- 6 -
店頭へ顔を出した瞬間、千綴は足を止めた。
巴がレジ脇に立っている。
ただ、立っているのではなかった。
片腕をわずかに持ち上げたまま、身体のどこにも次の動作が続いていない。呼吸はしている。目も開いている。意識を失っているわけでもない。それなのに、まるで身体だけが途中で切り離されたように、そこから先へ進めずにいた。
その向こうに、一人の男が立っていた。
客として店に入ってきたはずの男。
いつからいたのか、千綴には分からない。どんな服を着ていたのかも、どこを歩いていたのかも、今までまったく意識に残っていなかった。
けれど、その顔を見た瞬間。
胸の奥で、何かがほどけるより先に、身体が強く縮こまった。
濡れた空気。
雨に冷えた地面。
視界の端に沈む黒い影。
指が動かない。
足が動かない。
息を吸おうとしているのに、胸が途中で止まる。
声を出そうとしても、喉の奥で何かにつかえて、音にならない。
記憶ではなかった。
公園で何が起きたのかを思い出したわけでもない。男に何をされたのか、一連の出来事として繋がったわけでもない。
それでも身体は覚えていた。
肩が強張り、指先が冷え、呼吸が浅くなる。理由を考えるより先に、逃げたいという感情だけが身体の奥から突き上がった。
あの男だ。
自分を襲ったのは、この男だ。
そう確信した途端、記憶の中に空いた黒い部分へ触れた気がした。そこに何があるのかは分からない。分からないまま、身体だけがその先を拒んでいる。
けれど。
「店長」
千綴の声は、自分でも分かるほど掠れていた。
巴の目だけが、ほんの僅かに動いた。
こちらを見る。
それだけだった。
助けて、と言ったわけではない。
それでも、千綴には十分だった。
恐怖は消えない。
身体も震えている。
だが、自分が怖いという感情より先に、巴が動けないという事実が前へ出た。
千綴は一歩踏み出した。
男の口元が、僅かに歪んだ。
「やはり、覚えていたか」
千綴は答えなかった。
何を覚えていると言われているのか分からない。
ただ、巴から目を離せなかった。
どうすれば助けられる。
近づけばいいのか。触れれば動けるようになるのか。それとも、今の状態で触る方が危険なのか。
何一つ分からない。
それでも、何もしないという選択だけは浮かばなかった。
「その人を離して」
男が少し首を傾けた。
「その人?」
そこで初めて思い出したように、巴へ視線を向ける。
人を見る目ではなかった。
道具でも確認するような、興味の薄い視線。
その瞬間、千綴の腹の奥に、恐怖とは別の熱が生まれた。
「店長に何したって聞いてるの」
「何もしていない」
男は穏やかに答えた。
「少し、動かないでもらっているだけだ」
巴の肩が、ごく僅かに震えた。
息を吸おうとしている。
苦しそうだった。
千綴は考えるより先に動いた。
「店長!」
床を蹴ろうとして、千綴は異変に気づいた。
先に、右手の指が動かなかった。
棚から離そうとしたはずなのに、指先から手首まで、自分の命令だけが抜け落ちている。
遅れて、左手まで同じ感覚に沈んだ。
両手が使えない。
そう理解するより早く、右脚が止まった。
「っ――」
前へ出したはずの足が、床へ縫い付けられたように動かない。
勢いだけが残り、身体が前へ傾く。手をつくこともできず、千綴は肩から棚へぶつかって、どうにか転倒を免れた。
その感覚が、また身体の奥にある記憶を掻き回した。
動けない。
自分の脚なのに。
動け、と命じているのに。
そこへ繋がっているはずの何かが、自分ではない誰かに握られている。
息が浅くなる。
指先が震える。
背中に冷たい汗が浮いた。
男の視線が、完全に千綴へ向いた。
巴にはもう興味がない。
そう分かるほど露骨だった。
「二度目だ」
声は静かだった。
「今度は、順番を間違えない」
右手。
左手。
男の目が、動かなくなった千綴の両手を順に確かめる。
それから視線が脚へ落ちた。
右脚。
続いて左脚。
一つ前が止まったことを確かめてから、次へ進む。
