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目覚ましより先に、窓の隙間から差し込む光で目が覚めた。
千綴は布団の中で伸びをして、そのまましばらく天井を見上げていた。制服のボタンを数える必要も、生徒会の資料を鞄に詰める必要もない。ただそれだけで、身体の芯までゆっくりと力が抜けていく。
身支度を整え、財布と携帯を鞄へ入れる。寝癖を軽く直しながら鏡を覗くと、約束の時間まで、そう余裕はなかった。千綴は鞄を肩に掛け、部屋を出た。
駅前のロータリーに着くと、既に綾乃の姿があった。千綴に気づくと、大きく手を振ってくる。
「ちづるー! こっちこっち!」
「おはよ、綾乃」
声のトーンだけで、今日を楽しみにしていたのが伝わってくる。千綴は小さく笑って、綾乃の隣へ並んだ。
少し遅れて、悠司が到着する。
「おはよう。ヴァシと環は?」
「ヴァシリオスはもう新辺にいるって。環はまだ」
悠司は分かりやすくため息をついた。
「先に向こうへ着いてるのに、待ち合わせの連絡だけはちゃんと寄越すんだな、あいつ」
「言葉だけは律儀だから」
千綴が返すと、悠司は苦笑した。
最後に駆け足で現れたのは環だった。眠そうな目のまま、あくびを一つ挟む。
「ねむい……」
「環、ちゃんと寝た?」
「寝たけど、足りない」
いつもの調子に、綾乃が笑いながら環の背中を軽く押した。
少し遅れて、エレディトが軽く息を弾ませながら駆けてきた。
「おはようございます。お待たせしました」
「おはよう。走ってきたの?」
「榊さんの家から、少し」
律儀に頭を下げる仕草は、二学期が始まった頃と変わらない。それでも、まっすぐに合わせてくる視線と、一歩分だけ近い立ち位置に、あの頃にはなかった気安さが見えた。
「大丈夫? 走ってきたばかりでしょ」
「大丈夫です。……今日は、楽しみにしていました。千綴先輩たちと、一緒に出かけられるので」
その一言に、他の三人も自然と頷く。千綴は、小さく頷き返すだけにとどめた。
五人は改札を抜け、新辺行きのホームへ並んだ。電車を待つ間、環がスマホを覗き込む。
「バカから連絡来てる。『もう新辺着いてる、待ってる』って」
「早いね」
「あいつ、地元だから当たり前だろ」
悠司はそう言いながらも、口元は緩んでいた。
電車が入ってくる。五人は乗り込み、扉の近くへ固まって立った。窓の外を、見慣れた住宅街と、丘平の商店の屋根が過ぎていく。
「今日、結局どこ回るんだっけ」
千綴が聞くと、悠司は肩をすくめた。
「さあ。細かい予定は聞いてない」
「決めてないの?」
「あいつが『任せろ』の一点張りだったから、こっちも途中で聞くのをやめた」
環が小さく笑う。
「バッティングセンターだけは絶対やるって、やたら意気込んでたよ」
「バッティング?」
エレディトが反応する。目に、わずかだが興味の色が浮かんだ。
「野球、少しやったことあります」
「へえ。じゃあ今日、腕見せてもらおうかな」
千綴が言うと、エレディトは視線を少し下げてから、小さく頷いた。
電車は住宅街を抜け、次第に建物の背が高くなっていく。新辺駅に着く頃には、車内の乗客も入れ替わり、休日らしい賑やかさが増していた。
ホームに降りると、改札の向こうで大きく手を振る人影がある。
「おーい! こっちだこっち!」
ヴァシリオスだった。誰よりも早く待ち合わせ場所に立ち、誰よりも大きな声を出している。
「待った?」
千綴が聞くと、ヴァシリオスは得意げに胸を張った。
「一時間前から待ってた」
「早すぎ」
「地元だからな! さあ、今日は俺が案内する日だ!」
五人はホームから改札を通り、待っていたヴァシリオスと落ち合った。その勢いに押されるように、六人は駅を出る。日差しはまだ強くなりきっておらず、朝の空気には休日らしい軽さがあった。
新辺駅から少し歩くと、大きな看板が見えてくる。ヴァシリオスが先頭に立って案内する道は迷いがなく、地元だという言葉に嘘はなさそうだった。
施設の入り口で、ヴァシリオスが両手を広げる。
「ここが新辺の総合レジャー施設! ボウリングにカラオケ、ゲームセンターにアスレチックまで揃ってる」
「今日、全部回るの?」
綾乃が聞くと、ヴァシリオスは首を横に振った。
「いや、今日はバッティングセンターだけにしとく。他は……また今度、みんなで来た時に」
その言い方に、悠司が少し目を細める。
「また今度、って言えるくらいには、続ける気があるんだな」
「当たり前だろ」
