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空の結び目  作者: 夕花
19/29

- 19 -

 授業が終わると同時に、教室の空気が緩んだ。


 教師が出ていった前扉の近くで何人かが立ち上がり、机を寄せる音があちこちから重なる。


 千綴は開いたままのノートを閉じ、次の授業の教科書を机に出した。


「最近は新辺がアツい」


 ヴァシリオスの声に、千綴は顔を上げた。


「何が?」


「色々だ」


「雑」


 環が即座に返す。


 近くにいた綾乃も、ヴァシリオスへ視線を向けた。


「猫。聞いて驚け」


「聞く前からどうでもいい」


「最近、駅前に変なのが増えてる」


「お前含めて?」


「俺は住民だ」


「じゃあ一人は確定ね」


「人を不審者みたいに数えるな」


 千綴は二人のやり取りを聞きながら、教科書を開く。


「変なのって?」


「なんか、キャッチみたいに立ってる奴とか」


 ヴァシリオスがスマートフォンの画面を指で送る。


「あとセミナーの勧誘」


「それは普通にいそうだけど」


総体福音教会(フル・ゴスペル教会)ってのも見た」


「何それ」


「知らん」


 間髪入れず返ってきた。


 千綴は眉を寄せる。


「知らないのに話してるの?」


「名前があったからな」


「だからって」


「噂ってそういうもんだろ」


「お前のは噂じゃなくて拾ったもの並べてるだけ」


 環が言う。


「情報収集だ」


「ゴミ拾い」


「いいものも混ざってる」


「ゴミ拾いじゃん」


 綾乃が二人を見て、小さく笑った。


 ヴァシリオスが何か言い返そうとして、やめる。


 代わりにスマートフォンへ視線を戻し、もう一度画面を送った。


「ほら。これとか」


「まだあるの?」


「駅に落書きがあったらしい」


 千綴が訊く。


「何て?」


「『8と7/11番線』」


「……何番線?」


「8と7/11番線」


「何それ」


「だから知らん」


 ヴァシリオスが楽しそうに答える。


 環がゆっくり目を細めた。


「バカが見つけて、バカが喜ぶための落書き」


「違うぞ。こういう意味不明なのが一番面白いんだ」


「意味が分からないから?」


「意味があるかもしれないだろ」


「ないかもしれない」


「それを考えるのがいいんだ」


 千綴はヴァシリオスのスマートフォンへ目を向けた。


 そこに答えが表示されているわけでもないらしい。ヴァシリオス自身も、答えを知って話しているようには見えなかった。


「で、結局何がアツいの?」


 最初の話へ戻すと、ヴァシリオスが少し考えた。


「最近、話題が多い」


「それだけ?」


「ああ」


「それを最初に言ってよ」


「それじゃアツさが伝わらないだろ」


「別に伝わらなくていい」


 環の返事に、ヴァシリオスが「猫には分からんな」と首を振る。


「分かりたくもない」


 すぐに返される。


「そういや、学校の一年も事故に遭って休んでるって話があるな」


 ヴァシリオスが続けた。


 千綴の視線が戻る。


「一年生?」


「ああ。新辺で事故ったらしい」


 さっきまで黙って聞いていた綾乃も、今度は表情を変えた。


「事故って、大丈夫なの?」


「しばらく休むって話だ。喧嘩に巻き込まれたって噂もある」


「それ、本当なの?」


 千綴が訊く。


「そこまでは知らん。そういう話も出てるってだけだ」


 ヴァシリオスの返事に、千綴は少し黙った。


 事故で休んでいる。


 新辺で起きたらしい。


 喧嘩に巻き込まれたらしい。


 さっきまで並んでいた、駅前の人影やセミナー、教会、意味の分からない落書きとは少し違う。


 同じ学校の生徒の話だった。


 また新辺。


 千綴は開いていた教科書へ視線を落とす。


 軍人らしい人物を見たという投稿。


 その話を聞いたときに、エレディトが見せた一瞬の反応。


 もちろん、今聞いた事故と関係があるとは限らない。


 喧嘩だったという話自体、ただの噂かもしれない。


 それでも、さっきまでより少しだけ気になった。


「こういうのは、面白がって広げない方がいいんじゃない?」


