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千綴は、坂の途中で足を止めた。
朝の空は、昨日と同じようによく晴れている。
高いところには薄い雲があり、その下には夏の青が広がっていた。坂の上では綾丘高校の白い校舎が朝日を返し、住宅の屋根の向こうには、霞んだ山の輪郭が見えている。
蝉の声も、肌へまとわりつく暑さも、昨日と変わらない。
それなのに、何かが違っていた。
千綴は目を細めた。
空の色が違うわけではない。雲が不自然に動いているわけでも、見慣れないものが浮かんでいるわけでもなかった。
坂を上っていく生徒たちも、いつもどおりだ。友人を待つ者がいて、眠そうに欠伸をする者がいる。横を通り過ぎた自転車の男子生徒は、坂の勾配に負けそうになりながら懸命にペダルを踏んでいた。
見えるものは、昨日と同じ場所にある。
けれど、それらがひとつの朝として、うまく重なっていないような気がした。
千綴は鞄の持ち手を握り直した。
寝不足ではない。朝食も食べた。熱もなければ、頭痛もしない。
気のせいだと片づけるには、胸の奥へ残る引っかかりが妙にはっきりしていた。
「ちづる!」
背後から呼ばれ、千綴は振り返った。
坂を駆け上がってきた綾乃が、数歩手前で速度を落とす。今日は転びかけることもなく、千綴の隣へ並んだ。
「おはよう。今日も空を見てた?」
「おはよう。今日は見てたというか……」
言葉を探しながら、もう一度だけ頭上を見る。
やはり、よく晴れた空だった。
「何かある?」
綾乃もつられて見上げる。
「ううん。何もない」
「何もないのに見てたの?」
「そうみたい」
自分でも要領を得ない返事だった。
綾乃は空から千綴へ視線を戻す。いつものように笑ってはいたが、その目が少しだけ細くなった。
「ちづる、眠い?」
「眠くないよ」
「じゃあ、具合悪い?」
「それも大丈夫」
「本当に?」
「本当に。ちょっと考え事してただけ」
何を考えていたのかと聞かれたら、答えられそうになかった。
けれど綾乃は、それ以上追及しなかった。
「ならいいけど。駄目になったら早めに言ってね」
「駄目になる前提なの?」
「ちづるは大丈夫って言いながら動くから」
「それ、昨日も似たようなこと言われた」
「誰に?」
「バイト先の店長」
「じゃあ間違ってないね」
迷いなく断定され、千綴は小さく息を吐いた。
二人で坂を上り始める。
綾乃は文芸部で読む本の話をして、夏休みに入る前に借りた分を返せるだろうかと真剣に悩んだ。千綴は相槌を打ちながら、ときどき坂の下へ目を向けた。
住宅街の向こうを、幹線道路が走っている。
車の列も、遠くの信号も、いつもと変わらない。
「ちづる?」
「聞いてるよ。残り二冊でしょ」
「三冊」
「増えてる」
「昨日、一冊借りたから」
「返す話をしてる途中で借りないで」
ようやくいつもの調子で返すと、綾乃が安心したように笑った。
その笑顔を見ているあいだだけ、朝の違和感は少し遠のいた。
坂を上り切る。
校門のそばには、見慣れない位置に教師が立っていた。登校してくる生徒へ挨拶をしながら、ときどき道路の先へ視線を向けている。
生活指導か何かだろうか。
千綴は気になったが、教師の前を通る頃には、後ろから来た綾乃に背中を押されていた。
「止まるとぶつかるよ」
「止まってない」
「今日は遅くなってる」
昨日とは少し違う言葉に、千綴は反論できなかった。
昇降口へ入ると、蝉の声が遠のいた。
靴底が床を擦る音と朝の挨拶が重なり、開け放たれた扉から、熱を含んだ風が流れ込んでいる。そこまでは昨日と同じだった。
違っていたのは、足を止めたままスマートフォンを見ている生徒が多いことだった。
画面を見せ合い、声を潜める。教師が近くを通ると会話は一度途切れ、その背中が離れれば、また小さく繋がっていく。
千綴が下駄箱を開けると、隣で綾乃も靴を脱いだ。今日は片足で立たず、最初から腰を下ろしている。
「学習したね」
「昨日はたまたまだから」
「何がたまたまなんだ?」
聞き覚えのある声がして、二人で振り返る。
悠司が上履きを片手に立っていた。
「おはよう、守屋くん」
「おはよう。今日は大丈夫」
綾乃が座ったまま胸を張る。
「靴を履き替えるだけで報告が必要なのか」
「昨日、助けてもらったから」
「助けたっていうほどじゃないけどな」
悠司は呆れたように言いながら、上履きへ履き替えた。
