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坂を上りながら、千綴は一度だけ足を緩めた。息が切れたわけではない。
前を行く生徒たちは、それぞれ友人と話したり、黙って校舎の方へ歩いたりしている。聞こえてくる声も、靴音も、いつもと変わらない。千綴もその流れに混ざって坂を上っていた。
「ちづる」
後ろから呼ばれて振り向くと、綾乃が少し早足で追いついてきた。
「おはよう」
「おはよう」
隣に並ぶと、綾乃はそのまま千綴の歩調へ合わせた。少し歩いたところで、ふと前を見る。
「あ、エレディトくん。おはよー!」
その声に、前を歩いていたエレディトが振り返る。
「おはようございます」
いつも通りの返事だった。ただ、近くまで行けば、昨日のことが何も残っていないわけではない。顔には絆創膏があり、腕にも処置の跡が見える。歩く様子も、完全に普段通りとは言い切れなかった。
千綴はその姿を見て、少しだけ眉を寄せる。
「もう大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「無理してない?」
「していません」
返事は迷いなく返ってきた。千綴はしばらくエレディトの顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。
「なら、いいけど」
隣で綾乃が二人を見比べている。その視線に気づいて、千綴が顔を向けた。
「何?」
「んー? ちょっと見ない間に、前より話すようになったなって」
「そう?」
「そうそう」
綾乃は楽しそうに笑った。千綴は納得していない顔のまま前を向く。エレディトは少し困ったように二人を見ていたが、何も言わなかった。
三人で坂を上り、そのまま昇降口へ入る。靴箱の前で足を止めると、生徒たちはそれぞれ自分の学年の方へ流れていく。
「じゃあ、またね」
綾乃が先に言う。
「はい」
エレディトが頷く。千綴も一度だけエレディトを見る。
「無理はしないでね」
「分かりました」
そこでエレディトとは別れ、千綴と綾乃はそのまま自分たちの教室へ向かった。
扉を開けると、すでに何人かが席についていた。ヴァシリオスは窓際に立って、外を見ている。
「何見てるの?」
千綴が声を掛けると、ヴァシリオスが振り返った。
「景色だ」
「見れば分かるけど」
「ここから、前からあんなに見えていたか?」
千綴も窓の外を見る。丘の上から街並みが広がり、建物の屋根や道路、その向こうまで朝の光の中に見えていた。
「見えてたと思うけど」
「前から?」
「うん」
ヴァシリオスはもう一度外を見る。
「そうか」
それだけ言って窓から離れた。
「珍しいね」
環が自分の席から声を掛ける。ヴァシリオスがそちらを向く。
「何がだ」
「朝から景色なんて見てるの」
「俺が見たらおかしいのか」
「おかしいとは言ってない。珍しいって言っただけ」
「同じだろ」
「違うけど」
「違わない」
「違う」
いつもの調子で言い合いが始まる。千綴は鞄を机に置き、綾乃も自分の席へ向かった。
「朝から元気だね」
綾乃が笑う。
「こいつが余計なことを言うからだ」
「人のせいにしないでくれる?」
「先に話しかけてきたのはそっちだろ」
「話しかけただけでしょ」
そのやり取りの途中で、予鈴が鳴った。教室の空気が少しだけ変わり、立っていた生徒が席へ戻る。廊下からも足音が増えた。
「ほら、終わり」
環が先に前を向く。
「お前が始めたんだろ」
「もう聞こえなーい」
ヴァシリオスが何か言い返そうとしたところで、千綴は椅子を引いた。朝のざわめきが、授業前の空気へ少しずつ切り替わっていった。
黒板に書かれた文字を、千綴はノートへ写していく。教師の声が教室の前から流れ、ペン先も止まらず動いていた。
書いている内容は頭に入っている。それでも、ふと昨日のことが浮かんだ。
戦いが終わったあと、直嗣はその場で連絡を入れていた。千綴には詳しい内容までは分からなかったが、ライカーをそのまま残して帰るわけではないことだけは分かった。
倒れた男は、もう動かなかった。直嗣が状態を確認し、その後に来た組織の人間へ引き渡された。そこで初めて、死亡が確認されたことも千綴は聞いた。
ライカーの遺体は、そのまま組織側で回収された。身体に何をされていたのか。あの異様な動きや、最後に身体だけがついてこなくなった理由も含めて、これから調べるらしい。結果は、まだ出ていない。
エレディトはその前に病院へ運ばれていた。千綴もあとから病院へ向かい、そこで巴へ連絡して、エレディトが見つかったことを伝えた。
ノートへ一文字書いたところで、千綴の手がわずかに止まる。
昨日、病院へ向かう前。直嗣が短く説明していたことを思い出した。
「遺体はこっちで調べる」
それだけなら、千綴も頷くだけだった。