 綾乃が言った。


「本人の話だし」


「それはそうだな」


 ヴァシリオスも、そこは素直に頷いた。


 千綴も教科書へ目を戻す。


 その後、午前中のうちに、生徒会から昼休みに集まるよう連絡が入った。





 昼休みの生徒会室には、いつもより少し早く人が集まっていた。


 千綴が席についた頃には、悠司と鈴もそれぞれ昼食を広げている。向かいでは会長が手元の資料に目を通しながら、合間に箸を動かしていた。


「じゃあ、食べながらでいいから聞いて」


 会長が資料から顔を上げる。


「最近、一年生の事故の話が校内で広がってるみたい」


 千綴は箸を止めずに頷いた。


 午前中にも耳にした。事故で休んでいる。新辺で起きたらしい。喧嘩に巻き込まれたらしい。


 どこまでが本当なのかは分からなかった。


「学校で確認できてるのは、休日に事故に遭って、しばらく欠席するってことまで」


 会長はそこで一度区切った。


「喧嘩だったとか、誰かに殴られたとか、そういう話は確認されてない。だから、生徒会から何か説明する必要はないけど、面白半分で広げてるのを見かけたら軽く止めて」


「噂を消せ、ってことではないんですよね?」


 鈴が確認する。


「うん。そういうことじゃない」


 会長はすぐに答えた。


「事故に遭った本人がいる話だから。戻ってきたときに、本人の知らないところで話だけ大きくなってたら嫌でしょ」


「まあ、そうだな」


 悠司が短く返す。


 千綴も頷いた。


「確認できてないことは広げないで、本人のことも勝手に話題にしないようにする。それくらいでいいですか?」


「そう。それで十分」


 会長はそう言って、また手元へ視線を落とした。


「先生たちも見てるから、生徒会が前に出る話じゃないよ。耳に入ったときだけ気をつけて」


「了解」


 千綴が答えると、悠司と鈴もそれぞれ頷いた。


 それで話はひとまず終わった。


 会長は残っていた昼食を手早く済ませると、机の上の資料をまとめ始めた。


「悪い、このあと別件があるから先に出る」


「また?」


 千綴が思わず言う。


「また」


 会長は悪びれた様子もなく返し、資料を抱えて立ち上がった。


「何かあったら連絡して」


「はい」


 鈴の返事を聞きながら、会長はそのまま扉へ向かう。


「じゃ、よろしく」


 扉が閉まる。


 少し遅れて、廊下を歩いていく足音も遠ざかっていった。


 千綴は閉じた扉を見たまま、箸を持ち直す。


「……会長、相変わらず忙しそうね」


「いる方が珍しいからな」


 悠司が言う。


「ちゃんと昼ごはん食べてただけ今日はマシじゃないですか?」


 鈴の言葉に、千綴は少しだけ笑った。


「それ基準にしていいのかな」


「よくないと思います」


 即答だった。


 悠司が食事へ戻りながら口を開く。


「でも、噂の方は一応言っといた方がいい奴いるんじゃないか?」


「誰?」


「ヴァシ」


 千綴は一瞬だけ考えてから、朝の教室を思い出した。


 最近の新辺がどうだとか、駅前で見かけた人の話だとか、意味の分からない落書きだとか。妙な熱量で次々と話していたヴァシリオスの顔が浮かぶ。


「ああ……」


「ヴァシ、こういう話よく拾ってくるだろ」


「うん」


「なら一回言っといた方がいいんじゃないか。面白がって広げるなって意味じゃなくて、学校の話と外の噂を混ぜないように」


 千綴は箸を置いた。


「そうね」


 ヴァシリオスが悪意を持って噂を広げるとは思わない。


 ただ、面白そうな話を見つければ持ってくる。それ自体は、いつものことだった。


「私から言っとく」


「お願いします」


 鈴がそう言って、残っていた昼食へ戻る。


 千綴も再び箸を取った。


 生徒会室の外では、昼休みのざわめきが続いている。


 確認されているのは、事故に遭った生徒が休んでいることだけ。


 それ以上は、まだ噂だった。


 千綴はその線を頭の中でもう一度引き直してから、食事を続けた。






 会長が出ていったあと、生徒会室には三人分の食事の音だけがしばらく残った。


 千綴は箸を動かしながら、ふと思い出したように鈴を見る。


