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空の結び目  作者: 夕花


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- 39 -

 坂の途中まで来たところで、背後から足音が近づいてきた。


 朝の冷え込みは昨日より少し強く、吐いた息が薄く白む。千綴が振り返ろうとしたところで、聞き慣れた声がした。


「おはよ」


 綾乃が追いつき、並ぶように歩幅を緩めた。肩にかけた鞄を直しながら千綴の顔を一度見て、それから前へ視線を戻す。


「今日はちゃんと起きてるね」


「昨日も起きてたよ」


「保健室で寝てた人が言ってもね」


 からかうような調子だった。千綴も言い返そうとして、やめる。昨日は実際、まともに授業を受けられる状態ではなかった。


 昨夜は食事と宿題を済ませてから、もう一度布団へ入った。そのあとは途中で目を覚ますこともなく、朝まで眠った。身体の重さはまだ少し残っているが、昨日のような頭の鈍さはない。坂を上る足も、普段と大きくは変わらなかった。


「もう大丈夫?」


 綾乃が、今度は少しだけ声を落として聞いた。


「うん。寝たらだいぶ戻った」


「ならいいけど」


 それ以上、綾乃は踏み込まなかった。


 歩道の端には、乾いた葉がいくつも寄っていた。少し前まで緑の濃かった生垣も色を失い始め、朝の光は低いところから校舎の窓を白く照らしている。


「そういえば、ホラーハウスの話、昨日ちょっと考えてたんだけど」


 綾乃が話題を変えた。


「もう考えてるんだ」


「脚本書くって言ったからにはね。まだ最初のところだけだけど」


「前振りの部屋?」


「そこ。最初から怖くするより、何か変だなって思わせてから中に入れたいんだよね」


 話しながら、綾乃は指先で空中に順番を描くような仕草をした。


 出し物が決まってから、まだ数日しか経っていない。クラスでも、必要なものを挙げたり役割を考えたりし始めたところだ。まだ、はっきりした形にはなっていない。


「そこは任せるよ。私は怖い話詳しくないし」


「ちづるは配置考える方が向いてそう」


「それはそうかも」


 そんな話をしながら校門を抜ける。


 昇降口にはすでに何人か生徒がいて、靴箱の前を行き交っていた。少し離れたところでは、休んでいた誰かが久しぶりに来たらしく、友人に囲まれている。


 数えたわけではない。ただ、ここしばらくより人の動きが少し多いように見えた。


 千綴は上履きへ履き替え、綾乃と並んで階段を上った。


 教室の扉を開けると、いくつかの話し声に混じってヴァシリオスの声が聞こえた。千綴は自分の席へ鞄を置き、その声の方へ目を向けた。


「違う。もっと力抜けるだろ」


「抜いてる」


「まだ生きてる」


「難しい注文だね」


 環は教室の後ろで、机へ上半身を預けるようにしてぐったりしていた。片腕を力なく垂らし、顔を横へ向けている。傍らに立ったヴァシリオスが、腕を組んでその姿勢を見ていた。


