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空の結び目  作者: 夕花
3/34

- 3 -

 暗がりの奥で、何かが動いた。


 植え込みの枝が揺れたわけではない。倉庫の壁へ重なっていた影の一部が、形を変えるように前へ出た。


 人だった。


 千綴は息を止めた。


 男は傘を差していなかった。雨に濡れた髪が額へ張りついているのに、歩みは急いでいない。濃い色の上着にも水が染みていたが、寒そうに肩をすくめる様子もなかった。


 右手に、細いものを何本か持っている。


 街灯のない薄暗さの中で、それだけが鈍く光った。


「こんばんは」


 男は、道で知人へ声を掛けるような調子で言った。


 千綴は返事をしなかった。


 顔には見覚えがない。


 公園の奥から出てきたことも、手にしているものも、普通ではなかった。


 後ろには車の走る大通りがある。声を上げれば、誰かには届く距離だった。


 千綴は公園へ背を向けないまま、一歩だけ後ろへ下がった。


「何をしていたんですか」


「確認だよ」


「何を?」


「音を聞いても、近づかなかった」


 男の視線が、千綴の足元から顔までゆっくり動いた。


「慎重だ。けれど、見捨てることもできなかった。だから声を掛けた」


 その言い方に、背中が冷えた。


 音は偶然ではなかった。


 自分がどう反応するか、見られていた。


 千綴はスマートフォンを握り直した。画面はまだグループの会話を表示している。緊急通報を開くなら、数回触れるだけでいい。


「そこで止まってください」


 できるだけ声を乱さずに言う。


 男は従わなかった。


 一歩。


 靴の下で、濡れた砂がわずかに鳴った。


「近づかないで」


「怖い?」


「警察を呼びます」


「それは困るな」


 男の声には、困った様子がなかった。


 千綴は画面へ親指を伸ばした。


 光が走った。


 何かが右手の甲へ触れた。


 ちくりとした痛みが走る。


 手を引こうとした。


 けれど、右手は動かなかった。


 握っていたスマートフォンだけが指の間からこぼれ、硬い舗装へ角から当たって、画面を上にしたまま滑っていく。


 千綴は動かない右手へ視線を落とした。


 手の甲には、縫い針より長い黒い針が立っている。


 血がにじんでいた。


 抜かなければ。


 そう思って左手を伸ばしたが、右手は指一本動かなかった。


 痛みはある。雨粒が皮膚へ当たる感覚もある。


 それなのに、手だけが自分から切り離されたように、命令を受けつけない。


「最初は手だ」


 男が言った。


 千綴は左手でスマートフォンを拾おうとした。


 二度目の光が、手首の近くへ落ちる。


 小さな痛みが走った直後、左腕が沈み、指先が舗装へ触れる直前で止まった。


 両手が動かない。


 千綴は顔を上げた。


 男の手元には、まだ針がある。


 投げたようには見えなかった。腕を振る動きすら、ほとんどなかった。


「何をしたの」


「君の手を預かった」


 意味が分からなかった。


 けれど、その言い方だけがひどく気持ち悪かった。


「……私の手でしょ」


 男は少し目を細めた。


「まだ自分のものだと思っているんだね」


 千綴は答えず、踵を返した。


 大通りまで走ればいい。両手が使えなくても、足は動く。


 濡れた地面を蹴った瞬間、右の太腿に針先で刺されたような感触があった。


 次の瞬間、膝から力が抜ける。


 身体が傾き、肩から地面へ落ちかけた。左足だけで踏みとどまり、どうにか転倒を避ける。


 右脚が動かない。


 痛みはあるのに、足を着くことも、膝を曲げることもできなかった。


「次は足だ」


 その声が近づいてくる。


 千綴は左足で地面を蹴った。跳ねるように前へ進み、スマートフォンのある場所へ身体を寄せようとする。


 左のふくらはぎが、かすかに痛んだ。


 支えを失い、今度こそ倒れた。


 膝も手も使えない。頬と肩が濡れた舗装へ当たり、口の中に鉄の味が広がった。


 傘が離れた場所へ転がっていく。


 細い雨が、髪と制服へ直接落ち始めた。


 千綴は起き上がろうとした。


