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空の結び目  作者: 夕花
17/29

- 17 -

 二学期初日の教室は、朝から少しだけ騒がしかった。


 夏休みの話をまだ続けている声。提出物を鞄から探す音。開いた窓から入る風は九月になってもぬるく、机の上のプリントを揺らしている。


「ちづる、これ後ろ回して」


「はい」


 綾乃から受け取った紙を後ろへ渡す。


 千綴の机にも、すでに何枚かの配布物が重なっていた。


「初日から多いね」


「毎回こんなもんでしょ」


「休み明けだから多く見える」


「それはあるかも」


 綾乃が一枚ずつ確認し始める。


 その向こうでは、環がヴァシリオスの机に置かれた何かを覗き込み、すぐに興味をなくしたように顔を背けていた。


 休みを挟んでも、教室の空気はあまり変わらない。


 前の扉が開く。


「席着けー」


 山田の声に、生徒たちがそれぞれの席へ戻った。


 出席を取り、提出物を確認すると、二学期最初の連絡は学校行事、委員会、今月の予定へと続いた。千綴も必要なところだけ手帳へ書き込んでいく。


「あと一つ」


 山田が手元の紙へ目を落とした。


「二学期から、交換留学生を一人受け入れることになった」


 何人かが顔を上げる。


「うちのクラス?」


「いや、一年」


 少し広がりかけたざわめきが、それだけで落ち着いた。


「どこから来るんですか?」


「ルーマニア。ヨーロッパの東の方だな」


「へえ」


 短い声が返る。


 千綴の手が止まった。


 ルーマニアと聞いて、夏休みの終わりに見かけた青年が頭に浮かんだ。


 早朝の道で二度すれ違った、明るい髪の青年。


 その後、この学校で教師と一緒に歩いているところも見た。


 交換留学生かもしれない。


 あの時は、そこまでしか分からなかった。


「市の国際交流の一環だ。校内で困ってたら、普通に手を貸してやってくれ」


 山田はそれ以上話を広げず、次の連絡へ移った。


 教室の関心もすぐに別のものへ流れていく。


 千綴も手帳へ視線を戻した。


 まだ、あの青年だと決まったわけではない。





 二限の休み時間。


 千綴が飲み物を買って教室へ戻ると、ヴァシリオスがスマートフォンを見ながら環に何かを話していた。窓側には休み時間のざわめきが残り、机の間を行き来する生徒の声が重なっている。