身体の内側へ、目に見えない何かが少しずつ入り込んでくる。
嫌だ。
また、この先へ連れていかれる。
何があったのかは思い出せない。それでも、身体だけが「ここから先」を知っている。
その空白の縁へ近づくだけで、喉の奥がひどく冷えた。
千綴は奥歯を噛んだ。
逃げたい。
その感情は、まだ消えていない。
けれど、視界の端には巴がいる。
自分を保護してくれた。
病院へ連れていってくれた。
警察署にも付き添ってくれた。
思い出せない自分に、無理に聞かなかった。
その人が今、自分を狙ってきた男のせいで動けなくなっている。
「……店長から、離れろ」
千綴は右足を引こうとした。
動かない。
それでも力を込める。
動かない手にまで力を込めようとして、肩が震えた。
男の眉が僅かに動いた。
「まだ、自分のものだと思っているのか」
意味は分からない。
だが、その声には初めて明確な苛立ちが混じった。
その瞬間。
店の外から、鈍い音がした。
何かが落ちたような音。
男の視線が、一瞬だけ入口へ向く。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、千綴の右脚を押さえつけていた重さが僅かに緩んだ。
同時に、左手の指先にも感覚が戻る。
千綴は考えるより先に、その隙へ身体をねじ込んだ。
一歩。
たった一歩だけ前へ出る。
男の表情が崩れた。
「お前――」
「そこまでだ」
低い声が、店内へ割り込んだ。
入口に、昼間の男が立っていた。
公園を離れたあとも、この周辺を警戒していたのだろうか。なぜここへ来られたのかまでは、千綴には分からない。
昼間、公園で声を掛けてきた男だった。
千綴はまだ名前を知らない。
だが、その姿を見た瞬間、目の前の男の表情が変わった。
怒りでも、驚きでもない。
警戒。
明らかな警戒だった。
昼間、公園で何かがあった。
千綴にはその中身までは分からない。
ただ一つだけ分かる。
目の前の男は、昼間の男を危険な相手として見ている。
入口の男は走らなかった。
大声も出さない。
それなのに、一歩店内へ入っただけで空気が変わった。
「その二人から離れろ」
返事はない。
代わりに、千綴の左脚がさらに重くなり、巴の身体も僅かに傾いた。
昼間の男の視線が動く。
まず巴。
次に千綴。
最後に、目の前の男。
敵を見るより先に、二人の状態を確認した。
その順番だけが、千綴の意識に妙にはっきり残った。
「動けるか」
男が千綴へ聞く。
「右足が……少し」
「十分だ。榊さんのところへ」
なぜ名前を知っているのか。
今は考える余裕がない。
男が一歩踏み込んだ。
目の前の男の腕が動く。
何が飛んだわけでもない。
それでも、昼間の男の身体が一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
次の瞬間には、もう前へ出ている。
今度は、目の前の男が下がった。
「……効かない?」
「効いてる」
昼間の男は平然と答えた。
「足りないだけだ」
感情ではなく、事実を確認するような言い方だった。
その一言で、目の前の男の余裕が消える。
店の外で羽音がした。
一羽。
続けてもう一羽。
何かがガラスへぶつかり、すぐ近くで犬の吠える声が上がった。
それでも昼間の男は振り返らない。
「弥生」
初めて名前を呼ばれた。
「榊さんを支えろ」
「はい!」
千綴は動く右脚へ力を込め、感覚の戻った左手で棚から身体を離した。
左脚を引きずる。
一歩。
また一歩。
巴まで、あと少し。
その間にも、〈標本家〉は昼間の男から距離を取っていく。
戦うつもりがない。
千綴にも分かった。
逃げる。
そう判断したのだ。
「待っ――」
「追うな」
短い声が飛んだ。
千綴は止まった。
男は入口へ向かう。
外で鳥が騒ぎ、犬の声が重なり、その向こうから人の驚いた声も聞こえた。
その混乱へ紛れるように、男の姿が店の外へ消える。
入口に残った男は追わなかった。
千綴も、すぐに巴へ向き直る。