ヴァシリオスはあっさり答えた。それ以上の説明はなかったが、千綴はそれ以上聞かず、隣を歩く足を速めた。
施設の奥へ進むにつれて、乾いた音が等間隔に響いてくる。金網越しに白球が跳ね、ネットを揺らす音が重なった。角を折れると、視界いっぱいに打席の並ぶ一角が広がった。
最初に打席へ立ったのは悠司だった。フォームは崩れておらず、堅実に当てていく。次いで綾乃、環と順番が回り、思い思いの結果に笑い声が上がった。
エレディトの番になると、空気が少し変わった。
バットを構える姿勢に、迷いがない。振りかぶる動作も無駄がなく、最初の一球から鋭い音を立ててネットへ突き刺さった。
「……うまいね」
千綴が思わず呟くと、エレディトは何も言わず、少し照れたように口元を緩めただけだった。すぐに次の球へ向き直る。
「少しって感じじゃないけど」
ヴァシリオスが茶化すように言っても、エレディトは肩をすくめただけで打席を譲らなかった。
二球目で、フォームがほんの一瞬だけ崩れた。振り出しの角度が、直前と少しだけ違う。それでもエレディトはすぐに軌道を修正し、三球目には元と変わらない音でネットを揺らした。まるで、身体の中で二つの感覚がすれ違い、今の自分に馴染む方だけを選び直したような動きだった。それは単純な運動神経の良さだけでは説明のつかない、経験に裏打ちされた動きに見えた。
ヴァシリオスが目を丸くする。
「お前、本当に少しだけなのか?」
「たぶん、少しだけです」
エレディトは短く答えただけだった。千綴はそれ以上聞かず、素直に感心することにした。
一通り打ち終えたところで、ヴァシリオスが思い出したように声を上げた。
「そうだ、千綴。前に見せてもらったやつ、もう一回やってくれよ」
「やつ?」
「ほら、前にみんなで遊んでた時、一回だけ妙に決まってた……あの一振り」
何のことを言っているのか、千綴にもすぐには分からなかった。少し考えて、思い当たる。あの時は狙ったわけでもなく、勢いだけで振ったはずだった。
「あれは……別に、狙ってやったわけじゃないし」
「いいから、いいから」
からかい半分でせがまれ、千綴は仕方なく打席に立った。バットを構え、記憶の中にある感覚を辿ってみる。だが、いざ球が来ると、身体は普段どおりにしか動かなかった。かすった打球が力なく転がる。
「あー、駄目だ」
「なんで!? あの時はもっとこう、びしっと決まってたのに!」
「知らないよそんなの。あれは多分、たまたま」
結局、二球目も三球目も似たような結果に終わり、ヴァシリオスはあからさまにがっかりした顔をした。環がそれを見て笑う。
「バカ、そんな都合よく再現できるわけないでしょ」
「くっそ……見たかったのに」
千綴は苦笑しながらバットを置いた。あの時の感覚は、確かにあった気がするが、いま思い出そうとしても輪郭がぼやける。狙って出せるものではないのだろう、と自分でも思う。
バッティングセンターを出ると、日はもうすっかり高くなっていた。
新辺駅の周辺は、比較的新しい店が並んでいる。ヴァシリオスが歩きながら指を差す。
「この辺は服とか買うのにちょうどいいんだ。今度時間ある時、付き合ってくれよ」
「今度ね」
軽く流しながらも、千綴はその「今度」が、もう当たり前のように口から出てくることに、少しだけ嬉しくなった。
駅前を通り抜け、丘平へ向かう電車に六人で乗り込んだ。
丘平駅を出ると、新辺とは違う空気が肌に触れた。
背の高いビルの代わりに、瓦屋根や色褪せた看板が並ぶ。道幅も心なしか狭く、自転車がゆっくりと行き交っている。
「こっちは、なんていうか……落ち着くな」
ヴァシリオスがそう呟くと、悠司が横から口を挟んだ。
「お前が言うと似合わないな、その台詞」
「失礼な。俺だってたまには渋いこと言うんだよ」
商店街の入り口をくぐると、案内役は自然とヴァシリオス一人ではなくなった。惣菜屋の匂いに綾乃が反応し、乾物屋の店先で環が足を止め、千綴は慣れた道を先に歩いた。
「あそこ、私が働いてる店」
千綴が指差した先に、丘平商店の古い看板が見えた。店先を掃いていた巴が顔を上げ、こちらへ小さく手を振ってくる。千綴たちも会釈を返した。
「今日は休みなんだって?」
「うん、平気」
「エレディトも、たまにはちゃんと休むのよ」
巴の声に、エレディトが少し姿勢を正した。
「はい。……行ってきます」
その受け答えに、榊家での暮らしぶりが滲んでいる気がして、千綴は口元をゆるめた。丘平商店から少し奥に入れば、エレディトが世話になっている榊家がある。看板越しに漂う煮物の匂いにも、エレディトはもう驚いた顔をしなかった。
