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検査から戻った翌朝、千綴はいつもより早い時間に目を覚ました。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
まだ、目覚ましが鳴るまで少しある。
そのまま二度寝してもよかった。身体には昨日までの疲れが薄く残っているし、夏休みなのだから、誰に咎められるわけでもない。
けれど、千綴はしばらく天井を見たあと、布団を押しのけた。
「……起きるか」
椅子へ掛けておいたTシャツと短パンへ着替える。
昨夜のうちに用意したものだった。
机の上には、開いたままの宿題と筆記具。その隣には、夏祭りから持ち帰った赤い鈴が置かれている。
千綴の視線が一度だけ止まった。
自分には異能がある。
それはもう、あるかもしれないという話ではない。
ただ、何ができるのかはまだ分からない。
勝手に試さない。変な反応があれば覚えておく。危険な相手には勝とうとせず、見る、考える、逃げる。
二日間で教わったことを思い返しても、自分が急に何か特別な人間になった実感はなかった。
朝倉のようには戦えないし、フィンのように異能を扱えるわけでもない。
昨日の訓練で掴まれた手を一度外せたのも、教わった動きを手加減された相手へ試せただけだ。本当に危険な場面でも同じようにできる保証はない。
なら、できることをしておけばいい。
知ってしまった以上、もう二度と関わらないとは言い切れない。
何か起きてから、もっと体力をつけておけばよかったと思っても遅い。
千綴は髪をまとめ、玄関を出た。
少なくとも、走って逃げるために必要なものは異能ではなかった。
外には、まだ昼の暑さが来ていなかった。
湿気は残っているが、日差しは弱い。住宅地の道も静かで、遠くを走る車の音がいつもよりよく聞こえる。
千綴は建物の前で足首を回し、軽く身体を伸ばした。
どこを走るかは昨夜のうちに考えてある。
わざわざ知らない道を選ぶ必要はない。
アパートから幹線道路へ出て、中央交差点を越える。
その先の小公園を通り、学校へ続く坂を途中まで上って戻る。
歩けばどのくらい掛かるのかも、坂がどこまで続くのかも知っている。
だからこそ、始めるにはちょうどいいと思った。
「最初から飛ばさない」
自分へ言い聞かせるように呟いて、ゆっくり走り始める。
幹線道路へ出る頃には身体が温まり、中央交差点を越えたところで少し呼吸が深くなった。
まだ余裕はある。
朝の信号待ちは短く感じた。車は昼ほど多くなく、商店のシャッターも大半が閉じている。
小公園の横を通り過ぎる。
誰もいない滑り台の脇に、昨夜の雨でも残っていたのか、小さな水溜まりができていた。
その先に見えてきた坂を見上げたところで、千綴の足がわずかに鈍る。
「……これ、走ると結構あるな」
学校へ行くときには何度も上っている。
長さも傾斜も知っている。
それでも、すでに走ってきた身体で見ると、普段とは少し違って見えた。
千綴はそのまま坂へ入った。
最初のうちは大したことがない。
少し進む。
さらに進む。
呼吸が速くなった。
脚にも重さが出てくる。
歩いているときには気にもしなかった傾斜が、妙にはっきり分かる。
「……きつ」
思わず声が漏れた。
それでも上まで行こうと思えば行ける気はした。
学校までは、まだ先がある。それを知っているからこそ、妙な意地も出そうになる。
けれど、今日だけ走れればいいわけではない。
千綴は少し先にある標識まで進み、そこで足を止めた。
息を整えながら振り返る。
坂の下には、さっき通ってきた道が続いている。
「最初は、ここでいいか」
誰に聞かせるでもなく決めた。
無理をして距離を伸ばす必要はない。
まず続ける。
