表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空の結び目  作者: 夕花
25/29

- 25 -

 坂を上りながら、千綴は一度だけ足を緩めた。息が切れたわけではない。


 前を行く生徒たちは、それぞれ友人と話したり、黙って校舎の方へ歩いたりしている。聞こえてくる声も、靴音も、いつもと変わらない。千綴もその流れに混ざって坂を上っていた。


「ちづる」


 後ろから呼ばれて振り向くと、綾乃が少し早足で追いついてきた。


「おはよう」


「おはよう」


 隣に並ぶと、綾乃はそのまま千綴の歩調へ合わせた。少し歩いたところで、ふと前を見る。


「あ、エレディトくん。おはよー!」


 その声に、前を歩いていたエレディトが振り返る。


「おはようございます」


 いつも通りの返事だった。ただ、近くまで行けば、昨日のことが何も残っていないわけではない。顔には絆創膏があり、腕にも処置の跡が見える。歩く様子も、完全に普段通りとは言い切れなかった。


 千綴はその姿を見て、少しだけ眉を寄せる。


「もう大丈夫?」


「はい。大丈夫です」


「無理してない?」


「していません」


 返事は迷いなく返ってきた。千綴はしばらくエレディトの顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。


「なら、いいけど」


 隣で綾乃が二人を見比べている。その視線に気づいて、千綴が顔を向けた。


「何?」


「んー? ちょっと見ない間に、前より話すようになったなって」


「そう?」


「そうそう」


 綾乃は楽しそうに笑った。千綴は納得していない顔のまま前を向く。エレディトは少し困ったように二人を見ていたが、何も言わなかった。


 三人で坂を上り、そのまま昇降口へ入る。靴箱の前で足を止めると、生徒たちはそれぞれ自分の学年の方へ流れていく。


「じゃあ、またね」


 綾乃が先に言う。


「はい」


 エレディトが頷く。千綴も一度だけエレディトを見る。


「無理はしないでね」


「分かりました」


 そこでエレディトとは別れ、千綴と綾乃はそのまま自分たちの教室へ向かった。


 扉を開けると、すでに何人かが席についていた。ヴァシリオスは窓際に立って、外を見ている。


「何見てるの?」


 千綴が声を掛けると、ヴァシリオスが振り返った。


「景色だ」


「見れば分かるけど」


「ここから、前からあんなに見えていたか?」


 千綴も窓の外を見る。丘の上から街並みが広がり、建物の屋根や道路、その向こうまで朝の光の中に見えていた。


「見えてたと思うけど」


「前から?」


「うん」


 ヴァシリオスはもう一度外を見る。


「そうか」


 それだけ言って窓から離れた。


「珍しいね」


 環が自分の席から声を掛ける。ヴァシリオスがそちらを向く。


「何がだ」


「朝から景色なんて見てるの」


「俺が見たらおかしいのか」


「おかしいとは言ってない。珍しいって言っただけ」


「同じだろ」


「違うけど」


「違わない」


「違う」


 いつもの調子で言い合いが始まる。千綴は鞄を机に置き、綾乃も自分の席へ向かった。


「朝から元気だね」


 綾乃が笑う。


「こいつが余計なことを言うからだ」


「人のせいにしないでくれる?」


「先に話しかけてきたのはそっちだろ」


「話しかけただけでしょ」


 そのやり取りの途中で、予鈴が鳴った。教室の空気が少しだけ変わり、立っていた生徒が席へ戻る。廊下からも足音が増えた。


「ほら、終わり」


 環が先に前を向く。


「お前が始めたんだろ」


「もう聞こえなーい」


 ヴァシリオスが何か言い返そうとしたところで、千綴は椅子を引いた。朝のざわめきが、授業前の空気へ少しずつ切り替わっていった。





 黒板に書かれた文字を、千綴はノートへ写していく。教師の声が教室の前から流れ、ペン先も止まらず動いていた。


 書いている内容は頭に入っている。それでも、ふと昨日のことが浮かんだ。


 戦いが終わったあと、直嗣はその場で連絡を入れていた。千綴には詳しい内容までは分からなかったが、ライカーをそのまま残して帰るわけではないことだけは分かった。


 倒れた男は、もう動かなかった。直嗣が状態を確認し、その後に来た組織の人間へ引き渡された。そこで初めて、死亡が確認されたことも千綴は聞いた。


 ライカーの遺体は、そのまま組織側で回収された。身体に何をされていたのか。あの異様な動きや、最後に身体だけがついてこなくなった理由も含めて、これから調べるらしい。結果は、まだ出ていない。