「そういえば、新辺も外国人増えたよな。駅前とか、前より見る」


 ヴァシリオスが画面から顔を上げた。


「市の交流事業じゃない?」


 綾乃が横から言った。


「学校にも来たくらいだし」


「まあ、それだと思うけど」


 ヴァシリオスが指で画面を送る。


「前に話したサプリ、あれも最近また見るんだよな」


「ああ、新辺で流行ってるってやつ?」


 千綴が訊く。


「そう。SNSでも前より増えてる」


 画面を向けられ、千綴は少しだけ覗き込んだ。


 商品そのものを大きく写した投稿ではない。名前もよく分からない。ただ、短い書き込みの中に、それらしい話題が何度か混ざっている。


「……関係あると思ってる?」


「分からん。たまたまかもしれない」


 ヴァシリオスが画面を戻し、そのままスマートフォンを机へ伏せた。時期が重なって見えるだけで、それ以上の根拠はない。


「まあ、俺はよく分からんものよりプロテインでいい」


「まだ飲んでるの?」


 千綴が訊く。


「当然」


 ヴァシリオスが胸を張る。千綴はその様子を少し眺めてから言った。


「全然変わってないな」


「変わってる!」


「どこが?」


「見ろ、この辺」


「分かんない」


「見る気あるか?」


「ない」


 環が横で吹き出した。


「バカ、前も同じこと言ってた」


「積み重ねが大事なんだよ」


「見た目に出てない積み重ね」


「タマは黙ってろ」


 予鈴が鳴る。


 環は笑ったまま自分の席へ戻り、ヴァシリオスも不満そうにスマートフォンをしまった。


 サプリの話も、それで終わった。





 午前の授業が終わるチャイムが鳴った。


 教室の空気が一気にほどけ、弁当や財布を手にした生徒たちが動き始める。


「今日どうする?」


 綾乃が振り返った。


「生徒会室で食べようかな。悠司にも聞いてみる」


 千綴がスマートフォンを取り出す。


「じゃあ私も行く」


「俺も」


 ヴァシリオスが財布を掴み、環も当然のように立ち上がる。


「私も」


「結局いつものメンバーじゃん」


 綾乃が笑い、教室のあちこちで動き始めた生徒たちの間から弁当を取り出した。


 千綴が短くメッセージを送ると、すぐに返事が来た。


「悠司も生徒会室で食べるって」


「決まり」


 綾乃も弁当を持って立ち上がった。


「じゃあ売店寄ってから行こ」


 昼食を買う千綴、環、ヴァシリオスに付き合い、四人で売店へ向かった。


 昼休みの売店前はすでに人が多い。


 パンや弁当を手に取る生徒の間を抜け、千綴も並んだ商品の前へ進んだ。


「何これ」


 一つの弁当で手が止まる。


 ――深海魚(ダゴン)の唐揚げ弁当。


「深海魚?」


 環が横から覗き込む。


「食えるの?」


「売ってるんだから食べられるでしょ」


「おすすめです」


 カウンターの向こうから声がした。


 見慣れない人物が立っている。


 名札には、無亞(ナイア)とあった。


 その顔を見たヴァシリオスが、ふいに眉を寄せる。


「……九頭龍?」


「誰?」


 千綴が振り返る。


「いや……」


「無亞です」


 カウンターの向こうから淡々と返された。


 ヴァシリオスが一瞬黙る。


「……ですよね」


 環が吹き出した。


「何してんの、バカ」


「いや、似てたんだよ」


「誰に?」


「だから九頭龍に」


「知らないって」


 千綴はそこで話を切り、唐揚げ弁当を手に取った。


「私はこれにする」


「本当に買うんだ」


「気になるし」


 会計を済ませる。


 売店を離れる頃には、ヴァシリオスももう何も言わなかった。


 生徒会室へ着くと、悠司が先に来ていた。


「お疲れ」


 悠司が顔を上げる。


