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空の結び目  作者: 夕花
6/28

- 6 -

 店頭へ顔を出した瞬間、千綴は足を止めた。


 巴がレジ脇に立っている。


 ただ、立っているのではなかった。


 片腕をわずかに持ち上げたまま、身体のどこにも次の動作が続いていない。呼吸はしている。目も開いている。意識を失っているわけでもない。それなのに、まるで身体だけが途中で切り離されたように、そこから先へ進めずにいた。


 その向こうに、一人の男が立っていた。


 客として店に入ってきたはずの男。


 いつからいたのか、千綴には分からない。どんな服を着ていたのかも、どこを歩いていたのかも、今までまったく意識に残っていなかった。


 けれど、その顔を見た瞬間。


 胸の奥で、何かがほどけるより先に、身体が強く縮こまった。


 濡れた空気。


 雨に冷えた地面。


 視界の端に沈む黒い影。


 指が動かない。


 足が動かない。


 息を吸おうとしているのに、胸が途中で止まる。


 声を出そうとしても、喉の奥で何かにつかえて、音にならない。


 記憶ではなかった。


 公園で何が起きたのかを思い出したわけでもない。男に何をされたのか、一連の出来事として繋がったわけでもない。


 それでも身体は覚えていた。


 肩が強張り、指先が冷え、呼吸が浅くなる。理由を考えるより先に、逃げたいという感情だけが身体の奥から突き上がった。


 あの男だ。


 自分を襲ったのは、この男だ。


 そう確信した途端、記憶の中に空いた黒い部分へ触れた気がした。そこに何があるのかは分からない。分からないまま、身体だけがその先を拒んでいる。


 けれど。


「店長」


 千綴の声は、自分でも分かるほど掠れていた。


 巴の目だけが、ほんの僅かに動いた。


 こちらを見る。


 それだけだった。


 助けて、と言ったわけではない。


 それでも、千綴には十分だった。


 恐怖は消えない。


 身体も震えている。


 だが、自分が怖いという感情より先に、巴が動けないという事実が前へ出た。


 千綴は一歩踏み出した。


 男の口元が、僅かに歪んだ。


「やはり、覚えていたか」


 千綴は答えなかった。


 何を覚えていると言われているのか分からない。


 ただ、巴から目を離せなかった。


 どうすれば助けられる。


 近づけばいいのか。触れれば動けるようになるのか。それとも、今の状態で触る方が危険なのか。


 何一つ分からない。


 それでも、何もしないという選択だけは浮かばなかった。


「その人を離して」


 男が少し首を傾けた。


「その人?」


 そこで初めて思い出したように、巴へ視線を向ける。


 人を見る目ではなかった。


 道具でも確認するような、興味の薄い視線。


 その瞬間、千綴の腹の奥に、恐怖とは別の熱が生まれた。


「店長に何したって聞いてるの」


「何もしていない」


 男は穏やかに答えた。


「少し、動かないでもらっているだけだ」


 巴の肩が、ごく僅かに震えた。


 息を吸おうとしている。


 苦しそうだった。


 千綴は考えるより先に動いた。


「店長!」


 床を蹴ろうとして、千綴は異変に気づいた。


 先に、右手の指が動かなかった。


 棚から離そうとしたはずなのに、指先から手首まで、自分の命令だけが抜け落ちている。


 遅れて、左手まで同じ感覚に沈んだ。


 両手が使えない。


 そう理解するより早く、右脚が止まった。


「っ――」


 前へ出したはずの足が、床へ縫い付けられたように動かない。


 勢いだけが残り、身体が前へ傾く。手をつくこともできず、千綴は肩から棚へぶつかって、どうにか転倒を免れた。


 その感覚が、また身体の奥にある記憶を掻き回した。


 動けない。


 自分の脚なのに。


 動け、と命じているのに。


 そこへ繋がっているはずの何かが、自分ではない誰かに握られている。


 息が浅くなる。


 指先が震える。


 背中に冷たい汗が浮いた。


 男の視線が、完全に千綴へ向いた。


 巴にはもう興味がない。


 そう分かるほど露骨だった。


「二度目だ」


 声は静かだった。


「今度は、順番を間違えない」


 右手。


 左手。


 男の目が、動かなくなった千綴の両手を順に確かめる。


 それから視線が脚へ落ちた。


 右脚。


 続いて左脚。


 一つ前が止まったことを確かめてから、次へ進む。


 身体の内側へ、目に見えない何かが少しずつ入り込んでくる。


 嫌だ。


 また、この先へ連れていかれる。


 何があったのかは思い出せない。それでも、身体だけが「ここから先」を知っている。


 その空白の縁へ近づくだけで、喉の奥がひどく冷えた。


 千綴は奥歯を噛んだ。


 逃げたい。


 その感情は、まだ消えていない。


 けれど、視界の端には巴がいる。


 自分を保護してくれた。


 病院へ連れていってくれた。


 警察署にも付き添ってくれた。


 思い出せない自分に、無理に聞かなかった。


 その人が今、自分を狙ってきた男のせいで動けなくなっている。


「……店長から、離れろ」


 千綴は右足を引こうとした。


 動かない。


 それでも力を込める。


 動かない手にまで力を込めようとして、肩が震えた。