その瞬間、巴の膝から一気に力が抜けた。
「店長!」
支配が切れたのか。
倒れる身体を支えようとする。
けれど、千綴一人では受け止めきれない。
床へ倒れる。
そう思った瞬間、横から腕が入った。
横から伸びた腕が、巴の身体を受け止める。
「床へ。ゆっくり」
短い指示だった。
千綴も頷き、二人で巴を床へ下ろす。
「呼吸は」
「あります」
「意識は」
「店長、聞こえます?」
巴のまぶたが動いた。
苦しそうに息を吸い、それでも最初に千綴を見た。
「……いる」
「います。ここにいます」
「そうじゃ……なくて」
声は掠れていた。
「怪我……」
こんな時まで。
胸の奥が熱くなり、千綴は泣きそうになる。
「私は大丈夫です」
公園で会った男は、すでに巴の脈を取っていた。
呼吸。
瞳孔。
身体の状態。
必要なところだけを迷いなく確認していく。
店の外では、まだ騒ぎが続いている。
犯人は逃げた。
追えば、まだ間に合ったかもしれない。
それでも男は一度も入口を見なかった。
巴を見ている。
千綴を見ている。
今ここに残った二人を。
「救急を呼ぶ」
男はそう言って通信端末へ手を伸ばした。
千綴は巴の手を握る。
冷たい。
けれど。
弱く、確かに握り返してくる。
その感触を確かめて、千綴はようやく長く息を吐いた。
救急車の赤い光が、丘平商店のガラスへ一定の間隔で映り込んでいた。
騒ぎが起きる前の店内は、まだところどころに残っている。
途中で止まったレジの表示。片づけかけの段ボール。床へ落ちたままの小さな菓子袋。ラジオだけはいつの間にか消されていて、さっきまで当たり前に流れていた音楽の代わりに、外から人の声と無線の音が薄く入ってくる。
巴は、店の奥へ出された椅子に座っていた。
救急隊員の確認は一通り終わっている。受け答えもでき、呼吸も落ち着いてきていた。それでも立ち上がろうとすると脚へ力が入りきらず、結局、もう一度椅子へ戻されていた。
千綴はその少し離れたところに立って、自分の右脚へそっと体重を掛けた。
動く。
左脚も、もう動く。
歩こうと思えば歩ける。
けれど、自分の意志が身体へ届かなかった感覚だけが、皮膚の内側へ薄く残っていた。
「弥生」
呼ばれて、千綴は顔を上げた。
昼間、公園で会った男が入口近くに立っていた。
やはり名前を知っている。
店長のことも、さっきは「榊さん」と呼んだ。
救助の最中には考えないようにしていた疑問が、ようやく戻ってくる。
男は急かさなかった。
救急隊員が一人、外へ出ていく。開いた扉から夜気が入り、店の床に落ちていたレシートの端を僅かに揺らした。
扉が閉まる。
店内がまた少し静かになってから、男が言った。
「少し話せるか」
千綴は巴を見る。
巴も男を見ていた。
「私も聞く」
「もちろんです」
それ以上、男は言葉を重ねなかった。
三人は商品棚から少し離れた場所へ移った。巴は椅子に座ったまま。千綴はその横に立ち、男は向かい側へ立つ。
外の赤い光が一度、男の横顔を染めた。
消える。
次の光が来るまでに、男はようやく口を開いた。
「先に名乗ります。朝倉直嗣です。特殊事案対策課。表向きは、広域の特殊事件を扱う警察側の人間です」
巴が眉を寄せた。
「表向き?」
「はい」
直嗣はそこで言葉を切った。
説明を続ける前に、巴がどう受け取ったかを見ているようだった。
千綴は昼間の公園を思い返す。
事件関係者については、ある程度知っている。
あの時、直嗣はそう言った。
「だから私たちの名前も知ってたんですか」
「ああ」
「公園にいた時から?」
「事件の関係者として確認していた」
それだけだった。
勝手に調べたことを誤魔化すでもなく、必要以上に説明するでもない。
巴が小さく息を吐いた。
「なるほどね」
完全に納得した顔ではない。
それでも、ひとまず名前の話はそこで終わった。
直嗣は少し間を置いてから続ける。
「今日、榊さんが経験したことは、錯覚でも薬物でもありません」
巴の指が、膝の上で僅かに止まった。
千綴も黙った。
