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空の結び目  作者: 夕花
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 目を開けると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。いつもより、随分早い時間だった。


 布団を出て伸びをすると、昨夜の電話のことを思い出す。集合は巴さんの家、朝のうちに迎えに来ると直嗣は言っていた。時計を確認し、千綴は身支度に取りかかる。


 鏡の前で身なりを整えながら、ふと前回の検査のことを思い出す。あれからどう変わっているのか、正直なところ少し気になっていた。


 着替えを済ませ、髪を整えてから部屋を出た。休日の住宅街は静かで、緩んだ空気が漂っている。どこかで洗濯物をはためかせる音がして、遠くから聞こえる子どもの声が、休日らしいのどかさを添えていた。歩き慣れた道を進むうち、汗ばむくらいの陽気になっていた。馴染みのある玄関先に、千綴は足を向けた。


「おはよう」


 声をかけて中に入ると、巴とエレディトがすでに揃っていた。巴はいつもどおりの様子で、エレディトも支度を終えている。


「おはようございます、千綴さん」


 エレディトが小さく頭を下げる。それから、少し首をかしげた。


「千綴さんも、来るんですか?」


「うん。昨日の夜、急に電話がかかってきてね」


 千綴は苦笑しながら答えた。急な話だとは自分でも思う。それでも、放っておける話でもなかった。


 エレディトは少し驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑った。巴も横で、面白がるように目を細めている。


 しばらく立ち話をしていると、外から足音が近づいてくる。


「お待たせしました」


 振り返ると、直嗣が立っていた。相変わらず、前置きのない声のかけ方だった。


「朝倉さん」


「時間どおりだな。……行けるか」


 千綴とエレディトが頷くのを確認すると、直嗣は巴のほうへ向き直った。


「また、お借りします」


「はいはい。いってらっしゃい、二人とも」


 巴が軽く手を振る。その気安さに送られて、三人は家を出た。





 施設に入ると、以前と同じ清潔な空気が流れていた。受付には職員が数人おり、天井近くの案内板には見覚えのある表示が並んでいる。


 あの日と同じ場所に立っているはずなのに、緊張の質はどこか違っている。今回は、何かに追われているわけではない。ただ確かめに来ただけだ、と千綴は自分に言い聞かせた。


 直嗣は受付で短く用件を伝えると、千綴とエレディトへ向き直った。


「エレディトはこっちで先に手続きだ。少し時間がかかる」


「わかりました」


 エレディトが頷く。落ち着いた様子だった。直嗣に続いて、奥の窓口へと歩いていく。


 その後ろ姿を見送りながら、千綴は小さく息を吐いた。エレディトなりに、思うところはあるはずだった。それでも、表情には出していない。


「千綴さんの担当は、また私です」


 声のする方を振り返ると、よく知った顔があった。


「フィンさん」


「覚えていてくれて何より。今日もよろしく」


 軽く手を上げる仕草は、前回と変わらない。フィンの目が、隣に立つ直嗣へ向く。


「お、ナオも一緒か」


「今回もよろしく頼む」


「相変わらず愛想ないね」


「お前に振る愛想はない」


「ひどいなあ」


 フィンは笑いながら肩をすくめただけだった。


「はいはい。じゃ、千綴さんはこっちへ」


 千綴はエレディトの方を振り返った。エレディトも同じ間合いでこちらを見ていたらしく、目が合う。


「また後でね」


「はい。また、後で」


 短いやり取りを交わし、千綴はフィンについて廊下の奥へ向かった。





 案内された部屋は、以前とほとんど変わらない造りをしていた。四方を白い壁に囲まれた、家具の少ない空間。中央に置かれた椅子だけが目印だった。


「懐かしいでしょう、この部屋」


 フィンが軽い調子で言いながら、手にした器具を示す。


「今日はまず、前と同じとこから」


「また、感覚を塞ぐんですか?」


「察しがいい」


「二回目ですから」


「じゃ、いつも通りね」


「分かりました」


 千綴は椅子に腰掛け、差し出されたアイマスクを受け取った。次いで、耳を覆うヘッドセットのようなものを装着する。視界が完全な暗闇に変わり、外の物音も遠くへ押しやられた。