「千綴も、おはよう」
「おはよう」
「……どうかした?」
悠司の視線が、千綴の顔で止まる。
「何が?」
「いや。綾乃だけじゃなくて、千綴まで静かだから」
「私はいつも静かでしょ」
「自分で言う?」
綾乃がすぐに口を挟む。
悠司は二人を見比べ、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、また」
「うん。また」
廊下の分かれ道で別れ、悠司は自分の教室へ向かう。
千綴と綾乃が階段へ進むあいだにも、教師が早足で横を通り過ぎた。手には書類の束を抱えている。職員室の方角から呼び止める声が飛び、教師は返事だけを残して角を曲がった。
「朝から忙しそうだね」
綾乃の言葉に、千綴は頷いた。
教室へ入る前から、中のざわめきが廊下まで届いていた。
「遅い」
ヴァシリオスが、千綴たちの姿を見るなり声を上げる。
昨日と同じようにスマートフォンを手にしていた。けれど今日は、得意げに話題を持ってきた顔ではない。
環は自分の席へ座り、机へ頬杖をついている。眠そうな目は開いていた。
「おはよう。何かあったの?」
「あった。昨日の夜、まただ」
ヴァシリオスが差し出した画面を、千綴と綾乃が覗き込む。
表示されていたのは、報道記事を引用した投稿だった。
昨夜、継見市内で女子生徒が事件に巻き込まれたこと。被害者は、綾丘高校から遠くない別の高校に通っていたこと。警察が、これまでの事件との関連も含めて捜査していること。
短い文章を読み終えても、千綴はすぐに顔を上げられなかった。
「近くの学校って……」
綾乃の声から、いつもの明るさが薄れる。
「電車なら二駅。向こうの生徒と知り合いのやつもいる」
ヴァシリオスが画面を送る。
記事の下には、すでに多くの言葉が連なっていた。
前の事件と同じ犯人だと断定する投稿。被害者を知っていると名乗る者の書き込み。警察が隠していることがあるという話。現場の写真だと称する、暗く不鮮明な画像。
「これ、本物なの?」
綾乃が画像を指す。
「分からない。別の場所の写真だって言ってるやつもいる」
「なら、見せない方がいいよ」
千綴が言うと、ヴァシリオスは指を止めた。
「でも、知っておいた方が――」
「何を?」
声が少しだけ強くなった。
ヴァシリオスが黙る。
千綴は画面を見たまま、息を整えた。
「事件が起きたことと、近くの学校の生徒が被害に遭ったことは、記事に書いてある。前の事件との関連は捜査中。そこまでは分かる。でも、その写真が本物かも、書いた人が本当に被害者を知ってるかも分からないでしょ」
「……そうだな」
「ごめん。ヴァシリオスが悪いって言いたいんじゃない」
「分かってる」
ヴァシリオスは画面を消した。
環が頬杖をついたまま、窓の外を見る。
「でも、近くまで来た」
その一言に、誰もすぐには返さなかった。
昨日まで、事件は画面の向こう側にあった。
知らない街。見覚えのない倉庫街。自分たちとは違う場所で起きた、怖い出来事。
いまも被害者の顔も名前も知らない。
それでも、同じ制服を着て学校へ通っていたと知っただけで、遠さの測り方が変わってしまった。
廊下を教師が通り過ぎる。
開いた扉の向こうで別の教師に呼び止められ、二言三言を交わしてから、今度は職員室の方へ戻っていった。
教室の前方では、クラスメイトたちが似たような話をしている。
「うちも休校になるって」
「それ、誰が言ってたの?」
「隣のクラス。保護者に連絡が来たらしい」
「俺のところには何も来てないけど」
話は広がるたびに形を変えていた。
休校になる。授業は午前で終わる。部活動だけがなくなる。犯人はもう市内にいる。いや、捕まったらしい。
互いに矛盾する話が、どれも同じ確かさで囁かれている。
千綴は窓の外へ目を向けた。
校門には、さきほど見た教師がまだ立っている。その近くへ別の教師が加わり、登校してくる生徒と、その向こうの道路を交互に見ていた。
空は変わらず晴れていた。
けれど、坂の途中で感じたものは、もう気のせいとは思えなかった。
変わっていたのは、空ではない。
その下にいる人たちだった。
始業を知らせるチャイムが鳴った。
教室のあちこちで会話が途切れ、生徒たちは反射的に自分の席へ戻る。ヴァシリオスもスマートフォンをしまい、環は頬杖を解いた。
けれど、担任は来なかった。
一分が過ぎても、教室の扉は開かない。
静かになりかけた教室へ、また少しずつ声が戻ってくる。
