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空の結び目  作者: 夕花
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- 1 -

 硬い靴音が、夜道を叩いていた。


 一度、二度。


 角を曲がるたびに遠ざかり、途切れかけては、また聞こえる。


 その間隔は、少しずつ長くなっていた。


 疲れてきたのだろう。


 人は追い詰められると、余計なものから捨てていく。


 体裁。他人への遠慮。自分だけは大丈夫だという、根拠のない思い込み。


 最後に残るものが、その人間の本質だ。


 男はそう考えていた。


 だから、急ぐ必要はない。


 夜になっても、舗装路には昼の熱が残っていた。風はなく、湿気を含んだ空気が古い住宅と倉庫のあいだに淀んでいる。


 その空気に、かすかな潮の匂いが混じっていた。


 海の近くまで来たらしい。


 前方で、金属が地面を跳ねた。


 短い悲鳴。


 靴音がひとつ消えた。


 残った片方だけが、ひどく不揃いな音を立てて遠ざかっていく。


 男は歩き続けた。


 やがて、もう一方も脱ぎ捨てられた。


 裸足になった足音は、ヒールほどよく響かない。それでも、荒い呼吸と、ときおり壁へ触れる音が居場所を教えてくれる。


 男が角を曲がると、女は行く手を塞ぐ金網を両手で掴み、扉を開けようとしていた。網目が激しく揺れ、乾いた音を立てている。


 鎖で閉じられていると分かると、金網に沿って走り、切れ目を探す。細身のスカートが足へまとわりつき、何度も歩幅を奪った。


 先には資材が積まれている。その向こうは建物の壁で塞がれていた。


 行き止まりだ。


 女は振り返った。


 そこで初めて、男と目が合った。


 驚き。


 疑い。


 それから、ようやく形を得た恐怖。


 男は静かに見つめた。


 逃げているあいだ、女は一度も彼をまともに見ていなかった。見なくても、追われていることだけは分かっていたらしい。


「来ないで」


 掠れた声だった。


 女は肩に掛けた鞄から携帯電話を取り出した。画面を点けようとして、一度、指を滑らせる。手のひらをスカートで拭い、震える指で緊急通報へつないだ。


 男は待った。


 女の呼吸がわずかに整う。通報さえできれば、まだ間に合うと思ったのだろう。


「助けてください。いま、知らない人に――」


 右手の甲に、何かが触れた。


 針先で突かれたような、ごく小さな痛みだった。


 携帯電話が落ちた。


 女は一瞬、何が起きたのか分からない顔をした。


 拾おうとして、右手を伸ばす。


 動かなかった。


 腕は身体の脇に垂れたまま、揺れている。握っていた感触も、指が開いた感覚もない。


 目には見えている。


 けれど、そこに自分の手があるとは感じられなかった。


「なに……」


 左手で右腕を掴もうとする。


 指先が触れるより先に、今度は左手の感覚が消えた。


 女は息を呑んだ。


 両腕がだらりと下がる。力が抜けたのではない。動かそうとしているのに、その意思がどこにも届かない。


 男は、その顔に浮かぶ変化を見ていた。


 理解しようとする目。


 理解できないという恐怖。


 女は金網へ背を預けた。左右へ視線を走らせる。携帯電話は足元にある。声は出る。脚もまだ動く。


 諦めてはいない。


「お金なら払うから」


 女は早口に言った。


「現金もカードもある。鞄ごと持っていっていいから。警察にも言わない。顔も見てない。だから――」


 男は遮らなかった。


 思いつくままに重ねられる言葉を、最後まで聞いた。


 どれも嘘だった。


 そして、生きるためには、どれも正しかった。


「よく分かった」


 男が言うと、女の目に一瞬だけ光が戻った。


「あなたが、どういう人間なのか」


 男が鞄へ目を向けていないことに、女はようやく気づいた。


 右足の感覚が消えた。


 裸足で地面を踏んでいたはずなのに、熱も、硬さも、足裏の傷も、突然そこから途切れた。


 身体が傾く。


 女は残った左足で踏みとどまり、肩から金網へぶつかった。腕は使えない。網目へ頬を寄せ、その向こうへ叫ぶ。


「誰か!」


 遠くで車の走る音がした。


「お願い、誰か――」


 左足からも、感覚が消えた。


 女の身体が沈む。


 金網へ肩を擦りつけながら、膝から舗装路へ落ちた。衝撃は見えた。けれど痛みはない。両脚は折り畳まれた他人の身体のように、ただそこに置かれている。