 前回もこうだった。


 最初は、何も分からないまま座っているだけの時間が長く感じられた。椅子の硬さや、腕に触れる空気の冷たさが、やけにはっきり感じられる。視界がないだけで、こんなにも他の感覚が近くなるものなのか。千綴は少し驚いた。


「では、始めます」


 フィンの声が、ヘッドセット越しにくぐもって届く。


 それきり、何の音もしなくなった。


 千綴は目を閉じたまま、意識を澄ませる。前回のように、無理に何かを探そうとはしなかった。ただ、そこにいるだろう誰かの気配へ、注意を向けるでもなく置いておく。


 ――右。


 特に理由はない。ただ、そちらの方が、なんとなく近く感じた。


 千綴は顔をわずかにそちらへ向けた。


「――今、動きました?」


 思わず声が出る。


 返事はなかった。


 その後も、同じような確認が何度か繰り返された。位置が変わるたび、千綴は迷いながらも、そちらの方向へ顔を向ける。前回よりも、迷う時間が短くなっている気がした。


 どこが違うのか、うまく言葉にはできない。


 ただ、以前は暗闇の中で手探りするような感覚だったのに、今は、もう少しだけ確かさが増している。そんな気がした。


 アイマスクとヘッドセットを外すと、フィンが手元の記録を眺めていた。


「結果は?」


「まだ内緒」


「そこ聞きたいんですけど」


「午後もあるから。まとめてね」


「出し惜しみですか」


「大事に取っておくの」


 千綴は小さく息を吐いた。次を見てから、か。その言葉に、期待と、少しの緊張が入り混じる。今日はまだ、始まったばかりだった。





 昼休憩を知らせる声がかかったのは、二度目の確認がひと区切りついた頃だった。


 言われるままに向かった食堂には、数人分の座席が並んでいる。白衣姿の職員に混じって、来訪者用のカードを下げた人もちらほら見える。窓際の席に、見慣れた明るい髪が見えた。


「エレディト」


 声をかけると、エレディトが顔を上げる。


「千綴さん。そっちも、休憩ですか?」


「うん」


 向かいの席に腰を下ろすと、エレディトはトレーの上の食事へ視線を戻した。


「そっちはどうだった?」


「書類のことが、多かったです。あとは、記録の確認と……」


 エレディトは言葉を選ぶように、一度止まった。


「あっちは、少しだけ、身体を動かしました。訓練用の場所を見せてもらって」


「そう」


 軽く相槌を打つにとどめた。それ以上を尋ねるべきかどうか、千綴は少し迷ったが、結局聞かなかった。話したくなれば話すだろう。ただ、いつもより少しだけ、言葉数が少ないように感じられた。


「千綴さんは?」


「私は、前と同じ検査。今のところ、前より少し掴めてる、みたい」


 うまく説明できず、曖昧な言い方になった。エレディトはそれでも、興味深そうに聞いていた。


 食堂には、他にも大勢の人が行き来していた。


 トレーを片付ける頃、廊下の奥からフィンが顔を出した。


「千綴さん、そろそろ午後の分、行きましょうか」


「はい」


 千綴は席を立ち、エレディトへ軽く手を上げた。


「また後でね」


「はい、また」





 次に案内された部屋は、午前とは少し違う造りだった。壁は同じく白いが、奥にもう一つ扉が見えた。


「次は、もう少し実際に近い形で試したいんです」


 フィンが言った。


「今度は、誰が動くかは言いません。感じたことだけ、教えてください」


 千綴は少し考えてから頷いた。


「分かりました」


「じゃ、また真っ暗にしますね。今度は歩きますから、転ばないように」


 そう言って、フィンは軽く笑った。それから、ふっと声を落とす。


「――ここからは、集中してください」


 再びアイマスクを着け、耳を覆う。今度は、椅子ではなく、フィンに手を引かれて廊下を進んだ。


「ここで、少し待ってください」


 フィンの声が離れていく。


 完全な静寂の中、千綴は目を閉じたまま立っていた。


 焦って探そうとはしない。前に、追いかけていた時のことを思い出す。理由もなく足が向いた、あの感覚。誰かを探すというより、何かの跡を辿るような、あの感触。今は敵もいないし、急ぐ必要もない。