「……朝から何してるの」


 千綴が聞くと、環は顔だけこちらへ向けた。


「死体」


「見れば分かるけど」


「文化祭の練習」


 綾乃が後ろから覗き込み、呆れたように息を吐いた。


「まだ何も作ってないのに、そこだけ練習するの?」


「できるところから」


 環はそう言って、また机へ力を抜いて伏せた。


 千綴はその姿を見ながら、昨日の朝、病室のベッドで眠っていた顔を思い出した。今は顔色も普段と大きく変わらない。声にもいつもの気怠さが戻っている。


「環、もう大丈夫?」


 聞くと、環は身体を起こした。


「うん。平気だよ。ありがと」


「本当に?」


 今度は綾乃が聞く。


「病院でも大丈夫って言われたし。昨日ずっと寝てたから、今日はむしろ元気」


 そう言って立ち上がる。


 ヴァシリオスはその横で、まだ何か納得していない顔をしている。


「でも前より上手くなってるんだよな」


「何が?」


「死体」


 千綴が聞き返すと、環が肩をすくめた。


「昨日まで疲れてたからじゃない?」


「それだ」


「それで納得するんだ」


 綾乃が眉を寄せる。


「力の抜け方が自然なんだよ」


「褒めていいの、それ」


「役としては褒めてる」


 環は面白がるように、もう一度机へぐったりと身体を預けた。今度は腕の垂らし方まで変えている。


 周囲の何人かが気づいて笑い、ヴァシリオスが「それ」と指を鳴らした。


 千綴も笑った。さっきまで環の顔色を見ていた目が、今は垂らされた腕の先へ向いている。


 環は身体を起こす途中で、ふと思い出したように千綴を見た。


「そういえばさ」


「何?」


「なんでエレディトと一緒だったの?」


 千綴は一瞬、返事に詰まった。


「え?」


 綾乃も反応した。


「エレディト?」


「うん。ちづると一緒に来た」


 環は当然のことのように言った。


 千綴はそこで初めて、説明していなかったことに気づいた。


 環を探しに行ったことも、見つけたことも、病院にいることも伝わっている。けれど、その間を誰と動いていたかまでは話していない。


「一緒に探してくれたの」


「エレディトが?」


 綾乃の表情には、単純な驚きが浮かんでいた。


「うん」


「なんでエレディト?」


 すぐに続いた問いに、千綴は返事を探した。


 頼んだ経緯だけなら話せる。けれど、そこから先を説明しようとすれば、話せないことの方が多くなる。


「近くにいて、それで――」


「エレディトもいたのか」


 ヴァシリオスが先に口を挟んだ。


 声そのものは普段と変わらなかった。ただ、その反応だけが妙に早かった。


 千綴がそちらを見る。


「何、その納得したみたいな顔」


「してない」


「今したでしょ」


「してないって」


 ヴァシリオスは視線を逸らし、環の方へ向き直った。


「それより、さっきのもう一回やってみろ」


「どれ?」


「最後のやつ。目もう少し閉じて」


「話逸らした」


 綾乃がすぐに言った。


「逸らしてない。文化祭の準備だ」


「朝からそこだけ進めなくていいから」


 環は面白がってそのままヴァシリオスに付き合い始めた。


 千綴はもう一度何か聞こうとしたが、その前に予鈴が鳴った。


 教室の空気が一斉に動く。立っていた生徒たちが席へ戻り、机の間にできていた小さな輪も崩れていった。


「続き、あとでね」


 環が自分の席へ向かいながら言う。


「何の?」


「エレディトの話」


「忘れていいよ」


「無理」


 環は笑っていた。


 前の扉が開き、出席簿を手にした山田先生が入ってくる。教室の話し声が少しずつ収まり、生徒たちが前を向いた。


 朝のホームルームが始まった。


 午前の授業の合間、廊下へ出ると、向こうから何人かの生徒が連れ立って歩いてきた。最近しばらく姿を見なかった顔も混じっている。


 教室へ戻れば、今日も空席はいくつか残っていた。それでも、休み時間の話し声や人の行き来は、ここ数日より少しだけ増えているように感じられた。


 昼休みになると、ヴァシリオスは財布だけ持って教室を出ていった。


「購買?」


 環が聞く。


「今日は弁当だけじゃ足りない」


「最初から足りる量持ってくればいいのに」


「朝練したから予定より減った」


「何が減ったの」


「俺の中の何か」


 意味の分からないことを言い残し、そのまま廊下へ消えていく。


 千綴と綾乃は机を寄せ、環もそこへ椅子を引いてきた。少し遅れて、別のクラスから悠司が顔を出す。


「環、もう来て平気なのか?」


 椅子を借りてきながら聞く。


「それ今日何回目だろ」


「俺は初めて聞いた」


「大丈夫。元気」


 悠司は環の顔を見て、それ以上は続けなかった。


 机の上へ弁当が並び始めた頃、ヴァシリオスが戻ってきた。片手にはパンの入った袋を提げている。


 綾乃が袋を見て眉を上げた。


「それ全部食べるの?」


「食べる」


「弁当もあるよね」


「ある」


「購買で止められなかった?」


「むしろ勧められた」


 ヴァシリオスは袋を机へ置き、椅子へ腰を下ろした。


「最近いる古一(グー・イー)さん。俺がパン取ってたら『若イ人、食ベル大事ネ』って追加で一個入れてきた」


「グー・イー?」


 環が首を傾げる。


「グー・イー。中国の人らしい」


「らしい?」


「本人はそう言ってる」


 悠司が袋の中身を見ながら、少し呆れたように言った。


「お前が毎回それだけ買うから覚えられてるんじゃないのか」


「たぶん顔覚えられてる。今日も『今日モ来タネ』って言われた」


「購買にそんな人いたっけ」


 綾乃が考えるように言う。


「最近入ったんじゃない?」


「昼だけいるのかもな」


 ヴァシリオスはあまり気にした様子もなく、パンの包装を開けた。


「今度見に行こうかな」


 環が言う。


「買えよ。見に行くだけは駄目だろ」


「バカが買いすぎるから大丈夫じゃない?」


「俺で売上支えてるみたいに言うな」


 そんな話をしながら、五人は昼食を始めた。


 しばらくは文化祭の話が続いた。


 綾乃は脚本の導入を考え始めているらしく、最初の部屋で何を見せるか迷っている。環は死体役の場所だけは妙に具体的に気にし、ヴァシリオスは音を大きくすれば怖くなると雑な提案をする。そのたびに綾乃が却下した。