外から担架を片づける金属音が聞こえた。誰かが低い声で返事をし、それからまた店内が静かになる。
「人間の中には、通常では説明できない現象を起こす者がいます。今回の犯人も、その一人です」
巴はすぐには質問しなかった。
自分の手を一度開き、握る。
まだ動くことを確かめるような仕草だった。
「……人を動けなくする?」
ようやく出た声は、さっきより低かった。
「そうです。正確には、身体へ干渉して動きを奪っている」
「さっきの、あれが」
「はい」
直嗣は頷いた。
「通常の警察だけでは扱えない事件を、俺たちが担当しています」
それ以上は続けなかった。
巴が黙り、千綴も黙る。
すぐ隣にいる巴の呼吸が、少しずつ普段の速さへ戻っていくのが分かった。
千綴は自分の脚を見る。
二日前の公園でも、同じことが起きたのだろうか。
そう考えた瞬間、身体の奥に冷たい感覚が戻った。
「じゃあ」
千綴はゆっくり口を開いた。
「二日前の公園も、同じだったんですか」
直嗣はすぐには答えなかった。
千綴の顔を見て、それから一度だけ巴へ視線を移す。
「可能性は高い」
「私が襲われたのも」
「ああ」
「でも、私……何も覚えてない」
「今はそれでいい」
声は強くなかった。
「思い出すことを優先する必要はない。無理に掘り返して、状態を悪くする方が問題だ」
慰めではない。
けれど、突き放しているわけでもなかった。
千綴は小さく息を吐いた。
巴も隣で肩を落とす。
少しだけ安心したのかもしれない。
「犯人は?」
巴が聞いた。
「逃げました」
返事のあと、短い沈黙が落ちた。
「追えたんじゃないの」
責める声音ではなかった。
ただ、本当に知りたいのだと分かる問いだった。
直嗣も急いで否定しない。
「追えた可能性はあります」
「じゃあ、なんで」
巴の問いに、直嗣は一度店内を見た。
床。
椅子。
千綴。
そして巴。
「榊さんが倒れたからです」
巴が言葉を止める。
「弥生も完全には動けていなかった。あの場で犯人を追えば、二人を置いていくことになる」
それだけ言って、直嗣は黙った。
自分の判断を正当化する言葉を重ねようとはしない。
千綴は、さっきの場面を思い出した。
逃げる犯人。
追わなかった直嗣。
先に巴を見た。
次に自分を見た。
敵より先に。
「……あいつ、私を狙ってた」
千綴が言うと、直嗣は少しだけ間を置いた。
「その可能性は高い」
「二日前も」
「おそらく」
「今日も」
「ああ」
そこで初めて、直嗣ははっきり頷いた。
「少なくとも、今日は弥生を目的に来ていた」
店の外で車のドアが閉まった。
赤い光が一度だけ大きく揺れ、やがて店先から少し遠ざかっていく。
救急車が移動したらしい。
千綴は巴の手を見る。
もう震えはほとんどない。
自分のせいだ。
そう考えかけて、やめた。
襲ったのは、あの男だ。
それでも、自分を狙って来た結果として巴が巻き込まれた。その事実だけは、消えない。
「朝倉さん」
千綴は初めて名前を呼んだ。
「犯人に、名前はあるんですか」
直嗣は僅かに目を細めた。
「通称ならあります」
千綴は待った。
直嗣も一度、間を置いた。
「〈標本家〉」
聞いた瞬間、背中へ冷たいものが落ちた。
「……コレクター」
「複数の事件で同じ特徴が確認されています。俺たちはそう呼んでいる」
「連続犯?」
「はい」
巴が小さく息を吐いた。
誰もすぐには次の言葉を出さなかった。
店の外から聞こえていた声も、いつの間にか減っている。
襲撃は終わった。
店も閉まっている。
それなのに、千綴には今日がまだ終わっていないように感じられた。
怖さは残っている。
ただ、その怖さを急いで押し込めるより、今はそこにあるものとして認めた方が楽だった。
直嗣も何も急かさなかった。
救急隊員が最後の確認を終え、巴には翌日あらためて受診するよう念を押して帰っていった。
店内に残る人も少なくなった。
入口の外にはまだ警察関係者がいるが、さっきまで絶えず聞こえていた無線の声も、もう時折耳へ届く程度だった。
