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新辺の街は、人が多かった。
駅前の信号が青へ変わるたび、歩道の端に溜まっていた人波が大きくほどける。学生、買い物袋を提げた男女、駅へ急ぐ会社員。交差点へ流れ込んだ人影が、向かい側の商業施設や脇道へ次々に吸い込まれていった。
男は、その流れから半歩だけ外れたところを歩いていた。
急ぐ様子はない。それでも足は止まらず、正面を向いたまま視線だけが細かく動く。
道路の向こう側。建物と建物の隙間。店先に立つ人影。路地へ入っていく自転車。交差点へ差しかかる車列。
角を一つ過ぎるとき、男の目が店舗のガラスをかすめた。磨かれた窓には、背後の歩道と行き交う人間が薄く映っている。振り返ることなく、それを確かめて通り過ぎる。
向かいから学生の集団が広がって歩いてきた。
男は歩調を変えず、わずかに進路をずらした。肩が触れることもなくすれ違い、騒がしい声だけが後ろへ流れていく。
誰も振り返らない。
男の顔には、いくつもの傷があった。浅く消えかけたものに混じって、ひときわ大きな一本が顔を走っている。
その周囲だけではない。肌の一部には、日に焼けたとも血色が悪いとも違う、ごくわずかな色のずれがあった。
男は歩きながら、指先で大きな傷の端へ触れた。
確かめるように一度なぞり、すぐに手を下ろす。
駅前から離れるにつれて、人の密度が少しずつ薄くなっていった。大きな通りから脇へ延びる道。建物の高さが揃わなくなる境目。人の流れが二つに割れ、片方だけが急に細くなる場所。
男の視線は、店の看板にも案内表示にも長く留まらなかった。
代わりに、路地の奥へ届く明るさを見た。車が一台入れば人が避けるしかない幅を見た。建物の陰に隠れて、通りから見えなくなる位置を見た。
知らない街を歩く人間の目ではなかった。
どこから入れるか。
どこへ抜けられるか。
人の目がどこまで届き、どこから途切れるか。
それだけを、歩きながら拾っていく。
やがて男は通りの端で足を止めた。
信号待ちでも、店を探しているわけでもない。ほんの数秒、行き交う人々の向こうへ目を向ける。
新辺の街並みが続いていた。
知らない土地。知らない人間。
男にとって、そのこと自体に意味はないらしかった。
遠くで車のクラクションが鳴る。脇を通り過ぎた自転車のベルに、歩行者が少しだけ道を空けた。
男はまた歩き出す。
雑踏へ戻る直前、指先がもう一度だけ顔の傷へ触れた。
その姿はすぐに人波へ紛れ、駅前から続く街の中へ消えていった。
朝の教室には、二学期の空気がすっかり馴染んでいた。
窓から入る風はまだ少しぬるい。それでも、休み明け特有の浮ついた声はもう薄く、机の上には教科書やノートが当たり前のように並んでいる。席につく者、友人の机に寄って話す者、鞄だけ置いて廊下へ出ていく者。始業前のざわめきも、夏休み前と変わらない形へ戻りつつあった。
千綴は自分の席で教科書を鞄から出し、机の端へ重ねていく。
前の席では、一緒に登校してきた綾乃が鞄の中を整理していた。ペンケースを机へ置き、出しかけたノートを一度戻してから、今度は別の教科書を取り出している。
二学期が始まったばかりの頃には、教室のあちこちで夏休みの話が続いていた。
今はもう、授業が始まり、昼になり、放課後にはそれぞれ部活や生徒会、バイトへ向かう。そんな一日の流れの方が、先に身体へ戻っていた。
千綴が次の授業で使うノートを机の中へ入れたとき、廊下から少し大きな笑い声が聞こえた。
何となく顔を上げる。
開いたままの前扉の向こうを、一年生らしい男子が三人通り過ぎていく。その中に、見覚えのある明るい髪が混じっていた。
エレディトだった。
隣を歩く生徒が何かを言いながら手を振る。エレディトは一度そちらを見て返事をし、もう一人が続けて何かを言うと、今度は三人まとめて笑った。
足を止めることもなく、そのまま廊下の先へ消えていく。
千綴は一瞬だけその方向を見た。
「早いね」
前の席の綾乃が振り返る。
「何が?」
「エレディト。もう普通に友達できてるみたい」
綾乃も廊下の方へ目を向けたが、当然もう姿は見えない。
「ほんとだ。馴染むの早いね」
「ね」