 腕は動かない。脚も動かない。


 腹と背中へ力を入れれば、身体を捻ることはできる。肩を揺らし、少しずつ向きを変えようとした。


 男の靴が視界へ入った。


 千綴の前で止まる。


「よく動く」


 見下ろす声は、感心しているようにも聞こえた。


「手が駄目なら足を使う。足が駄目なら、残ったところで動こうとする」


「……何、言ってるの」


 息が上がり、声が掠れた。


「君のことだよ」


 男は千綴の反応を確かめるように、わずかに首を傾けた。


 意味が分からない。


 分かりたくもなかった。


 右手はすぐ目の前にある。


 雨に濡れ、黒い針を刺されたまま、地面へ投げ出されている。感覚は残っているのに、指一本、自分の思うようにはならない。


 自分の手なのに。


 この男のものではない。


 返してほしいと思った。


 違う。


 返してもらうものではない。


 最初から、これは自分の手だ。


 右の人差し指が、舗装を擦った。


 千綴は息を止めた。


 今、動いた。


 どうしてかは分からない。


 試すように力を入れると、指がもう一度曲がった。続いて中指が動き、手のひらが濡れた地面を掴む。


 男の表情が止まった。


「……何をした」


 千綴にも分からなかった。


 答える代わりに、動くようになった右腕を引き寄せた。肩まで重かったが、命令は届いている。


 右手のすぐ先に、傘の柄が転がっていた。


 千綴は動くようになった腕を地面へ押しつけ、肩と腰を僅かにずらした。脚は動かない。それでも身体を引きずるようにして、指先を柄へ届かせる。


 男が手の中の針を持ち直した。


「動くはずがない」


 その声が近づくより先に、千綴は傘を振った。


 開いたままの傘が男の腕へぶつかり、黒い針がいくつか宙へ散った。地面へ触れた先から輪郭を失い、濡れた舗装へ沈んでいく。男が身を引く。


 千綴は傘を支えに身体を起こそうとした。脚は動かない。それでも腕さえ使えれば、地面を這ってでも公園の外へ近づける。


 柄を握り直した瞬間、右手の甲に小さな痛みが重なった。


 指が開く。


 傘が落ちた。


 もう一度。


 動いたはずの右手が、再び地面へ沈んだ。


「今のは何だ」


 男の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。


 千綴は答えられない。


 自分でも、何をしたのか分からない。ただ嫌だと思った。自分の手を、この男のもののように扱われることが。


 左手にも、もう一度小さな痛みが触れた。


 両腕が完全に沈む。


 男は千綴を見下ろしていた。呼吸がわずかに速くなっている。


「違う」


 何が違うのか、千綴には分からなかった。


 男は自分へ言い聞かせるように、もう一度呟いた。


「取得できていた。間違いなく」


 その目が、千綴の腕から顔へ移る。


 驚きの奥に、別のものが浮かんでいた。


 期待だった。


 それがすぐに、焦りへ変わる。


「もう一度だ」


 男が針を選ぶ。


 千綴は身体を少しでも後ろへずらそうと、腰へ力を入れた。


 脇腹に、ちくりとした感触があった。


 直後、腹に入れていた力が抜けた。


 背中も腰も、自分の身体を支えることをやめる。肩が地面へ落ち、胸が押しつぶされるように傾いた。


 息を吸おうとした。


 胸はわずかに動いたが、空気が足りない。


 もう一度、もっと深く吸おうとしても、身体は応えなかった。喉の奥だけがひくつき、浅い息が途切れ途切れに漏れる。


 咳をしたかった。


 唾を飲み込みたかった。


 けれど、どちらも自分ではできない。


 肺の中に残った空気だけが、少しずつ失われていく。


 苦しい。


 そう思った瞬間にも、胸は次の呼吸を始めてくれなかった。


 千綴は口を開いた。空気を求めるように顎だけが僅かに動く。それでも入ってくるのは、細く冷たい一息だけだった。


 視界の端が暗くなり、耳の奥で血の音が鳴り始める。


 首から下が、自分の身体ではない重い塊になっていた。


「これで、静かに見られる」


 男がしゃがみ込む。


 濡れた地面へ膝をつくことを気にする様子はない。