 男は女のそばまで歩いた。


 足元の携帯電話から、女を呼ぶ声が漏れていた。


 男は視線を落とした。


 画面の光と、途切れずに続く声。


 腰を屈め、通話を切る。


 光が消えたことを確かめると、立ち上がって女へ向き直った。


「ずいぶん遠くまで来た」


 穏やかな声だった。


 女は首だけを動かし、見上げた。


「いや」


 まだ声は残っていた。


「お願い。もう、来ないで」


 男の胸の奥で、長く疼いていたものが身じろぎした。


 熱に似ていた。


 空腹にも似ていた。


 だが、どちらでもない。


 ひとつの人間から余計なものが剥がれ、最後に残ったものが自分へ差し出される。その瞬間だけ、ずれていた世界の形が正しく戻る。


 男は、それを理解と呼んでいた。


「心配しなくていい」


 女の前へしゃがみ込む。


「もう、分からないことはない」


 胸の奥にあるはずの感覚が、まとめて消えた。


 息をしているはずなのに、肺が膨らむ感覚がない。金網へ触れているはずの背中も、舗装路へ落ちた膝も、もうどこにもなかった。


 首を振る。


 それだけが、まだ自分のものだった。


 誰か、助けて。


 声にならない願いだけが、何も感じない身体の内側で行き場を失う。


 額に、ごく小さな痛みが触れた。


 次の瞬間、瞬きさえできなくなった。


 恐怖も、拒絶も、意識の中には残っている。


 だが男には、それが見えなかった。


 すべてを奪ったのだから、すべてを理解したのだと思っていた。


 男は女の顔を見た。


 見開かれた目。声にならない拒絶が残る口元。


 その表情に合う形を、しばらく考えた。


 男が指先を上げる。


 女の身体が立ち上がった。


 本人の意思とは関係なく、両腕が持ち上がり、金網へ添えられる。指先は網目の向こうへ伸ばされ、片脚は逃げ出そうとした途中のように、わずかに後ろへ引かれた。


 細く黒いものがひとつずつ金網へ沈み、女の身体をその形に留めていく。


 やがて、胸の動きが止まった。


 男は少し離れ、出来上がったものを眺めた。


 胸の奥の疼きは消えていた。


 淀んでいた空気が、今は静かに肺へ入ってくる。


 男は踵を返した。


 遠くで車が走っている。


 どこかの窓が開き、笑い声が漏れ、すぐに閉じた。


 金網の向こうへ伸ばされた女の手は、助けを求めたまま動かなかった。


 けれど、その前で立ち止まる者は、まだ誰もいなかった。





 朝の空は、よく晴れていた。


 雲ひとつない、というほどではない。薄くほどけた雲が高いところを流れ、その下に、夏の青がどこまでも広がっている。


 千綴(ちづる)は、綾丘高校へ続く坂の途中で顔を上げた。


 朝から気温は高かった。住宅街を抜けてきた風にも涼しさはなく、首筋にまとわりつく髪を揺らすだけで通り過ぎていく。


 坂の上には、校舎の白い壁が見えていた。


 ここからなら、あと十分もかからない。


 遅刻の心配はない。鞄には弁当も入っている。生徒会へ出す書類も、昨夜のうちに目を通した。部屋の鍵を閉めたことも、坂を上り始める前に一度確かめている。


 なら、急ぐ理由はなかった。


 千綴は歩調を緩めた。


 坂の片側には、背の低い住宅が並んでいる。屋根の向こうには街があり、さらにその先には、朝の光に薄く霞んだ山の輪郭が見えた。


 故郷からこの街へ出てきたばかりの頃、空だけは変わらないと思っていた。


 どこにいたって、見上げれば同じものがある。


 そう話した千綴に、祖父は少しだけ笑った。


 ――同じに見えるなら、それでいい。


 肯定されたのか、違うと言われたのか、そのときは分からなかった。


 今も、たぶん分かっていない。


 故郷の空は、山と山のあいだにあった。朝には鳥の声が聞こえ、雨の前には土と草の匂いが濃くなった。


 この街の空は、屋根と電線の向こうにある。


 狭いわけではない。


 ただ、見上げるまでに目へ入るものが多かった。


 それを窮屈だとは思わない。ここで暮らすと決めたのは千綴自身で、小さな部屋も、坂の上の学校も、すでに自分の日常になっている。


 それでも空を見るたび、あの言葉だけが引っかかった。


 同じに見えるなら。


 では、本当は――


「ちづる!」


 背後から飛んできた声が、思考をきれいに断ち切った。


 振り返るより先に、坂を駆け上がる足音が近づいてくる。


「おはよう。やっぱり、ちづるだった」


「おはよう、綾乃(あやの)


