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空の結び目  作者: 夕花


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 フェンスを越え、敷地へ入ったところで、千綴は一度足を止めた。環を意識する。ここにいるという感覚は消えていない。けれど、そこから先を辿ろうとすると、さっきまでより妙に曖昧だった。環へ向けたはずの意識が、途中で別の何かへ引っ掛かる。


「……変だな」


「どうしました?」


「ここに来るまでは、もう少し素直だったんだけど。今は、環のことを考えてるのに途中で別の方へ引っ張られる感じがする」


「環さんがいなくなった感じではないんですか?」


「それは違うと思う。ここにいるっていうのは、まだ変わってない」


 千綴は敷地の奥へ目を向けた。暗い建物がいくつも並び、どれも外からでは中の様子までは分からない。


「でも、これ以上は当てにしない方がよさそう」


「では、ここからは直接探しましょう」


「うん。とりあえず、見て回ろう」


 二人は足元を確かめながら進んだ。道路側に近い倉庫は、入口の前まで雑草が伸びている。脇を通り、その奥へ回る。少し進んだところで、エレディトが足を止めた。


「千綴先輩。ここを見てください」


「ん?」


 足元を示され、千綴もしゃがむ。舗装の上に薄く積もった砂埃を、太い跡が横切っていた。


「タイヤ?」


「だと思います。まだ形が残っています」


 少なくとも、ずっと誰も入っていない場所ではない。その近くには靴跡も重なっていた。二人は先へ進む。次の建物では、入口の前だけ雑草が踏まれている。さらに奥の扉は、錆と埃に覆われているのに、取っ手の周りだけが擦れたように汚れが薄かった。


「ここは最近触ってるね」


「はい。それに、こっちも」


 エレディトが扉の脇を見る。床には、何か重いものを引きずったような筋が残っていた。千綴は奥を見る。まだ確証はない。けれど、使われている場所は少しずつ絞れてきた。


 二人は声を抑え、そのまま建物の間を進んだ。その途中だった。後ろで、かすかに靴底が地面を擦る音がした。エレディトが止まる。千綴もつられて足を止めた。


「どうしたの?」


「後ろに人がいます」


 エレディトは振り返らないまま答えた。


「一人です。近づいてきています」


 千綴が後ろを見ようとしたところで、暗がりから声が飛んだ。


「そこで何してる」


 二人が振り返る。建物の陰から男が一人、こちらへ歩いてきていた。作業員には見えない。男は数メートル手前で止まる。


「ここ、立入禁止だぞ。帰れ」


「すみません。人を探してるんです」


「いない。帰れ」


「同じ学校の女の子で――」


「知らないな」


 男は千綴たちを見たまま、腰から小さな無線機を取った。


「侵入者二人。そっちへ向かってる」


 短く告げる。追い返そうとしていること自体は分かる。ただ、そのためにわざわざ無線で誰かへ連絡を入れるのが、千綴には引っ掛かった。千綴はエレディトを見る。


 エレディトも男から視線を外していない。


「環はここにいる」


 千綴が言うと、男が眉を寄せた。


「誰だ、それ」


「私たちの友達」


「知らねえよ。いいから帰れ」


 名前を知らないのか。それとも、知らないふりをしているのか。千綴には判断できない。その時、前方で扉が開く音がした。続いて、複数の足音。


 エレディトがそちらへ顔を向ける。


「千綴先輩。少し下がってください」


 建物の間から、二人の男が現れた。一人は短い警棒を持っている。もう一人は、指に金属を通して拳を握っていた。メリケンサックだ。二人は千綴たちの前へ出ると、そのまま奥へ続く側に立った。後ろには、最初の男がいる。


 囲まれたというより、前へ進む道を塞がれた。


「最後だ」


 後ろの男が言う。


「出ていけ」


「友達がいるかどうかだけ確認させてください」


 エレディトが言った。


「駄目だ」


 前の男が警棒を軽く上げる。それ以上話すつもりはないらしい。千綴は半歩下がった。


「エレディト、無理しないで」


「千綴先輩は、そのまま後ろにいてください。僕から離れすぎないように」


 声は落ち着いていた。前に立つ二人のうち、警棒を持っていない男が先に動いた。正面から距離を詰め、エレディトを押し戻すように腕を伸ばす。エレディトは真正面から受けず、身体をずらした。伸びてきた腕を前腕ごと外へ流し、そのまま肘の近くを押さえて体勢を崩す。