その方が、たぶん自分には合っている。
少し歩いて呼吸を整えてから、来た道を戻った。
部屋へ戻った頃には、背中までしっかり汗をかいていた。
冷蔵庫から水を出し、何口かに分けて飲む。
「思ったより疲れるな……」
それでも、嫌な疲れではない。
シャワーを浴び、朝食を済ませる。
机へ座ると、昨夜途中で閉じた宿題がそのまま待っていた。
数問進めたところでスマートフォンが震える。
生徒会の連絡だった。
二学期へ向けて確認しておきたい書類があるらしい。
返信を済ませ、予定を確認する。
午後からは丘平商店のシフトも入っている。
走ったからといって、一日が特別になるわけではなかった。
むしろ、それでいい。
千綴はシャープペンシルを持ち直し、次の問題へ目を落とした。
「これ、こっちでいいですか?」
「うん。その棚の下」
丘平商店の奥で、千綴は段ボール箱を抱え直した。
巴が商品を並べながら振り返る。
「今日なんか眠そうじゃない?」
「朝早かったので」
「珍しいね」
「ちょっと走ってました」
巴の手が止まった。
「走ってた?」
「ランニングです」
「急に健康志向?」
「そういうわけじゃないです」
箱を棚の前へ置く。
「検査で、逃げるのも大事って教わったんです」
「ああ」
「だから、できることくらいはやっとこうかなって」
巴はすぐには何も言わなかった。
千綴が顔を上げると、少し困ったような、それでいて呆れているような顔をしている。
「なにその顔」
「いや、千綴らしいなと思って」
「どういう意味ですか」
「真面目」
「普通でしょ」
「普通は検査から帰った次の日に走り始めないと思う」
「別に大したことしてないですよ」
千綴は次の商品へ手を伸ばした。
「走ってるだけですから」
「無理しないでね」
「しません」
即答すると、巴が眉を上げた。
「その返事、前にも聞いた気がする」
「今回は本当にしませんって」
「ならいいけど」
巴は笑い、また品出しへ戻った。
少しして店の戸が開く。
常連らしい年配の客が入ってきて、巴が「いらっしゃい」と声を掛けた。
千綴も箱を畳み、いつもの仕事へ戻る。
異能の検査を受けた翌日でも、店の中ではペットボトルの場所を訊かれ、レジ袋の要不要を確認し、夕方になれば学生や仕事帰りの客が増える。
そういう当たり前の流れが、今は妙にありがたかった。
夏休みは、そのまま少しずつ進んでいった。
机の端に積んでいた宿題は減った。
代わりに、生徒会から届く連絡には二学期という言葉が増えていく。
学校へ顔を出せば、休み中でも部活動の生徒や教師が出入りしていた。
「副会長、これ確認お願いします」
「そこ置いといて。先にこっち終わらせるから」
生徒会室では、休み前と大して変わらないやり取りをする。
書類を確認し、抜けているところへ付箋を貼る。
必要なものをまとめて教師へ渡す。
用事が終われば学校を出た。
スマートフォンが震えた。
『暇?』
綾乃からだった。
『今は暇』
『じゃあ出てきて』
『急だな』
『みんないるよ』
その一文を見て、千綴は時計を確認した。
少し迷ったものの、結局出掛けることにした。
待ち合わせた先では、綾乃と悠司、ヴァシリオスに加えて、環が日陰のベンチへ座っていた。
「ちづる、遅い」
「連絡来てからまだそんな経ってないでしょ」
「十分早いだろ」
悠司が言う。
その横で、ヴァシリオスはなぜか飲み物を二本持っていた。
「何それ」
「新作」
「二本も?」
「比較用」
「何と何を」
「同じ商品の味違い」
「それ一本ずつ買っただけじゃん」
環がヴァシリオスの手元を見て、眠そうな顔のまま言った。
「バカ、両方飲むの?」
「その予定だ」
「一口ちょうだい」
「もう狙ってるじゃないか」
「比較に協力してあげる」
「それはただ飲みたいだけだろ」
綾乃が笑う。