二学期初日、鈴に案内されて生徒会室へ来たときは、まだ学校へ来たばかりだった。それが今では、同じ学年の生徒と並んで歩き、自然に笑っている。
その変化に気づいただけで、千綴はそれ以上考えなかった。
机の上へ視線を戻し、開きかけていた教科書を引き寄せる。
ほどなく予鈴が鳴った。
廊下に出ていた生徒が戻り、机の間に立っていた者もそれぞれ自分の席へ散っていく。綾乃も前を向き、教室のざわめきが少しずつ低くなった。
さっきまで廊下にあった笑い声は、もう聞こえない。
代わりに、廊下の向こうから教師の足音が近づいてくる。
千綴は教科書のページを開いた。
昼休みの食堂は、教室とは違う種類の騒がしさに包まれていた。
食器の触れ合う音に、椅子を引く音。注文を受ける声と、空いた席を探して歩く生徒たちの話し声が重なっている。窓際はすでに埋まり、中央の長机にもいくつもの鞄が置かれていた。
千綴はトレーを両手で持ち、人の間を縫うように進むヴァシリオスの背中を追った。前では綾乃が、肩越しに奥の席を見ている。
「空いてるか?」
「奥ならありそう」
綾乃が答えたところで、ヴァシリオスが急に足を止めた。
「お」
その視線の先、一つだけ空いた椅子を挟んで、一人で食事をしているエレディトがいた。
すでに箸を動かしていたエレディトが、聞き慣れた大声に顔を上げる。
「エレディト!」
「ヴァシリオス先輩」
ヴァシリオスは空いている席を顎で示した。
「ここ、座っていいか?」
「はい」
返事を聞くと、そのまま向かいへトレーを置く。千綴と綾乃も続き、四人分の食事が一つのテーブルへ並んだ。
「こんにちは」
綾乃が先に声をかける。
「こんにちは、千綴先輩。綾乃先輩」
エレディトが軽く頭を下げる。
今日の通常メニューは、ご飯とみそ汁、小鉢に、三種類から選ぶ主菜。千綴の前には唐揚げ、綾乃は野菜炒め、ヴァシリオスはトンカツを選んでいた。
ヴァシリオスが箸を割りながら、エレディトの皿を見る。
「学食、もう慣れたか?」
「はい。何度か来ています」
「何がうまい?」
エレディトは少し考えてから、自分の皿へ目を落とした。
「まだ全部は食べていません」
「じゃあ全部食べないとな」
千綴がみそ汁の椀を置きながら顔を上げる。
「なんで?」
「比較できないだろ」
「別に比較しなくていいでしょ」
「一番を決めるなら必要だ」
「決める必要ある?」
「ある」
迷いのない返事と一緒に、ヴァシリオスがトンカツを一切れ口へ運ぶ。
エレディトが吹き出すほどではない、小さな笑いを漏らした。綾乃も箸を動かしながら肩を揺らす。
「そういうところだけ無駄に真面目だよね」
「食事は大事だぞ」
「そこじゃないと思う」
綾乃がそう返し、話はそのまま別のことへ流れていった。
食事が半分ほど進む頃には、会話にも小さな間が増えていた。誰かが話し、誰かが食べ、その間に周囲の声が戻ってくる。
ヴァシリオスは空いた手でスマートフォンを取り出した。
「また何か見てるの?」
綾乃が小鉢へ箸を伸ばしながら訊く。
「ん?」
「その顔、だいたい変な記事見てるときの顔」
「今日は普通だぞ」
画面を何度か指で送る。
「世界の金持ちランキング」
「それが普通なの?」
「流れてきた」
千綴は唐揚げを一口食べながら、特に気にせず画面の動きを横から眺めた。写真と名前、数字の並んだ記事が次々に流れていく。
その指が、途中で止まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
ヴァシリオスは画面を少し近づけた。
「じいちゃんいる」
「え?」
綾乃が身を乗り出し、千綴もつられて覗き込む。
記事の中には、年配の男性の写真と、その横にいくつかの肩書きや説明が並んでいた。
「ほんとに?」
「ああ。じいちゃんだ」
ヴァシリオスの声は、驚くほどいつも通りだった。
綾乃が画面と本人を見比べる。
「これ、かなりすごい人じゃない?」
「そうなのか?」
「そうなのかって」
「有名なのは知ってるぞ。家にテレビも来てたし」
「それでその反応なの?」
「家がでかいのも知ってる」
千綴が思わず口を挟む。
「そういう話じゃないと思う」
ヴァシリオスは首を傾げたまま、もう一度記事を見る。
「俺には普通のじいちゃんだからな」
その言い方に気負いはない。少なくとも千綴には、本当にその程度のこととして話しているように見えた。