「本当に休校なんじゃない?」
「だったら先に放送するだろ」
「職員会議、長引いてるって」
「誰情報?」
「さっき先生が話してるの聞いた」
今度の話には、少なくとも出どころがあった。
千綴は前方の時計を見る。
一限の開始時刻を過ぎている。
廊下では、別の教室の扉もまだ開いたままだった。教師の声は聞こえず、代わりに生徒たちのざわめきだけが校舎の中へ薄く広がっている。
数分後、ようやく足音が近づいてきた。
教室の扉が開く。
「遅くなって悪い」
担任が出席簿と何枚かの紙を抱えて入ってきた。いつもより歩調が速く、教卓へ置いた書類の端も揃っていない。
「臨時の職員会議が長引いた。先にホームルームをやる」
教室の空気が、ひとつに集まる。
担任は全員の顔を見渡してから、手元の紙へ目を落とした。
「もう知っている者も多いと思うが、昨夜、市内で近隣校の生徒が被害に遭う事件があった。学校からも保護者へ順次連絡を出している」
誰かが小さく息を呑んだ。
「当面のあいだ、部活動はすべて中止。再開の時期は、状況を見て改めて連絡する。放課後は用事がなければ速やかに下校すること。できるだけ一人では帰らず、複数で帰るか、可能なら保護者に迎えを頼むように」
担任は一度言葉を切った。
「寄り道もしないこと。不審な人物や、何かおかしなものを見つけても、自分で確かめようとするな。安全な場所から警察か学校、近くの大人へ連絡しろ。友達同士でも、面白半分で見に行くことは絶対にしないように」
千綴は、昨夜の巴の言葉を思い出した。
助けを呼ぶ。人のいる方へ逃げる。まず自分が無事でいる。
順番を間違えないこと。
同じ注意を二日続けて聞くことになるとは思わなかった。
「細かい下校方法は、今日中に改めて連絡する。保護者から迎えについて連絡が来た場合も、各自で勝手に帰らず、担任か学年の先生へ確認してから動くこと」
担任は手元の紙を教卓へ置いた。
「質問はあるか」
いくつか手が上がった。
「山田先生、授業は通常どおりですか」
一人が尋ねると、続けて、部室へ荷物を取りに行ってもいいのか、迎えを頼めない場合はどうするのかと質問が飛んだ。
担任は、現時点で決まっていることだけを答えた。授業は通常どおり。部室への立ち入りは放課後に改めて指示する。迎えがなくても、できるだけ同じ方向の生徒と帰ること。
分からないことは分からないままにせず、その一方で、決まっていないことを決まったようにも言わなかった。
最後の質問が終わると、担任は時計を見る。
「一限はもう始まってる。遅れた分、少し急ぐぞ」
教卓の脇へ置いていた教材を開きかけて、ふと思い出したように顔を上げた。
「それと弥生」
「はい」
「生徒会に連絡がある。授業が終わったら、職員室へ来るように」
教室の何人かが千綴を見る。
「分かりました」
答えながら、千綴は教卓の紙へ目を向けた。
部活動の中止。下校方法の確認。保護者への連絡。
生徒会へ回ってくる仕事が、何もないとは思えなかった。
担任は頷き、黒板へ向き直った。
チョークが、白い線を引く。
遅れて始まった一限の板書が、昨日までと同じ黒板の上へ並び始める。
千綴はノートを開いた。
窓の外には、夏の空が広がっていた。
変わらない青さだけを、教室の上に残したまま。
黒板の隅に書かれた式を写し終えたところで、千綴はシャープペンシルを止めた。
窓の外が、朝より暗くなっている。
午前のあいだに薄い雲は空全体へ広がり、校庭へ落ちる影を消していた。窓は開いているのに風はほとんど入らない。湿気を含んだ空気が教室にこもり、回り続ける扇風機が、紙の端だけをかすかに揺らしている。
教師の声に促され、千綴は視線を教科書へ戻した。
授業そのものは、いつもと変わらなかった。
朝の遅れは二限が始まる頃には埋まり、それからは時間割どおりに進んでいる。教師が板書をし、指名された生徒が答え、分からなかった者が隣のノートを覗き込む。
ただ、廊下を通る足音だけは、いつもより多かった。
授業中にも教師が何度か教室の前を横切った。職員室の方角から内線の呼び出しが聞こえ、休み時間になるたび、保護者へ連絡した生徒が担任のところへ集まった。
千綴も、一限のあとに職員室へ呼ばれている。
渡されたのは、放課後の臨時対応をまとめた紙だった。
生徒会は教師の補助に入り、下校する生徒と校内へ残る生徒を確認する。迎えを待つ者は指定された教室へ集め、保護者が到着した順に校門まで誘導する。校門での声掛けや校内の見回りについては、終礼後に担当を分ける。