 エレディトはその前に病院へ運ばれていた。千綴もあとから病院へ向かい、そこで巴へ連絡して、エレディトが見つかったことを伝えた。


 ノートへ一文字書いたところで、千綴の手がわずかに止まる。


 昨日、病院へ向かう前。直嗣が短く説明していたことを思い出した。


「遺体はこっちで調べる」


 それだけなら、千綴も頷くだけだった。


「エレディトの親族に起きたことと、今回の件が繋がってるかも確認する」


 その言葉で、千綴は顔を上げた。


「親族?」


「ああ」


 直嗣はそれ以上を詳しく話さなかった。千綴も、その場では聞かなかった。


 けれど、言葉だけは残った。


 エレディトの親族にも、何かあった。なら、エレディトがここへ来た理由も、それと関係しているのか。


 交換留学で来たこと自体は知っている。それ以上は知らない。本人から詳しく聞いたこともなかった。


 千綴が考えているのを見たのか、直嗣は一度だけこちらを見た。


「細かいことは任せろ」


 短い言葉だった。


 千綴は少し黙ってから頷いた。


「……分かりました」


 それ以上は踏み込まなかった。今、自分が聞いたところで分かることではない。調べるべきものは直嗣たちが調べる。エレディトが話したくなれば、その時に聞けばいい。


「弥生」


 突然名前を呼ばれ、千綴は顔を上げた。教師がこちらを見ている。


「この続き、やってみろ」


 黒板の途中を示される。


「あ、はい」


 千綴はペンを置いて椅子を引いた。視線を黒板へ戻し、そのまま前へ向かう。





 昼休みになって教室を出ると、廊下にはすぐに人が増えた。千綴たちはその流れに混ざって食堂へ向かう。


 中へ入ると、席はもうかなり埋まっていた。話し声と食器の音が重なり、空いている場所を探す生徒が通路を行き来している。


 千綴は何となく周囲へ目を向けた。少し離れたところに、エレディトがいる。


 友人たちと一緒に座っていた。朝に見た絆創膏はそのままだが、何か話しかけられ、短く返事をしている。その姿を確認していると、ヴァシリオスも気づいた。


「いたな」


 そのままそちらへ歩いていく。千綴たちも続いた。


「エレディト」


 呼ばれて、エレディトが顔を上げる。


「ヴァシリオス先輩」


「もう大丈夫なのか」


「はい。大丈夫です」


「そうか」


 ヴァシリオスはエレディトの顔と腕を一度見た。


「何か困ったことがあったら頼れ。できることなら手を貸す」


 エレディトは少しだけ目を見開いた。それから、頷く。


「ありがとうございます」


「それでいい」


 環が横からヴァシリオスを見る。


「珍しくまともなこと言ってる」


「珍しくとは何だ」


「そのままの意味」


「俺はいつもまともだ」


「それはない」


「ある」


 また始まった。


 千綴は二人を横目に見てから、エレディトへ顔を戻した。


「じゃあね」


「はい」


 それ以上そこには残らない。エレディトにはエレディトの友人たちがいる。


 千綴たちは空いている席を見つけて移動し、それぞれ食事を始めた。しばらくは取り留めのない話が続く。


 その途中で、ヴァシリオスがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、最近休んでるやつが多いらしいな」