「ほら、これもじいちゃんだ」
関連写真を開いたらしく、画面に何人かが並ぶ写真が出た。
「あ」
綾乃がその中の一人を指差す。
「この人、見たことある」
「知り合いか?」
「違うよ。テレビ。発明とか、新しい発見とか、そういうので出てた人じゃなかったっけ」
「へえ」
ヴァシリオスは一度その人物を見たが、すぐに興味を失ったようだった。
「じいちゃんの知り合いなのかな?」
「一緒に写ってるなら、そうかもね」
綾乃もそれ以上は気にせず、箸を戻した。
ヴァシリオスが画面を送ると、写真はそのまま消えた。
次に出てきたのはスポーツの記事。その次は、海外の祭りらしい短い動画。そこからさらに指を滑らせていくうちに、新辺で見かけた人物について書かれた短い投稿が表示された。
「そういや、こんな投稿もあったぞ」
「今度は何?」
綾乃が半分ほど残った野菜炒めへ視線を戻す。
「新辺に軍人みたいな奴がいるらしい」
ヴァシリオスが画面へ目を落とす。
「『そういえばこの前、駅の近くで軍人っぽい人見かけたわ。マジで存在感はんぱねぇ』だって」
向かい側で、エレディトの箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
視線だけがヴァシリオスのスマートフォンへ向く。
「軍人、ですか?」
「そう書いてあるな」
エレディトの視線が画面に留まる。
「写真は?」
「ない。見たって話だけ」
「そうですか」
短く返し、エレディトは再び箸を動かした。
ヴァシリオスはそのまま画面を少し下へ送る。
「しかもリプで結構言われてるな。『それただの外国人だろ』とか、『軍人ってどうやって分かんだよ』とか」
「まあ、写真もないならそうなるよね」
綾乃が苦笑する。
「だな」
ヴァシリオスも特に気にした様子はなく、画面を閉じた。
千綴も食事へ戻る。
目の前では、エレディトももう普通に箸を動かしている。さっきの反応も、気になった言葉へ少し意識が向いただけと言われれば、それで終わる程度のものだった。
それでも千綴の中には、ほんの一瞬だけ止まった箸と、写真の有無を確かめた声が残った。
午後の授業が始まってからも、昼休みのことが頭に残っていた。
正確には、話そのものではない。
エレディトが一瞬だけ箸を止めたこと。ヴァシリオスのスマートフォンへ視線を向け、写真があるのかを確かめたこと。
黒板へ新しい式が書き足される。
千綴も遅れないようにノートへ写した。教師の声は聞こえているし、手も動いている。それでも、数行進んだところで、自分がさっき書いた文字を見返す。
途中が一つ抜けていた。
隣の行へ目を移し、黒板を見直して書き足す。
気づけば、また昼休みの場面を思い出していた。
気になった言葉へ反応しただけかもしれない。
写真があるか訊いたのも、ただ興味を持ったから。それで説明はつく。
千綴はそう考えて、いったん意識を授業へ戻した。
教師がページをめくる。
教室のあちこちで紙の擦れる音が重なり、千綴も少し遅れて教科書を開き直した。
しばらくは問題なく進む。
けれど、何かの拍子にまた浮かぶ。
二学期初日、生徒会室で近くに立ったエレディトから感じた、説明しにくい感覚。
一人しかいないはずなのに、輪郭の奥へ何かが幾重にも重なっているように感じた。
あのときも、危険だとは思わなかった。
今日の反応と関係があるのかも分からない。
何も関係がない可能性だってある。
千綴はシャープペンを持ち直した。
自分だけで決めつけるには材料が足りない。かといって、気のせいで済ませるには、少しだけ引っ掛かる。
そのまま答えの出ないまま、午後の授業は進んでいった。
チャイムが鳴った。
千綴は顔を上げる。
「――じゃあ、今日はここまで」
教師が教科書を閉じ、教室の空気が一気にほどける。椅子を引く音が重なり、鞄を開く音や話し声が戻ってきた。
千綴は黒板を見た。
いつの間にか、最後の授業まで終わっている。
「ちづる」
前の席から声がして、顔を上げる。
綾乃がこちらを振り返っていた。
「今日どうしたの?」
「何が?」
「なんかずっとぼーっとしてたよ」
千綴は一度、自分の開いたままのノートへ目を落とした。
「……そう?」
「そうだよ。体調悪い?」