 男の眉が僅かに動いた。


「まだ、自分のものだと思っているのか」


 意味は分からない。


 だが、その声には初めて明確な苛立ちが混じった。


 その瞬間。


 店の外から、鈍い音がした。


 何かが落ちたような音。


 男の視線が、一瞬だけ入口へ向く。


 ほんの一瞬。


 それだけだった。


 けれど、千綴の右脚を押さえつけていた重さが僅かに緩んだ。


 同時に、左手の指先にも感覚が戻る。


 千綴は考えるより先に、その隙へ身体をねじ込んだ。


 一歩。


 たった一歩だけ前へ出る。


 男の表情が崩れた。


「お前――」


「そこまでだ」


 低い声が、店内へ割り込んだ。


 入口に、昼間の男が立っていた。


 公園を離れたあとも、この周辺を警戒していたのだろうか。なぜここへ来られたのかまでは、千綴には分からない。


 昼間、公園で声を掛けてきた男だった。


 千綴はまだ名前を知らない。


 だが、その姿を見た瞬間、目の前の男の表情が変わった。


 怒りでも、驚きでもない。


 警戒。


 明らかな警戒だった。


 昼間、公園で何かがあった。


 千綴にはその中身までは分からない。


 ただ一つだけ分かる。


 目の前の男は、昼間の男を危険な相手として見ている。


 入口の男は走らなかった。


 大声も出さない。


 それなのに、一歩店内へ入っただけで空気が変わった。


「その二人から離れろ」


 返事はない。


 代わりに、千綴の左脚がさらに重くなり、巴の身体も僅かに傾いた。


 昼間の男の視線が動く。


 まず巴。


 次に千綴。


 最後に、目の前の男。


 敵を見るより先に、二人の状態を確認した。


 その順番だけが、千綴の意識に妙にはっきり残った。


「動けるか」


 男が千綴へ聞く。


「右足が……少し」


「十分だ。榊さんのところへ」


 なぜ名前を知っているのか。


 今は考える余裕がない。


 男が一歩踏み込んだ。


 目の前の男の腕が動く。


 何が飛んだわけでもない。


 それでも、昼間の男の身体が一瞬だけ止まった。


 本当に一瞬だった。


 次の瞬間には、もう前へ出ている。


 今度は、目の前の男が下がった。


「……効かない?」


「効いてる」


 昼間の男は平然と答えた。


「足りないだけだ」


 感情ではなく、事実を確認するような言い方だった。


 その一言で、目の前の男の余裕が消える。


 店の外で羽音がした。


 一羽。


 続けてもう一羽。


 何かがガラスへぶつかり、すぐ近くで犬の吠える声が上がった。


 それでも昼間の男は振り返らない。


「弥生」


 初めて名前を呼ばれた。


「榊さんを支えろ」


「はい!」


 千綴は動く右脚へ力を込め、感覚の戻った左手で棚から身体を離した。


 左脚を引きずる。


 一歩。


 また一歩。


 巴まで、あと少し。


 その間にも、〈標本家〉は昼間の男から距離を取っていく。


 戦うつもりがない。


 千綴にも分かった。


 逃げる。


 そう判断したのだ。


「待っ――」


「追うな」


 短い声が飛んだ。


 千綴は止まった。


 男は入口へ向かう。


 外で鳥が騒ぎ、犬の声が重なり、その向こうから人の驚いた声も聞こえた。


 その混乱へ紛れるように、男の姿が店の外へ消える。


 入口に残った男は追わなかった。


 千綴も、すぐに巴へ向き直る。


 その瞬間、巴の膝から一気に力が抜けた。


「店長!」


 支配が切れたのか。


 倒れる身体を支えようとする。


 けれど、千綴一人では受け止めきれない。


 床へ倒れる。


 そう思った瞬間、横から腕が入った。


 横から伸びた腕が、巴の身体を受け止める。


「床へ。ゆっくり」


 短い指示だった。


 千綴も頷き、二人で巴を床へ下ろす。


「呼吸は」


「あります」


「意識は」


「店長、聞こえます?」


 巴のまぶたが動いた。


 苦しそうに息を吸い、それでも最初に千綴を見た。


「……いる」


「います。ここにいます」


「そうじゃ……なくて」


 声は掠れていた。


「怪我……」


 こんな時まで。


 胸の奥が熱くなり、千綴は泣きそうになる。


「私は大丈夫です」


 公園で会った男は、すでに巴の脈を取っていた。


 呼吸。


 瞳孔。


 身体の状態。


 必要なところだけを迷いなく確認していく。


 店の外では、まだ騒ぎが続いている。


 犯人は逃げた。


 追えば、まだ間に合ったかもしれない。


 それでも男は一度も入口を見なかった。


 巴を見ている。


 千綴を見ている。


 今ここに残った二人を。


「救急を呼ぶ」


 男はそう言って通信端末へ手を伸ばした。


 千綴は巴の手を握る。


 冷たい。


 けれど。


 弱く、確かに握り返してくる。


 その感触を確かめて、千綴はようやく長く息を吐いた。





 救急車の赤い光が、丘平商店のガラスへ一定の間隔で映り込んでいた。


 騒ぎが起きる前の店内は、まだところどころに残っている。


 途中で止まったレジの表示。片づけかけの段ボール。床へ落ちたままの小さな菓子袋。ラジオだけはいつの間にか消されていて、さっきまで当たり前に流れていた音楽の代わりに、外から人の声と無線の音が薄く入ってくる。