千綴は閉じたシャッターの前へ視線を向けた。
〈標本家〉が消えた方向。
実際にどこへ逃げたのかは見ていない。
それでも、店から外へ抜けたあと、どちらへ流れていったのか――細い感覚だけが、まだそこに残っている。
足跡が見えるわけではない。
道に印が付いているわけでもない。
さっきまでこの場所にいた男と、店の外へ続く何かが、完全には途切れていない。
そんな気がした。
千綴は入口へ近づく。
「弥生」
直嗣が呼んだ。
「外には出るな」
「出ません」
千綴はガラス越しに通りを見た。
左へ目を向ける。
違う。
右。
そちらの方が、まだ何かが残っている。
「……あっち」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
「何がだ」
「逃げた方向です」
直嗣の表情が僅かに変わる。
千綴は右手側の道を指した。
「たぶん、あっち」
「見たのか」
「見てません」
「音は?」
「それも聞いてないです」
直嗣は店の外を見た。
すぐに否定もしなければ、信じたとも言わない。
しばらく道を見たあと、千綴へ視線を戻す。
「どこまで分かる」
「分かりません」
千綴は苦笑した。
「今のも、なんでそう思ったのか説明できないです。ただ……あっちだって感じる」
「公園でも似たことはあったか」
千綴はすぐに答えず、昼間を思い返した。
道。
人が通った場所。
朝倉が何を見ているのか、なぜか自分にも少しだけ分かったこと。
「たぶん、ありました」
直嗣は小さく頷いた。
その沈黙へ、巴の声が入る。
「待って」
二人が振り向く。
巴は椅子から立ち上がろうとして、すぐに顔をしかめた。
千綴が近づく。
「店長、まだ座ってて」
「それより、今の何」
巴は千綴と直嗣を交互に見た。
「犯人を追えるかもしれない、って話?」
「まだ、そこまでは」
「その顔はもう追う気でしょ」
千綴は言葉を止めた。
巴は昔からよく見ている。
千綴自身がまだ決め切れていないことまで、先に気づく。
だから、誤魔化しても仕方がない。
千綴は巴の前へ座った。
「店長」
少しだけ間を置く。
「私、協力したい」
「駄目」
返事は早かった。
けれど、さっきまでの勢いとは違った。
声を荒げたわけではない。ただ、その言葉だけは最初から決まっていたのだと分かる。
千綴はすぐには言い返さなかった。
巴の手を見る。
もう震えてはいない。
それでも、動かなくなった時の感覚が消えたわけではないはずだ。
「今日、店長が襲われた」
「だからこそよ」
「私を狙って来たから」
「それは、あんたの責任じゃない」
「分かってる」
千綴は頷いた。
「それは本当に分かってる。襲ったのはあいつだし、私が悪いわけじゃない」
そこで一度、息を整える。
「でも、次も同じとは限らない」
巴は何も言わない。
「私が逃げれば終わるなら、逃げます。隠れて済むなら、そうする」
千綴は自分の言葉を確かめながら続けた。
「でも、あいつは公園からここまで追って来た。私がどこかへ行けば、そこまで来るかもしれない。故郷へ帰れば家族がいるし、友達のところへ行けば友達がいる」
綾乃。
悠司。
環。
ヴァシリオス。
名前と顔が一人ずつ浮かぶ。
「守られてるだけで、その人たちまで巻き込まれるのは嫌です」
「だからって、あんたが前に出る必要はないでしょ」
巴の声は低かった。
「前に出たいわけじゃない」
「同じようなものよ」
「違うよ」
千綴は首を振った。
「私、戦えないです。さっきだって、店長のところまで行くので精一杯だった」
その事実を口にすると、悔しさはあった。
けれど、隠す気にはならなかった。
「でも、逃げた方向は分かった。公園でも、道とか、人が通った場所とか、前より気になるようになってる」
直嗣を見る。
「それが役に立つなら、使ってください」
巴が息を呑む。
直嗣はすぐには答えなかった。
千綴を見て、そのあと閉じたシャッターへ目を向ける。
少し考える時間を取ってから、ようやく口を開いた。