 しばらくして――


 右手の方向に、かすかな何かを感じた。


 あの時覚えた感覚ほど強くはない。もっと、薄い。だが、確かにそこにある気がした。


「――こっち、ですか?」


 千綴は右手を軽く上げた。


 何も返ってこなかった。


 千綴はアイマスクを外さないまま、意識を保ち続けた。


 しばらくすると、右手の感覚がわずかに強くなった気がした。


「近づいて、ますか?」


 これにも、答えは返らなかった。


 千綴はそれ以上、何も分からなかった。距離も、正確な位置も、姿も。ただ、右手の方に、確かに何かがあるという感覚だけが、少しずつ強くなっていく。


 やがて、足音が聞こえた。


「――もう、いいですよ」


 アイマスクを外すと、廊下の先にエレディトが立っていた。


「え」


 思わず声が出る。


「合ってました?」


 千綴が尋ねると、フィンは手元の記録を見ながら頷いた。


「方向は、ほぼ正確でした」


「距離感の方は、まだ曖昧なところがありますが……前回よりも、明らかに反応が具体的になっています」


「じゃあ、分かったんですか? 何なのか」


 千綴が重ねて尋ねると、フィンは小さく首を振った。


「そこまでは、まだです」


 率直な答えだった。


「反応が本物であること自体は、今日でさらにはっきりしました。ただ、今ある分類のどれかに当てはまるのか、新しい枠が要るのか……そこはまだ判断できません」


「……そうですか」


 肩透かしのような、それでいて予想どおりのような答えだった。前回もそうだった。何かが分かるたびに、分からないことがまた増える。


「今日の結果は、記録として残しておきます。次に何か気づいたことがあれば、また教えてください」


「分かりました」


 分かったことより、分からないことの方が、まだ多い。今日一日の手応えは、確かに掌に残っていた。


「――さすがに疲れたでしょう。よく頑張りました」


 軽く声をかけられて、千綴は小さく笑った。





 ロビーへ戻ると、直嗣がすでに待っていた。


「今日はここまでだ」


 それだけ言うと、フィンや受付の職員へ短く礼を伝え、荷物をまとめるよう促した。エレディトも、施設の職員に会釈をしてから、千綴の隣に並ぶ。


「疲れました?」


「ちょっとだけ。エレディトは?」


「大丈夫です。あまり、たくさんは動いてないので」


 軽い調子で答えるエレディトに、千綴も少しだけ肩の力が抜けた。


 三人は施設を出て、来た時と同じように帰路についた。行きよりも、口数は少なくなっていた。誰からともなく黙り込む。悪い沈黙ではなかった。


 榊家の前に着く頃には、日はもう傾き始めていた。玄関の明かりがつき、扉が開くと、巴が顔を出す。


「おかえりなさい。今日はどうだった?」


「大きな問題はなかったです」


 エレディトが答えると、巴はほっとしたように頷いた。


「お疲れさま。今日はもうゆっくりしなさい」


「はい。おやすみなさい」


 エレディトが千綴の方を向く。


「今日は、一緒に来てもらえて、心強かったです」


「ううん、こっちも用事があったし。お疲れさま」


「お疲れさまでした」


 軽く手を上げて別れると、エレディトは家の中へ入っていった。巴も千綴へ小さく手を振り、扉を閉める。


 千綴は、直嗣の車に乗り込んだ。


「送ってくれてありがとうございます」


「ああ。また何か分かったら連絡する」


「分かった」


 短いやり取りを最後に、千綴は車を降りた。





 部屋へ戻り、風呂を済ませ、明かりを落として布団に入る。


 天井を見つめながら、今日一日を振り返った。午前の検査、昼休みのやり取り、午後の検査。断片的な記憶が、ゆっくりと繋がっていく。


 完全に分かったわけじゃない。相変わらず、名前もつかない感覚のままだ。


 それでも、前よりは少しだけ、はっきりした。


 ――さすがに疲れたでしょう。よく頑張りました。


 フィンの言葉を思い出すと、なんだか、こそばゆいような気持ちになる。


 千綴は小さく笑って、目を閉じた。


 明日からは、また普段どおりの日々に戻る。


 けれど今夜だけは、少しだけ、前へ進んだ気がした。

2026/08/21 誤字修正

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