 巴は、店の奥へ出された椅子に座っていた。


 救急隊員の確認は一通り終わっている。受け答えもでき、呼吸も落ち着いてきていた。それでも立ち上がろうとすると脚へ力が入りきらず、結局、もう一度椅子へ戻されていた。


 千綴はその少し離れたところに立って、自分の右脚へそっと体重を掛けた。


 動く。


 左脚も、もう動く。


 歩こうと思えば歩ける。


 けれど、自分の意志が身体へ届かなかった感覚だけが、皮膚の内側へ薄く残っていた。


「弥生」


 呼ばれて、千綴は顔を上げた。


 昼間、公園で会った男が入口近くに立っていた。


 やはり名前を知っている。


 店長のことも、さっきは「榊さん」と呼んだ。


 救助の最中には考えないようにしていた疑問が、ようやく戻ってくる。


 男は急かさなかった。


 救急隊員が一人、外へ出ていく。開いた扉から夜気が入り、店の床に落ちていたレシートの端を僅かに揺らした。


 扉が閉まる。


 店内がまた少し静かになってから、男が言った。


「少し話せるか」


 千綴は巴を見る。


 巴も男を見ていた。


「私も聞く」


「もちろんです」


 それ以上、男は言葉を重ねなかった。


 三人は商品棚から少し離れた場所へ移った。巴は椅子に座ったまま。千綴はその横に立ち、男は向かい側へ立つ。


 外の赤い光が一度、男の横顔を染めた。


 消える。


 次の光が来るまでに、男はようやく口を開いた。


「先に名乗ります。朝倉直嗣(あさくらなおつぐ)です。特殊事案対策課。表向きは、広域の特殊事件を扱う警察側の人間です」


 巴が眉を寄せた。


「表向き?」


「はい」


 直嗣はそこで言葉を切った。


 説明を続ける前に、巴がどう受け取ったかを見ているようだった。


 千綴は昼間の公園を思い返す。


 事件関係者については、ある程度知っている。


 あの時、直嗣はそう言った。


「だから私たちの名前も知ってたんですか」


「ああ」


「公園にいた時から?」


「事件の関係者として確認していた」


 それだけだった。


 勝手に調べたことを誤魔化すでもなく、必要以上に説明するでもない。


 巴が小さく息を吐いた。


「なるほどね」


 完全に納得した顔ではない。


 それでも、ひとまず名前の話はそこで終わった。


 直嗣は少し間を置いてから続ける。


「今日、榊さんが経験したことは、錯覚でも薬物でもありません」


 巴の指が、膝の上で僅かに止まった。


 千綴も黙った。


 外から担架を片づける金属音が聞こえた。誰かが低い声で返事をし、それからまた店内が静かになる。


「人間の中には、通常では説明できない現象を起こす者がいます。今回の犯人も、その一人です」


 巴はすぐには質問しなかった。


 自分の手を一度開き、握る。


 まだ動くことを確かめるような仕草だった。


「……人を動けなくする?」


 ようやく出た声は、さっきより低かった。


「そうです。正確には、身体へ干渉して動きを奪っている」


「さっきの、あれが」


「はい」


 直嗣は頷いた。


「通常の警察だけでは扱えない事件を、俺たちが担当しています」


 それ以上は続けなかった。


 巴が黙り、千綴も黙る。


 すぐ隣にいる巴の呼吸が、少しずつ普段の速さへ戻っていくのが分かった。


 千綴は自分の脚を見る。


 二日前の公園でも、同じことが起きたのだろうか。


 そう考えた瞬間、身体の奥に冷たい感覚が戻った。


「じゃあ」


 千綴はゆっくり口を開いた。


「二日前の公園も、同じだったんですか」


 直嗣はすぐには答えなかった。


 千綴の顔を見て、それから一度だけ巴へ視線を移す。


「可能性は高い」


「私が襲われたのも」


「ああ」


「でも、私……何も覚えてない」


「今はそれでいい」


 声は強くなかった。


「思い出すことを優先する必要はない。無理に掘り返して、状態を悪くする方が問題だ」


 慰めではない。


 けれど、突き放しているわけでもなかった。