「エレディトの親族に起きたことと、今回の件が繋がってるかも確認する」
その言葉で、千綴は顔を上げた。
「親族?」
「ああ」
直嗣はそれ以上を詳しく話さなかった。千綴も、その場では聞かなかった。
けれど、言葉だけは残った。
エレディトの親族にも、何かあった。なら、エレディトがここへ来た理由も、それと関係しているのか。
交換留学で来たこと自体は知っている。それ以上は知らない。本人から詳しく聞いたこともなかった。
千綴が考えているのを見たのか、直嗣は一度だけこちらを見た。
「細かいことは任せろ」
短い言葉だった。
千綴は少し黙ってから頷いた。
「……分かりました」
それ以上は踏み込まなかった。今、自分が聞いたところで分かることではない。調べるべきものは直嗣たちが調べる。エレディトが話したくなれば、その時に聞けばいい。
「弥生」
突然名前を呼ばれ、千綴は顔を上げた。教師がこちらを見ている。
「この続き、やってみろ」
黒板の途中を示される。
「あ、はい」
千綴はペンを置いて椅子を引いた。視線を黒板へ戻し、そのまま前へ向かう。
昼休みになって教室を出ると、廊下にはすぐに人が増えた。千綴たちはその流れに混ざって食堂へ向かう。
中へ入ると、席はもうかなり埋まっていた。話し声と食器の音が重なり、空いている場所を探す生徒が通路を行き来している。
千綴は何となく周囲へ目を向けた。少し離れたところに、エレディトがいる。
友人たちと一緒に座っていた。朝に見た絆創膏はそのままだが、何か話しかけられ、短く返事をしている。その姿を確認していると、ヴァシリオスも気づいた。
「いたな」
そのままそちらへ歩いていく。千綴たちも続いた。
「エレディト」
呼ばれて、エレディトが顔を上げる。
「ヴァシリオス先輩」
「もう大丈夫なのか」
「はい。大丈夫です」
「そうか」
ヴァシリオスはエレディトの顔と腕を一度見た。
「何か困ったことがあったら頼れ。できることなら手を貸す」
エレディトは少しだけ目を見開いた。それから、頷く。
「ありがとうございます」
「それでいい」
環が横からヴァシリオスを見る。
「珍しくまともなこと言ってる」
「珍しくとは何だ」
「そのままの意味」
「俺はいつもまともだ」
「それはない」
「ある」
また始まった。
千綴は二人を横目に見てから、エレディトへ顔を戻した。
「じゃあね」
「はい」
それ以上そこには残らない。エレディトにはエレディトの友人たちがいる。
千綴たちは空いている席を見つけて移動し、それぞれ食事を始めた。しばらくは取り留めのない話が続く。
その途中で、ヴァシリオスがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、最近休んでるやつが多いらしいな」
「休んでる?」
千綴が箸を止める。
「ああ。頭が痛いとか、体調が悪いとか。そういうので休んでるやつが増えてるって聞いた」
「風邪でも流行ってるのかな」
綾乃が言う。
「夏休み明けの疲れとかじゃない?」
悠司も会話に加わった。
環が食事の手を止める。
「そういえば、部活の友達も最近休んでるって聞いた」
「同じような感じ?」
「たぶん。体調悪いってだけだったけど」
「何か流行ってるのかもね」
綾乃がそう言い、環も「かもね」と返した。誰かがその話を掘り下げるでもなく、食事を続けるうちに話題は別の方へ流れていく。
千綴はそこで思い出した。
「そうだ。今度の休みなんだけど」
四人の視線が集まる。
「何?」
綾乃が聞く。
「エレディトも誘って、みんなでどこか行かない?」
「え、もう誘ったの?」
「うん。前に聞いたら、行きたいって」
綾乃が少し笑う。
「いいじゃん」
悠司も頷いた。
「せっかくだし、こっちのこと案内する感じでもいいかもな」
「それなら任せろ」
ヴァシリオスがすぐに口を挟む。
環が顔を上げた。
「やる気あるね」
「案内するなら中途半端にする意味がない」
「じゃあ、中村くんに任せよっか」
綾乃が言う。
「ああ。俺が考えておく」
「よろしく」
千綴が返すと、ヴァシリオスは頷いた。
今度の休みに、みんなで出かける。エレディトも一緒に。行き先や細かい段取りは、ヴァシリオスに任せることになった。
放課後、千綴はそのまま丘平商店へ向かった。
店に入り、制服から着替える。売り場へ出ると、巴はすでに仕事をしていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
短く挨拶を交わして、千綴も仕事に入る。
客が来れば対応し、空いた時間に商品を整える。しばらくはいつもと変わらなかった。
棚の商品を揃えていた、その合間だった。
「千綴」
巴に呼ばれ、千綴は手を止めて顔を上げた。
「はい?」
「昨日のことなんだけど」
何のことかは聞き返さなくても分かった。巴は周囲へ一度目を向けてから、少し声を落とす。