 千綴の顔を覗き込み、呼吸の間隔を数えるように見ていた。


「やめ……」


 声になりきらなかった。


「まだ声は出る」


 男は千綴の口元を見た。


「怖い?」


 答えようとして、息だけが漏れた。


 怖いに決まっている。


 店長に連絡したい。守屋を呼び戻したい。誰でもいいから、ここへ来てほしかった。


 男は、そんな千綴の顔を待っていたように見えた。


「その顔になるまでが長かった」


 ぞっとした。


 この男は、自分の言葉を聞いているのではない。


 痛がるところも、逃げようとするところも、最初から決めた順番に当てはめて見ているだけだ。


「……ちがう」


 掠れた音が、ようやく喉を抜けた。


「何が?」


 千綴自身にも、うまく説明できなかった。


「しら……ない」


 それ以上、息が続かなかった。


 男の目がわずかに細くなる。


「何を?」


 千綴は唇を動かした。


「……わたし」


 声にはならない。


 それでも、男が何かを分かったように話すことだけは、ひどく気持ちが悪かった。


「身体は分かる」


 千綴は僅かに首を振ろうとした。


 動かなかった。


「動かなくなった。なら、それで十分だ」


 違う。


 そう思った。


 けれど、もう言葉にはできなかった。


 男の口元から、薄い笑みが消えた。


 千綴は息を吐こうとして、浅い空気だけを漏らした。


 何も知らない。


 千綴はそう思った。


 けれど、喉から漏れたのは浅い息だけだった。


 男の指が、手の中の針を強く握った。


 手の中の黒い針が触れ合い、かすかな音を立てる。


「違う」


 それまでの穏やかな声ではなかった。


 男は千綴の顔を見たまま、浅く息を吸った。目だけが落ち着きなく動き、何かを探すように頬や唇、濡れた髪へ順に向けられる。


「一度、外した」


 誰に言うでもなく、言葉がこぼれた。


「だったら、もっと出るはずなんだ。逃げられないと分かれば、もっと――」


 途中で声が止まる。


 千綴には、その先が分からなかった。ただ、男が自分の顔にないものを探し続けていることだけは分かった。


 男の眉が歪んだ。


「君には関係ない」


 吐き捨てるような声だった。


 立ち上がろうとして膝が滑り、男は濡れた地面へ一度手をついた。すぐに身体を起こしたが、乱れた呼吸は戻らなかった。


「違う。これも違う」


 手の中の針を選び直す。


 一度取ったものを戻し、別の一本へ触れ、それも払い捨てる。黒い輪郭は地面へ届く前に薄れた。


「何も知らないくせに、そんな目で見るな」


 千綴がどんな顔をしているのか、自分では分からなかった。


 男はそれ以上見ていられないように、わずかに顔を逸らした。


「君は、標本には向かない」


 言い聞かせるような声だった。


 なりたくない。


 千綴はそう返そうとした。


 けれど、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。


 それでも、千綴は男から目を逸らさなかった。


「黙れ」


 初めて、怒鳴り声に近い音が混じった。


 男は一本の針を掴む。指先が震えていた。


「残す価値もない」


 千綴は針の先を見た。


 次に何が起きるかを、身体が先に理解した。


 声を上げようとする。


 助けを呼ぼうとする。


 けれど、男の指が動く方が早かった。


 首の付け根に、小さな痛みが触れた。


 喉が閉じ、声が消える。


 視線を動かそうとしても、瞼も眼球も命令を受けつけない。耳へ届いていた雨音が遠ざかり、胸の動きが一度、浅く途切れた。


 もう一度吸おうとしても、身体は応えなかった。


 濡れた舗装の冷たさだけが、頬に残っていた。


 それも、少しずつ遠のいていく。


 胸は、もう動かなかった。





 胸は、もう動かなかった。


 雨の音も、頬に触れていた冷たさも、遠くなっていく。


 暗くなるのではなかった。


 何も見えなくなるより先に、別の景色が浮かんだ。


 雨の中、守屋が傘を少し持ち上げている。


「着いたら送れよ」


「悠司もね」


 ついさっき交わしたばかりの言葉だった。