 名前を返すと、綾乃は千綴の隣へ並んだ。


 走ってきたせいで少し息を弾ませながら、それでも顔にはいつもの明るい笑みがある。片手で鞄を持ち直し、もう片方の手で額へかかった髪を払った。


「坂で走ると危ないよ」


「見つけたのに、追いつかない方が気になるでしょ」


「学校で会えるのに?」


「それとこれは別」


 綾乃は当然のように言い切った。それから千綴の顔を覗き込む。


「また空、見てた?」


「またって何」


「そのままの意味。ちづる、たまに上を見たまま止まりそうになるから」


「止まってはいないよ」


「歩くのが遅くなるなら、だいたい同じ」


 言われて、千綴は前を見る。


 いつの間にか、先を歩いていた生徒たちとの距離が開いていた。


「……遅刻はしない」


「そこは心配してない。ちづるだし」


 妙なところで信頼されている。


 千綴が小さく息を吐くと、綾乃は楽しそうに笑った。


 二人で坂を上り始める。


 校門へ向かう生徒の声が、少しずつ近くなってきた。自転車のブレーキが鳴り、道の端では、運動部らしい男子生徒が友人に急かされながら坂を駆けていく。


「今日も暑くなりそうだね」


 綾乃が手で顔を扇いだ。


「朝からこれだと、教室に着く頃には夏休みでいい気がする」


「気持ちだけ休みに入らないで」


「副会長みたいなこと言う」


「副会長だから」


「じゃあ友達として、もう少し優しく」


「宿題を忘れた人に言われたくない」


 綾乃の足が止まりかけた。


「なんで分かったの?」


「朝からその話をしなかったから」


 いつもなら、できたかどうかを先に聞いてくる。


 千綴がそう付け加えると、綾乃はしばらく黙り、やがて観念したように肩を落とした。


「教室で見せて」


「駄目。分からないところなら教える」


「そこをなんとか」


「なりません」


 言いながら、二人はまた歩き出した。


 坂の上で、校舎の窓が朝日を返している。


 ついさっきまで見ていた空は、もう二人の頭上に広がる背景へ戻っていた。





 昇降口へ入ると、外に満ちていた蝉の声が遠のいた。


 代わりに、靴底が床を擦る音と、朝の挨拶が狭い空間で重なっている。開け放たれた扉から風は入っていたが、生徒が集まるぶん、外より涼しいとは言い難かった。


 千綴は自分の下駄箱を開けた。


 上履きを出し、脱いだ靴を揃えて入れる。その隣では、綾乃が片足で立ったまま、もう片方の靴をどうにか脱ごうとしていた。


「座ればいいのに」


「もう脱げるから」


 言った直後、綾乃の身体が傾いた。


 千綴が腕を支えるより先に、反対側から手が伸びる。


「朝から何やってるんだ」


 綾乃の肩を押し戻した手が、そのまま離れる。


 綾乃は何事もなかったように両足を床へつける。


「おはよう、守屋(もりや)くん」


「先に言うことがあるだろ」


「ありがとう?」


「分かってるならいいけどさ」


 悠司はため息をつき、自分の下駄箱へ向き直った。


「千綴も、おはよう」


「おはよう、悠司(ゆうじ)。助かった」


「ちづるまで。あれくらい、一人で戻れたのに」


「戻れる人は、そもそも倒れかけないよ」


 綾乃は不満そうに口を尖らせたが、反論はしなかった。


 悠司も上履きへ履き替える。


 昇降口を抜けたところで、廊下が二つに分かれる。悠司の教室は、千綴たちとは反対側だった。


「じゃあ、また昼に」


 悠司が片手を上げる。


「うん。またあとで」


 近づいてくる生徒に道を譲り、悠司はそのまま自分の教室へ歩いていった。


 千綴と綾乃も、階段へ向かう。


 教室の前まで来たところで、綾乃が鞄から一枚のプリントを取り出した。


 見覚えのある問題が並んでいる。今日提出の宿題だった。


 綾乃が千綴の袖を引く。


「一問だけ」


「分からないところならね」


「三問」


「増えてる」


 教室へ入る。


 窓はすでに開いていた。風に押されたカーテンが膨らみ、その下で、ひとりの少女が窓枠へ腰を掛けている。


 床へ届かない足を気ままに揺らしながら、教室の中央を眺めていた。


「猫、そこ危ないよ」


 千綴が声を掛けると、少女は眠たげに目を細めた。


「おはよう、ちづる。朝から真面目」


「おはよう、(たまき)。ヴァシリオスも」


「おはよう、西園寺(さいおんじ)さん。中村(なかむら)くん」


 綾乃が、窓際にいる二人へまとめて手を振った。


 環はわずかに眉を寄せる。


「猫でいい」


「それは名前じゃないでしょ」


「挨拶より先に注意される場所へ座るからでしょ」


「バカがうるさかったから、避難してた」


「俺のせいにするなよ」


 すぐ近くから声が返った。


 ヴァシリオスは環の机に片手をつき、もう片方の手にスマートフォンを持っていた。画面を見せようとしていたらしいが、環は高い位置から覗くだけで、降りる気はないようだった。