「そういえば、エレディトの方はどう?」


「エレディトくんですか?」


「うん。最初は鈴がいろいろ案内してたでしょ」


 鈴は一度考えるように目を上げた。


「もう、ほとんど手助けしなくても大丈夫そうですよ」


「そんなに?」


「はい。教室のことも移動も、だいぶ慣れてますし。分からないことがあっても、近くの人に聞いてます」


 千綴は小さく頷く。


 以前、廊下を同学年の男子生徒と歩いていた姿を思い出した。


「私も最近、普通に同級生と歩いてるの見た」


「早いですよね」


「ほんとにね」


 鈴が少し笑う。


「最初はもっと時間かかるかなって思ってたんですけど」


 その横で、悠司が食事の手を止めた。


「俺もこの前見たな」


「エレディト?」


「ああ」


 千綴が悠司を見る。


「どこで?」


「校舎の中。俺が移動してるとき」


 悠司はそれだけ言ってから、少し思い出すように視線を外した。


「同じ学年っぽい奴と話してた。別に困ってる感じでもなかったぞ」


「へえ」


「普通だった」


 短い言い方だったが、それで十分だった。


 千綴の知らないところでも、エレディトは学校の中で少しずつ自分の居場所を作っているらしい。


 生徒会室で初めて会ったときの、まだ学校へ来たばかりだった姿とは違う。


 だからこそ、学食で見せた一瞬の反応が少しだけ引っ掛かる。


 けれど、それと今ここで聞いた話は別だ。


 学校生活に馴染んでいることまで、何かと結び付ける必要はない。


「なら、ひとまず大丈夫そうね」


「はい」


 鈴が頷く。


 悠司もそれ以上は何も言わず、食事へ戻った。


 千綴も残っていた昼食へ箸を伸ばす。


 そのとき、廊下の向こうで予鈴が鳴った。


「あ」


 鈴が時計を見る。


「戻らないと」


「そろそろ行こう」


 千綴が立ち上がる。


 三人でそれぞれ昼食の片付けをし、机の上を整える。


 悠司が先に扉を開けた。


「じゃあ、また」


「うん」


「はい」


 三人は生徒会室を出て、それぞれの教室へ戻っていった。






 次の休み時間。


 千綴は教科書を閉じると、そのまま斜め前の席へ視線を向けた。


「ヴァシリオス」


「ん?」


 呼ばれたヴァシリオスが振り返る。


「ちょっといい? 一年生の事故の噂のことで」


「ああ」


 今度はすぐに通じた。


「昼に生徒会で話があって。学校で確認できてるのは、休日に事故に遭って休んでるってことだけだって」


「ふむ」


「喧嘩に巻き込まれたとか、殴られたとか、その辺は確認されてないから。面白半分に広げないようにって」


 ヴァシリオスは一度だけ頷いた。


「了解」


 拍子抜けするほど素直な返事だった。


「本人が戻ってきたときに変な話だけ広がってても困るしな」


「そういうこと」


「じゃあ一年生の件は触らん」


「うん」


 それで話は終わるはずだった。


 ヴァシリオスが机に肘をつく。


「……ただ」


「何」


「事故そのものとは別に、最近の新辺はやっぱり何かある」


 千綴は嫌な予感がして、少し目を細めた。


「何があるの」


「考えてみろ」


 ヴァシリオスが指を一本立てる。


「まず、軍人っぽい奴の目撃情報」


 二本目。


「駅前の不審人物」


 三本目。


「妙なセミナー」


 四本目。


「謎の教会」


 千綴は黙って見ていた。


「ここまで揃ったら、普通は一つの線を疑うだろ」


「疑わない」


「いや、疑う」


「疑わない」


「秘密組織だ」


「何でそうなるの」


 ヴァシリオスはもう止まらなかった。


「軍人がいる。人を集めるセミナーがある。正体不明の教会もある。つまり人員募集だ」


「全然つながってない」


「そして新辺は商業施設が多い」


「それが何」


「地下施設を隠すにはちょうどいい」


「急に地下が生えた」


 近くで聞いていた環が、机に頬杖をついたまま口を挟む。


「バカの頭の中だけにね」


「猫、静かにしろ。今いいところだ」


「どこが」


 ヴァシリオスは気にせず続ける。


「そこで超科学の研究をしてる」


「何の」


「まだ分からん」