 千綴は小さく息を吐いた。


 巴も隣で肩を落とす。


 少しだけ安心したのかもしれない。


「犯人は?」


 巴が聞いた。


「逃げました」


 返事のあと、短い沈黙が落ちた。


「追えたんじゃないの」


 責める声音ではなかった。


 ただ、本当に知りたいのだと分かる問いだった。


 直嗣も急いで否定しない。


「追えた可能性はあります」


「じゃあ、なんで」


 巴の問いに、直嗣は一度店内を見た。


 床。


 椅子。


 千綴。


 そして巴。


「榊さんが倒れたからです」


 巴が言葉を止める。


「弥生も完全には動けていなかった。あの場で犯人を追えば、二人を置いていくことになる」


 それだけ言って、直嗣は黙った。


 自分の判断を正当化する言葉を重ねようとはしない。


 千綴は、さっきの場面を思い出した。


 逃げる犯人。


 追わなかった直嗣。


 先に巴を見た。


 次に自分を見た。


 敵より先に。


「……あいつ、私を狙ってた」


 千綴が言うと、直嗣は少しだけ間を置いた。


「その可能性は高い」


「二日前も」


「おそらく」


「今日も」


「ああ」


 そこで初めて、直嗣ははっきり頷いた。


「少なくとも、今日は弥生を目的に来ていた」


 店の外で車のドアが閉まった。


 赤い光が一度だけ大きく揺れ、やがて店先から少し遠ざかっていく。


 救急車が移動したらしい。


 千綴は巴の手を見る。


 もう震えはほとんどない。


 自分のせいだ。


 そう考えかけて、やめた。


 襲ったのは、あの男だ。


 それでも、自分を狙って来た結果として巴が巻き込まれた。その事実だけは、消えない。


「朝倉さん」


 千綴は初めて名前を呼んだ。


「犯人に、名前はあるんですか」


 直嗣は僅かに目を細めた。


「通称ならあります」


 千綴は待った。


 直嗣も一度、間を置いた。


「〈標本家(コレクター)〉」


 聞いた瞬間、背中へ冷たいものが落ちた。


「……コレクター」


「複数の事件で同じ特徴が確認されています。俺たちはそう呼んでいる」


「連続犯?」


「はい」


 巴が小さく息を吐いた。


 誰もすぐには次の言葉を出さなかった。


 店の外から聞こえていた声も、いつの間にか減っている。


 襲撃は終わった。


 店も閉まっている。


 それなのに、千綴には今日がまだ終わっていないように感じられた。


 怖さは残っている。


 ただ、その怖さを急いで押し込めるより、今はそこにあるものとして認めた方が楽だった。


 直嗣も何も急かさなかった。





 救急隊員が最後の確認を終え、巴には翌日あらためて受診するよう念を押して帰っていった。


 店内に残る人も少なくなった。


 入口の外にはまだ警察関係者がいるが、さっきまで絶えず聞こえていた無線の声も、もう時折耳へ届く程度だった。


 千綴は閉じたシャッターの前へ視線を向けた。


 〈標本家〉が消えた方向。


 実際にどこへ逃げたのかは見ていない。


 それでも、店から外へ抜けたあと、どちらへ流れていったのか――細い感覚だけが、まだそこに残っている。


 足跡が見えるわけではない。


 道に印が付いているわけでもない。


 さっきまでこの場所にいた男と、店の外へ続く何かが、完全には途切れていない。


 そんな気がした。


 千綴は入口へ近づく。


「弥生」


 直嗣が呼んだ。


「外には出るな」


「出ません」


 千綴はガラス越しに通りを見た。


 左へ目を向ける。


 違う。


 右。


 そちらの方が、まだ何かが残っている。


「……あっち」


 声に出してから、自分でも少し驚いた。


「何がだ」


「逃げた方向です」


 直嗣の表情が僅かに変わる。


 千綴は右手側の道を指した。


「たぶん、あっち」


「見たのか」


「見てません」


「音は?」


「それも聞いてないです」


 直嗣は店の外を見た。


