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空の結び目  作者: 夕花


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 環の病室へ向かう廊下は、まだ朝というより夜の名残を引きずっていた。


 窓の外は白み始めているものの、照明を落とした廊下には人影も少ない。千綴は看護師に一声かけてから病室へ入り、音を立てないように扉を閉めた。


 環はベッドの上で静かに眠っていた。


 カーテンの隙間から入る朝の光はまだ弱く、細かな表情までは分からない。それでも寝息は穏やかだった。検査でも大きな異常はなかったと聞いている。千綴はベッドの脇へ近づき、しばらくその静かな呼吸に耳を澄ませた。


「……よかった」


 声は小さく、環を起こすほどではなかった。


 千綴はしばらくその寝姿を見てから、静かに病室を出た。


 廊下ではエレディトが壁際の椅子に座って待っていた。千綴が戻ってくると立ち上がり、何も聞かずに表情を見た。


「寝てた」


「そうですか」


「うん。ちゃんと」


 それだけで意味は通じたらしい。エレディトも少しだけ肩の力を抜いた。


 二人はそのまま病院を出た。


 外へ出る頃には、空もだいぶ明るくなっていた。


 朝の冷えた空気に触れると、かえって自分の服に残っている匂いが気になった。煙と埃、それに少し焦げたような臭いが混ざっている。外の空気そのものは澄んでいるのに、自分たちだけが昨夜の廃施設をまだ少し引きずっているようだった。


 歩き始めると、身体の重さもはっきりしてきた。病院で少し眠った程度では、昨日から積み重なった疲れまでは抜けていないらしい。


 まぶたが重いだけでなく、頭の中にも薄い膜がかかったようだった。考えたことが形になるまで、いつもより少しだけ時間がかかる。


「千綴先輩、学校はどうするんですか」


 駅へ向かう途中、エレディトが聞いた。


「今のところは行くつもり」


「今のところ、なんですね」


「家に帰ってから寝たら、たぶんそのまま起きない気がする」


「それなら休んだ方がいい気もしますけど」


「それも分かる」


 千綴は苦笑した。


「エレディトは?」


「帰ったら少し休みます。学校は、そのあと考えます」


「それが正しい気がする」


「千綴先輩も同じことをしてください」


「善処します」


 エレディトは何か言いたそうな顔をしたが、結局それ以上は言わなかった。


 新辺駅まで歩き、電車に乗る。


 朝の早い時間だったが、通勤や通学にはまだ少し早い。車内には空席も残っていて、二人は並んで腰を下ろした。


 動いているうちは紛れていた眠気が、座った途端にはっきりしてくる。千綴は何度か目を閉じそうになり、そのたびに窓の外へ視線を戻した。隣のエレディトも普段より口数が少なく、眠そうなのは同じらしい。


 丘平駅へ着くまで、二人ともほとんど話さなかった。


 駅を出て商店街へ入る。


 店の多くはまだ開店前で、シャッターの下りた通りを朝の光が斜めに照らしていた。見慣れた景色へ戻ってくるほど、昨夜のことが遠くなる。


 丘平商店の前を過ぎ、榊家へ向かう道と千綴の家へ向かう道が分かれるところで、二人は足を止めた。


「エレディト」


「はい」


 呼び止めてから、千綴は少し考えた。


 エレディトはこちらを向いたまま待っている。昨夜、男たちの前に立っていた姿が浮かぶ。千綴は眠気の残る顔を上げ、あらためて彼を見た。


「付き合ってくれてありがとう」


 エレディトが少し目を瞬いた。


「僕も環さんを探したかったので」


「それでも」


 千綴は首を振る。


「私一人だったら、たぶんあそこまで行けなかった。環を連れて帰れたのも、エレディトがいたからだと思う」


 少し間があった。


 エレディトは照れたように視線を逸らすでもなく、ただ静かに受け止めてから頷いた。


「なら、よかったです」


「うん。本当に助かった」


「千綴先輩も、ちゃんと休んでください」


「そっちもね」


「はい」


 二人はそこで別れた。


 エレディトは榊家の方へ、千綴は自宅の方へ歩き出す。


 少し進んでから振り返ると、エレディトの背中はもう商店街の角へ差しかかっていた。


 家へ戻ると、まず昨夜から着たままだった服を脱いだ。


 煙と埃の匂いは、外にいる時より室内の方が気になった。脱いだ服をまとめてから、そのまま浴室へ向かう。


 シャワーを浴びると、熱い湯が頭から肩へ流れていった。


 髪を洗えば煙の匂いが薄れ、腕や指先に残っていた埃も落ちていく。昨夜の廃施設で身体についたものが排水口へ流れていくのを見ていると、頭の中に残っていた場面まで一緒に遠ざかっていくような気がした。