「今の段階では、連れていけない」
千綴の眉が上がる。
「なんで」
「一般人だからだ」
直嗣は落ち着いていた。
「訓練もない。犯人の能力も分かっていない。今日の状態で現場へ出せば、守る対象が一人増える」
正しい。
だからこそ、すぐには反論しづらい。
千綴は少し黙ってから聞いた。
「じゃあ、どうするんですか」
「こちらで追う」
「見つからなかったら?」
「その時は手段を増やす」
前のように即座に「見つける」と言い切らなかった。
直嗣は千綴の話を聞いたうえで考えている。
そのことが分かった。
「私の方が先に見つけられるかもしれない」
「その可能性はある」
千綴は少し驚いた。
直嗣は否定しなかった。
「だからこそ、今すぐ使うとは言えない」
千綴は黙った。
直嗣も急かさない。
店の奥で冷蔵庫の機械音だけが続いている。
やがて千綴は巴を見る。
「何も知らないまま待つ方が、私は怖い」
巴の表情が僅かに動いた。
「自分が何に狙われてるのか、何ができるのか。それくらいは知りたい」
直嗣は答えなかった。
ただ千綴を見ていた。
何を言うかではなく、どこまで本気で言っているのかを確かめるように。
千綴も、今度は目を逸らさなかった。
しばらく誰も口を開かなかった。
店の外を車が一台通り過ぎる。
閉じたシャッターの隙間から光が細く差し込み、床を横切って消えた。
直嗣はその光がなくなるまで待ってから、千綴を見る。
「一つ確認する」
「はい」
「戦いたいのか」
千綴は首を振った。
「違います。犯人を殴りたいとか、仕返ししたいとか、そういうのじゃない」
「怖くないのか」
今度は、すぐには答えられなかった。
脚が動かなくなった感覚。
男の顔を見ただけで、身体が先に逃げようとしたこと。
喉の奥には、まだその時の冷たさが残っている。
「怖いです」
千綴は認めた。
「すごく怖い。でも、何も知らないままなのも嫌です」
直嗣は小さく頷いた。
それ以上、怖さについて掘り下げることはしなかった。
「もう一つ」
「はい」
「現場で俺の指示に従えるか」
千綴は少し考える。
「内容によります」
巴が額へ手を当てた。
「そこで迷うの……」
「だって、何でも聞きますって言う方が怖くないですか」
千綴が返すと、直嗣はほんの僅かに息を吐いた。
「そう答えると思った」
「じゃあ聞かないでください」
「必要な確認だ」
そこで空気が少しだけ緩んだ。
直嗣はすぐに続きを言わず、巴の方を見る。
巴も黙って待っている。
「条件を決める」
千綴が姿勢を直した。
「戦闘には出さない。単独行動もしない。現場では俺から離れない」
「分かりました」
「危険だと判断したら、その場で離脱させる。その判断だけは俺に任せてもらう」
千綴は少しだけ迷った。
何でも従うつもりはない。
けれど、自分が戦えないことも、さっき十分に分かった。
「……そこは分かりました」
「十分だ」
直嗣はそう言ってから、巴へ向き直った。
「榊さん」
巴の表情が硬くなる。
「私はまだ認めてない」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
直嗣は急いで説得しようとはしなかった。
巴の言葉が続くのを待つ。
「この子は高校生です」
「はい」
「事件に巻き込まれて、まだ二日しか経ってない。今日だって、また襲われたばかり」
「はい」
「それでも連れていくって言うの?」
直嗣は少し考えた。
一度千綴を見てから答える。
「通常なら、連れていきません」
「なら――」
「ただ、今の状況では遠ざけることが安全とも言い切れない」
巴が黙る。
「犯人は弥生へ執着している。行き先を変えても、そこまで追われる可能性がある。そうなれば、周囲へ危険が移る」
千綴がさっき口にしたことと同じだった。
「それに、弥生自身も今の感覚を理解できていない」
「だから危ないんでしょ」
「そうです」
直嗣は否定しなかった。
「だから、放っておく方が危ない」
巴の目が細くなる。
「放っておくって」