 すぐに否定もしなければ、信じたとも言わない。


 しばらく道を見たあと、千綴へ視線を戻す。


「どこまで分かる」


「分かりません」


 千綴は苦笑した。


「今のも、なんでそう思ったのか説明できないです。ただ……あっちだって感じる」


「公園でも似たことはあったか」


 千綴はすぐに答えず、昼間を思い返した。


 道。


 人が通った場所。


 朝倉が何を見ているのか、なぜか自分にも少しだけ分かったこと。


「たぶん、ありました」


 直嗣は小さく頷いた。


 その沈黙へ、巴の声が入る。


「待って」


 二人が振り向く。


 巴は椅子から立ち上がろうとして、すぐに顔をしかめた。


 千綴が近づく。


「店長、まだ座ってて」


「それより、今の何」


 巴は千綴と直嗣を交互に見た。


「犯人を追えるかもしれない、って話?」


「まだ、そこまでは」


「その顔はもう追う気でしょ」


 千綴は言葉を止めた。


 巴は昔からよく見ている。


 千綴自身がまだ決め切れていないことまで、先に気づく。


 だから、誤魔化しても仕方がない。


 千綴は巴の前へ座った。


「店長」


 少しだけ間を置く。


「私、協力したい」


「駄目」


 返事は早かった。


 けれど、さっきまでの勢いとは違った。


 声を荒げたわけではない。ただ、その言葉だけは最初から決まっていたのだと分かる。


 千綴はすぐには言い返さなかった。


 巴の手を見る。


 もう震えてはいない。


 それでも、動かなくなった時の感覚が消えたわけではないはずだ。


「今日、店長が襲われた」


「だからこそよ」


「私を狙って来たから」


「それは、あんたの責任じゃない」


「分かってる」


 千綴は頷いた。


「それは本当に分かってる。襲ったのはあいつだし、私が悪いわけじゃない」


 そこで一度、息を整える。


「でも、次も同じとは限らない」


 巴は何も言わない。


「私が逃げれば終わるなら、逃げます。隠れて済むなら、そうする」


 千綴は自分の言葉を確かめながら続けた。


「でも、あいつは公園からここまで追って来た。私がどこかへ行けば、そこまで来るかもしれない。故郷へ帰れば家族がいるし、友達のところへ行けば友達がいる」


 綾乃。


 悠司。


 環。


 ヴァシリオス。


 名前と顔が一人ずつ浮かぶ。


「守られてるだけで、その人たちまで巻き込まれるのは嫌です」


「だからって、あんたが前に出る必要はないでしょ」


 巴の声は低かった。


「前に出たいわけじゃない」


「同じようなものよ」


「違うよ」


 千綴は首を振った。


「私、戦えないです。さっきだって、店長のところまで行くので精一杯だった」


 その事実を口にすると、悔しさはあった。


 けれど、隠す気にはならなかった。


「でも、逃げた方向は分かった。公園でも、道とか、人が通った場所とか、前より気になるようになってる」


 直嗣を見る。


「それが役に立つなら、使ってください」


 巴が息を呑む。


 直嗣はすぐには答えなかった。


 千綴を見て、そのあと閉じたシャッターへ目を向ける。


 少し考える時間を取ってから、ようやく口を開いた。


「今の段階では、連れていけない」


 千綴の眉が上がる。


「なんで」


「一般人だからだ」


 直嗣は落ち着いていた。


「訓練もない。犯人の能力も分かっていない。今日の状態で現場へ出せば、守る対象が一人増える」


 正しい。


 だからこそ、すぐには反論しづらい。


 千綴は少し黙ってから聞いた。


「じゃあ、どうするんですか」


「こちらで追う」


「見つからなかったら?」


「その時は手段を増やす」


 前のように即座に「見つける」と言い切らなかった。


 直嗣は千綴の話を聞いたうえで考えている。


 そのことが分かった。


「私の方が先に見つけられるかもしれない」


「その可能性はある」


 千綴は少し驚いた。


 直嗣は否定しなかった。