「分からないんじゃん」


「だが軍人がいるなら兵器系だ」


「軍人かどうかも分からないって言ってたでしょ」


「可能性の話だ」


「可能性って言えば何でもいいと思ってない?」


 ヴァシリオスは少しだけ考えた。


「巨大ロボ」


「飛びすぎ」


「兵器、超科学、秘密組織。最終的にそこへ行くのは自然だろ」


「どこが自然なの」


 環が小さく欠伸をする。


「軍人が巨大ロボに乗って、謎の教会が操縦士を集めて、セミナーで訓練するんじゃない?」


「それだ!」


「乗るな」


 千綴がすぐに止める。


「猫、やるな」


「適当に言っただけ」


「新辺地下巨大ロボ説、かなり筋が通ってきた」


「一ミリも通ってない」


 千綴は額を押さえた。


 事故の噂を広げるな、という話はきちんと理解している。


 そこだけは問題ない。


 問題ないのだが、その直後にまったく別方向へ全力で走り出すのがヴァシリオスだった。


「待てよ。駅の8と7/11番線も入口を示してる可能性が――」


「ない」


「即答するな」


「ない」


「まだ仮説段階だぞ」


「仮説になる前に止めてるの」


 そのとき、教室の前方で何人かが立ち上がった。


 次の授業で使う教材を抱え、廊下へ出ていく。


 千綴も時計を見る。


「あ」


「ん?」


「次、移動でしょ」


 ヴァシリオスも時計を確認した。


「まずいな」


「そろそろ行かないと遅れる」


「続きは移動しながら――」


「しなくていい」


 千綴は教科書と筆記用具をまとめて立ち上がる。


 環もゆっくり席を立った。


「巨大ロボは置いていけ、バカ」


「まだ完成してないぞ」


「永遠に未完成でいい」


 三人はそのまま、教室を出る生徒たちの流れへ加わった。





 教室のざわめきの中で、聞き慣れた地名だけが妙に残った。


「新辺らしいよ」


 少し離れたところで話している同級生の声だった。


 エレディトは開いていた教科書から視線を上げる。


「事故なんだって」

「でも喧嘩に巻き込まれたって聞いたけど」

「どっちなんだよ」


 別の声が重なる。


 誰も確かなことを知っている様子ではなかった。


 事故。


 喧嘩。


 そして、新辺。


 その三つの言葉を頭の中で並べたとき、学食で聞いた話が浮かんだ。


 新辺駅の近くで、軍人のような人物を見たという投稿。


 写真はなかった。


 今回の事故についても、喧嘩だったという話まで本当なのかは分からない。


 それでも、同じ地名が続けば少し気になる。


 エレディトは教科書へ視線を戻したまま、ページの文字を追わずに考える。


 自分を探している者がいる、とまで考える材料はない。


 ただ、何も気にしないでいいとも思えなかった。


 聞こえてくる声へ、少しだけ意識を向ける。


「誰から聞いた?」

「別のクラスのやつじゃなかった?」

「いや、外で見たやつがいるって話じゃなかった?」


 話の出所すら曖昧だった。


 エレディトはそこで初めて、噂そのものではなく、どこから広がった話なのかを気にした。


 同じ話を聞いた人間が、他にも何を聞いているのか。


 新辺で最近何か変わったことがないか。


 学校の中で普通に聞ける範囲なら、少し意識しておいてもいい。


 大きく動くつもりはなかった。


 それでも、知らないままでいるよりはいい。


 エレディトは教科書の端へ指を添え、ゆっくりページをめくった。


 学校へ来てから、助けてもらうことの方が多かった。


 鈴にも、千綴たちにも。


 ここで暮らしていくなら、自分でも少しは周りを見なければならない。


 そう思った。


 小さく息を吐く。


 次に同じ噂を耳にしたら、今度はもう少しだけ聞いてみよう。


 それくらいなら、自分にもできる。





 宿題のノートを開いたまま、千綴はシャープペンを指先で転がしていた。


 机の端に置いたスマートフォンが震える。


 画面を見る。


 朝倉直嗣。


 千綴はすぐに手に取った。


「もしもし」


『俺だ。メッセージ見た』


「すみません。急ぎじゃなかったんですけど」


『分かってる。それで、何か気になることがあったのか』