仕事の内容は難しくない。
けれど、紙の下には、今朝までなかった名簿が何枚も綴じられていた。
視界の端で、時計の長針がひとつ進む。
昼までは、あと二分だった。
前の席では、ヴァシリオスがさっきから落ち着かない。教科書の陰へスマートフォンを隠すようなことはしていないが、伏せて置いた端末へ何度も視線を落としている。
その斜め前では、環が頬杖をついたまま目を閉じていた。
眠っているように見える。
けれど教師が黒板へ新しい式を書くたび、ノートを取る手だけは動いていた。
やがて、午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
教師が説明を切り上げ、日直の号令に合わせて教室中の椅子が鳴る。礼が終わるより早く、あちこちで話し声が戻った。
朝から何度も繰り返されてきた事件の話。
迎えが来るかどうか。
帰りに誰と一緒になるか。
部活動が、いつから再開されるのか。
いつもなら弁当や購買の話で埋まる時間に、今日の放課後だけがいくつもの形で語られていた。
「ちづる、今日はこっちで食べるよね」
綾乃が自分の机を寄せながら確認する。
「うん。放課後の対応は、終礼のあとに昇降口へ集まることになったから」
「よかった。昨日は取られたから」
「取ってないよ」
「生徒会に取られた」
生徒会も千綴の一部なのだから、取られたという言い方はおかしい気がする。
そう返す前に、ヴァシリオスが椅子ごとこちらへ向き直った。
「今日は五人そろわないのか」
「守屋くんは別の教室でしょ」
「呼べば来る」
「呼んだら食べる場所がないよ」
四つの机を寄せただけでも、通路はかなり狭くなる。そこへもう一人増えれば、隣の列まで塞いでしまう。
綾乃が空いた椅子へ弁当を置こうとして、先に環が座った。
「猫、そこ俺の席」
「今は私の席」
「椅子まで持ってきただろ」
「早い者勝ち」
環はそう言って、机の上へ小さな弁当箱を置いた。
朝から教室に残っていた固い空気が、二人のやり取りで少しだけ緩む。
「ヴァシリオス、椅子なら後ろにあるよ」
「千綴は猫に甘い」
「環が先に座ったのは本当でしょ」
「ほら」
環がわずかに顎を上げる。
ヴァシリオスは納得していない顔のまま、教室の後ろから別の椅子を運んできた。
四人で弁当を広げる。
窓の外からは蝉の声が聞こえていたが、昨日まで混じっていた部活動の掛け声はない。昼休みの練習も止められているらしく、校庭には誰も出ていなかった。
「当面って、どのくらいだと思う?」
弁当の蓋を開けながら、ヴァシリオスが言った。
「分からないから当面なんじゃない?」
綾乃が答える。
「週末、練習試合だったんだけど」
「相手の学校も中止じゃないの」
「まだ連絡来てない。大会前なのに、一週間止まったらきつい」
言いながら、ヴァシリオスは卵焼きを口へ運んだ。事件を軽く見ているわけではない。ただ、夏の大会までの残り日数も、彼にとっては同じように現実だった。
「環のところは?」
千綴が尋ねる。
「弓を引けない」
「それは分かる」
「一日なら休み。続いたら鈍る」
環は箸先で弁当の隅の豆を追いながら、いつもと変わらない声で言った。
「家でできないの?」
綾乃の問いに、環が顔を上げる。
「綾乃の家でなら」
「うちでも駄目だよ」
「広いのに」
「広さの問題じゃないから」
「じゃあ、バカを的にする」
「危ないだろ!」
「動くから練習になる」
「ならないよ、環」
千綴が止めると、環は冗談だと言う代わりに豆を口へ入れた。
ヴァシリオスが椅子をわずかに遠ざける。
綾乃は笑っていたが、すぐに校庭へ視線を向けた。
「文芸部は、本を返すくらいならできると思ってたんだけどな」
「朝、返せるか心配してた本?」
「うん。部室に置いたままのもあるし」
「しばらく立ち入りも駄目だって」
「やっぱり?」
「放課後は、迎えを待つ教室と生徒会室以外、残らないようにするって」
「よし。この話は終わり」
ヴァシリオスが、急に箸を置いた。
「終わりなの?」
「昼休みまで暗い話をしてたら、飯がまずくなる」
そう言って、机の脇から紙袋を持ち上げる。
購買の名前が印刷された袋は、弁当とは別に用意したにしては大きかった。
「というわけで、今日の新作」
ヴァシリオスは中から、ひとつずつパンを取り出した。