「休んでる?」


 千綴が箸を止める。


「ああ。頭が痛いとか、体調が悪いとか。そういうので休んでるやつが増えてるって聞いた」


「風邪でも流行ってるのかな」


 綾乃が言う。


「夏休み明けの疲れとかじゃない?」


 悠司も会話に加わった。


 環が食事の手を止める。


「そういえば、部活の友達も最近休んでるって聞いた」


「同じような感じ?」


「たぶん。体調悪いってだけだったけど」


「何か流行ってるのかもね」


 綾乃がそう言い、環も「かもね」と返した。誰かがその話を掘り下げるでもなく、食事を続けるうちに話題は別の方へ流れていく。


 千綴はそこで思い出した。


「そうだ。今度の休みなんだけど」


 四人の視線が集まる。


「何?」


 綾乃が聞く。


「エレディトも誘って、みんなでどこか行かない?」


「え、もう誘ったの?」


「うん。前に聞いたら、行きたいって」


 綾乃が少し笑う。


「いいじゃん」


 悠司も頷いた。


「せっかくだし、こっちのこと案内する感じでもいいかもな」


「それなら任せろ」


 ヴァシリオスがすぐに口を挟む。


 環が顔を上げた。


「やる気あるね」


「案内するなら中途半端にする意味がない」


「じゃあ、中村くんに任せよっか」


 綾乃が言う。


「ああ。俺が考えておく」


「よろしく」


 千綴が返すと、ヴァシリオスは頷いた。


 今度の休みに、みんなで出かける。エレディトも一緒に。行き先や細かい段取りは、ヴァシリオスに任せることになった。





 放課後、千綴はそのまま丘平商店へ向かった。


 店に入り、制服から着替える。売り場へ出ると、巴はすでに仕事をしていた。


「お疲れさまです」


「お疲れ」


 短く挨拶を交わして、千綴も仕事に入る。


 客が来れば対応し、空いた時間に商品を整える。しばらくはいつもと変わらなかった。


 棚の商品を揃えていた、その合間だった。


「千綴」


 巴に呼ばれ、千綴は手を止めて顔を上げた。


「はい?」


「昨日のことなんだけど」


 何のことかは聞き返さなくても分かった。巴は周囲へ一度目を向けてから、少し声を落とす。


「エレディトからは多少聞いた」


「そうなんですか」


「でも、あの子、肝心なところはほとんど話してないでしょ」


 千綴は少し考えた。エレディトが巴に異能のことまで話しているとは思えない。


「たぶん、そうですね」


「何があったの?」


 巴の目が千綴へ向く。


「昨日は病院だったから、あそこで細かく聞くのも違うと思って聞かなかったけど。千綴が知ってる範囲でいいから教えて」


「私も、全部見てたわけじゃないですよ」


「それでいい」


 千綴は手元の商品へ視線を落とした。どこから話すか考えてから、口を開く。


「新辺で、前から噂になってた男がいたんです」


「男?」


「はい。その人がエレディトを狙ってたみたいで」


 巴の表情が少し変わった。


「それで?」


「私が見つけた時には、もう二人で戦ってました」


「……戦ってた?」


「はい」


 昨日見た光景が一瞬だけ浮かぶ。千綴は棚に置いたままの手を少し引いた。


「私もエレディトを探してて、そこに行って……巻き込まれた感じです」


「巻き込まれた感じ、って」


 巴の声が低くなる。


「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」


「でも、私はほとんど何もしてないですよ」


「そういう話じゃないでしょ」


 すぐに返され、千綴は黙った。


「それで、どうなったの?」


「朝倉さんが来て、最後は解決しました」


「朝倉さんが来たんだ」


「はい」


 巴は少し考えるように黙る。売り場の向こうから、かすかに客の話し声が聞こえていた。


「じゃあ、今回もそっちの話だったんだね」


「そうです」


 千綴が頷くと、巴は小さく息を吐いた。それ以上、詳しいことを聞いてくる様子はなかった。


「分かった」


「聞かないんですか?」


「聞いても、千綴が全部知ってるわけじゃないんでしょ」


「まあ、そうですけど」


「それに、朝倉さんが関わってるなら、私が聞いたところでどうにかできる話でもなさそうだし」


 巴はそう言ってから、千綴の方へ向き直った。


「でもね」


「はい」


「無茶はしないで」


 千綴は目を瞬いた。


「エレディトを探しに行ったのが悪いとは言わない。でも、千綴まで何かあったら意味ないでしょ」


「……はい」


「本当に分かってる?」


「分かってます」


 巴はじっと千綴を見る。その視線に、千綴は少しだけ居心地が悪くなった。


「たぶん」


「たぶんを付けない」


「はい」


 今度は素直に返す。


 巴はようやく視線を外し、手元の仕事へ戻った。


「まあ……二人とも無事でよかったけど」


 その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。千綴も小さく頷く。


「はい」


 店内に客の入ってくる音がした。巴がそちらを見る。


「ほら、仕事」


「はい」


 話はそこで終わった。千綴は売り場へ戻り、巴もそれ以上は何も言わず、いつものように仕事へ戻っていった。





 バイトを終えて店の外へ出ると、放課後に来た時より外は暗くなっていた。


 千綴は鞄を肩に掛け直し、そのまま帰ろうとして足を止めた。少し先から、人が走ってくる。見覚えのある姿だった。


 エレディトは一定の速さでこちらへ近づき、千綴に気づくと歩調を落とした。


「こんばんは」


「こんばんは」


 息は上がっている。それでも、朝より表情は少し柔らかく見えた。


 千綴はエレディトの格好を見てから、顔へ視線を戻す。


「……まだ走るんだ」


「はい」


 昨日あれだけのことがあったばかりだ。朝には学校へ来て、今はこうしてまた走っている。


 千綴は少し呆れたように息を吐いた。


「ほんと、変わらないね」


 エレディトは少しだけ困ったように笑った。それから、ふと表情を改める。


「千綴先輩」


「何?」


「昨日は、ありがとうございました」


 千綴は一瞬、返事を止めた。病院では、そんな話をする余裕もなかった。巴が来て、エレディトを連れて帰った。それで昨日は終わった。


「別に、お礼を言われるようなことじゃないよ」


「でも、僕を探しに来てくれました」


「友人だから」


 千綴はそれだけ答えた。


 特別なことをしたつもりはない。放っておけなかったから探しに行った。それだけだ。


 エレディトは少し目を伏せる。


「……そうですね」


 その返事は、どこか納得したようにも聞こえた。


 千綴はエレディトの腕に残る処置の跡を見て、それから走ってきた道へ一度視線を向けた。


「まだ続けるの?」


 エレディトも同じ方向を見る。


「はい」


「ランニングも、訓練も?」


 少し間があった。それでも、答えは変わらなかった。


「続けます」


 千綴はエレディトを見る。


 そこで、エレディトが少しだけはにかんだ。


「できることから」


 千綴は一瞬だけ目を見開いた。聞き覚えのある言葉だった。


 以前、自分がエレディトへ言った言葉。その言葉がそのまま返ってきたことに気づいて、千綴の表情が緩む。


「……そっか」


 千綴は笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