「いや、そんなんじゃない」
ノートを閉じ、教科書と一緒に鞄へ入れる。
「ちょっと考え事してただけ」
「ならいいけど」
綾乃はまだ少し心配そうだったが、千綴が立ち上がると、それ以上は追わなかった。
「今日はバイトあるから、もう行くよ」
「うん。無理しないでね」
「大丈夫だって」
そう返して、千綴は教室を出た。
丘平商店に着く頃には、頭を切り替えたつもりだった。
着替えて店へ出る。
棚の前へ立ち、商品の向きを揃える。空いたところを確認して、補充するものを手に取る。客が来ればレジへ入り、会計が終わればまた売り場へ戻る。
いつもの仕事だった。
だからこそ、自分でもすぐに分かった。
「千綴」
「はい」
「そこ」
巴に呼ばれ、千綴は手元を見る。
並べ直したはずの商品が、一つだけ違う向きで置かれていた。
「あ」
「さっきから何回目?」
「……すみません」
「謝ればいいって話じゃないよ」
「はい」
千綴はすぐに向きを直した。
一度深く息を吐き、棚全体を見直す。
今度こそ集中する。
そう決めて、次の作業へ移った。
数分後。
補充用の商品を持って別の棚へ向かおうとしたところで、また巴の声が飛んだ。
「千綴」
足を止める。
今度は返事をする前に振り返った。
巴は腕を組んでいるわけでも、怒った顔をしているわけでもなかった。ただ、千綴をまっすぐ見ていた。
「今日はもう帰りな」
「え」
「そんな状態で仕事されても困る」
「いや、もう大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言ってるの」
強い声ではなかった。
それでも千綴は言い返せなかった。
さっきから自分が何度も細かいミスをしていることは、自分でも分かっている。このまま続けて、もっと大きな間違いをしたら、その方が迷惑になる。
手にしていた商品を元の場所へ戻す。
「……分かりました」
千綴は頭を下げた。
「すみません」
「ちゃんと休んで、次は普通に来な」
「はい」
それ以上、巴は何も言わなかった。
着替えて店を出る。
まだ帰る予定ではなかった時間の商店街を、一人で歩き始めた。
仕事中に考え事を引きずったのは、自分が悪い。
次からはちゃんと切り替える。
そう決めても、昼休みに見たエレディトの一瞬の反応だけは、まだ頭のどこかに残っていた。
風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、千綴は自分の部屋へ戻った。
夕食も、明日の準備も済んでいる。
机の上には教科書と手帳、その横にはスマートフォンが置いてあった。
千綴はベッドの端へ腰を下ろし、スマートフォンを手に取る。
画面を点けて、連絡先を開いた。
名前を探す必要はなかった。
朝倉直嗣。
表示された名前を見たまま、指が止まる。
検査の日程について連絡をもらったときには、この連絡先でやり取りをした。検査の日には一緒に施設へ行った。
それからは、個人的には連絡していない。
何かあれば相談していい。
そう言われてはいる。
けれど、直嗣が忙しい人なのも知っている。
千綴は一度、通話の表示へ指を近づけた。
そこで止める。
昼休みに見たのは、エレディトが少し反応したというだけだ。
軍人らしい人物の噂も、写真すらないSNSの目撃談でしかない。
それだけで電話をかけるのは、さすがに大げさな気がした。
画面を一度閉じる。
数秒して、また開く。
今度はメッセージの画面へ移った。
すぐには文字を打たず、空欄の入力欄を見つめる。
標本家の件でも、最初から全部が分かっていたわけではない。
今回も、エレディトの反応と、生徒会室で感じたあの妙な感覚に関係があるのかは分からない。何の関係もないかもしれない。
それでも、自分だけで何でもないと決めてしまうのは違う気がした。
千綴は親指を動かした。
『お疲れさまです。少し相談したいことがあるんですが、時間のあるときに連絡もらえますか』
打ち終えた文章を一度読み返す。
少し迷ってから、送信する。
短い振動とともに、自分のメッセージが画面へ表示された。
千綴はそのまましばらく見ていた。
すぐに返信が来るとは限らない。
来たとしても、今日はもう遅いかもしれない。
スマートフォンを伏せ、机の上へ戻す。