 男が足を踏み直そうとしたところへ、もう一人の警棒が横から振られた。エレディトは男から手を離し、一歩引いてかわす。警棒が空を切る。二人は深追いしない。そのまま前へ残り、奥への道を塞いだ。


 後ろにいた最初の男も距離を詰めてくる。三人で一斉に襲いかかるのではなく、前の二人が進路を止め、後ろの一人が千綴の側へ寄る。


「っ」


 千綴が横へ下がると、エレディトもすぐにこちらへ位置をずらした。後ろの男が伸ばした腕を払い、身体を押し返す。そこへ前から警棒が来ると、上体を反らして避け、そのまま千綴と三人の間へ入った。相手の三人も一度動きを止める。


 正面に二人。少し離れた後方に一人。後ろの男が千綴へ寄ろうとするたび、エレディトがその間へ入る。


 ほんの数秒、誰も動かなかった。警棒を持つ男が握り直し、もう一人が半歩だけ横へずれる。最初より慎重になっているのが、千綴にも分かった。次に男たちが動き出すより先に、エレディトが警棒を持つ男へ踏み込んだ。


 振り上げられる前に手首を押さえ、肘を外側へ向ける。


「っ、痛ぇ!」


 男の指が緩み、警棒が地面へ落ちた。エレディトはそのまま腕を離さず、男の足元へ自分の足を差し込む。重心を崩された男が、その場へ膝をついた。そこへ、前に残っていたもう一人が横から入る。エレディトは警棒の男を手放し、二人目へ向き直った。


 金属をはめた拳が伸びてくる。エレディトはその腕を外へ流し、勢いのまま肩を押した。男は横へよろめき、壁際まで二、三歩下がった。エレディトは追わず、その場で向きを変える。千綴から見ても、奥へ続く道が一度だけ開いたのが分かった。後ろにいた最初の男が、そこで無線機を取った。


 膝をついた男と、壁際で体勢を立て直している男を見てから、短く告げる。


「撤収急げ。こっちは持たない」


 撤収。その言葉に、千綴は奥へ目を向けた。警棒を落とした男も立ち上がり、もう一人も壁から離れる。


 けれど、二人ともさっきのように前へ出てこない。今度は少しずつ後ろへ下がりながら、奥への進路だけを塞ごうとする。後方の男も千綴へ寄るのをやめ、二人に合わせて距離を取った。


「……さっきと動きが違う」


 千綴が言う。


「僕たちを倒すより、進ませないことを優先しています」


「時間を稼いでるってこと?」


「たぶん。奥の撤収が終わるまで」


 千綴は唇を噛んだ。


「どうする?」


「突破します」


 エレディトは前を見たまま答えた。


「道を開けます。僕が合図したら、先に走ってください」


「分かった」


 エレディトが踏み込む。警棒を落とした男が身体ごと進路を塞いだ。もう一人も横から合わせる。エレディトは一人目の腕を押し下げ、そのまま身体の向きを横へずらす。空いた隙へ二人目が入ろうとする。


 そこへエレディトが肩を当て、進路を外へ押し流した。二人の間に、一人分だけ道が開く。


「今です!」


 千綴は走った。男たちの間を抜ける。後ろの男が追おうとする足音がしたが、すぐに止まった。エレディトが残っている。千綴は振り返らずに走った。


 数歩進んだところで、後ろから二度、鈍い衝突音が響く。さらに数秒。今度こそ振り返ると、エレディトがこちらへ走ってくる。その向こうに、三人の男が見えた。


 警棒の男は片腕を押さえ、もう一人は肩で息をしている。最初の男は無線機を手にしたまま、こちらを睨んでいた。三人ともまだ立っている。だが、追ってはこない。千綴たちの前には、奥へ進むための道が開いていた。


 エレディトが千綴へ追いつく。


「怪我してない?」


「大丈夫です。どこもやられていません」


「よかった」


 二人は速度を落とさず、そのまま奥の建物へ入った。廊下の端へ寄せられた箱。中身のなくなった棚。開け放された部屋には、机や椅子だけが残り、床には紙が散っている。別の部屋の入口には、何か大きなものを置いていたらしい四角い跡だけが残っていた。


