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空の結び目  作者: 夕花
15/27

- 15 -

 翌朝、千綴が指定された部屋へ入ると、フィンはすでに中にいた。


 昨日まで使っていた端末は机の上に置かれ、その横には見慣れないものがいくつか並んでいる。


 手のひらほどの金属片。細い棒。透明な板。


 どれも用途が分からない。


「おはよう」


「おはようございます」


 千綴は机の上を見た。


「今日は検査じゃないって言ってましたよね」


「言ったね」


「これ、検査道具にしか見えないんですけど」


「失礼だなあ。教材」


「余計に怪しい」


 フィンは笑い、空いている椅子を指した。


「まあ座って。今日は昨日より楽だから」


「昨日も最初そんな感じじゃなかったですか?」


「昨日は走ったでしょ。今日は走らない」


「本当に?」


「午前中は」


「午後は走るんだ……」


 千綴が座る。


 フィンは向かいには座らず、机の端へ軽く腰を預けた。


「昨日の結果、夜のうちにもう一回見た」


「分類できました?」


「できなかった」


「即答」


「朝までに新しい学問体系は作れなかったね」


「期待してません」


「残念」


 フィンは肩をすくめる。


 冗談めかしてはいるが、昨日のように端末を何度も見返す様子はなかった。


「だから昨日言った通り。異能なのは確定。何系かは保留」


「はい」


「で、今日から君は『自分に異能があると知ってる人』になる」


 千綴は少しだけ姿勢を正した。


「昨日までは違ったんですか?」


「昨日の朝までは、あるかもしれない人。今はあると分かってる人」


 フィンは机の上の金属片を指先で転がした。


「この差、意外と大きいよ」


 金属片が一度止まり、また転がる。


「まず一個。試したくなる」


 千綴は何も言わなかった。


「昨日みたいなことが、自分だけでもできるか。どこまで分かるか。誰なら分かるか。何メートルまで届くか」


「……まあ、ちょっとは」


「でしょ?」


 フィンが笑う。


「でも、やらない」


「駄目なんですか?」


「少なくとも、今はね」


 軽かった声が少しだけ落ち着く。


「君の異能は、何を拾ってるのかまだ分からない。昨日は人の位置に反応してるように見えた。でも、本当に人そのものを見てるのかは未確定」


「それは昨日も言ってましたね」


「そう。だから自分で試すと、何をやってるのか分からないまま誰かを対象にすることになる」


 千綴は昨日の検査を思い返した。


 目を閉じ、朝倉の位置を指した。


 あのときは施設の中で、フィンが見ていた。


「ここなら止められるし、記録も取れる。でも外ではそうじゃない」


「はい」


「もう一個」


 フィンが指を二本立てる。


「人前で使わない」


「使い方も分からないのに?」


「今はね。でも分かるようになったときのために先に言っとく」


 フィンは金属片を机へ置いた。


「異能は、一般には知られてない。知られないようにしてる」


「それは聞いてます」


「じゃあ話が早い」


 フィンは頷く。


「見せびらかさない。動画に撮らない。ネットに上げない。友達に『ちょっと見てて』もなし」


「そこまでしませんよ」


「みんな最初はそう言うんだよ」


「本当に?」


「今のはちょっと盛った」


「どこまで本当なんですか」


「大事なところは全部」


 千綴は小さく息を吐いた。


 フィンは笑っていたが、そのまま話を続ける。


「事故とか事件とか、使わなきゃ危ない状況まで我慢しろって話じゃない。そこは別。でも、面白半分で使うものじゃないってこと」


「はい」


「特に君は、まだ止め方も分からない」


「止め方?」


「昨日、位置が分かったとき。自分で『今から使う』ってやった?」


「……してないです」


「でしょ」


 千綴は少し考えた。


 気づけば、分かっていた。


 事件のときもそうだった。


「勝手に使ってる?」


「可能性はある」


 フィンはそこで断定しなかった。


「だから、しばらくは何か変な感じがしたら覚えておいて。場所とか、そのとき何してたとか。無理に再現しなくていい」


「メモしておく感じですか?」


「そう。できればあとで僕らに教えて」


「分かりました」


「じゃ、それで」


「急に真面目ですね」


「褒めただけなのに」


 フィンが不満そうな顔をする。


 千綴はもう慣れ始めていた。






「じゃあ次」


 フィンが机から離れ、壁際に置かれていた小さな台の前へ移動した。


「異能を見る練習」


「見る?」


「昨日まで君は、自分の異能を調べられる側だったでしょ。今日は逆」


 台の上には何もない。


 フィンはその前に立ち、千綴へ手招きした。


「よく見てて」


 千綴は椅子から少し身を乗り出した。


 何が始まるのかと思った次の瞬間、台の上に小さな光が走った。


「……え」


 透明に近い結晶が、何もなかった場所から伸びている。


 最初は指先ほどだったものが、ゆっくりと枝を増やしながら広がっていく。光を受ける角度が変わるたび、表面に白い筋が走った。


 フィンが指先を動かす。


 結晶の枝が一度止まり、今度は横へ伸びた。


 細かった先端が厚みを増し、小さな板のような形へ変わっていく。