「西園寺さん、さっき自分の買ってなかった?」
「あれは自分の。これは比較用」
「都合いいなあ」
千綴も笑いながら歩き出した。
遊んで、食べて、どうでもいい話をする。
帰る頃には外が暗くなっていた。
部屋へ戻れば、机にはまだ宿題が残っていた。
丘平商店のシフトへ入れば、レジに立ち、商品を補充し、常連客と短い言葉を交わした。
そうしているうちに、休みの最初にはまだ遠く感じていた二学期が、少しずつ現実的な距離まで近づいてきた。
朝だけは、同じだった。
目を覚まして。
着替えて。
外へ出る。
最初に決めた道を走り、坂の途中で折り返して戻る。
毎回そこへ意味を持たせる必要もなくなった。
今日は走ろう、と考えてから起きることも減った。
朝になれば身体を起こし、支度をする。
繰り返すうちに、それが一日の始まり方として馴染み始めていた。
坂が楽になったとは、まだ言えない。
息も上がる。
汗もかく。
ただ、初日のように折り返し地点までの距離ばかり考えることはなくなった。
知っている道を、知っているところまで走る。
今はそれで十分だった。
その朝も、千綴は同じ道を走っていた。
中央交差点を越え、小公園の脇を抜ける。
夏休みの終わりが近づいても、昼間の暑さはほとんど変わらない。けれど、早朝の空気だけは少し薄くなった気がした。
蝉の声も、少し前より遠い。
千綴は呼吸を崩さない程度の速さで坂へ向かっていた。
折り返す場所も変わらない。
最近では、どの辺りで呼吸が深くなり、どこから脚が重くなるのかまで何となく分かる。
だから、正面から走ってくる人影にも、最初は特別な注意を向けなかった。
一人の青年だった。
自分より少し年下に見える。
明るい色の髪に、見慣れない顔立ち。
軽い運動着姿で、一定の速さを崩さずこちらへ向かってくる。
早朝に走っている者など珍しくない。
千綴は道の端へ少し寄った。
青年も同じように進路をずらす。
そのまますれ違う。
ほんの一瞬だった。
「……?」
千綴の足は動いたままだった。
何かを見たわけではない。
音でもない。
嫌な感じもしない。
ただ、意識の端へ何かが触れたような、説明しにくい引っ掛かりだけが残った。
数歩進む。
それから千綴は足を止めた。
振り返る。
青年は止まっていなかった。
一定の速さのまま、小公園の方へ走っていく。
こちらを振り返る様子もない。
「……何だろ」
見覚えがなかったから、気になっただけかもしれない。
この辺りに住んでいる人間を全員知っているわけではない。
それでも、ただ知らない顔を見ただけにしては、妙に印象が残った。
千綴はしばらくその背中を見送ってから、前を向いた。
自分でも分からないものを、勝手に異能と結びつける気はなかった。
分からないなら、分からないままでいい。
今は走る。
坂へ入り、いつもの場所まで進む。
その朝も、それ以上のことは起きなかった。
別の朝。
中央交差点の向こうから、また同じ青年が走ってきた。
今度は見つけた瞬間に、千綴にも分かった。
あのときの青年だ。
互いに足を止めることもなく、同じようにすれ違う。
前と違って、千綴はすぐには振り返らなかった。
しばらく走ってから、一度だけ後ろを見る。
青年の背中はもう小さくなっていた。
「近所……なのかな」
声に出してみても、答えは出ない。
少なくとも、一度だけ偶然見かけた人ではなくなった。
最近、この時間に走っている年下の青年。
千綴の中では、そのくらいの認識になった。
「そういえばさ」
テーブルの向こうでヴァシリオスが口を開いた。
五人で出掛けた日の昼過ぎだった。
食べ終えた皿は端へ寄せられ、綾乃は氷の減った飲み物をストローでかき混ぜている。環は窓側の席で頬杖をつき、外を歩く人をぼんやり眺めていた。
「二学期から、うちに交換留学生が来るらしい」