「……やっぱり、逃げる準備してる」


「さっきの連絡で急いでいるはずです」


 二人は開いた部屋を横目で確かめながら奥へ進む。一つずつ立ち止まっている時間はない。前方で何かが倒れる。続いて、走る足音が遠ざかっていった。千綴はそのまま進みかけて、急に足を止めた。


「待って」


 エレディトも止まる。


「何かありましたか?」


「今、急に……」


 環を探そうとしたわけではない。それでも、ずっと引っ掛かっていた感覚が、一瞬だけ大きく揺れた。何が変わったのかは分からない。ただ、誰かが何かをしようとしている。そう思った瞬間、嫌な感じが強くなった。


「……何かしようとしてる」


 エレディトの表情が変わった。


「先を見ます。千綴先輩は少し距離を取って来てください」


「分かった。気をつけて」


 エレディトが走り出し、千綴も少し遅れて追う。曲がり角の手前まで来たところで、鋭い音が響いた。爆発とは違う。空気を一気に裂いたような音の直後、何かが砕ける。曲がり角の向こうから、熱い空気が頬へ吹きつけた。


「エレディト……!」


 千綴は壁際へ寄りながら先を覗く。開けた先で、見覚えのない男が立っていた。片腕は、床に積まれた書類や箱の方へ向けられている。その正面へ、エレディトが飛び込んだ。


 男は一瞬だけ目を見開き、そのまま腕の向きを変える。白い光が走った。エレディトが横へ外れた直後、光は向かいの壁を貫いた。穴の縁が赤く焼け、表面が溶けたように歪む。


「エレディト!」


「そこから出ないでください!」


 男はすぐに腕を上げ直す。今度は最初からエレディトへ向けていた。ほんの一瞬、狙いを定める間がある。そこから白い光が一直線に走り、床を削って先の壁を抜いた。熱で空気が揺れる。


「なんで避けられるんだよ……!」


 男が叫ぶ。エレディトは答えず、距離を詰める。男がまた腕を向ける。今度は、その動きより先にエレディトが横へずれた。光が通り過ぎる。


 速い。けれど、放たれた後に曲がるわけではない。狙いをつける前に、わずかな間がある。エレディトの動きが、一発ごとに小さくなっていく。最初は大きく距離を取っていた。


 次は腕が向く前に動いた。その次には、男が狙いを定めようと足を止めた瞬間、逆に前へ出た。


「来るな!」


 男の肩が動き、腕が上がる。エレディトは止まらず、狙いが定まる前に斜めへ踏み込んだ。男が後ろへ下がると、その一歩を追って懐へ入る。


 持ち上がりかけた手首を押さえ、身体を寄せた。男は大きく腕を振ったが、エレディトは身体を横へずらす。男がよろめいた。それでも、無理に腕をこちらへ向けようとした。白い光が強くなる。千綴の胸の奥が、また大きくざわついた。


「エレディト!」


 叫んだ直後、エレディトが男から離れた。白い光が弾ける。それまでより太い一撃が、廊下を斜めに横切った。壁を貫き、その先まで白い筋が走る。


 轟音。


 千綴は反射的に腕で顔を庇った。熱風が通り抜け、焦げた匂いが一気に濃くなる。遅れて細かな破片が床へ落ち、乾いた音を立てた。


 耳の奥には、まだ低い響きが残っている。千綴は腕を下ろし、目を開けた。


 男はまだ立っている。けれど、撃った腕は下がり、肩で大きく息をしていた。


 エレディトは無事だった。


 それを確かめた瞬間、張りつめていた息がわずかに抜ける。だが、男が顔を上げた時には、エレディトはもう懐へ入っていた。


 エレディトが男の腕を取り、身体を反転させる。男の足が床から浮き、背中から落ちた。鈍い音が響き、男の身体から力が抜ける。


 起き上がらない。エレディトは一瞬だけ様子を確かめ、すぐに手を離した。


「エレディト、大丈夫?」


「大丈夫です。直撃はしていません。千綴先輩は?」


「私も平気」


 言い終える前に、ぱち、と小さな音がした。二人がそちらを見る。高熱で黒く変色した壁際で、床に落ちていた紙の端が燃えている。炎が紙を縮ませ、そのすぐそばの紙へ移った。少し離れたところでは、絨毯の端から細い煙が上がり始めていた。