 目を閉じると、白い光や環の顔が浮かんだ。千綴は頭を少し下げ、髪から落ちる湯を見た。肩に湯が当たり続けている。昨夜の場面を辿り直そうとせず、その温かさにしばらく身体を預けた。


 千綴はしばらく目を閉じて湯を浴びてから、シャワーを止めた。


 浴室を出て時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。


 千綴は髪を乾かし、部屋着に着替えてから自室へ戻った。


 机の上に置いていたスマートフォンを手に取り、画面を開く。昨夜からの通知がまとめて表示され、着信履歴にも同じ名前が何度も並んでいた。グループチャットを遡ると、最初の方は環のことばかりだった。


 見かけていないか。連絡はついたか。家にはまだ帰っていないらしい。誰がどこを見たのか、誰に聞いたのか。


 時間が進むにつれて、その中へ自分の名前が混ざり始めていた。


 千綴はどこにいる。返事がない。電話にも出ない。環を探しているのは分かるが、一人で動いていないよね。


 画面を送る指が止まった。昨夜はエレディトがいて、直嗣とも連絡を取っていた。けれど、途中で友人たちにそれを伝えてはいなかった。返事のない時間にも、画面には千綴の名前が何度も現れている。


 病院から送った短い連絡の下にも、さらにメッセージが続いていた。


 環が無事でよかった。千綴は大丈夫なのか。詳しいことはあとでいいから、とにかく休め。


 返信を求める言葉より、安堵や心配の方が多い。


 千綴はしばらく画面を見てから、椅子の背へ身体を預けた。


「……そりゃ心配するか」


 スマートフォンを机へ置くと、そのまま目を閉じかけた。千綴は慌てて身体を起こす。シャワーを浴びた直後なのに、もう眠い。このまま座っていたら本当に寝てしまう。


 制服へ着替えてから、直嗣へメッセージを送った。


『病院を出て帰宅しました。こちらは問題ありません。これから学校へ行くつもりです』


 朝から電話をかけるほどの用件でもないと思い、短く送る。


 数十秒もしないうちに着信が入った。


 表示された名前を見て、千綴は少しだけ眉を上げた。


「はい」


『状況は把握してる。三人とも無事でよかった』


「はい」


『それはそれとして、また無茶したな』


 千綴は返事に詰まった。


『連絡を入れたから大丈夫、じゃないぞ』


「……はい」


『あとはこっちに任せておけ。今はしっかり休め。あんまり寝てないだろ』


「……はい」


『エレディトがいたとはいえ、無茶はするな。じゃあな』


「あ、朝倉さ――」


 最後まで言う前に通話が切れた。


 反論する間もなかった。


 いつもよりかなり早く家を出た。


 学校へ向かう坂は、まだ通学時間前の静けさが残っていた。少し前の朝なら、ここを走りながら理由の分からない引っ掛かりを振り払おうとしていた。今日は走る気にはなれず、冷えた空気を吸い込みながら一歩ずつ上っていく。


 ジャージ姿の生徒が先を走っていき、大きなバッグを持った運動部らしい生徒が何人か校門へ入っていく。普段より早い学校は、人が少ないぶん足音や声がよく響いた。


 校舎の中も静かだった。


 教室の扉を開けると、中にはまだ誰もいない。千綴は自分の席へ鞄を置き、椅子に座った。


 窓の外からは、朝練の掛け声が遠く聞こえる。廊下を通る足音も時々あるが、それ以外は普段の教室よりずっと静かだ。


 人のいない教室は、いつも使っている場所なのに少しだけ広く感じた。


 窓から入る朝の光、並んだ机、黒板の端に残った文字。昨夜のことを思い返すより、これから少しずつ生徒が増えて、いつもの一日が始まっていくことの方が今は意識に入ってくる。