 直嗣の声はいつも通りだった。


 千綴は一度、開いたノートへ目を落とす。


「大したことじゃないかもしれないんですけど」


『いい。話してくれ』


「新辺で、軍人みたいな人を見たっていう投稿があったらしくて」


『軍人?』


「はい。写真もなくて、見たっていうだけの話です。周りからも、本当に軍人なのかって突っ込まれてたみたいです」


『なるほど』


「それとは別に、うちの学校の一年生が事故で休んでるんです」


 直嗣は何も挟まなかった。


 千綴は続ける。


「学校から出てる話は、休日に事故に遭ったってことだけです。ただ、校内では新辺で喧嘩に巻き込まれたらしいって噂も出てて」


『それは確認された話じゃないんだな』


「はい。生徒会でも、確認されてないことを広げないようにって話になりました」


『分かった』


 そこで一度、会話が途切れる。


 千綴はスマートフォンを耳に当て直した。


「別に、その二つが関係あると思ってるわけじゃないです」


『ああ』


「でも、少し引っ掛かって」


『だったら、なんで俺に連絡した』


 千綴は少し黙った。


「……その引っ掛かりを、自分だけで流していいのか分からなかったからです」


『そうだろうな』


 直嗣の声に、疑うような響きはなかった。


『お前がこういう話を自分から持ってくるのは珍しい』


「そうですか?」


『そうだ』


 即答された。


 千綴はシャープペンを机へ置く。


『何もないなら、それでいい。だが、お前が気になったなら一応見る価値はある』


「でも」


『分かった。こっちでも少し調べてみる』


 千綴は一瞬、返事に詰まった。


「……すみません」


『謝ることじゃない』


「忙しいのに」


『相談しろと言ったのは俺だ』


 それを言われると、返す言葉がなかった。


「じゃあ、お願いします」


『ああ』


 ひとまず話が終わった。


 千綴は息を吐き、机の上のノートへ視線を戻す。


 そのまま通話を切ろうとしたところで、直嗣が続けた。


『ついでに一ついいか』


「はい?」


『最近、異能の方はどうだ』


 千綴の手が止まる。


「異能?」


『何か変わったことはないか。検査のときにも言っただろ。自分で使おうとしなくていいが、変な感覚があったら記録してくれって』


「ああ……」


 千綴は椅子へ背中を預けた。


 すぐには答えず、このところのことを思い返す。


 走っているとき。


 学校。


 生徒会室。


 そして、エレディト。


「一つだけ、あります」


『どんな感じだ』


「最近、学校に留学生が来たんです」


『留学生。名前は?』


「エレディト・ブラショヴェアヌです。一年生の男子で。近くにいたとき、ちょっと変な感じがして」


『変な感じっていうのは?』


 千綴は眉を寄せる。


「それが、うまく言えなくて」


 言葉を探す。


「目の前にいるのは一人なんです。でも、その人の輪郭の奥に、何かが何重にも重なってるみたいな」


 自分で説明していても、やはり分かりにくい。


「見えてるわけじゃないです。実際に何かが重なって見えたとかじゃなくて、そう感じたっていうか」


『危険な感じはしたか』


「いえ」


『気分が悪くなったり、圧迫感があったりは』


「それもないです」


『その感覚は一度だけか』


「最初にちゃんと近くで会ったときが一番はっきりしてました。その前にも、すれ違ったときに少し引っ掛かったことはあります」


 直嗣は少し間を置いた。


『分かった』


「これ、異能なんですかね」


『今の話だけじゃ決められない』


「ですよね」


『お前の異能自体、まだ何を拾ってるのか分かってない。だから、今みたいな感覚も情報として残しておいた方がいい』


「はい」


『他には何かないか』


 千綴はもう一度考えた。


「今のところは、それくらいです」


『なら、また同じようなことを感じたら連絡してくれ。できれば、どこで、誰に対して、どう感じたかも覚えておいてくれれば助かる』


「分かりました」


『無理に確かめようとはするなよ』


「しません」


『ならいい』


 千綴は机の上のノートへ目を戻した。