「ダゴンパン。黒い子山羊パン。シャンタク鳥の唐揚げパン」
三つ目を机へ置いたところで、綾乃が瞬きをした。
「待って。何の話?」
「購買の新作パン」
「名前を聞いても、パンの話だと思えなかったんだけど」
「名状しがたいパンフェアらしい」
「全部、名状してる」
環が即座に言った。
千綴も、並べられたパンを見る。
ダゴンパンは、カニパンのように手足が分かれていた。ただし中央には魚のような顔がつき、丸い目が二つ、こちらを向いている。
黒い子山羊パンは、竹炭を練り込んだらしい黒いパンに、黒い焼きそばが挟まっていた。色の境目がほとんどなく、どこからが具なのか分かりにくい。
最後のパンには、大きな唐揚げが二つ挟まっている。シャンタク鳥が何なのかは分からなかったが、少なくとも鶏肉だと信じたい見た目だった。
「どれが一番まとも?」
綾乃に聞かれ、ヴァシリオスは迷わず黒いパンを指した。
「黒い子山羊」
「それが一番嫌」
「焼きそばパンだぞ」
「見た目が焼きそばパンじゃない」
環は机へ身を寄せ、三つを順に眺めた。
「これ、バカが考えたの?」
「九頭龍さん」
「誰?」
「購買の人」
あまりにも普通の答えに、千綴はもう一度パンを見た。
「九頭龍さんが考えたの?」
「本人は偶然だって言ってた」
「三つとも?」
「九頭龍さんだからな」
「説明になってないよ、ヴァシリオス」
「深海に本体がいるって噂もある」
「購買にいるのは何?」
「地上勤務用」
ヴァシリオスは真顔で答えた。
綾乃が箸を持ったまま、小さく首を傾げる。
「それ、九頭龍さん本人が言ったの?」
「そこまでは聞いてない。未来から来たって話もあるし」
「未来の人が、どうして購買でパンを売ってるの」
「まだ発売されてないパンを先に売るため」
「今日の新作、未来でも売ってるんだ……」
千綴がつぶやくと、環がダゴンパンを指で押した。
魚人の顔が、ゆっくりへこんだ。
「雨の日は、黄色いレインコート」
「それは普通の雨具じゃない?」
「九頭龍さんが着ると、普通じゃないらしい」
「誰が言ったの」
「俺」
「今できた噂だ」
環はそう言いながら、黒い子山羊パンへ手を伸ばした。
「猫、それ俺の」
「三つも食べるの?」
「一個は予備」
「何の」
「新作が予想より名状しがたかったときの」
「もう手遅れ」
環は黒いパンを取り上げ、綾乃の方へ差し出した。
「半分」
「私も食べるの?」
「一人では怖い」
「さっき一番嫌って言ったの、聞いてたよね?」
そう言いながらも、綾乃はパンを受け取った。
二人で割ると、中から見慣れた焼きそばの匂いがする。
それだけで、急に普通の食べ物へ戻ったように見えた。
「味は?」
千綴が尋ねる。
環と綾乃はひと口ずつ食べ、少しだけ考えた。
「普通」
「おいしいけど、すごく普通」
「九頭龍さん、やるな」
「見た目を普通にすればいいだけじゃない?」
ヴァシリオスは、なぜか自分が褒められたような顔をしている。
千綴はダゴンパンと目が合わないよう、弁当箱へ視線を戻した。
朝から教室のどこにいても聞こえていた事件の話は、いつの間にか途切れている。
四人の机の上にあるのは、帰り道への不安ではなく、どこから食べるべきか分からない魚人型のパンだった。
「そういえば、ちづる」
黒い子山羊パンを置いた綾乃が、思い出したように言った。
「職員室で、生徒会のことを聞いてきたの?」
「うん」
千綴は箸を置き、午前中に渡された紙の内容を思い返した。
「生徒会は放課後、先生たちの手伝い。迎えを待つ人の対応や、校内に残ってる人がいないかの確認を、担当を分けてやることになってる。私は終礼のあと、昇降口に行くよ」
「ちづるも残るの?」
「副会長だから」
綾乃の眉が下がった。
「残る人を早く帰すために、ちづるが帰るの遅くなるんだ」
「私だけじゃないよ。会長も悠司も鈴もいるし、先生も一緒」
「帰りは?」
今度はヴァシリオスが聞いた。
「まだ決めてない。終わる時間が分かったら連絡する」
「一人は駄目だって、山田先生が言ってた」
環が箸を止めている。
「分かってる。誰かと一緒に帰るよ」
「誰かって誰」
「そこまでは、まだ」
三人とも黙った。
責められているわけではない。
それでも千綴は、曖昧な返事をしたことが急に落ち着かなくなった。
名前のない予定は、決まっていないこととよく似ている。
「生徒会の中で帰る方向が同じ人を確認する。それで合わなかったら、店長に相談する」