 千綴は弁当を食べながら、実際の教室配置を頭の中で思い浮かべていた。


 前振りの部屋から隣の教室へ、客はどう進むだろう。千綴は箸を持ったまま、机や可動壁の位置を思い浮かべた。


「そういや」


 パンを一つ食べ終えたところで、ヴァシリオスがスマートフォンを取り出した。


「昨日の火事、これ見たか?」


「新辺の?」


 悠司が聞く。


「そう。前に言ってた廃墟のやつ」


 画面を操作し、机の中央へ向ける。


 映っていたのは夜の街並みだった。遠くの建物らしき影の向こうで、一瞬だけ白っぽい光が走る。撮影している側が驚いたらしく、すぐに映像が大きく揺れ、そのまま切れた。


「これ何?」


 環が顔を寄せる。


「謎の発光」


「本物?」


「知らん」


「知らないんだ」


 綾乃が画面から顔を上げる。


「SNSに上がってた。こっちは火事の少し前にドンって音聞いたってやつ」


 ヴァシリオスが別の投稿を開く。


 短い文章の下に、暗い空を撮った写真が添えられている。その次には、別の角度から撮られたらしい動画。そのさらに下には、雷だった、変電設備だ、爆発だと、書いてあることがばらばらだった。


「というか、SNSの話を全部そのまま信じない方がいいでしょ」


 綾乃が画面を見ながら言う。


「本当の目撃もあるかもしれないけど、違う動画とか、適当に言ってる人も混ざってるだろうし」


 悠司も画面から目を離し、自分の弁当に視線を戻した。


 ヴァシリオスは気にした様子もなく、投稿をいくつか見比べている。


「でも、廃墟だぞ」


「うん」


「火事だろ」


「うん」


「その前に爆発みたいな音がして、空も光った」


 指を折りながら数え、最後に顔を上げた。


「これはもう霊的存在だろ」


「どうして全部足したらそこに行くの」


 綾乃が即座に言う。


「条件が揃ってる」


「何の条件?」


「怪奇現象の」


「幽霊って爆発するの?」


 環が真顔で聞いた。


「するかもしれない」


「知らないんじゃん」


 悠司が小さく息を吐いた。


「火事なら何か破裂することくらいあるだろ。光だって、電気かもしれないし」


「夢がないな、悠司」


「現実の話してるからな」


 千綴は会話を聞きながら、もう一度スマートフォンの画面を見た。


 映像が本当にあの建物を撮ったものなのかは分からない。時刻も、場所も、投稿者の説明だけでは確かめようがない。


 ただ、あの夜、大きな音がしたことも、強い光が走ったことも知っている。


 画面の白い光を見ていると、腕で顔を庇った時の熱が戻ってくるようだった。千綴はスマートフォンから目を離した。


「最近、新辺ほんと色々あるね」


 環が言った。


「体調崩した人も多かったし、今度は火事だし」


「人の出入りも多いからな、あの辺」


 ヴァシリオスが言う。


「駅前も前より人増えてるし」


「市も大変そうだな」


 悠司がそれだけ返した。


 そこで話は途切れた。


 原因を考えるような空気にはならなかった。ヴァシリオスはすぐに次のパンを開け、綾乃はその量にまた何か言い始める。


 千綴も箸を進めた。


 午後の授業が終わると、教室の後ろで何人かが机を寄せ始めた。


 文化祭の準備といっても、まだ大きく何かを作る段階ではない。黒板の端には必要になりそうな物を書いた紙が貼られ、別の机では役割分担をどうするか話している。


 環も席を立って綾乃のところへ移り、広げたノートを二人で覗き込んでいた。


「ここで一回、客を止めたいんだよね」


「前振りの部屋?」


「うん。説明を聞いてから次に行く感じ」


 千綴は鞄を肩へ掛けながら、その横からノートを覗いた。


 文章というより、まだ場面の順番と簡単なメモが並んでいる段階だった。


「可動壁の位置、先に見た方がよくない?」


「やっぱりそう思う?」


「使える幅で話変わるでしょ」


「じゃあ明日見ようかな」


 教室の隅では、ヴァシリオスが余った段ボールを持ち上げ、何か作れないかと勝手に試している。


「それ捨てるやつじゃない?」


 環が聞く。


「使える」


「何に」


「まだ分からん」


 千綴は笑いながら時計を確認した。


「私、生徒会行ってくる」