「お疲れ。遅かったな」


「売店混んでた」


「あとヴァシリオスが変なこと言ってた」


 環が鞄を椅子の背へ掛けながら、すぐに付け足す。


「余計なこと言うな」


「何したんだよ」


 悠司が笑い、千綴たちが持ってきた昼食へ目を落とす。


「後で話す」


「話さなくていい」


 綾乃が空いている椅子を引き、五人で机を囲めるように整えた。





 千綴が弁当の蓋を開けると、綾乃がすぐに覗き込んだ。


「普通だ」


「何を期待してたの」


 衣のついた唐揚げがいくつか並んでいる。


「それが深海魚?」


「らしい」


 千綴は一つ口へ運んだ。


 少し弾力はあるが、味付けは普通の唐揚げだった。


「どう?」


「普通においしい」


「じゃあ一個ちょうだい」


「やだ」


「即答」


 綾乃が笑いながら自分の弁当へ戻る。窓から差す昼の光が、机の上に並んだ弁当箱の蓋を白く照らしていた。


 向かいでは、悠司がさっきの話を思い出したようにヴァシリオスを見る。


「で、売店で何があったんだ?」


「別に何もない」


「九頭龍がいたって」


 環が言った。


「だから、いたとは言ってない。似てたんだよ」


「誰だよ、九頭龍って」


 悠司が眉を寄せる。


「前に見たことあるやつ」


「それを売店の人と見間違えた?」


「見間違えたというか――」


「名札は無亞だったよ」


 千綴が唐揚げを食べながら言う。


「ほら」


「いや、だから俺も分かってるって」


 箸を持ったままの四人の視線が、同時にヴァシリオスへ集まる。


 ヴァシリオスがそれに気づいて箸を止めた。


「……もういい」


「何だったんだよ」


 悠司が笑う。


「俺が聞きたい」


 それ以上、話は続かなかった。


 弁当を食べながら、夏休みの宿題の話や、二学期の予定へ話題が移っていく。


 食べ終えた容器が少しずつ片づき、昼休みも残り少なくなった頃だった。


 廊下から二人分の足音が近づいてくる。


 足音は生徒会室の前で止まった。


「ここが生徒会室です」


 扉の向こうから鈴の声がした。


 続いて、扉が開く。


「私も生徒会に入ってるので、何か困ったことがあったら――」


 鈴は机を囲む五人を見て、「あれ?」と目を瞬かせた。


「鈴、お疲れ」


「お疲れさまです、弥生先輩、守屋先輩。今日は皆さんでいるんですね」


 千綴が声を掛けると、鈴は室内を見回してから少し横へずれた。その後ろにいた青年が見える。


 明るい髪。


 夏休みの早朝、何度かすれ違った顔。


 青年も千綴を見た。


 二人の視線が止まる。


「あ」


 千綴の口から声が出た。


 青年が少し目を見開いた。


「……朝」


「やっぱり、あの時の」


 鈴が二人を交互に見る。


「知ってるんですか?」


「知ってるっていうほどじゃないけど。朝、何回かすれ違ってる」


「ぼくも、見ました」


 青年が言う。


 日本語は自然だった。


「そうだったんですね」


 鈴は少し驚いたあと、すぐに頷いた。


「お昼のあと、少し学校の中を案内してたんです。ここも、困った時に来られる場所なので」


「なるほど」


 千綴は青年を見る。


 近くで向き合うのは初めてだった。


 その距離になって、朝に感じた引っ掛かりがもう一度意識へ触れた。


 鈴の隣に立つ肩の位置も、制服の皺も、明るい髪の流れもはっきり見えている。目の前にいるのは、間違いなく一人だ。


 それなのに、意識を向けた時だけ、一人分の輪郭の奥へ何かが幾重にも重なっているように感じる。


 別々のものが混ざっているのか、一つの中にいくつもあるのか。それすら分からない。


 ただ、不快ではなかった。嫌な気配も、危険な圧迫感もない。