言葉にすると、帰るまでの道筋が少しだけ形を持った。
「丘平商店の?」
綾乃が聞く。
「うん。今日はバイトじゃないけど、店長なら近くにいるから」
「それなら、決まったら教えて」
「綾乃に?」
「私たちに」
ヴァシリオスが自分と環を順に指す。
「帰ったら全員、グループに一言送れ。五人分そろうまでが帰宅確認だ」
「全員って、悠司も?」
「当然」
「悠司を勝手に入れないで」
「もう入ってる」
ヴァシリオスが見せた画面には、いつの間にか作られた五人のグループが表示されていた。
名前は『無事に帰る』。
「そのまますぎる」
千綴が言うと、環が画面を覗き込んだ。
「バカにしては分かりやすい」
「ほめてないだろ」
「名前は大事」
環は淡々と言い、千綴を見た。
朝の「近くまで来た」という言葉より、その一言の方が胸の奥へ静かに残った。
「……うん。大事だよ」
千綴が答えると、環はそれ以上何も言わず、残っていたおかずへ箸を伸ばした。
窓の外が、また少し暗くなる。
廊下では、迎えに来る保護者の名前を教師へ伝える生徒がいた。教室の後ろでは、帰る方向が同じ者同士で集まる約束をしている。
事件の話は消えていない。
けれど四人の机の上には、空になりかけた弁当箱があり、ヴァシリオスが買いすぎたパンがあり、環がいつの間にか取ったひとつを綾乃が半分に分けていた。
いつもと違う一日の中にも、いつもの昼休みは残っていた。
予鈴が鳴る。
教室のあちこちで机が戻され、廊下に出ていた生徒たちが席へ急ぐ。千綴たちも弁当を片づけ、借りた椅子を教室の後ろへ戻した。
「決まったら連絡してね」
自分の席へ戻る前に、綾乃がもう一度言った。
「分かった」
「帰ったら、ちゃんと送れよ」
「分かってる、ヴァシリオス」
「絶対だぞ」
「絶対」
千綴が答えると、ようやくヴァシリオスは前を向いた。
環も自分の椅子へ戻り、何事もなかったように机へ頬杖をつく。
ほどなく五限の開始を告げるチャイムが鳴った。
扉が開き、教科書を抱えた教師が入ってくる。
千綴はノートを開いた。
窓から入り込んだ湿った風が、その端を小さく揺らした。
終礼の終わり際、担任は教卓に片手をついたまま、教室を見渡した。
「もう一度だけ言っておく。今日は寄り道をせず、できるだけ複数人で帰ること。部活動は原則中止だ。学校から連絡が入る可能性もある。各自、連絡を確認できるようにしておけ」
朝にも聞いた注意だったが、担任は言葉を区切りながら念を押した。
窓の外では、昼よりも雲が低くなっていた。
校舎から見える街並みは薄い影に沈み、遠くの山は輪郭を失いかけている。開けた窓から入る風には、朝にはなかった湿った冷たさが混じっていた。
雨の匂いが校舎の中まで入り込んでいる。朝から繰り返されていた事件の話は午後になるとほとんど聞こえなくなったが、学校側の動きだけは朝より慌ただしさを増していた。
「生徒会は、このあと昇降口へ。先生たちの指示に従ってくれ」
担任の視線が千綴へ向く。
「分かりました」
「弥生も、仕事が終わったらすぐ帰れよ」
「はい」
最後にもう一度念を押して、担任は終礼を終えた。
号令のあと、椅子を引く音が一斉に重なる。
教室を出ていく生徒たちは、いつもよりまとまっていた。誰と帰るかを確認し合う声や、迎えに来る家族へ連絡する声が、あちこちで交わされている。
千綴は鞄を持ち上げ、廊下へ出た。
階段を下りたところで、別の教室から来た守屋と合流した。
「そっちも終わったか」
「うん。昇降口だよね」
「ああ」
二人で昇降口へ向かう途中、窓ガラスの向こうで木々の葉が裏返った。朝より暗くなった空には低い雲が広がり、丘の向こうまで続いている。
昇降口には、すでに数人の教師と生徒会役員が集まっていた。
会長は校門側に立つ教師と話している。
鈴は他の役員へ何かを伝えていたが、千綴たちに気づくと軽く手を上げた。
「弥生先輩、守屋先輩。お疲れさまです」
「お疲れさま。もう担当は決まった?」
「はい。会長たちは校門側です。迎えを待つ生徒の対応と、校内の確認にも人を回しています」
鈴は昇降口の一角を指した。
「二人は、ここで下校する生徒への声掛けをお願いします。先生からも、それでいいそうです」
「分かった」
千綴が答えると、守屋も頷いた。
少し離れた場所にいた会長がこちらを見て、短く頭を下げる。
千綴も会釈を返した。