「おはよう、二人とも。ちょうどいいところに来た」


「その言い方、だいたいよくない話だよね」


 綾乃が千綴の隣から画面を覗き込む。


 ヴァシリオスは心外そうに眉を上げた。


「今日はちゃんとしたニュースだ」


「昨日は?」


「犬が店からパンを盗んで逃げた」


「そっちの方が朝にはいい」


 千綴が言うと、環が窓枠の上で小さく頷いた。


「同意」


「まだ何も見せてないだろ」


 そう言いながらも、ヴァシリオスの声から少しだけ軽さが抜けた。


「このニュース、知ってるか。また起きたみたいだ」


 差し出された画面には、短い記事を引用した投稿が表示されていた。


 昨夜、海に近い倉庫街で女性の遺体が発見されたこと。警察が事件として捜査していること。書かれている事実は、それだけだった。


 その下には、過去の事件と結びつける言葉がいくつも並んでいる。


「朝、少し見た」


 綾乃が笑みを消した。


「また女の人なんだよね」


「前のと似てるって、みんな言ってる」


 ヴァシリオスが画面を指で送る。


 断定する文。疑う文。昔の記事を並べた画像。根拠の分からない話まで、同じ速さで流れていく。


「警察は、同じ事件だとは言ってないよ」


 千綴が言うと、ヴァシリオスは指を止めた。


「でも、こんなに続くか?」


「続いているように見えるものだけ、集めてるのかもしれない」


「ちづるは信じてない?」


 綾乃に聞かれ、千綴はもう一度画面を見る。


 遠い街の名前。


 見覚えのない倉庫街。


 それでも、そこに書かれた『女性』という言葉だけは、曖昧な噂として片づけるには生々しかった。


「分からない。ただ、怖い事件が起きたことは本当でしょ」


 環が窓枠から降りた。


 上履きが床へ触れ、ほとんど音も立てずに着地する。


「最近、多いね」


 それだけ言って、ヴァシリオスの手からスマートフォンを取った。


「おい、猫」


「貸して」


「もう持ってるだろ」


 環は返事をせず、画面を下へ送っていく。


 始業を知らせるチャイムが鳴った。


 教室のあちこちに散っていた生徒が、それぞれの席へ戻り始める。廊下に残っていた声も、開いた扉の向こうへ流れていった。


「続きはあと」


 千綴は環からスマートフォンを取り上げ、ヴァシリオスへ返した。


「俺のなのに」


「だったら自分で回収して」


 綾乃が笑いながら自分の席へ向かう。


「宿題――」


「あとじゃなくて、休み時間に教える」


「忘れてなかった」


「忘れないよ」


 千綴も席へ着いた。


 ほどなくして、担任が出席簿を片手に教室へ入ってくる。


 ヴァシリオスがスマートフォンをしまい、環もようやく自分の椅子へ座った。


「全員いるな。じゃあ、朝のホームルームを始めるぞ」


 遠い街の事件は、消えた画面と一緒に、ひとまず教室の外へ押し戻された。





 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


 教師が黒板へ走らせていたチョークを止め、残っていた説明を手短にまとめる。日直の号令に合わせて椅子の脚が一斉に鳴り、礼が終わる頃には、教科書を閉じる音や弁当を取り出す音が教室のあちこちで重なり始めていた。


 千綴もノートを閉じ、机の中へしまう。隣では綾乃が長く息を吐きながら、凝った肩をほぐすように腕を伸ばしていた。


「ちづる、今日のお昼は?」


「生徒会室。昨日の書類が少し残ってるから、向こうで食べる」


「そっか。今日は仕事の日ね」


 残念がるでもなく、綾乃はいつものことのように頷いた。普段なら、このまま机を寄せて一緒に弁当を広げる。けれど千綴が生徒会の仕事を抱えている日は、昼休みの行き先が変わることも、綾乃はよく知っていた。


「終わらなかったら放課後までやるの?」


「そこまではしないよ。急ぎの分だけ確認したら戻る」


「なら安心。ちづる、放っておくと全部やろうとするから」


「全部はやらない」


「どうかな」


 綾乃は少しだけ疑わしそうに笑い、机の横へ掛けていた弁当袋を持ち上げた。


「じゃあ、またあとで」


「うん」


 短く手を振り合い、千綴は弁当を持って教室を出た。


 購買へ向かう生徒の流れを横切り、特別教室の並ぶ校舎の端へ歩いていく。教室から離れるにつれて声は薄れ、開いた窓から入り込む蝉の声と、上履きが床を打つ音の方が近くなった。