「エレディトからは多少聞いた」
「そうなんですか」
「でも、あの子、肝心なところはほとんど話してないでしょ」
千綴は少し考えた。エレディトが巴に異能のことまで話しているとは思えない。
「たぶん、そうですね」
「何があったの?」
巴の目が千綴へ向く。
「昨日は病院だったから、あそこで細かく聞くのも違うと思って聞かなかったけど。千綴が知ってる範囲でいいから教えて」
「私も、全部見てたわけじゃないですよ」
「それでいい」
千綴は手元の商品へ視線を落とした。どこから話すか考えてから、口を開く。
「新辺で、前から噂になってた男がいたんです」
「男?」
「はい。その人がエレディトを狙ってたみたいで」
巴の表情が少し変わった。
「それで?」
「私が見つけた時には、もう二人で戦ってました」
「……戦ってた?」
「はい」
昨日見た光景が一瞬だけ浮かぶ。千綴は棚に置いたままの手を少し引いた。
「私もエレディトを探してて、そこに行って……巻き込まれた感じです」
「巻き込まれた感じ、って」
巴の声が低くなる。
「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」
「でも、私はほとんど何もしてないですよ」
「そういう話じゃないでしょ」
すぐに返され、千綴は黙った。
「それで、どうなったの?」
「朝倉さんが来て、最後は解決しました」
「朝倉さんが来たんだ」
「はい」
巴は少し考えるように黙る。売り場の向こうから、かすかに客の話し声が聞こえていた。
「じゃあ、今回もそっちの話だったんだね」
「そうです」
千綴が頷くと、巴は小さく息を吐いた。それ以上、詳しいことを聞いてくる様子はなかった。
「分かった」
「聞かないんですか?」
「聞いても、千綴が全部知ってるわけじゃないんでしょ」
「まあ、そうですけど」
「それに、朝倉さんが関わってるなら、私が聞いたところでどうにかできる話でもなさそうだし」
巴はそう言ってから、千綴の方へ向き直った。
「でもね」
「はい」
「無茶はしないで」
千綴は目を瞬いた。
「エレディトを探しに行ったのが悪いとは言わない。でも、千綴まで何かあったら意味ないでしょ」
「……はい」
「本当に分かってる?」
「分かってます」
巴はじっと千綴を見る。その視線に、千綴は少しだけ居心地が悪くなった。
「たぶん」
「たぶんを付けない」
「はい」
今度は素直に返す。
巴はようやく視線を外し、手元の仕事へ戻った。
「まあ……二人とも無事でよかったけど」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。千綴も小さく頷く。
「はい」
店内に客の入ってくる音がした。巴がそちらを見る。
「ほら、仕事」
「はい」
話はそこで終わった。千綴は売り場へ戻り、巴もそれ以上は何も言わず、いつものように仕事へ戻っていった。
バイトを終えて店の外へ出ると、放課後に来た時より外は暗くなっていた。
千綴は鞄を肩に掛け直し、そのまま帰ろうとして足を止めた。少し先から、人が走ってくる。見覚えのある姿だった。
エレディトは一定の速さでこちらへ近づき、千綴に気づくと歩調を落とした。
「こんばんは」
「こんばんは」
息は上がっている。それでも、朝より表情は少し柔らかく見えた。
千綴はエレディトの格好を見てから、顔へ視線を戻す。
「……まだ走るんだ」
「はい」
昨日あれだけのことがあったばかりだ。朝には学校へ来て、今はこうしてまた走っている。
千綴は少し呆れたように息を吐いた。
「ほんと、変わらないね」
エレディトは少しだけ困ったように笑った。それから、ふと表情を改める。
「千綴先輩」
「何?」
「昨日は、ありがとうございました」
千綴は一瞬、返事を止めた。病院では、そんな話をする余裕もなかった。巴が来て、エレディトを連れて帰った。それで昨日は終わった。
「別に、お礼を言われるようなことじゃないよ」
「でも、僕を探しに来てくれました」
「友人だから」
千綴はそれだけ答えた。
特別なことをしたつもりはない。放っておけなかったから探しに行った。それだけだ。
エレディトは少し目を伏せる。
「……そうですね」
その返事は、どこか納得したようにも聞こえた。
千綴はエレディトの腕に残る処置の跡を見て、それから走ってきた道へ一度視線を向けた。
「まだ続けるの?」
エレディトも同じ方向を見る。
「はい」
「ランニングも、訓練も?」
少し間があった。それでも、答えは変わらなかった。
「続けます」
千綴はエレディトを見る。
そこで、エレディトが少しだけはにかんだ。
「できることから」
千綴は一瞬だけ目を見開いた。聞き覚えのある言葉だった。
以前、自分がエレディトへ言った言葉。その言葉がそのまま返ってきたことに気づいて、千綴の表情が緩む。
「……そっか」
千綴は笑った。