 分かれ道の向こうへ歩いていく背中を見送り、自分は大通りの方へ向かった。


 店長が迎えに来る。


 だから大丈夫だと答えた。


 場面が途切れる。


 昼休みの教室だった。


 机の上には空になりかけた弁当箱と、ヴァシリオスが買ってきた奇妙なパンが並んでいる。


「帰ったら、ちゃんと送れよ」


「分かってる、ヴァシリオス」


「絶対だぞ」


「絶対」


 自分の声が、ひどく近くに聞こえた。


 まだ送っていない。


 そのことだけが、胸のない場所へ重く残った。


 次に見えたのは、今よりずっと低いところにあった空だった。


 故郷の夏祭り。


 提灯の灯り。人の声。遠くで鳴る太鼓。浴衣の袖を気にしながら、人の間を縫うように歩いていた幼い自分。


 誰かとはぐれないように、祖父の手を握っていた。


 夜空には星が少なく、代わりに祭りの明かりが低く浮かんでいる。


 境内の端で、千綴は何かを見上げていた。


 何を見ていたのかは、もう思い出せない。


 ただ、あのとき自分が言ったことだけが残っていた。


 あれは、きっとそうだ。


 根拠もなく、幼い千綴はそう言った。


 祖父は否定しなかった。


「そう思うなら、それでいい」


 その言葉の意味が、当時は分からなかった。


 正しいとも、間違っているとも言わなかった。


 ただ、自分がそう思ったことを、そのまま受け取ってくれた。


 今になって、言葉が別のものへ繋がった。


 守屋と別れた道。


 昼休みに交わした約束。


 迎えに来ると言った巴。


 故郷の祭りで握っていた祖父の手。


 離れているのに、なくなってはいない。


 ここで自分が終わったとしても、最初から何もなかったことにはならない。


 そう思うなら、それでいい。


 祖父の声が、もう一度聞こえた。


 死んだんだと思う。


 それでも、帰りたいと思った。


 約束を返したいと思った。


 店長に会いたい。


 悠司に、ちゃんと着いたと伝えたい。


 明日の朝も、あの坂を上りたい。


 それが正しいのかは分からない。


 できることなのかも分からない。


 それでも、千綴はそう思った。


 その瞬間、それまで別々だったものが一つに重なった。


 雨。


 地面。


 遠くを走る車。


 自分を待っている人。


 もう動かない身体。


 帰りたいと思う自分。


 どれも離れているはずなのに、完全には切れていない。


 どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。


 境目が、ほんの一瞬だけ分からなくなった。


 言葉にはできなかった。


 けれど、それまで見えなかったものが、ほんの一瞬だけ繋がった。


 切れたと思っていたものの向こうに、まだ何かが残っている。


 動かない身体と、帰りたいと思う自分のあいだにも。


 何かが触れた。


 次の瞬間、冷たさが戻った。


 濡れた舗装が、頬へ触れている。


 雨粒が瞼を打つ。


 胸の奥が強く縮んだ。


 空気が喉へ流れ込み、千綴は大きく息を吸った。


 吸い込んだ空気が肺を刺す。


 身体が痙攣し、喉の奥から掠れた音が漏れた。


 息が続かない。


 胸が何度も不規則に跳ね、そのたびに空気が途切れ途切れに入ってくる。


 千綴は咳き込み、濡れた地面へ額をつけた。


 指先が震えた。


 右手が動く。


 左手も、遅れて地面を掴んだ。


 脚の感覚が戻り、腹と背中へ力が入る。


 何が起きたのかは分からなかった。


 考えようとすると、さっきまでそこにあったはずの記憶が崩れていく。


 祭りの灯り。


 祖父の声。


 誰かと交わした約束。


 どれも掴もうとするほど遠ざかった。


 ただ、ここから離れなければならないという感覚だけが残っていた。


 千綴は両手を地面へつき、膝を引き寄せた。


 一度では立てなかった。


 腕が震え、足が滑る。


 それでも、もう一度力を入れる。


 何度かよろめきながら、どうにか立ち上がった。


 男が、すぐ近くにいた。


 先ほどまでとは違い、何もせずに千綴を見ている。


 その顔に浮かんでいるものを、千綴は読み取れなかった。