商店街をさらに進むと、悠司が古い金物屋を指差した。
「あそこ、うちの神社の道具、直してもらってるんだ」
「へえ、そうなんだ」
悠司はそれだけ言って、懐かしそうに店先へ目をやった。
一軒ごとに立ち止まって説明するわけではなく、歩きながら誰かが何か一言添える程度だった。それでも、新辺で聞いた「若者向けの新しい店」という紹介とは違う手触りが、言葉の端々に残っていた。
商店街の途中、綾乃がふと空を見上げる。
「そういえば、このまま行くと神社だよね」
「うん。次はそこ」
千綴が頷くと、悠司の表情が少しだけ引き締まった。背筋が伸び、歩幅までわずかに変わる。神社の名を出された途端、案内役としての顔つきに変わるのが分かった。
商店街を抜けると、緩やかな上り坂が始まる。六人はそのまま足を向けた。
鏡峰神社の鳥居をくぐると、境内はひんやりとした木陰に包まれていた。
参道の脇に立つ木々の影が、石畳の上で複雑な形を作っている。休日だからか、参拝客はまばらだった。
「うちの神社、いつもこんな感じ」
悠司が言うと、綾乃が小さく笑う。
「落ち着くよね、ここ」
六人は連れ立って手水舎で手を清め、本殿へ向かって石段を上っていった。エレディトは初めて足を踏み入れる場所らしく、鳥居や社殿の造りを興味深そうに見上げている。
千綴も、その光景を何気なく眺めていた。
――のはずだった。
石段を上りきったところで、不意に音が遠のいた。
友人たちの話し声、木々のざわめき、遠くの車の音。すべてが薄い布を一枚隔てたように遠くなり、代わりに、どこかで鈴の音が一つ鳴った気がした。
千綴は反射的に、鞄の中の小さな鈴へ手をやった。
視界の端に、面が見えた。
「――久しぶり」
声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのは、夏祭りで出会った、あの面をつけた少年だった。
「ちゃんと、持ってるんだね」
少年の視線が、千綴の手の中の鈴へ落ちる。それだけで満足したように、小さく頷いた。
「あなたは……」
千綴は問いかけようとした。名前も、正体も、あの夜に何が起きたのかも、聞きたいことは山ほどあった。
だが、少年は答えなかった。
「待って。鈴のことも、前のことも――」
「じゃあね」
言葉を重ねようとした千綴を置いて、少年はそれだけ言うと、すっと視線を外した。まるで、続く問いはもう聞こえていないかのように。
「ちづる?」
名前を呼ばれて、視界が揺れた。
気づけば、目の前には綾乃の顔があった。心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫? 急に、ぼーっとしちゃって」
「え……あ、うん」
周りを見回すと、悠司たちも少し離れた場所で足を止め、こちらを見ていた。石段を上りきってから、まだそう時間は経っていないらしい。太陽の位置も、境内の空気も、さっきと変わらなかった。
「ごめん、ちょっと疲れてたのかも」
千綴は誤魔化すように笑って、鞄の鈴をそっと握り直した。手の中には、確かな重みが残っている。少年と交わした言葉も、消えずに耳の奥に残っていた。
それでも、この感覚を今すぐ誰かに説明できるとは思えなかった。
「おみくじ、引いていい?」
綾乃の声に、千綴は我に返った。
「うん、もちろん」
六人はそれぞれ社務所でおみくじを引き、お守りを眺めた。エレディトは慣れない手つきで小さな紙を広げ、「ここに書いてあるのは……」と首を傾げる。
「大吉。いいことがあるって意味」
「ダイキチ」
千綴が説明すると、エレディトは単語を確かめるように繰り返した。その様子に、環がくすりと笑う。
鳥居をくぐって振り返ると、境内はいつもの静けさに戻っていた。さっきまで感じていた、あの薄い違和感はもうどこにもない。それでも千綴は、鞄の鈴を一度だけ指先で確かめてから、坂を下り始めた。
商店街へ戻ると、日差しは午後の色に変わっていた。
六人が入ったのは、通りの奥にある小さな喫茶店だった。年季の入った木の扉を開けると、コーヒーの香りと、控えめなラジオの音が出迎える。
「ここ、うちのお祖母ちゃんの代からある店」
綾乃がそう言いながら、慣れた様子で奥の席へ向かう。狭い店内には、常連らしい年配の客が数人、静かに新聞を広げていた。