二人は担当の教師から補足だけを聞き、それぞれの位置についた。特別な作業ではなく、教師たちの補助に入り、靴を履き替えた生徒が昇降口に留まらないよう促していく。
「友達を待つ人は、昇降口に立ち止まらないでください」
「迎えを待つ人は、先生の指示した教室へお願いします」
「一人の人は、できれば誰かと一緒に帰ってください」
校門の外には、迎えの車が少しずつ増えていた。
道路では車列が途切れにくくなり、普段なら聞こえない場所からクラクションが鳴った。
空が暗くなるにつれ、昇降口の照明が妙に白く見えた。いつもの放課後なら部活動へ向かう生徒たちの声で騒がしい時間だが、今日は靴を履き替える音と、早足で外へ出ていく足音ばかりが目立つ。
その途中で、最初の雨粒が窓を叩いた。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
誰かが外を見て、「降ってきた」と呟いた。
昇降口にいた生徒たちが、揃って空を見た。
天気予報では、雨の話など出ていなかったはずだ。
鞄から折り畳み傘を取り出す者がいる一方で、何も持っていない生徒は友人に入れてもらえないか相談し始める。迎えを頼むため、慌ててスマートフォンを取り出す者もいた。
雨粒は細く、地面の色をゆっくりと変えていった。
やがて下校する生徒の数が減り、校内のざわめきも少しずつ遠のいていった。
校門側に立っていた教師が、肩についた雨粒を払いながら戻ってくる。
「生徒会はもういいぞ。残りは先生たちで対応する」
担当の教師も頷いた。
「二人とも、手伝ってくれてありがとう。一緒に帰れるか?」
「途中までは一緒です」
守屋が答える。
千綴も頷いた。
「それならいい。足元に気をつけて、人通りの多い道を使いなさい」
「はい」
役員たちはそれぞれ挨拶を交わし、帰り支度へ散っていく。
千綴は靴を履き替え、守屋とともに昇降口の外へ出た。
屋根の下で傘を開く前に、スマートフォンを取り出す。
「店長に連絡する」
「迎え、頼めそう?」
「聞いてみる」
巴との画面を開き、学校での対応が終わったことと、これから守屋と一緒に出ること、それから途中まで迎えに来られないかを送る。
返事はすぐに届いた。
『分かった。いつものところまで迎えに行く。道が混んでるから、少し遅れるかもしれない。悠司くんと一緒に来な』
千綴は画面を守屋へ向けた。
「だって」
「俺の予定まで決められてるな」
「嫌なら断るけど」
「この状況で断るほど薄情じゃない」
守屋はそう言って、自分の鞄を肩へ掛けた。
「店長さん、千綴のことになると本当に心配性だよな」
「普段はそうでもないよ」
「千綴が気づいてないだけじゃないか?」
返す言葉を探しているあいだにも、細い雨は途切れずに落ち、昇降口の屋根からは雫が一定の間隔で落ちていた。
守屋が鞄から折り畳み傘を取り出した。
「持ってたの?」
「朝、母親に入れられた。千綴は?」
千綴も鞄の底へ手を入れ、折り畳み傘を取り出す。
「普段は持ってないんだけど。今日は、なんとなく」
「朝は晴れてたのに?」
「うん」
それ以上の理由は、自分でも思いつかなかった。
二人が外へ出ると、湿った風が制服の裾を揺らした。校門の向こうでは、車の赤いランプが濡れ始めた路面に細く映っている。
朝から空に残っていた違和感は、いつの間にか街全体へ降りてきたようだった。千綴が一度だけ見上げた空には、雲の奥に明るさが残っていなかった。
「帰ろうか」
「うん」
二人は並んで、校門へ向かって歩き出した。
校門を出ると、雨は傘の布を細く叩いた。
強くはない。けれど途切れる様子もなく、坂道の舗装を少しずつ濃い色へ変えている。下校する生徒たちは二人か三人でまとまり、迎えの車を見つけるたびに足早に列を離れていった。
千綴と守屋も、人の流れに混じって坂を下り始めた。
「思ったより混んでるな」
守屋が車道へ目を向ける。
学校へ上がってくる車と、校門前から出ようとする車が短い列を作っていた。雨を予想していなかったのか、傘を持たない生徒を乗せるため、道路脇へ無理に停まっている車もある。
「店長、来るの大変かも」
「少し遅れるって言ってたしな。待つなら屋根のあるところにしろよ」
「分かってる」
「本当に?」
「悠司まで店長みたいなこと言わないで」
守屋は笑い、傘を少し持ち上げた。
坂を下り切る頃には、背後の校舎は低い雲と雨の向こうへ半分ほど隠れていた。普段なら部活動の声が丘の上から追いかけてくる道も、今日は車の走る音ばかりが残っている。