「何を……」


 男の声が途切れる。


 千綴はそちらを見た。


 誰なのか。


 何をされたのか。


 どうして自分が倒れていたのか。


 どれも、すぐには形にならなかった。


 男のすぐ脇を通り過ぎる。


「待て」


 声がした。


 千綴は止まらなかった。


 少し離れた場所に、鞄が落ちている。


 傘も転がっていた。


 スマートフォンは、舗装の上で画面を光らせている。


 通知がいくつも重なり、名前と短い言葉が画面を埋めている。内容までは読めなかった。ただ、誰かが何度も自分を呼んでいることだけは分かった。


 拾わなければならない。


 そう思ったはずなのに、身体はそちらへ向かなかった。


 公園の入口を抜ける。


 車の音が戻ってくる。


 信号の光が濡れた路面へ滲み、人の話し声が遠くから聞こえた。


 どこへ向かえばいいのか、はっきりとは分からない。


 それでも足は、帰る道を知っていた。


 千綴は振り返らず、その場を離れた。





 動かなくなった胸を、男はしばらく見下ろしていた。


 雨粒が制服の背へ落ちている。


 肩は上下しない。


 喉も動かない。


 先ほどまで男を睨んでいた目は閉じられ、そこに意志の残りは見えなかった。


 男は千綴の首筋へ指を当てた。


 脈はない。


 口元へ手をかざしても、息は触れなかった。


 終わった。


 そう確かめた瞬間、張りつめていたものが僅かに緩んだ。


 手順は崩れた。


 一度、奪ったはずの手を取り戻された。


 理由は分からない。


 それでも最後には、すべてを奪った。


 動きも、声も、呼吸も。


 自分から目を逸らさなかった少女は、もう何も返さない。


 男はその顔を見つめた。


 求めていたものとは違う。


 恐怖はあった。抵抗もあった。最後には逃げられないことも分かったはずだ。


 それなのに、足りなかった。


 縋らなかった。


 認めなかった。


 最後まで、自分の内側へ入ることを拒んだ。


「違う」


 声にすると、胸の奥に残っていた渇きがかえって強くなった。


 これではない。


 こんな終わり方では、何も満たされない。


 男は千綴の頬へ手を伸ばしかけた。


 そのとき、舗装の上でスマートフォンが震えた。


 短い振動が止まり、すぐにまた震える。


 光った画面には、いくつもの通知が重なっていた。


 誰かが、この少女を探している。


 このまま応答がなければ、周囲を探し始める者もいるだろう。


 男は大通りへ目を向けた。


 雨音の向こうから車の走る音が続いている。公園の入口を通り過ぎる人影はまだない。だが、ここにいられる時間は長くなかった。


 男は立ち上がり、公園の入口へ向かった。


 ここを離れなければならない。


 そう思って数歩進んだ、そのときだった。


 背後で、喉の奥から掠れた息が漏れた。


 男は振り返った。


 少女の胸が大きく持ち上がり、指先が濡れた舗装を掻いた。


 男は動けなかった。


 脈はなかった。


 息もなかった。


 確かに終わっていた。


 それを、自分の指で確かめた。


「何を……」


 声が途中で消えた。


 少女は咳き込みながら両手を地面へつき、ゆっくりと身体を起こしていく。


 奪ったはずの手も、脚も、胴体も、すべてが動いている。


 解除されたのではない。


 あれは一度、完全に止まった。


 男の中で、積み重ねてきた手順が音を立てて崩れた。


 針が外れたからではない。


 取得が浅かったわけでもない。


 死んだ者は動かない。


 それだけは、これまで一度も違わなかった。


 少女が立ち上がる。


 何度も足を滑らせ、腕を震わせながら、それでも立った。


 男は手の中の針を握った。


 刺せばいい。


 もう一度、手から奪えばいい。


 そう考えたのに、指が動かなかった。


 先ほど一度だけ、支配を外された感覚が蘇る。


 何をされたのか分からなかった。


 今も分からない。


 自分が奪ったものを、この少女は、自分には理由も分からないまま取り戻した。


 そして今度は、死そのものから戻ってきた。


 少女がこちらを見た。


 焦点の合わない目だった。