 生徒会室の扉を開けると、窓際にいた少女がすぐに振り返った。少しだけ開けられた窓から外気と夏の匂いが入り、室内にこもっていた紙とインクの匂いをゆっくり押し流している。


「あ、弥生(やよい)先輩。お疲れさまです」


「お疲れさま、(すず)


 その声に、長机の端で書類を確かめていた悠司も顔を上げた。朝と同じように背筋を伸ばし、その脇には弁当を包んだ布が置かれている。


「お疲れ」


「お疲れさま。早かったね」


「こっちは移動教室だったから、そのまま来た。会計分は一通り見てある」


 悠司は揃えた書類の束を軽く叩いてから、鈴へ目を向けた。


小森(こもり)、会長は?」


「先生に呼ばれて、そのまま職員室です。今日は来られないかもしれないって」


「分かった。急ぎの確認だけ、三人で済ませようか」


 千綴が弁当を置くと、鈴も自分の席へ戻った。机の中央には昨日届いた申請書がまとめられていたが、すでに悠司が会計に関わるものを抜き、鈴が提出先ごとに付箋を挟んでいる。昨日から残っていた仕事は、思っていたよりも小さくなっていた。


「先に食べよう。昼休みを仕事だけで終わらせたら、何のために弁当を持ってきたのか分からない」


 悠司の言葉に、鈴が素直に手を止める。


「守屋先輩が言うと説得力がありますね」


「どういう意味だ」


「弥生先輩と二人だと、食べながらでも仕事を始めそうなので」


 否定しようとして、千綴は机の上に視線を落とした。弁当のすぐ横へ、確認するつもりだった書類を置いている。


「……先に食べます」


「それがいい」


 悠司は小さく笑い、自分の弁当を開いた。


 三人で囲む机には、教室のような賑やかさはなかった。ときどき箸の触れる音がして、窓の外から運動部の生徒たちの声が遠く届く。話すのも、午前の授業や売店の新しいパン、会長が職員室から戻ってくる頃には昼休みが終わっていそうだという、取り留めのないことばかりだった。


 沈黙しても気まずくはない。悠司は食事の合間に窓の外へ目を向け、鈴は卵焼きを最後まで残している。千綴も急かされることなく弁当を食べながら、いつもの友人たちと過ごす昼休みとは違う、静かな時間へ身を置いていた。


 食べ終えた者から弁当を包み、机の中央を空ける。残っていた書類は五枚だけで、そのうち二枚には悠司が数字の確認を済ませた印がついていた。


「この二枚は問題なし。部費の申請は、添付されてる見積書と金額も合ってる」


「ありがとう。じゃあ、先生に回して大丈夫だね」


 千綴は確認済みの束を右へ寄せ、鈴が差し出した次の一枚へ目を通す。記入漏れはなく、提出先も合っている。最後の一枚を取ろうとしたところで、指が止まった。


「鈴、文化部の活動届は?」


「昨日の分なら、その束に入れたはずですけど……ありませんか?」


 三人で机の上を見る。重なっているのは、いま確認した五枚だけだった。


 鈴が自分の手元を探し始めるより先に、千綴は悠司の脇へ置かれた会計書類へ目を向けた。揃えられた紙の端から、一枚だけ色の違う付箋が覗いている。


「そっちに混ざってるかも」


 悠司が束を持ち上げると、二枚目から活動届が出てきた。


「本当だ。悪い、金額欄があったから一緒に抜いたらしい」


「見つかったなら大丈夫。今日中に出せるよ」


 千綴は受け取った紙をほかの活動届へ重ねた。鈴が不思議そうに付箋と千綴を見比べている。


「弥生先輩、よく分かりましたね」


「付箋の色が違ったから。鈴が使ってた色でしょ」


「そうですけど、私も気づかなかったです」


「次から気をつければいいよ」


 それだけ答え、千綴は最後の書類へ視線を落とした。探していたものがあるべき場所へ戻ると、机の上も、頭の中も、少しだけ整ったように感じられた。


 残りの確認を終え、書類を提出先ごとの封筒へ収める。大きな仕事ではない。けれど誰かが確かめなければ、小さな間違いはそのまま次の人へ渡っていく。千綴は封筒の宛名をもう一度見てから、鈴へ手渡した。


「これは放課後、職員室へお願い。会計の二枚は悠司が持っていて」


「分かりました」


「了解」


 壁の時計を見ると、昼休みは残り五分を切っていた。示し合わせたように三人が席を立ち、弁当と筆記具をそれぞれの鞄へ戻す。窓を閉めた鈴が先に廊下へ出て、千綴は机の上に何も残っていないことを確かめてから照明を消した。