千綴が顔を上げた。
「交換留学生?」
「らしい」
「どこ情報?」
「そこは重要ではない」
「重要でしょ」
綾乃がすぐに口を挟む。
「中村くん、また誰かから聞いたの?」
「情報は自然と集まるものだ」
「噂話が好きなだけじゃない?」
「違う。情報収集能力が高い」
「バカの情報だから半分くらいで聞いとこ」
環が外を見たまま言った。
「タマ、それはひどくないか?」
「でも半分は信じてるよ」
「残り半分は?」
「バカ成分」
「何だそれ」
悠司が笑った。
「で、ヴァシ。どこの国から来るんだ?」
「そこまでは知らん」
「何年生?」
「知らん」
「男子? 女子?」
「それもまだ」
四人の視線が集まる。
ヴァシリオスが僅かに身を引いた。
「大事なのは、来るという事実だ」
「その事実もまだ噂でしょ」
千綴が言う。
「かなり確度は高い」
「誰基準?」
「俺」
「一気に怪しくなった」
「なぜだ」
綾乃が笑いながらストローから手を離した。
「でも、交換留学生なんて珍しいね。うち、そういうの今まであったっけ?」
「少なくとも私が入ってからは聞いてない」
千綴が答える。
悠司も少し考えてから首を振った。
「俺もないな」
環は頬杖をついたまま、少しだけ顔をこちらへ向けた。
「来たら面白そう」
「西園寺さんはそればっかり」
「だって面白そうじゃない?」
「だから話題になってるんじゃないか」
ヴァシリオスが得意げに言う。
「話題になってるなら、もう少し情報ありそうだけど」
「詳細はこれから集まる」
「後付けじゃん」
「情報は常に更新されるものだ」
「言い方だけはそれっぽい」
そのまま、何年生なのか、学校側から何か案内があるのか、といった話へ少しだけ広がった。
「副会長なら先に分かるんじゃない?」
綾乃が千綴を見る。
「生徒会に何でも情報が来るわけじゃないって」
「でも学校のことなら、何か回ってくるかも」
「まあ、生徒会で学校行ったら分かるかもね」
千綴はそう答えた。
それ以上は考えなかった。
まだ、本当に来るのかどうかさえ確認していない。
話題はすぐに別のものへ移った。
ヴァシリオスが頼んだ追加のデザートが予想以上に大きく、綾乃が「一人で食べるの?」と呆れた。
「五人いるから大丈夫だ」
「最初から分ける気だったんじゃないの?」
千綴が言うと、環がすでにスプーンへ手を伸ばしている。
「猫、早い」
「早い者勝ち」
「まだ誰も始めるって言ってないぞ」
結局、五人で少しずつ分けることになった。
交換留学生の話も、その程度の雑談の一つとして流れていった。
夏休みの終わりが近づいた頃、千綴は生徒会の用事で学校へ来ていた。
校門を抜ける頃には、朝走っていた時間よりずっと気温が上がっている。
夏休み中の校舎は普段より静かだった。
グラウンドから運動部の声が聞こえ、遠くで笛が鳴る。
廊下には開いた窓から熱い風が入り、誰もいない教室のカーテンを揺らしていた。
生徒会室へ入ると、悠司が机の上に書類を広げていた。
「おはよう」
「おはよ。何それ」
「先生から。二学期前に見といてって」
「増えてるじゃん」
「さっき追加された」
千綴は鞄を置き、空いている椅子を引いた。
夏休み中に確認するものは、もうだいたい終わったと思っていたのに、休みが終わりへ近づくほど細かな連絡が増えていく。
「これ会長見た?」
「先に見てる。必要なところだけ回してきた」
「さすが」
「俺たちに投げるところまで早い」
「そこまで含めて仕事できるってことにしとこう」
二人で書類を分ける。
学校行事。
各委員会からの連絡。
二学期初日の確認事項。
千綴が一枚めくったところで、短い記載に目が止まった。
「……あ」
「どうした?」
悠司が顔を上げる。
「交換留学生」
「ああ、それ?」
「本当だったんだ」
「ヴァシが言ってたやつか」