「まずい」


 千綴が言った時、奥から音がした。何かが床へぶつかる音。続いて、かすかな声。


「……ちづる……?」


 千綴は顔を上げた。


「環?」


 もう一度、奥から物音がする。


「ちづる!」


「環!」


 千綴は走った。エレディトもすぐ後ろから来る。声のした方にある扉を開ける。部屋の中に環がいた。床に座らされるような格好で拘束されている。


「環!」


 千綴は駆け寄った。


「大丈夫? どこか怪我してない?」


「大きいのは……たぶんない。でも、外すごい音してたけど、何してたの」


「それは後。今、これ外すから」


「後って……」


 環の声には力がない。顔色もよくなかった。エレディトがしゃがみ込み、拘束を確認する。


「千綴先輩、こっちを押さえてください」


「分かった」


 二人で外せるところから外していく。廊下の向こうで何かが弾けた。煙の匂いが部屋まで入り始める。


「火?」


 環が顔を上げる。


「うん。だから急ごう」


 拘束が外れる。環が立ち上がろうとして、すぐに膝を折った。


「環!」


 千綴が腕を支える。


「ごめん。思ったより足に力入らない」


「無理しないで」


 エレディトが前へ出る。


「僕が運びます。その方が早いです」


「……ごめん、お願い」


 環は小さく頷いた。エレディトが環を抱え上げる。千綴は廊下へ出た。煙はさっきより濃くなっている。


「来た道、戻れるかな」


「まだ大丈夫だと思います。ただ――」


 エレディトが途中で言葉を止めた。さっき男を倒した場所を見る。


 誰もいない。


「……いない」


 千綴も足を止める。確かに、さっきまで男が倒れていたはずの場所が空いている。その時、少し先で足音がした。見ると、通路の奥を男が走っていく。足取りは少しふらついているが、止まる様子はない。


「あの人……」


 男は来た道とは別の角を曲がり、そのまま姿を消した。千綴はその方向を見る。


「エレディト。あっち、外に出られるんじゃない?」


「その可能性は高いです」


 来た道の方からは煙が流れてきている。男が逃げた方向は、まだ視界が利いた。


「あっちの方が煙も少ない。行こう」


「はい。行きましょう」


 三人は男が消えた方へ向かった。角を曲がる。細い通路の先に、開いた扉が見えた。冷たい空気が流れ込んでいる。


「外だ」


 千綴が先に扉へ近づく。外を確認し、そのまま出る。エレディトも環を抱えたまま続いた。夜気が顔へ当たる。千綴は息を吸い込み、すぐに咳き込んだ。


「っ、げほ……」


「千綴先輩、大丈夫ですか?」


「大丈夫。ちょっと煙吸っただけ」


「私も煙くさい……」


 エレディトの腕の中で、環が小さく咳をする。


「もう少し離れましょう」


 三人は建物から距離を取った。そこで初めて、遠くからサイレンが聞こえていることに気づいた。赤い光が敷地の向こうで揺れる。すでに何台か到着しているらしく、人の声も聞こえた。千綴はさっき男が逃げていった方を見る。


 暗くて、もう姿は見えない。その先から、誰かが強い声で何かを指示している。続いて、別の声。何が起きているのかまでは分からなかった。


「警察、もう来てるみたい」


「はい」


「……あの人、そっちに行ったよね」


 エレディトも同じ方向を見る。


「たぶん」


 追うつもりはなかった。今は環を安全な場所まで連れていく方が先だ。エレディトが少し離れた場所で環を下ろす。環は壁にもたれるように座り、何度か咳をした。千綴もその横へしゃがむ。