「弥生先輩?」


 鈴の声で、千綴は瞬きをした。


「ん? ごめん」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫。ちょっと考え事」


 もう一度確かめようとはしなかった。


 分からないなら、今はそれでいい。


「せっかくだし、挨拶していく?」


 鈴が青年へ訊く。


「はい」


 青年は姿勢を正した。


「エレディト・ブラショヴェアヌです。一年です。よろしくお願いします」


「弥生千綴。二年。よろしく」


 千綴も名乗り、それから少し考えた。


「エレディトでいい?」


「はい」


「じゃあ、エレディト。よろしく」


 悠司、綾乃、環、ヴァシリオスも順に名前を告げる。


 エレディトは一人ずつ顔を見ながら、小さく頷いていった。


 最後にヴァシリオスへ視線を戻す。鈴とエレディトはまだ扉の近くに立ったままで、机を囲む五人との間には少しだけ距離があった。


「あなたも、留学生ですか?」


 一瞬、部屋が静かになった。


「いや」


 ヴァシリオスが胸を張る。


「生粋の日本人。アイム・ジャパニーズ」


 エレディトが一度瞬きをした。


「日本語で分かります」


 環が先に吹き出し、綾乃も箸を止めて口元を押さえる。鈴は扉のそばで困ったように笑っていた。


「ヴァシリオス、恥ずかしい」


「なんでだよ。親切だろ」


「ぼく、日本語は大丈夫です」


 エレディトも少しだけ笑う。


「お、話分かるな」


 ヴァシリオスは椅子の背から身を起こし、さっきまでより明らかに近い調子で言った。


「よろしく、エレディト」


「よろしくお願いします」


「そこはもう少し軽くていいぞ」


「急に馴れ馴れしいな」


 悠司が横から言う。


「交流だよ、交流」


「便利な言葉にするな」


 机を囲んだ空気が少しだけほどける。エレディトもその輪の中で、表情を和らげていた。


「朝、走っていますね」


 今度はエレディトが千綴へ言った。


「そっちも。最近よく会うなとは思ってた」


「ぼくもです」


「毎朝?」


「だいたいです」


「じゃあまた会うかもね」


「はい」


 短いやり取りの間にも、先ほどの感覚は意識の端に薄く残っていた。一人なのに、一つにまとまりきらない。けれど、それが何なのかはまだ分からない。


 鈴が時計を見る。


「そろそろ戻った方がいいですね」


「はい」


 まだ初日で、次の授業の準備もある。


「じゃあ先輩たち、またあとで」


「うん」


「失礼します」


 エレディトも軽く頭を下げる。


 二人が廊下へ出ると、扉が閉まり、その向こうで足音が遠ざかっていった。


 初対面は、それだけだった。


「思ったより日本語普通だったね」


 綾乃が言う。


「ヴァシリオスより通じてた」


 環が続ける。


「どういう意味だ」


「そのまま」


 いつもの会話が戻る。


 千綴は空になった弁当箱を閉じた。


 さっき感じたものについては口にしなかった。自分でもまだ何だったのか分からず、近い距離から話した時に感じたことだけ覚えておけばいい。


 予鈴が鳴る。


「そろそろ戻ろう」


 悠司が立ち上がった。


 それぞれ椅子と机を戻し、昼食を片づけていく。


 千綴も弁当を鞄へしまった。


 廊下へ出る頃には、エレディトと鈴の姿はもう見えなかった。


 千綴はさっきの感覚を無理に形にせず、自分の教室へ戻った。





 終礼が終わり、教室から人が流れ始めた。千綴も鞄を肩へ掛け、廊下へ出る。


 窓の外から短い笛の音とボールを蹴る音が聞こえた。階段を下り、昇降口を出たところで何となくグラウンドへ目を向けると、何人かがサッカーをしている。その中にヴァシリオスの姿があった。