 環も、しばらく休めばまたここへ戻ってくる。


 千綴は窓から目を戻し、鞄から教科書を出した。机の上へ置くと、いつもと同じ表紙が朝の光を受けていた。


 その頃には、校舎の中にも少しずつ人の気配が増えていた。


 やがて教室の扉が開いた。


「千綴?」


 先に顔を見せたのはヴァシリオスだった。サッカー部の朝練を終えたところらしく、肩にはバッグを掛けたままで、髪も少し湿っている。


「おはよう」


「おはよう。環は?」


「検査では大きな異常なかったって。念のため、まだ病院で休んでる」


「そうか……よかった」


 いつもの勢いはあるが、目元には少し疲れが残っていた。


「昨日、途中から全然返事ないから心配したぞ」


「ごめん」


「まあ、無事ならいいけど。お前も大丈夫なのか?」


「眠いだけ」


「それ、大丈夫って言うのか?」


「たぶん」


「怪しいな」


 ヴァシリオスが苦笑する。


 少しして、綾乃も教室へ入ってきた。


「ちづる?」


「おはよう」


「おはよう。……環、大丈夫なんだよね?」


「うん。検査でも問題なかったって」


 綾乃は短く息を吐いた。こちらもいつもより少し顔に疲れが残っている。千綴のそばまで来ると、ようやく鞄を下ろした。


「連絡できなくてごめん」


「そこは後でちゃんと聞くから」


「はい」


「環探してる途中で、ちづるまで返事なくなるんだもん。ほんとに心配したんだからね」


「ごめん」


 素直に謝ると、綾乃はそれ以上責めなかった。


 そんなやり取りをしていると、教室の入口に人影が見えた。


 悠司だった。


 中へ入ってくるわけではなく、扉のところから千綴を見る。


「来てたか」


「うん」


「環のこと、連絡見た。お前は大丈夫か?」


「うん。ちょっと眠いけど」


 悠司は一度千綴の顔を見た。


「お前も今日は無理すんなよ」


「分かった」


「じゃあな」


 短く言って、そのまま自分の教室へ向かっていく。


 わざわざ確認しに来たのだと分かると、少しだけ胸が温かくなる。


 こうして顔を合わせると、張っていたものがほどけたのか、今度は逆に眠気が一気に押し寄せてきた。


 千綴は小さくあくびを噛み殺した。


 午前の授業が始まってしばらくは、何とか起きていられた。


 黒板の内容をノートへ写し、教師の説明を聞く。普段なら何でもない作業なのに、今日は集中が長く続かない。一度視線を落とすと、次に黒板へ顔を上げるまでが妙に億劫で、気づけば同じ行を二度書いていた。


 その数分後、教師の声を聞きながら一瞬だけ目を閉じた。


「弥生」


 近くで声がして、千綴は顔を上げた。教科担当の教師が机の横に立っている。


「……すみません」


「珍しいな。大丈夫か?」


 叱るというより、様子を見るような声音だった。


「寝不足なだけです」


「体調悪いわけじゃないんだな?」


「はい。たぶん」


「たぶんは困るな」


 教師は少し苦笑した。


「次の休み時間に保健室行ってこい。無理なら少し休ませてもらえ」


「……はい」


 それだけ言って前へ戻っていく。


 次の休み時間、千綴は言われた通り保健室へ向かった。寝不足だと伝えると、養護教諭は深く事情を聞かず、しばらく休んでいくように言って空いているベッドを使わせてくれた。


 カーテンの内側で横になる。学校へ来るまでは眠らないようにしていたのに、枕へ頭をつけると抵抗する余地もなかった。


 次に目を開けた時、廊下の向こうから昼休みを知らせる音が聞こえていた。


 午前の残りをほとんど眠っていたらしい。身体を起こすと、朝よりは頭が軽くなっている。ただ、眠気が完全に消えたわけではなく、少し油断すればまた目を閉じられそうだった。