住宅街へ入ると、学校から一緒だった生徒の数も減っていった。
軒下で迎えを待つ者。一本の傘へ二人で入り、肩を濡らしながら歩く者。スマートフォンを耳に当て、家族へ現在地を伝えている者。
普段と同じ帰り道のはずなのに、誰もが家へ戻ることだけを考えているように見えた。
「グループ、もう誰か送ってる?」
守屋に聞かれ、千綴は歩きながら画面を確認した。
綾乃からは、家族の迎えで帰宅したという連絡が来ている。環も短く『着いた』とだけ送っていた。ヴァシリオスはまだ移動中らしく、車内から撮ったらしい雨粒のついた窓の写真を載せている。
「綾乃と環は帰ったみたい。ヴァシリオスはまだ」
「俺たちが最後になりそうだな」
「悠司は家に着いてから送ってね」
「千綴もな」
念を押し合うような会話が少しおかしくて、千綴は小さく笑った。
やがて道は、大通りへ向かう方角と、もう一方へ続く道に分かれた。
巴との待ち合わせ場所までは、千綴一人でも数分とかからない。
守屋は分かれ道で立ち止まり、大通りの方を見た。
「ここから本当に一人で平気か?」
「すぐそこだよ。店長も向かってるし」
「着くまで一緒に行ってもいいけど」
「それだと悠司が遠回りになるでしょ。雨も降ってるし、早く帰った方がいいよ」
守屋はすぐには頷かなかった。
その反応が、昼休みに曖昧な帰宅予定を話したときの三人と重なる。
千綴はスマートフォンを取り出し、巴との画面を開いた。
『もうすぐ待ち合わせ場所に着くよ』
送信すると、間を置かずに既読がついた。
『あと少し。道路が動かないから、屋根のあるところで待ってな』
返信を守屋へ見せる。
「ほら。あと少しだって」
「……分かった。店長さんが来るまで、変なところに行くなよ」
「行かないよ」
「何かあっても自分で見に行くな」
朝から何度も聞いた注意と同じだった。
「分かってる」
今度は少しだけ強く答えると、守屋はようやく傘を持ち直した。
「じゃあ、帰ったらグループに」
「悠司もね」
「ああ。また明日」
「また明日」
守屋は分かれ道から別の道へ歩き出した。
千綴はその背中が角を曲がるまで見送り、それから大通りへ向かった。
待ち合わせ場所は、交差点近くに店舗が並ぶ一角だった。軒の深い建物があり、雨を避けながら車を待つには都合がいい。その脇には、滑り台とベンチが一つずつ置かれた、小さな公園がある。
子どもが走り回るには狭く、通り抜けに使うような道もない。昼間でも人の姿はまばらで、雨の今は入口から見える範囲に誰もいなかった。
千綴は軒下へ入り、傘の水滴を軽く払った。
車道には赤いブレーキランプが連なっている。遠くから聞こえるクラクションも、学校の前で聞いたときより近かった。
巴の車が来る方向へ目を向ける。
まだ、それらしい車は見えない。
スマートフォンの時刻を確認してから、千綴はグループへ短く打った。
『悠司と別れた。今、店長待ち』
送信した直後だった。
雨音に混じって、硬いもの同士が触れたような音がした。
千綴は顔を上げた。
車道からではない。
店舗の中から聞こえた音とも違う。
もう一度、同じ音がした。
細い金属を何本か束ね、その先をゆっくり擦り合わせたような音だった。高くはないのに耳へ残り、雨の音が一瞬だけ遠ざかったように感じられる。
千綴は公園へ目を向けた。
入口の先には濡れた砂場があり、その向こうで滑り台の金属が鈍く光っている。街灯はまだ点いておらず、奥の植え込みは低い雲の影を集めたように暗かった。
猫が何かを倒したのかもしれない。
風で遊具の部品が動いた可能性もある。
そう考えたものの、枝はほとんど揺れていなかった。音の間隔も、風に押されて偶然鳴ったものとは少し違う。
守屋に言われたばかりの言葉を思い出す。
何かあっても、自分で見に行くな。
千綴は公園へ入らず、軒下から入口の奥を見た。
「誰かいますか?」
声を掛けても返事はない。
車が一台、濡れた路面を水しぶきとともに通り過ぎた。その音が消えるのを待つように、千綴は耳を澄ませる。
しばらく何も聞こえなかった。
気のせいだったのかもしれない。
そう思いかけたとき、公園の奥から、短く擦れる音が返ってきた。
今度は位置が分かった。
滑り台の向こう。
植え込みと、古い倉庫の壁が作る暗がり。
音は、そこからしていた。
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