 軍人の噂。


 新辺で起きたという事故。


 エレディトから感じた、説明しにくい感覚。


 今は、それぞれを覚えておけばいい。


「じゃあ、また何かあったら連絡します」


『ああ』


「おやすみなさい」


『じゃあな』


 通話が切れる。


 静かになった部屋で、千綴はしばらくスマートフォンの画面を見た。


 やがてそれを机の端へ戻し、開いたままのノートを引き寄せる。


 一人で抱え込む必要はなくなった。


 千綴はシャープペンを持ち直し、途中だった問題へ視線を戻した。





 通話が切れたあとも、直嗣はしばらくスマートフォンを手にしたままだった。


 千綴から聞いた話を、頭の中でもう一度並べる。


 新辺で目撃された、軍人らしい人物。


 同じ新辺で事故に遭ったという一年生。


 そして、千綴が留学生に対して覚えたという違和感。


 直嗣は端末を操作し、新辺周辺の情報を拾い直した。


 軍人。


 それだけでは範囲が広すぎる。


 目撃されたという時期と場所を絞り、似た内容を追う。


 一件。


 少し離れて、もう一件。


 書き方も、見たという人物の表現も一致していない。


 軍人だった。


 軍人みたいだった。


 似た内容の書き込みがいくつか続く。


 その中に混じって、顔に傷があったように見えたというものも一つあった。


 数は少ない。


 写真もない。


 それでも、一件だけではなかった。


「……一件じゃないか」


 直嗣は小さく呟いた。


 完全な与太話として切り捨てるには、少しだけ数がある。


 直嗣は画面を切り替える。


 次に確認するのは、もう一つの話だった。


 留学生。


 エレディト・ブラショヴェアヌ。


 千綴が感じたものが異能による反応だと決まったわけではない。


 だが、検査でも千綴は視覚や聴覚とは別の何かを拾っていた。


 ならば今回の感覚も、情報として確認しておく価値はある。


 危険を感じたわけではない。


 体調にも変化はない。


 ただ、一人の人間に対して、一人ではないような重なりを感じた。


 直嗣は少し考え、組織側の照会系統を開いた。


 氏名を入力する。


 しばらくして、既存記録への該当が返った。


 直嗣の目が止まる。


「……あるのか」


 ゼロから調べる必要はなかった。


 ブラショヴェアヌ。


 異能に関係する歴史ある家系として、以前から記録されている。


 直嗣は表示された情報を順に追った。


 氏名。


 出身。


 家族構成。


 家系についての記録。


 そして、直近の更新。


 親族の失踪。


 一人ではない。


 直嗣の指が止まった。


 少し前までの記録から、さらに新しい情報へ移る。


 日本への留学。


 継見市。


 私立綾丘高等学校。


 滞在先。


「榊……?」


 見覚えのある姓に、直嗣は眉を上げた。


 表示された受け入れ先を確認する。


 間違いない。


 巴の家だった。


 直嗣は椅子へ深く座り直した。


 異能家系の人間が留学してきた。


 それだけなら、珍しくはあっても、それ自体が問題ではない。


 ただ、親族が失踪している。


 一方、新辺では軍人らしい人物の目撃情報が複数出ている。


 直嗣は画面に並ぶ情報を見た。


 ここで一つにまとめる必要はない。


 今は、それぞれを調べればいい。


 端末を操作し、追加調査の依頼を作る。


 新辺周辺で散見される不審人物の目撃情報。


 エレディト・ブラショヴェアヌの家系と、直近の親族失踪について。


 緊急対応ではない。


 現時点で、誰かが襲われると判断できる情報もない。


 だからこそ、確認できるうちに確認する。


 直嗣は内容を読み返し、送信した。


 画面上に受付の表示が出る。


 始まりは、写真すらない噂だった。


 だが、千綴が引っ掛かりを覚え、調べてみれば別の情報も出てきた。


 少なくとも、ここで調査を止める理由はなかった。


 直嗣は端末から手を離した。


2026/08/16 通読性向上

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