 大きな声を出しながら走り、少し離れたところへボールを送る。その先で受けたのは、明るい髪の一年生だった。


 エレディト。


 昼休みに生徒会室で会ったばかりの顔が、今はグラウンドを走っている。


 ボールを受け、近くの生徒へ返す。誰かに声を掛けられれば振り向き、短く答える。


 昼に見た時より、ずっと学校の中へ溶け込んで見えた。


 千綴はその様子を少しだけ眺めた。エレディトはこちらには気づかない。


 今日は丘平商店のアルバイトがある。


「あ」


 時間を思い出し、千綴はスマートフォンを見る。


 まだ遅刻するほどではないが、のんびりしている時間でもなかった。


 グラウンドから視線を外すと、背後でもう一度ヴァシリオスの大きな声が聞こえた。千綴は少し歩調を速め、学校を後にした。




 丘平商店へ着く頃には、午後の日差しも少し傾いていた。


 制服から着替え、エプロンをつける。


「店長、入ります」


「はいよ。千綴、先にそっちお願い」


「了解です」


 店内には、夕方前のゆるい客足が続いていた。


 千綴は空いた棚を確認し、商品を補充していく。冷蔵ケースの扉が開く音。レジの電子音。入口の引き戸が動くたび、外のぬるい空気が少しだけ入り込んだ。


 夏休み中とやることは変わらない。


 ただ、今日から学校が始まった分だけ、一日の長さが少し違って感じる。


 客が途切れたところで、千綴は段ボールを畳んだ。


 畳んだ段ボールをまとめ、千綴は店の奥へ運ぶ。


 戻ってくると、巴がレジ横の小物を整えていた。


「そういえば、今日、学校に交換留学生が来たんですよ」


「エレディト?」


 あまりに普通に名前が返ってきて、千綴の足が止まった。


「……知ってるんですか?」


「知ってるも何も、うちで預かってるよ」


「え?」


 巴が顔を上げる。


「市の受け入れ家庭のやつ。うちの空いてる部屋を貸してる」


 千綴は一度、店の奥へ視線を向けた。


 もちろん、そこから生活側が見えるわけではない。


 丘平商店で働いていても、今までエレディトを見かけなかった理由はそれで分かった。


「全然知らなかった」


「店と家は別だからね。千綴がこっちにいる時間に、わざわざ店まで来る理由もないし」


「確かに」


 昼休みに初めて名前を知った相手が、思っていたより近いところで生活していた。


 千綴は少し意外に思いながら、空いた買い物籠を重ねる。


「今日、学校で初めて話しました」


「どうだった?」


「普通に日本語上手でした。昼に少し話しただけですけど」


「そう。ならよかった」


 巴は短く頷いた。


「まあ、家の連中の方が大変だけど」


「大変?」


「息子ができたみたいに喜んでる」


 巴が小さく息を吐いた。


 嫌そうというより、少し呆れている顔だった。


「歓迎するのはいいんだけどね。ちょっと張り切りすぎ」


「店長は?」


「私も歓迎してるよ」


 巴はすぐに答えた。


「ただ、普通にしてた方が本人も楽でしょ」


「それはそうかも」


 千綴は笑う。


 入口の引き戸が開いた。


「いらっしゃいませ」


 二人の声が重なる。


 話はそこで途切れ、千綴は店の仕事へ戻った。




 外が暗くなる頃には、客足も落ち着いていた。


 最後の片づけを終え、千綴はエプロンを外す。


「店長、上がります」


「お疲れ。気をつけて帰りな」


「はい。お疲れさまでした」


 店の外へ出る。


 昼間の熱がまだ舗装に残っていたが、風は少しだけ軽くなっていた。


 商店街の照明が点き、閉まり始めた店のシャッターがところどころで音を立てている。


 千綴が鞄を持ち直した時、少し離れたところから足音が近づいてきた。


 一定の間隔で、舗装を蹴る音。


 走ってきた人影が街灯の下へ入る。


 明るい髪が見えた。


「あ」


 千綴が声を漏らす。


 相手も速度を落とした。


「弥生先輩」


「エレディト」


 昼に続いて、今日二度目の対面だった。


 エレディトは軽く息を整えながら、千綴の後ろにある丘平商店を見る。


「ここに、いたんですね」


「私、ここでバイトしてるから」


「そうなんですか」


「さっき店長から聞いた。エレディト、榊家(さかきけ)で預かってるんだって?」


「はい。お世話になっています」


 それだけ言って、エレディトは小さく頭を下げた。


「まさかこんな近くにいるとは思わなかった」


「ぼくもです」


 一拍置いて、千綴が言う。


「放課後、サッカーしてたね」


「見ていたんですか?」


「少しだけ。バイトがあったから、すぐ出たけど」


「ヴァシリオス先輩に誘われました」


 短い沈黙が落ちる。


 気まずいものではなかった。


 店の前を自転車が一台通り過ぎ、少し遅れてチェーンの音が遠ざかる。


「じゃあ、私は帰るね」


「はい。お疲れさまでした」


「エレディトも。走りすぎないように」


「気をつけます」


 千綴は片手を軽く上げ、その場を離れた。


 振り返らず、そのまま自宅の方へ歩いていく。




 千綴の姿が見えなくなってから、エレディトは一度だけ夜空を見上げた。


 学校の初日は、思っていたより静かに終わった。


 鈴は校内を案内してくれた。ヴァシリオスは放課後にサッカーへ誘ってくれた。昼に会った千綴たちも、必要以上に構えず接してくれた。


 知らない場所へ来た緊張が、少しだけ薄くなっている。


 昼、生徒会室で千綴と向き合った時、彼女の中にも普通とは違う何かを感じた。何なのかは分からない。


 それでも不思議と警戒する気にはならず、むしろ少し安心した。


 もちろん、すべてが軽くなったわけではない。


 知らない街での生活も、これからの学校も、まだ始まったばかりだ。


 エレディトは息を吐き、榊家の方へ歩き出した。


 玄関の明かりが見える。


 その灯りの下へ入り、扉を開けた。


2026/08/14 次話分と統合、それに合わせて全体の品質向上

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