六人掛けの席に落ち着くと、それぞれ好きなものを頼んだ。悠司はブレンドコーヒー、綾乃はクリームソーダ、環は迷った末にホットミルク、ヴァシリオスはやたら大盛りのナポリタン、エレディトは店員に勧められるまま日替わりのケーキセットを選んだ。
「これ、甘いですね」
一口食べたエレディトが、少し驚いた顔をする。
「甘すぎた?」
「いえ……好きです、これ」
その素直な感想に、千綴は自分の紅茶を口に運びながら目を細めた。
しばらくは、今日一日の話で盛り上がった。バッティングセンターでのエレディトの打撃、千綴の再現に失敗したスイング、丘平の商店街で見た店、鏡峰神社の静けさ。誰かが何かを言うたび、別の誰かがそれに乗っかって、話はあちこちへ転がっていく。
「新辺、もっとちゃんと回りたいな」
綾乃がストローをくわえたまま言うと、ヴァシリオスが待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「だろ? ボウリングもカラオケもまだあるし、今度は一日がかりで」
「お前が言うと、また変な店に連れて行かれそうで怖いんだけど」
悠司が半分呆れたように言うと、環がくすくす笑う。
「変な店って何」
「そういう前科があるんだよ、コイツ」
「人聞き悪いって!」
賑やかなやり取りに、エレディトも自然と加わっていた。誰かの冗談に声を上げて笑い、時々分からない言い回しには首を傾げ、それでもすぐに会話へ戻っていく。
千綴はそれを、少し離れた場所から眺めているような気分でカップを傾ける。誰かの振った話に、エレディトが間を置かずに乗っかっていく。その自然な間合いに、千綴はカップの向こうで口元をほどいた。
会計を終えて店を出ると、夕方に近い光が商店街を橙に染めていた。
「今日、案内役ご苦労さん」
千綴が言うと、ヴァシリオスは満足げに笑った。
「今度は新辺、ちゃんと一日使ってやろうぜ」
「考えとく」
「絶対来いよ!」
喫茶店の前で、六人はそれぞれの方向へ分かれた。新辺へ戻るヴァシリオスだけが、一人駅の方向へ歩いていく。
「またな!」
軽く手を上げて離れていく背中を見送ってから、千綴は残りの面々と少しだけ立ち話をした。悠司は神社の方へ、綾乃は鏡峰の方へ、エレディトは榊家のある方へと、それぞれの帰り道へ散っていく。
最後に一人になった千綴は、夕暮れの商店街を振り返ってから、自分のアパートへ向かって歩き出した。
夕食を終え、洗い物を片付けていると、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前は、朝倉直嗣。
千綴は少し身構えながら通話に出る。
「もしもし」
『夜分にすまない。今、大丈夫か』
「うん、平気だけど……どうしたの?」
『明日、空いているか確認したい』
前置きも間もなく、用件だけが飛んでくる。相変わらずだ、と千綴は思わず苦笑した。
「急だね」
『分かっている』
「分かってるなら、もう少し早く連絡してくれてもいいんだけど」
千綴が言うと、電話の向こうで一瞬、間があった。
『……それは、そうだな』
悪びれた様子はあまりないが、一応の反省は感じ取れる声だった。仕事に関してはこれ以上ないほど的確なのに、こういうところの機微には無頓着なのだと、千綴は今さらのように思い出す。
「それで、何の用?」
『エレディトの件だ。事件後の確認で、明日、施設へ連れて行くことが決まっている。本人にはもう伝えて、了承も得ている』
「うん」
『弥生は、都合が合うようなら一緒に連れて行こうと思っている。無理にとは言わない』
「明日、特に予定ないから、平気だよ」
深く考えるより先に、そう答えていた。エレディトのことも気になるし、自分自身、検査を受けてから確かめたいことが増えている。
『そうか。なら、明日は榊さんの家に集合だ。エレディトも近いから、俺がまとめて連れて行く』
「分かった。何時に行けばいい?」
『朝のうちに迎えに行く。詳しい時間は明日また連絡する』
「了解」
用件はそれだけで、直嗣は特に世間話をするでもなく、また明日、とだけ言って電話を切った。素っ気ないと言えば素っ気ないが、それが直嗣らしいと分かっているから、千綴はもう気にしない。
スマートフォンをテーブルへ置き、千綴は小さく息を吐いた。
今日一日は、久しぶりに何も気にせず楽しめた休日だった。それでも、明日からはまた別の話が始まる。木材置き場での一件以来、自分の中で起きている変化の正体を、少しでもはっきりさせておきたい気持ちがあった。
窓の外はもうすっかり暗くなっている。千綴は明日の準備を軽く整えてから、早めに布団へ入った。




