綴の顔を見つめた。
「気分は」
「大丈夫。たぶん」
「たぶんは禁止」
いつもの調子に近い声だった。
けれど、その目の下には薄く疲れが残っていた。
「頭は痛くない? 吐き気は?」
「ない」
「身体のどこか、痛いところは」
「ないと思う」
巴はすぐには答えなかった。
それから、ようやく小さく息を吐いた。
「よかった」
その一言に、千綴は顔を上げた。
巴は視線を逸らし、コンロの火を弱めた。
「本当に、よかった」
声は静かだった。
千綴は何も言えなかった。
昨日、巴がどれだけ探したのか。
自分がどんな状態で見つかったのか。
まだ詳しくは分からない。
それでも、巴がほとんど眠っていないことだけは分かった。
「ごめん」
「謝らなくていい」
返事はすぐだった。
「今は座って」
椅子を引かれ、千綴は言われた通りに腰を下ろした。
目の前に、湯気の立つカップと、柔らかく煮たおかゆが置かれる。
「食べられそう?」
「少しなら」
「少しでいい」
巴は向かい側へ座った。
千綴がひと口食べるまで、何も聞かなかった。
温かいものが胃へ落ちていく。
それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
「昨日のこと」
千綴が口を開くと、巴はすぐに首を振った。
「今は思い出さなくていい」
「でも」
「無理に思い出して、また倒れたら意味がないでしょう」
強い言い方ではなかった。
けれど、譲るつもりがないことは分かった。
「今日は病院に行く」
「学校は」
「休み」
「でも、生徒会も」
「休み」
巴は言い切った。
「明日も、必要なら休ませる。警察の話も、学校の話も、千綴が落ち着いてから」
「警察?」
千綴の手が止まった。
巴は少し迷ったあと、必要なことだけを選ぶように口を開いた。
「鞄とスマートフォンと傘が見つかった」
「どこで」
「公園」
胸の奥が冷えた。
千綴は反射的に足元を見た。
鞄はない。
スマートフォンもない。
傘もない。
「制服は洗ってる。泥だらけだったから」
「私、どうやって帰ったの」
「分からない」
巴は正直に答えた。
「待ち合わせ場所にいなかった。電話にも出なかった。悠司に別れた場所を聞いて、帰り道を探した」
そこで一度言葉を切る。
「最後に部屋を見に行ったら、千綴が立ってた」
「部屋の前に?」
「ずぶ濡れで、手ぶらで」
千綴は何も言えなかった。
「名前を呼べば反応はした。でも、ほとんど何も話せなかった。ひとりにはできなかったから、うちに連れてきた」
巴は千綴の手元へ視線を落とした。
「警察からは連絡が来てる。学校にも確認が入ると思う。でも、今日すぐ話す必要はない」
「いいの?」
「よくない状態の人に無理に話させる方が、もっとよくない」
千綴はカップを両手で包んだ。
何があったのかは分からない。
ただ、持ち物だけが公園に残り、自分はそこから離れた場所で見つかった。
そのあいだの記憶がない。
夢ではない。
何もなかったわけでもない。
けれど、今すぐ答えを出さなくていいと、巴は言っている。
「今日は、ここにいていい?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
巴はすぐに頷いた。
「最初から、そのつもり」
その返事を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
窓の外では、昨日の雨が嘘のように空が明るい。
昨日までと同じ朝に見える。
けれど、千綴の中には、まだ名前のつかない空白が残っていた。
今は、それを無理に埋めなくていい。
千綴はもう一度、おかゆを口へ運んだ。
温かさだけを確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。