「だからこそ、今すぐ使うとは言えない」


 千綴は黙った。


 直嗣も急かさない。


 店の奥で冷蔵庫の機械音だけが続いている。


 やがて千綴は巴を見る。


「何も知らないまま待つ方が、私は怖い」


 巴の表情が僅かに動いた。


「自分が何に狙われてるのか、何ができるのか。それくらいは知りたい」


 直嗣は答えなかった。


 ただ千綴を見ていた。


 何を言うかではなく、どこまで本気で言っているのかを確かめるように。


 千綴も、今度は目を逸らさなかった。





 しばらく誰も口を開かなかった。


 店の外を車が一台通り過ぎる。


 閉じたシャッターの隙間から光が細く差し込み、床を横切って消えた。


 直嗣はその光がなくなるまで待ってから、千綴を見る。


「一つ確認する」


「はい」


「戦いたいのか」


 千綴は首を振った。


「違います。犯人を殴りたいとか、仕返ししたいとか、そういうのじゃない」


「怖くないのか」


 今度は、すぐには答えられなかった。


 脚が動かなくなった感覚。


 男の顔を見ただけで、身体が先に逃げようとしたこと。


 喉の奥には、まだその時の冷たさが残っている。


「怖いです」


 千綴は認めた。


「すごく怖い。でも、何も知らないままなのも嫌です」


 直嗣は小さく頷いた。


 それ以上、怖さについて掘り下げることはしなかった。


「もう一つ」


「はい」


「現場で俺の指示に従えるか」


 千綴は少し考える。


「内容によります」


 巴が額へ手を当てた。


「そこで迷うの……」


「だって、何でも聞きますって言う方が怖くないですか」


 千綴が返すと、直嗣はほんの僅かに息を吐いた。


「そう答えると思った」


「じゃあ聞かないでください」


「必要な確認だ」


 そこで空気が少しだけ緩んだ。


 直嗣はすぐに続きを言わず、巴の方を見る。


 巴も黙って待っている。


「条件を決める」


 千綴が姿勢を直した。


「戦闘には出さない。単独行動もしない。現場では俺から離れない」


「分かりました」


「危険だと判断したら、その場で離脱させる。その判断だけは俺に任せてもらう」


 千綴は少しだけ迷った。


 何でも従うつもりはない。


 けれど、自分が戦えないことも、さっき十分に分かった。


「……そこは分かりました」


「十分だ」


 直嗣はそう言ってから、巴へ向き直った。


「榊さん」


 巴の表情が硬くなる。


「私はまだ認めてない」


「分かっています」


「本当に?」


「はい」


 直嗣は急いで説得しようとはしなかった。


 巴の言葉が続くのを待つ。


「この子は高校生です」


「はい」


「事件に巻き込まれて、まだ二日しか経ってない。今日だって、また襲われたばかり」


「はい」


「それでも連れていくって言うの?」


 直嗣は少し考えた。


 一度千綴を見てから答える。


「通常なら、連れていきません」


「なら――」


「ただ、今の状況では遠ざけることが安全とも言い切れない」


 巴が黙る。


「犯人は弥生へ執着している。行き先を変えても、そこまで追われる可能性がある。そうなれば、周囲へ危険が移る」


 千綴がさっき口にしたことと同じだった。


「それに、弥生自身も今の感覚を理解できていない」


「だから危ないんでしょ」


「そうです」


 直嗣は否定しなかった。


「だから、放っておく方が危ない」


 巴の目が細くなる。


「放っておくって」


「一人で抱えさせる、という意味です」


 少しだけ言葉を選び直した。


「俺のそばなら、少なくとも何か起きた時には対応できる。それに、弥生の感覚が本当に犯人を追う助けになるなら、事件を長引かせずに済む可能性もある」


 直嗣はそこで言葉を止めた。


「ただし、使えるから連れていくわけではありません」


 千綴が顔を上げる。


「守れる範囲に置く。そのうえで、必要なら力を借りる。それが条件です」