「じゃあ、また」


 生徒会室を施錠したところで、悠司が言った。


「うん。鈴、廊下は走らないでね」


「まだ走ってません」


「走ろうとはしてたな」


 悠司に指摘され、鈴は上げかけた踵を静かに下ろした。


 三人は並んで教室のある棟まで戻り、階段の前で別れた。悠司は別の階へ、鈴は一年生の教室へ向かい、千綴だけが朝と同じ廊下を進んでいく。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る頃には、開いていた教室の扉も順に閉じ始めていた。千綴は午後の教科書を抱える生徒たちの間を抜け、自分の教室へ戻った。





 終礼が終わると、教室の空気は一度にほどけた。


 椅子を引く音に、部活動へ向かう生徒たちの声が重なる。綾乃は文芸部へ、ヴァシリオスはグラウンドへ、環は弓道場へ。それぞれ行き先がある三人を見送り、千綴も鞄を肩へ掛けた。


 今日、生徒会の仕事は残っていない。


 昼休みに確認した書類は、鈴が職員室へ届けているはずだった。放課後まで持ち越さずに済んだことへ少しだけ安堵しながら、千綴は一人で教室を出た。


 昇降口で靴を履き替え、校舎の外へ出る。


 傾き始めた陽はまだ強く、地面から返る熱も薄れてはいなかった。グラウンドから飛んでくる掛け声と、どこかの教室で鳴り始めた管楽器の音が、校舎の壁を越えて混ざり合っている。


 そのまま校門を抜けようとして、千綴は足を緩めた。


 門柱の脇で、制服姿の生徒が箒を動かしていた。


 アスファルトの端へ寄った砂と小さな紙屑を集め、ちりとりへ掃き入れている。通り過ぎる生徒が何人か振り返っていたが、本人は気にする様子もない。


「副会長」


 先に気づいた会長が、箒を持ったまま顔を上げた。


「お疲れさまです」


「お疲れさま。今日はもう帰り?」


「はい。これからバイトです」


「そうだったね」


 会長は頷くと、足元へ視線を戻した。箒の先が、門柱の陰に残っていた紙片を掻き出す。


「会長は、何をしてるんですか」


「掃除」


「それは見れば分かります」


 思わず返すと、会長は少しだけ笑った。


「なら、聞かなくてもよかったんじゃない?」


「会長が一人で校門を掃除していたら、普通は聞きます」


「そういうものかな」


「そういうものです」


 千綴が言い切る間にも、会長の手は止まらない。集め損ねた砂をもう一度掃き寄せ、ちりとりの中へきれいに収めていく。


 手伝おうかと考えて、千綴は肩に掛けた鞄を見た。出勤まで余裕がないわけではない。それでも、その迷いを読んだように、会長が先に口を開く。


「ここはもう終わるから大丈夫。バイト、遅れないようにね」


「……分かりました」


「行ってらっしゃい、副会長」


「行ってきます、会長」


 校門を出て、学校へ続く坂へ向かう。


 朝は綾乃と並んで上った道を、今度は一人で下りていく。


 傾き始めた陽は、まだ夏の熱を残していた。校門を離れても、制服の背中にはじりじりと光が当たり、首筋を撫でる風にも、朝にはなかった乾いた熱が混じっている。


 それでも、上りだった朝より足取りは軽い。


 千綴は急がず、坂の勾配に合わせて歩いた。


 背後から届く部活動の声は、坂を進むごとに少しずつ遠ざかっていく。ヴァシリオスも、いま頃はあの掛け声の中にいるのだろう。校舎の方角から笛の音がひとつ高く響き、すぐに蝉の声へ紛れた。


 代わりに、坂の下を走る車の音が近くなる。


 朝と同じように、道の片側には背の低い住宅が並んでいた。けれど、白く光っていた屋根は西日の色を帯び、軒先や塀の影が道へ長く伸びている。


 その向こうに広がる町も、朝とは違って見えた。


 遠くの山はもう霞んでいない。傾いた陽を背に、濃い輪郭だけを空の下へ残している。屋根のあいだでは、窓ガラスがところどころ光を返していた。


 千綴は一度だけ空を見上げた。


 青さはまだ残っている。朝、高いところを流れていた薄い雲は形を変え、いまは町の上へ細長く伸びていた。


 同じ坂で、同じ空を見ている。


 それでも、隣に綾乃はいない。背後に残るのは学校の声で、これから向かうのは自分の部屋でもない。


 千綴は視線を戻した。


 学校で過ごす時間は、もう坂の上にある。


 坂を下りきる頃には、制服姿の生徒はまばらになっていた。


 住宅の並ぶ道を曲がる。車の音に、自転車のベルと買い物帰りらしい人々の話し声が混じり始める。朝は学校へ向かう途中で通り過ぎた町が、今度は千綴を働く時間の中へ迎え入れていく。