「いってらっしゃい」


 綾乃がノートから顔を上げる。


 教室を出ると、廊下の向こうでも同じように何人かが集まっていた。文化祭の話が、少しずつ放課後の校舎へ入り込み始めている。


 教室に残った綾乃たちの声が、廊下へ出てからも聞こえていた。


 生徒会室では、鈴が机の上に申請書を広げていた。


「お疲れさまです」


「お疲れ」


 千綴が鞄を置いて席へ着くと、鈴は手元の紙を一度揃えた。


「今日は大丈夫ですか?」


「うん。昨日ちゃんと寝たから」


「ならよかったです」


 確認はそれだけだった。


 千綴は机の上の申請書へ目を向けた。


「昨日、何か変わったことあった?」


「特には。会長にも確認してもらいながら、いつもどおりです」


「そっか」


 鈴から書類を受け取り、備品貸出の希望数と教室使用の申請を見比べる。必要なところへ印をつけていると、少しして悠司も入ってきた。


「お疲れ」


「お疲れ」


 悠司は自分の席へ鞄を置き、そのまま机の上の書類を取った。


 千綴も手元の申請書へ目を戻し、いつものように確認を進めていった。


 気づけば窓の外の光が傾き始めていた。


 千綴は時計を見て、手元の一枚をファイルへ戻した。ほかの書類も揃え、机の上を整える。


「じゃあ、今日はこの辺で上がるね」


「はい。お疲れさまです」


 千綴は鞄を持って席を立った。


 丘平商店へ入ると、いつもの店内放送と冷蔵棚の低い駆動音が耳に入った。


「お疲れさまです」


「来たか」


 レジにいた巴が顔を上げる。


 千綴がバックヤードへ向かおうとすると、短く呼び止められた。


「その前に」


「はい」


「今日は大丈夫なんだな」


「大丈夫です」


「寝たか」


「寝ました。ちゃんと」


 巴は数秒、千綴の顔を見た。


「ならいい」


 それからレジ横へ身体を預け、少しだけ眉を寄せる。


「この前のことだけどな」


 千綴も立ったまま向き直った。


「似たようなこと、これで三回目だろ」


「……はい」


「最初の一回は仕方ない。何が起きてるのかも分からなかったしな」


 巴はそこで一度言葉を切った。


「それに、前よりはましになってる。連絡もするようになったし、何でも一人でやろうとはしてない。それは分かってる」


「はい」


「でも、少しずつましになってるからって、無茶していいわけじゃない」


 千綴は黙って聞いた。


「必要なら動け。そこまで止める気はない。ただ、『また無茶した』で済ませるのを当たり前にするな」


「……はい」


「心配する側のことも、少しは考えろ」


 千綴が素直に頷くと、巴もそれ以上は言わず、店の奥を指した。


「分かったなら着替えてこい。飲料の棚、補充残ってる」


「分かりました」


「返事はいいな」


「ちゃんとやります」


「なら働け」


 千綴はバックヤードへ入り、制服の上からエプロンを着けた。


 戻ると、いつもの仕事が待っていた。


 空いた棚へ商品を補充し、レジへ入り、常連客に新商品の場所を聞かれる。段ボールを開けて在庫を確認し、足りなくなった袋を補う。


「千綴ちゃん、これ新しいやつ?」


「今日入ったみたいです」


「じゃあ一個もらおうかな」


「ありがとうございます」


 客が出入りするたび、外の冷えた空気が一瞬だけ店内へ入り、入口近くの小さな値札が揺れた。


 閉店までの時間は、いつものように過ぎていった。


「お疲れ」


「お疲れさまでした」


 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。


 千綴は上着の前を閉じ、商店街を歩き出す。昼間より冷え込みが強くなり、道路を走る車の音もどこか遠く感じられた。


 店の明かりはところどころ残っているが、すでにシャッターを下ろした店も多い。


 交差点まで来たところで、千綴はふと歩みを止め、新辺の方角へ目を向けた。遠くに街の明かりが重なり、その上に夜空が広がっている。


 冷たい風が頬を撫でた。千綴はしばらく眺めてから視線を前へ戻し、家へ向かって歩き出した。

2026/10/11 全体改訂

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