 巴は何も言わなかった。


 店の外では、もう警察関係者の声もほとんど聞こえない。


 丘平商店はようやく、本当に閉店した店の静けさへ戻りつつあった。


「店長」


 千綴が呼ぶ。


 巴は千綴を見る。


「私、行きたい」


「……そういう顔してる」


「ごめんなさい」


「謝るならやめてほしいんだけどね」


 巴はそう言って、長く息を吐いた。


 怒っている。


 困っている。


 怖がっている。


 千綴には全部分かった。


 だからこそ、視線を逸らさなかった。


「私、何も分からないまま店長が倒れてるのを見るの、もう嫌です」


 声は少し震えた。


「次が誰かも分からないし。できることがあるなら、やりたい」


 巴は長いあいだ答えなかった。


 その沈黙の中で、千綴も何も足さなかった。


 説得するための言葉を重ねれば、かえって違う気がした。


 やがて巴が直嗣を見る。


「朝倉さん」


「はい」


「この子が危なくなったら?」


「守ります」


 返事は早かった。


 けれど、勢いで言ったようには聞こえない。


 巴はさらに聞く。


「犯人を捕まえるのと、この子を守るのが同時にできなかったら?」


 直嗣は一度だけ千綴を見た。


 それから、まっすぐ巴へ答える。


「弥生を優先します」


 巴の表情が僅かに変わった。


「言い切るのね」


「今日もそうしました」


 千綴は、逃げた犯人を追わなかった直嗣を思い出す。


 巴も同じ場面を思い出したのだろう。


 言葉より前に、すでに一度選んでいる。


 それが一番大きかった。


 巴はしばらく黙ったあと、椅子の背へ身体を預けた。


「……条件付き」


 千綴が顔を上げる。


「店長」


「賛成したわけじゃないからね」


「はい」


「無茶したら即やめる」


「はい」


「朝倉さんの言うことも、ちゃんと聞く」


 千綴は一瞬だけ直嗣を見る。


「内容によります」


「そこは今だけでも『はい』って言いなさい!」


 久しぶりに、巴のいつもの声が店内へ響いた。


 千綴は思わず笑う。


 直嗣も、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。


 それが笑ったのかどうか、千綴にはまだ判断できなかった。


 少し空気が戻ってから、直嗣が改めて千綴を見る。


「今回の〈標本家〉事件に限って、捜査へ協力してもらう」


 言葉にすると、急に重みが出た。


 千綴は一度、店の中を見る。


 閉じたシャッター。


 片づけ途中の棚。


 騒ぎのあとも残ったままのレジ。


 少し離れたところには巴がいる。


 どれも昨日までと同じ場所にある。


 なのに、もう同じ景色には見えなかった。


 千綴は直嗣へ視線を戻す。


「分かりました。よろしくお願いします、朝倉さん」


 直嗣は短く頷いた。


「朝倉直嗣だ」


「それはもう知ってます」


「そうだったな」


「弥生千綴です」


「それも知ってる」


「じゃあ、お互い様ですね」


 直嗣は一瞬だけ千綴を見る。


 今度は、さっきより分かりやすく息を吐いた。


「明日、こちらから連絡する」


「はい」


「今日は休め」


「……それ、みんな言うんですね」


「必要だから言う」


 千綴は返す言葉を失って、肩を落とした。


 その横で、巴がようやく小さく笑った。


 店の外では、夜の気配がすっかり濃くなっていた。


 いつの間にか、周囲の騒がしさもほとんど消えている。


 千綴はエプロンの紐へ手を触れた。店を開ける前、自分で結び直したままだった。


 奥では、冷蔵ケースの機械音だけが一定の調子で続いている。


 明日。


 その言葉が、昨日までとは少し違う重さで胸に残った。

2026/08/10 異能の表示形式、ルビ、不要文言の修正

2026/08/09 文章の均一化

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