 昔からの店が残る通りへ入ると、新しい看板の隣に色褪せた日除けが並んでいた。店先へ出された植木鉢が、道路の端へ細い影を伸ばしている。


 やがて、引き戸の上に掛かった、長く使われてきた看板が目に入る。


 そこには、「丘平商店」と書かれていた。店先には飲料のケースと、袋入りの菓子を並べた小さな棚が出ている。開いた戸の向こうから、ラジオの音楽がかすかに聞こえていた。


 千綴は鞄を持ち直し、店の中へ入った。





「お疲れさまです」


 店の奥へ声を掛けると、積み上げられた段ボールの向こうから返事があった。


「おう。ちょうどいいところに来たね」


 腕まくりをした女性が、飲料の箱を抱えて姿を見せる。後ろでひとつに束ねた髪が、歩くたびに肩のあたりで揺れていた。


「それ、持ちます」


「挨拶より先に仕事を取るんじゃないよ。荷物を置いて、出勤つけてから」


「はい、店長」


 差し出しかけた手を引っ込め、千綴は店の奥へ向かった。


 鞄を決まった棚へ置き、制服の上から店のエプロンをつける。髪を整えて戻る頃には、店長は先ほどの箱を冷蔵棚の前まで運び終えていた。


「本当に一人で運んだんですか」


「あんたが来るまでも店はやってたんだからね」


「そうですけど」


「気になるなら、そっちを詰めて。古いのを前、新しいのを後ろ」


 言われなくても分かっていることを、いつもの調子で念押しされる。


 千綴は箱を開け、冷えた瓶を一本ずつ棚へ収めていった。扉を開くたび、冷気が火照った頬へ触れる。外から持ち込んだ熱がようやく引いていくのを感じながら、奥に残った商品を手前へ寄せ、新しいものを後ろへ並べた。


 丘平商店では、酒や飲料のほかに、菓子、調味料、洗剤、乾電池まで扱っている。広くはない店内に、近所で急に必要になりそうなものが一通り収まっていた。


 品出しを終える前に、引き戸が開いた。


「こんにちは」


 千綴が立ち上がると、買い物袋を提げた年配の女性が顔をほころばせた。


「あら、今日は副会長さんの日かい」


「その呼ばれ方、ここまで広まってるんですか」


「巴ちゃんが言ってたからねえ」


「ちょっと、私のせいにしないでよ」


 レジの奥から店長が口を挟む。


 女性は楽しそうに笑い、棚のあいだをゆっくり歩いていった。千綴が品出しへ戻ると、ほどなくして醤油の瓶を手に呼ばれる。


「これと同じので、小さいのはなかったかね」


「あります。こっちです」


 千綴はひとつ隣の棚、その下段から小さな瓶を取り出した。


「そうそう、これ。よく分かったねえ」


「昨日、並べたので」


「この子、物の場所だけは私より覚えてるんだよ」


「だけ、は余計です」


 店長へ返しながら、千綴は瓶を女性の籠へ入れた。


「頼りになるねえ。榊んとこの娘も、いい子を見つけたもんだ」


「私は拾ってないよ。ちゃんと面接して雇ったの」


 店長――榊巴(さかきともえ)は、そう言ってレジを打った。


 会計を終えた女性を戸口まで見送る。引き戸が閉まると、店内にはまたラジオの音が戻ってきた。


「店長」


「何」


「副会長って教えました?」


「さあね」


「教えたんですね」


「ほら、口より手を動かす」


 巴は笑いを隠すように、レジ横の伝票へ目を落とした。


 それからの時間は、いつもと同じように流れた。


 冷蔵棚の補充を終え、空いた箱を畳む。菓子棚の乱れを直し、日用品の在庫を数える。客が来ればレジへ入り、尋ねられれば商品の場所を案内する。


 学校では書類の行き先を揃え、ここでは商品をあるべき場所へ戻す。


 やっていることは違うのに、散らかったものが少しずつ整っていく感覚は似ていた。


 陽が傾くにつれて、店を訪れる人の顔ぶれも変わった。散歩の途中で缶コーヒーを買う人。夕食の足りないものを求めて駆け込んでくる人。仕事帰りに、冷えた缶を二本だけ持ってレジへ来る人。