 怒りも、恐怖もない。


 男を見ているのに、男の存在を捉えていない。


 そのことが、怒鳴られるよりも恐ろしかった。


 少女は一歩踏み出した。


 男の方へ来る。


 反射的に針を構えた。


 だが、少女は手を伸ばさなかった。


 男のすぐ脇を、そのまま通り過ぎる。


「待て」


 絞り出した声に、少女は反応しない。


 濡れた歩道へ向かい、公園の入口を抜けていく。


 男は追えなかった。


 背中が遠ざかっても、足は地面に縫いつけられたように動かなかった。


 生き返った。


 その言葉を考えただけで、喉の奥がひどく乾いた。


 あり得ない。


 けれど、あり得ないものが目の前を歩いていった。


 理解できない。


 自分が。


 男は強く奥歯を噛んだ。


 その事実が、死者が歩き出したこと以上に耐え難かった。


 またスマートフォンが震えた。


 男は我に返った。


 公園の外で、車が速度を落とす音がする。


 大通り側から、人の話し声が聞こえた。


 ここにいてはいけない。


 少女はすでに公園を出ていたが、鞄と傘、スマートフォンはその場に残されている。


 足元に落ちていた黒い針は、すでに輪郭を失い始めていた。雨に濡れた舗装へ沈むように細くなり、やがて暗がりへ紛れていく。


「違う」


 何に対する言葉なのか、自分でも分からなかった。


 あれは失敗ではない。


 確かに殺した。


 間違えていない。


 間違っているのは、戻ってきた少女の方だ。


 そう言い聞かせても、指の震えは止まらなかった。


 男は鞄と傘、何度も震えるスマートフォンへ一度だけ目を向け、植え込みの奥へ視線を移した。


 来た道を戻るべきではない。


 大通り側には人がいる。


 反対側の低い柵を越えれば、建物の裏手へ抜けられる。


 少女を追うという考えが、一瞬だけ浮かんだ。


 確かめなければならない。


 何をしたのか。


 どうして戻ったのか。


 今度こそ理解しなければならない。


 だが、足は少女の後を選ばなかった。


 今追えば、見つかる。


 捕まれば、もう確かめることもできない。


 男は公園の奥へ走った。


 濡れた土を踏み、植え込みを押し分ける。枝が頬を掠めても止まらない。


 背後で、またスマートフォンが震えた。


 誰かが少女を呼び続けている。


 男は振り返らなかった。


 低い柵へ手を掛け、雨に滑りながら向こう側へ身体を落とす。


 着地した足がもつれた。


 壁へ手をつき、息を整える間もなく路地の暗がりへ入った。


 逃げなければならない。


 今は、それだけだった。





 目を開けたとき、最初に見えたのは、知らない天井だった。


 薄い色の壁紙。見覚えのない照明。カーテンの隙間から差し込む朝の光。


 千綴はしばらく瞬きを繰り返した。


 身体を起こそうとして、肩に掛けられていた毛布がずれる。着ているものも、自分の服ではなかった。少し大きめの長袖と、柔らかい生地のズボン。


 そこでようやく、部屋の隅に置かれた棚と、窓際の小さな観葉植物に見覚えがあることへ気づいた。


 巴の家だった。


「……なんで」


 声は掠れていた。


 喉が乾いている。


 枕元には水の入ったコップが置かれていた。手を伸ばし、一口飲む。冷たい水が喉を通る。


 昨夜のことを考えようとした。


 学校を出たこと。


 守屋と別れたこと。


 そこまでは覚えている。


 その先へ進もうとすると、頭の中に白い空白が広がった。


 次に残っているのは、自分の部屋の前だった。


 巴の声を聞いた。


 振り向いた。


 そこから先は、また何もない。


 千綴は毛布の上で手を握った。


 指は動く。


 痛みも、目立った傷もない。


 それなのに、何か大切な部分だけが抜け落ちている感覚があった。


 部屋の外から、食器の触れ合う音がした。


 千綴は毛布を退け、ゆっくり立ち上がった。


 足元は少し頼りなかったが、歩けないほどではない。


 扉を開けると、台所にいた巴がすぐに顔を上げた。


「起きた?」


「……うん」


 巴は手を止めたまま、千綴の顔を見つめた。


「気分は」