「一人で抱えさせる、という意味です」
少しだけ言葉を選び直した。
「俺のそばなら、少なくとも何か起きた時には対応できる。それに、弥生の感覚が本当に犯人を追う助けになるなら、事件を長引かせずに済む可能性もある」
直嗣はそこで言葉を止めた。
「ただし、使えるから連れていくわけではありません」
千綴が顔を上げる。
「守れる範囲に置く。そのうえで、必要なら力を借りる。それが条件です」
巴は何も言わなかった。
店の外では、もう警察関係者の声もほとんど聞こえない。
丘平商店はようやく、本当に閉店した店の静けさへ戻りつつあった。
「店長」
千綴が呼ぶ。
巴は千綴を見る。
「私、行きたい」
「……そういう顔してる」
「ごめんなさい」
「謝るならやめてほしいんだけどね」
巴はそう言って、長く息を吐いた。
怒っている。
困っている。
怖がっている。
千綴には全部分かった。
だからこそ、視線を逸らさなかった。
「私、何も分からないまま店長が倒れてるのを見るの、もう嫌です」
声は少し震えた。
「次が誰かも分からないし。できることがあるなら、やりたい」
巴は長いあいだ答えなかった。
その沈黙の中で、千綴も何も足さなかった。
説得するための言葉を重ねれば、かえって違う気がした。
やがて巴が直嗣を見る。
「朝倉さん」
「はい」
「この子が危なくなったら?」
「守ります」
返事は早かった。
けれど、勢いで言ったようには聞こえない。
巴はさらに聞く。
「犯人を捕まえるのと、この子を守るのが同時にできなかったら?」
直嗣は一度だけ千綴を見た。
それから、まっすぐ巴へ答える。
「弥生を優先します」
巴の表情が僅かに変わった。
「言い切るのね」
「今日もそうしました」
千綴は、逃げた犯人を追わなかった直嗣を思い出す。
巴も同じ場面を思い出したのだろう。
言葉より前に、すでに一度選んでいる。
それが一番大きかった。
巴はしばらく黙ったあと、椅子の背へ身体を預けた。
「……条件付き」
千綴が顔を上げる。
「店長」
「賛成したわけじゃないからね」
「はい」
「無茶したら即やめる」
「はい」
「朝倉さんの言うことも、ちゃんと聞く」
千綴は一瞬だけ直嗣を見る。
「内容によります」
「そこは今だけでも『はい』って言いなさい!」
久しぶりに、巴のいつもの声が店内へ響いた。
千綴は思わず笑う。
直嗣も、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。
それが笑ったのかどうか、千綴にはまだ判断できなかった。
少し空気が戻ってから、直嗣が改めて千綴を見る。
「今回の〈標本家〉事件に限って、捜査へ協力してもらう」
言葉にすると、急に重みが出た。
千綴は一度、店の中を見る。
閉じたシャッター。
片づけ途中の棚。
騒ぎのあとも残ったままのレジ。
少し離れたところには巴がいる。
どれも昨日までと同じ場所にある。
なのに、もう同じ景色には見えなかった。
千綴は直嗣へ視線を戻す。
「分かりました。よろしくお願いします、朝倉さん」
直嗣は短く頷いた。
「朝倉直嗣だ」
「それはもう知ってます」
「そうだったな」
「弥生千綴です」
「それも知ってる」
「じゃあ、お互い様ですね」
直嗣は一瞬だけ千綴を見る。
今度は、さっきより分かりやすく息を吐いた。
「明日、こちらから連絡する」
「はい」
「今日は休め」
「……それ、みんな言うんですね」
「必要だから言う」
千綴は返す言葉を失って、肩を落とした。
その横で、巴がようやく小さく笑った。
店の外では、夜の気配がすっかり濃くなっていた。
いつの間にか、周囲の騒がしさもほとんど消えている。
千綴はエプロンの紐へ手を触れた。店を開ける前、自分で結び直したままだった。
奥では、冷蔵ケースの機械音だけが一定の調子で続いている。
明日。
その言葉が、昨日までとは少し違う重さで胸に残った。
2026/08/10 異能の表示形式、ルビ、不要文言の修正
2026/08/09 文章の均一化