「環、平気?」


「平気って言うには、ちょっと疲れたかも」


「どこか痛い?」


「今はそれより喉乾いた。あと、ほんと煙くさい」


 弱ってはいる。それでも、環らしい返しが戻ってきた。千綴はようやく息を吐いた。


「……よかった」


「何が」


「返事してるから」


「するよ。ずっと呼ばれてるし」


 環がわずかに眉を寄せる。その顔を見て、千綴の肩から少し力が抜けた。建物を振り返る。窓の向こうに橙色の光が見える。煙も上がり始めていた。


 千綴が鞄からスマートフォンを出そうとした時、こちらへ近づいてくる人影があった。


「弥生千綴さんですね」


 名前を呼ばれ、千綴は顔を上げる。知らない大人だった。エレディトも環の前へ少し出る。


「朝倉から任された者です。この後のことはこちらに任せてください」


「朝倉さんから?」


「はい。まず、お連れの方を病院へ連れて行きましょう。お二人も煙を吸っていますから、念のため診てもらってください。現場と警察への連絡はこちらで引き受けます」


 相手は環の様子を見てから、少しだけ表情を緩めた。


 千綴は敷地の向こうへ目を向ける。警察や消防らしい人影が動き始めている。


「……分かりました。お願いします」


 環の顔色はまだ悪い。エレディトも平気そうには見えるが、煙の中を走ってきた。千綴自身も喉に違和感が残っている。三人はその人物に案内され、現場を離れた。背後では、火災の現場へ向かう声と足音が重なっていた。


 病院へ着いてから、時間の感覚が曖昧になった。付き添ってきた人物が受付で事情を説明し、三人は順番に診てもらった。環は大きな外傷こそなかったものの、疲労が強く、軽い脱水もあるらしい。千綴とエレディトも、煙を吸った影響がないか確認された。大きな異常はなかった。


 待っている間に、千綴は一度だけスマートフォンを開いた。着信や通知が並んでいるのは見えたが、数を確かめる気にはならなかった。まず五人のグループチャットを開き、短く打つ。


『環は見つかった。無事。今は病院にいる』


 それだけ送って画面を閉じた。誰が起きているのか、すぐ返事が来るのかまでは確認しない。今はそれだけ伝わればよかった。それから時計を見る。日付はとっくに変わっている。


 廃墟へ着いた時から、ずいぶん時間が経ったようにも、ほとんど経っていないようにも感じた。一通り終わる頃には、緊張が切れたせいか、急に身体が重くなった。眠い。それ以上に、力が入らない。


 環は横になっている。エレディトは椅子に座ったまま、スマートフォンを見ていた。


「連絡?」


「はい。今、終わったことと、病院にいることを榊さんへ送りました。朝には戻るとも伝えています」


「そっか」


 間を置かず、エレディトの画面がもう一度明るくなった。


「榊さんからです」


「なんて?」


 エレディトは画面を見たまま、少しだけ間を置いた。


「『無事ならいい。帰ってきたら覚悟しときな』って」


 千綴は思わず苦笑する。


「……怒ってるね」


「たぶん」


 エレディトは画面を閉じ、スマートフォンを伏せた。しばらく誰も話さなかった。千綴は横になっている環を見ながら、椅子の背へ身体を預ける。


「環」


「……なに、ちづる」


「いや。なんでもない」


「何回目、それ」


「ごめん」


「別にいいけど」


 環の声はまだ弱い。けれど、返事が返ってくる。何があったのか。どうしてあそこにいたのか。昼の出来事と関係があるのか。


 聞きたいことはいくつもある。けれど、今すぐでなくていい。千綴は口を閉じ、背もたれへ身体の重さを預け直した。


 窓の外がわずかに明るくなり始めた頃、千綴は目を覚ました。


 いつ眠ったのか、よく覚えていない。


 身体を起こすと、首と肩が重かった。夜の出来事が、一つずつ戻ってくる。


 環。三人の男。壁を貫いた白い光。火。煙。思い出すたび、現実だったのだと身体の方が先に理解する。少し離れたところでは、エレディトも起きていた。


「おはようございます」


「……おはよう。ちゃんと寝られた?」


「少しは」


「私もそんな感じ」


 千綴は窓を見る。まだ早い。街が完全に動き出す前の薄い明るさだった。


「もう電車、動いてるかな」


「始発に近い時間ですから、確認してみます」


 エレディトがスマートフォンを手に取る。


「動いていれば、そのまま家に帰ります」


「うん。私も帰ったら、ちゃんと連絡返さないとな」


 千綴はスマートフォンを見る。昨夜からの通知がいくつも残っている。誰から何が来ているのか、まだきちんと確認できていない。直嗣にも、改めて話さなければならないことが増えた。それでも、千綴は最後にもう一度だけ環の方を見る。


 昨夜、ずっと探していた友人がそこにいる。それを確かめてから、静かに息を吐いた。長かった夜が、ようやく終わろうとしていた。


2026/10/11 全体改訂

2026/09/05 誤字修正

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