「うん」
紙には、二学期から交換留学生を一名受け入れる予定だとだけ書かれていた。
名前も、出身も、細かな事情も載っていない。
少なくとも、友人同士で聞いた噂が完全な作り話ではなかったことだけは分かる。
「ヴァシ、どこから聞いたんだろうな」
「本人は情報収集能力って言ってた」
「便利な言葉だな」
「この前も同じこと言ってたじゃん」
「何回聞いても便利だろ」
千綴は少し笑った。
「じゃあ、あとで『本当だった』って送っとく?」
「絶対得意げになるぞ」
「やめとこうかな」
「もう想像できる」
悠司がヴァシリオスの口調を真似るように顎を上げる。
「『だから言っただろう』」
「言う」
二人で笑い、それからまた書類へ戻った。
交換留学生については、それ以上の情報がなかった。
誰が来るのかは、二学期になれば分かる。
今は目の前の作業を終わらせる方が先だった。
「こっち、先生に渡してくる」
「じゃあ私は残りまとめとく」
昼前には、一度教師のところへ確認に行った。
戻ってきた悠司が追加の修正を二つ伝え、千綴が付箋を貼り替える。
途中、廊下から聞こえてきた運動部の声が少しずつ遠くなった。
昼を過ぎる頃には、校内にいた生徒も減っていた。
「こんなもんか」
悠司が椅子の背へ身体を預ける。
「たぶん。これ以上は始まってからじゃないと無理」
「じゃあ終わり」
「お疲れ」
書類を揃え、使った筆記具を戻す。
千綴はスマートフォンを確認した。
丘平商店のシフトまではまだ時間がある。
「このあと店?」
「夕方から」
「じゃあまだ余裕あるな」
「うん。帰ってちょっと休む」
「朝も走ってるんだっけ」
「なんで知ってるの」
「巴さんから」
「店長」
思わず顔をしかめる。
「別に隠してないけど」
「続いてる?」
「一応」
「意外」
「失礼だな」
「三日くらいで飽きるかと」
「そこまで飽きっぽくない」
「ゲームは?」
「それは別」
「何が違うんだよ」
どうでもいい話をしながら、生徒会室を出た。
悠司とは階段の途中で別れる。
「じゃ、また」
「うん。またね」
千綴は一人で昇降口へ向かった。
外へ出た瞬間、熱気がまとわりついた。
「暑……」
朝とはまるで違う。
千綴は鞄から飲み物を取り出し、一口飲んだ。
蝉の声が近い。
校門へ向かおうとして、ふと視界の端に人影が入った。
教師らしい人物が一人。
その横に、若い男が立っている。
千綴の足が止まった。
「……あ」
見覚えがある。
明るい色の髪。
自分より少し年下に見える顔立ち。
朝のランニングで二度すれ違った青年だった。
今日は運動着ではなく、普段着らしい服を着ている。
教師と何か話しながら、校舎の方を見ていた。
距離があるため声までは聞こえない。
青年は千綴に気づいていないようだった。
千綴はその場で少しだけ立ち止まる。
最初にすれ違ったときの、説明しにくい引っ掛かりが頭をよぎった。
あれからもう一度見かけている。
最近この辺りを走っている人なのだろう、とそれ以上考えないことにしていた。
その青年が、今は学校にいる。
そして、さっき見た書類には二学期から交換留学生を一人受け入れると書かれていた。
千綴は青年と校舎を交互に見た。
「……もしかして」
口にしたところで、確かめられるものはない。
学校へ用事があるだけかもしれない。
誰かの家族かもしれない。
偶然が重なっただけという可能性もある。
それでも、何となく二つのことが繋がった気がした。
教師が校舎の方を指す。
青年がそちらを見る。
その横顔を確認してから、千綴は歩き出した。
今ここで声を掛ける理由はない。
二学期になれば、たぶん分かる。
坂を下り始める。
途中で一度だけ振り返った。
青年はもう教師と一緒に校舎の中へ向かっていた。
夏休みの学校は、また静かな景色へ戻っていった。