 名前を知らない相手も多い。


 それでも、向こうは千綴を知っている。制服姿を見て学校のことを尋ね、しばらく見なければ試験だったのかと聞く。


 故郷とは違う場所で、少しずつ覚えられていく。


 それは、千綴がここで暮らしている時間が、きちんと積み重なっているということでもあった。


 客足が途切れた頃、巴がレジの横で伝票を揃えながら言った。


「学校でも、例の事件の話は出た?」


「朝、友達がニュースを見せてくれました」


「そう。学校の近くじゃないからって、油断するんじゃないよ」


 紙をめくる手は止めないまま、巴が千綴を見る。


「帰りが遅くなる日は連絡しな。店のあとも、寄り道しないで真っすぐ帰ること」


「分かってます」


「そう言う子ほど分かってないんだよ」


「いざとなったら逃げます。走るのは得意なので」


 巴の眉が、わずかに上がった。


「逃げるのはいい。でも、逃げられるからって余計なことに首を突っ込むんじゃないよ」


「余計なことって」


「誰かが困ってるのを見つけた時、自分でどうにかしようとすること」


 すぐには言い返せなかった。


 巴は千綴の沈黙を答えと受け取ったらしい。伝票の端を揃え、短く息をつく。


「助けを呼ぶ。人のいる方へ逃げる。まず自分が無事でいる。順番を間違えないこと」


「……はい」


「よし」


 それ以上は重ねず、巴は伝票を引き出しへしまった。


 千綴も、途中になっていた在庫の確認へ戻る。


 店内にはラジオの音が流れ、開け放した戸の向こうを自転車が通り過ぎていく。事件の話をしていた時間だけが特別に切り取られることはなく、次の客が来れば、二人ともいつもの仕事へ戻った。


 二時間あまりが過ぎ、外がすっかり暗くなった頃、巴が時計を見上げた。


「今日はここまで」


「あと、入口の棚だけ整えます」


「それをやったら終わり。明日も学校なんだから」


 店先に出ていた菓子の棚を中へ入れ、飲料のケースが通路にはみ出していないことを確かめる。最後に床へ落ちていた小さな紙片を拾うと、千綴はエプロンを外した。


「お先に失礼します」


「お疲れ。真っすぐ帰る」


「帰ります」


「着いたら一言」


「店長はお母さんですか」


「違うから、返事がなかったら遠慮なく電話できるんだよ」


 理屈になっているような、いないような言い方だった。


「分かりました。着いたら送ります」


「よし。お疲れさま」


 千綴は鞄を肩へ掛け、店を出た。


 昼の熱は、まだ建物や舗装の奥に残っている。けれど、坂の上から浴びた西日も、蝉の声に混じっていた部活動の掛け声も、もうどこにもなかった。


 通りの店には灯りが点き、閉じた店先では日除けが畳まれている。買い物袋を提げた人とすれ違い、自転車の明かりを避けながら、千綴は住み慣れた道を歩いた。


 学生向けのアパートへ着く頃には、空は夜の色に変わっていた。


 階段を上り、自分の部屋の鍵を開ける。


「ただいま」


 返事のない部屋へ、習慣だけが先に入っていく。


 玄関の照明をつけ、靴を揃える。鞄を置いてから、千綴はスマートフォンを取り出した。


『着きました』


 巴へ送ると、ほとんど間を置かずに返事が来た。


『了解』


 それだけだった。


 千綴も端末を伏せ、先に窓を開けた。昼の熱がこもった部屋へ、夜の空気がゆっくり入り込んでくる。


 着替えを済ませ、簡単に夕食を用意する。


 テレビをつけたのは、静かすぎる部屋へ音を足すためだった。画面を見ないまま台所に立ち、冷蔵庫に残っていた野菜と卵を使う。包丁の音と、熱したフライパンの音に、ニュースを読む声が重なった。


 食事を終え、食器を洗う。


 風呂から上がると、母から届いていた短いメッセージへ返事をした。週末に電話することと、変わりなく過ごしていることだけを送る。


 部屋の隅には、使われていないゲーム機が並んでいた。千綴が触らなくても、次に誰かが来れば勝手に電源を入れ、勝手に騒ぎ始めるのだろう。


 その光景を思い浮かべると、一人の部屋も、それほど空っぽには感じなかった。


 テレビでは、まだニュースが続いている。


 千綴は明日の授業の用意をしながら、聞こえてくる言葉のほとんどを意識の外へ流していた。画面の隅で何かの速報が切り替わっても、顔を上げることはなかった。


 教科書を鞄へ収め、目覚ましを確かめる。


 最後にカーテンを閉じる前、千綴は窓の外を見た。


 建物のあいだに切り取られた空は、朝に見上げたものよりずっと狭い。星は少なく、遠くの明かりに紛れている。


 それでも、今日が終わるには充分な空だった。


 千綴は窓を閉め、部屋の灯りを消した。


 一日は、何事もなく終わった。

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