「大丈夫。たぶん」


「たぶんは禁止」


 いつもの調子に近い声だった。


 けれど、その目の下には薄く疲れが残っていた。


「頭は痛くない? 吐き気は?」


「ない」


「身体のどこか、痛いところは」


「ないと思う」


 巴はすぐには答えなかった。


 それから、ようやく小さく息を吐いた。


「よかった」


 その一言に、千綴は顔を上げた。


 巴は視線を逸らし、コンロの火を弱めた。


「本当に、よかった」


 声は静かだった。


 千綴は何も言えなかった。


 昨日、巴がどれだけ探したのか。


 自分がどんな状態で見つかったのか。


 まだ詳しくは分からない。


 それでも、巴がほとんど眠っていないことだけは分かった。


「ごめん」


「謝らなくていい」


 返事はすぐだった。


「今は座って」


 椅子を引かれ、千綴は言われた通りに腰を下ろした。


 目の前に、湯気の立つカップと、柔らかく煮たおかゆが置かれる。


「食べられそう?」


「少しなら」


「少しでいい」


 巴は向かい側へ座った。


 千綴がひと口食べるまで、何も聞かなかった。


 温かいものが胃へ落ちていく。


 それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。


「昨日のこと」


 千綴が口を開くと、巴はすぐに首を振った。


「今は思い出さなくていい」


「でも」


「無理に思い出して、また倒れたら意味がないでしょう」


 強い言い方ではなかった。


 けれど、譲るつもりがないことは分かった。


「今日は病院に行く」


「学校は」


「休み」


「でも、生徒会も」


「休み」


 巴は言い切った。


「明日も、必要なら休ませる。警察の話も、学校の話も、千綴が落ち着いてから」


「警察?」


 千綴の手が止まった。


 巴は少し迷ったあと、必要なことだけを選ぶように口を開いた。


「鞄とスマートフォンと傘が見つかった」


「どこで」


「公園」


 胸の奥が冷えた。


 千綴は反射的に足元を見た。


 鞄はない。


 スマートフォンもない。


 傘もない。


「制服は洗ってる。泥だらけだったから」


「私、どうやって帰ったの」


「分からない」


 巴は正直に答えた。


「待ち合わせ場所にいなかった。電話にも出なかった。悠司に別れた場所を聞いて、帰り道を探した」


 そこで一度言葉を切る。


「最後に部屋を見に行ったら、千綴が立ってた」


「部屋の前に?」


「ずぶ濡れで、手ぶらで」


 千綴は何も言えなかった。


「名前を呼べば反応はした。でも、ほとんど何も話せなかった。ひとりにはできなかったから、うちに連れてきた」


 巴は千綴の手元へ視線を落とした。


「警察からは連絡が来てる。学校にも確認が入ると思う。でも、今日すぐ話す必要はない」


「いいの?」


「よくない状態の人に無理に話させる方が、もっとよくない」


 千綴はカップを両手で包んだ。


 何があったのかは分からない。


 ただ、持ち物だけが公園に残り、自分はそこから離れた場所で見つかった。


 そのあいだの記憶がない。


 夢ではない。


 何もなかったわけでもない。


 けれど、今すぐ答えを出さなくていいと、巴は言っている。


「今日は、ここにいていい?」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 巴はすぐに頷いた。


「最初から、そのつもり」


 その返事を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。


 窓の外では、昨日の雨が嘘のように空が明るい。


 昨日までと同じ朝に見える。


 けれど、千綴の中には、まだ名前のつかない空白が残っていた。


 今は、それを無理に埋めなくていい。


 千綴はもう一度、おかゆを口へ運んだ。


 温かさだけを確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。

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