 教室へ戻ると、ちょうど昼食を広げ始めているところだった。


「起きた?」


 綾乃が千綴を見る。


「今起きた」


「少しはまし?」


「朝よりは」


「ならよかった」


 ヴァシリオスもこちらを見て、少し笑った。


「午前ほとんど寝たんじゃないか?」


「たぶん」


「じゃあ、午後も無理するなよ」


 千綴も自分の昼食を取り出した。


 朝から見えていた疲れは、綾乃とヴァシリオスにもまだ少し残っていた。それでも、環の無事を知ったあとの表情は朝よりいくらか落ち着いて見えた。


 いつもの昼休みとまったく同じではない。それでも、同じ教室でこうして食事をしていると、朝よりは気持ちも落ち着いた。


 午後の授業は、午前よりは楽だった。眠気がなくなったわけではないが、少なくとも教師の声を聞きながら意識が落ちそうになるほどではない。


 最後の授業が終わった時には、もう一度ベッドへ戻りたい気持ちの方が強くなっていた。


「今日は早く帰ったら?」


 綾乃に言われ、千綴は素直に頷いた。


「そうする」


 生徒会へ今日は休むと連絡を入れる。


 続けて丘平商店へもメッセージを送った。


『今日は休ませてください』


 返事はすぐに来た。


『今日は来るな。寝ろ』


 さらに少しして、もう一件届く。


『体調整えてから働け。話はそのあと』


 短い文面なのに、巴の顔が浮かぶ。


「……怒られるな」


「当たり前でしょ」


 綾乃が横から言った。


「やっぱり?」


「心配かけたんだから、ちゃんと話してきなよ」


 千綴は苦笑しながらスマートフォンをしまった。


 学校を出て、坂を下る。


 夕方の空気は朝より柔らかく、道路には長い影が伸びていた。


 昨日の夜は、環を探すために先へ進むことばかり考えていた。今は同じ坂を、家へ帰るために下っている。その違いが思っていた以上に大きかった。


 坂を下りながら、昼休みの教室を思い出した。綾乃とヴァシリオスが食事を広げていた。環の席は空いていたけれど、もう行き先を探して歩く必要はない。千綴は家へ続く道へ目を戻した。


 大きなあくびが出そうになり、千綴は口元を押さえた。


 眠気はまだ残っている。それでも足取りは、朝に坂を上った時より少しだけ軽かった。


 家へ着くと、鞄を置いて制服を脱いだ。少しだけ眠るつもりでベッドへ横になり、目を閉じる。


 次に目を覚ました時、部屋はすっかり暗くなっていた。千綴はしばらく天井を見てから、身体を起こして時計を見る。思っていた以上に眠っていたらしい。朝からまとわりついていた眠気が少し薄れた代わりに、腹が鳴った。


「……お腹すいた」


 夕食も食べずに眠っていた。


 千綴は簡単に食べられるものを用意し、机へ戻る。


 宿題を開き、テレビを点けた。普段と同じように、何となく音だけ流しておくつもりだった。


 問題を一つ解き、次へ進む。


 ニュース番組の声が部屋に流れる。


『昨夜から未明にかけ、新辺地区を中心とする複数の地域で、再び原因不明の体調不良を訴える人が相次ぎました』


 シャープペンシルの先が止まった。


 画面には、新辺の街並みが映っている。


『同様の事例は前日にも確認されており、警察や関係機関が原因を調べています』


 昨日の教室が頭に浮かんだ。あの時のようなことが、環を探していた間にも起きていたのだろうか。千綴は画面に映る新辺の街並みを見つめた。


 ニュースは原因を特定しないまま、次の話題へ移った。


『続いて、新辺地区で未明に発生した火災についてです。使用されていない建物の内部が一部激しく焼け、壁面や建材には高温にさらされたとみられる損傷も確認されています。消防と警察が出火原因を調べています』


 規制線の向こうに映った建物を見て、千綴は息を止めた。


 昨夜、自分たちがいた廃施設だった。


 焼けた室内や壁の映像が流れる。あの光について触れられることはなく、ニュースの中ではあくまで原因を調査中の火災として扱われていた。


 さらに画面が切り替わる。


『一方、新辺地区では、若者を対象にサプリメントを販売し、セミナーなどへの勧誘を行っていた詐欺グループについても捜査が進められています。警察は関係者複数名から事情を聞き、金銭の流れや販売実態を調べています』


 サプリメント。


 今度は、以前から耳にしていた言葉だった。


『グループの中心人物の一人として、総体福音教会の教祖を名乗っていた不破創(ふわはじめ)こと、藤原創(ふじわらはじめ)容疑者についても捜査が進められています』


 画面に男の写真が出た。


 千綴の手が止まる。


 昨夜、廃施設の奥にいた男だった。壁を焼き抜く光を放ち、エレディトと戦った相手が、今は詐欺グループの中心人物として画面に映っている。


「藤原……創」


 初めて知った名前を、確かめるように口にする。


 画面の中では、体調不良も火災も詐欺事件も、それぞれ別のニュースとして流れていく。


 ただ、写真の男が昨夜あの廃施設にいたことだけは、千綴自身が知っていた。


 それ以上のことは、まだ分からなかった。


 やがてニュースは次の話題へ移った。


 千綴はしばらく画面を見たあと、視線を宿題へ戻す。藤原創。その名前を覚えておこうと思った。必要なら、あとで直嗣に聞けることもあるだろう。


 止めていたシャープペンシルを、もう一度動かす。


 テレビの向こうでは、もう別のニュースが流れていた。

2026/10/11 全体改訂

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