 千綴は思わず立ち上がった。


「これが?」


「異能」


 フィンはあっさり答えた。


「分かりやすいでしょ」


「分かりやすすぎる」


「昨日の君と違ってね」


「悪かったですね」


 千綴は台へ近づく。


 結晶はまだそこにある。


「触っていいですか?」


「どうぞ」


 指先で触れる。


 冷たい。


 硬い。


 見た目だけのものではなく、ちゃんとそこにある。


「作ったんですか?」


「そう見える?」


「……見えます」


「じゃあ、もう一回」


 フィンが軽く手を上げる。


 今度は台ではなく、少し離れた床に結晶が生まれた。


 床から細い柱が伸びる。


 途中で二つに分かれ、その片方が千綴の前へ向かって曲がった。


 千綴が一歩下がる。


 結晶は追いかけるように伸びることはなく、その場で形を変えただけだった。


「動いてる?」


「どう思う?」


 フィンは答えない。


 結晶の先端がさらに伸び、床に置かれていた軽い箱へ触れた。


 そのまま押す。


 箱が少し滑る。


 千綴は目を細めた。


 さっきまでなら、物を動かしたように見えたかもしれない。


 けれど今は違う。


「……箱を動かしたんじゃない」


「ん?」


「結晶で押した?」


 フィンの口元が上がった。


「いいね」


「やっぱり」


「見たままを一回疑うの、大事」


 フィンは結晶を細く伸ばし、箱の横へ回り込ませる。


 押す方向が変わり、箱も横へ動いた。


「こうすると、遠くから物を動かしてるようにも見える」


「でも実際は、触って押してる」


「そう」


 フィンは一度手を下ろした。


「じゃあ次」


 今度は、千綴から見て右側の床に結晶が伸びた。


 フィンが少し身体を動かす。


 結晶も形を変える。


 千綴はその動きを追った。


 伸びる。


 曲がる。


 厚くなる。


 細くなる。


 何かを作っているというより、ひとつの塊をその場で組み替えているようにも見える。


「すごい」


「もっと褒めてもいいよ」


「そこは普通に受け取るんですね」


「褒められ慣れてるから」


「何に?」


 フィンは一瞬だけ間を置き、妙に芝居がかった仕草で肩をすくめた。


「人生?」


「怪しい」


「細かいことはいいの」


 千綴は笑いながらも、視線を結晶から外さなかった。


 フィンは結晶を細くしたかと思うと、今度は一気に厚みを持たせた。


 同じ量のものが、形だけを次々に変えているように見える。


「まだ何か分かる?」


「……作って終わりじゃない」


「うん」


「形も変えられる」


 フィンは答える代わりに、結晶の先を小さく枝分かれさせた。


「今日はそのくらいで」


「全部は教えてくれないんですね」


「最初から答え知ってたら、見る意味なくなるでしょ」


 結晶が小さく畳まれるように形を変え、その場から消えた。


「実戦で相手が能力説明してくれる保証ないからね」


 フィンは楽しそうに笑った。




 部屋を移ると、今度は朝倉が待っていた。


 白衣も端末もない。


 動きやすそうな服装で、壁際に立っている。


「朝倉さんまで着替えてる」


「午後の準備もある」


「やっぱり走るんですか?」


「走るかもな」


「フィンさんが午前は走らないって」


「午前はな」


「二人とも同じこと言う」


 フィンが横で笑った。


「仲良くなってきたでしょ」


「誰と誰が」


 朝倉が返す。


 部屋の床には柔らかいマットが敷かれていた。


「ここからは、異能者に会ったときの話」


 フィンが千綴の横へ立つ。


「正確には、危ない異能者に会ったとき」


「会いたくないです」


「僕もおすすめしない」


「じゃあ終わり?」


「そうはいかない」


 朝倉が口を挟む。


「お前はもう一度巻き込まれてる」


 千綴は黙った。


 その一言で、少しだけ空気が変わった。


「だから最低限だ」


「……はい」


 朝倉が千綴の前へ出る。


「まず覚えろ。異能者を相手に勝とうとするな」


「いきなりそれ?」


「勝てる前提で考える方がおかしい」


「ナオ、もうちょっと優しく言おうよ」


「事実だろ」


「事実だけど」


 フィンが千綴を見る。


「要するに、一番は逃げること」


「それは分かります」


「じゃあ、どう逃げる?」


 訊かれて、千綴は少し考えた。


「距離を取る?」


「半分正解」


 フィンが指を一本立てる。


「相手の異能が分からないなら、距離を取れば安全とも限らない」


「遠くまで届くかもしれない」


「そう」


「じゃあどうするんですか?」


 フィンは朝倉を見る。


 朝倉が壁際に置かれていた簡単な衝立を一つ動かした。


 千綴と朝倉の間に置く。


「見えない場所へ動く」


 朝倉が言う。


「遮蔽物を使う。人の多い方へ行く。出口を探す。一つの場所に留まるな」


「能力が分からないなら、まず相手がやりたいことをやりにくくする」


 フィンが続ける。


「見えない。追いにくい。狙いにくい。これだけでも違う」


「でも、追跡できる異能だったら?」


「そのときは別の手を考える」


「結局、能力次第じゃないですか」


「そうだよ」


 フィンはあっさり認めた。


「万能な対処法なんてない」


 千綴は少し拍子抜けした。


 もっと、異能者には異能者用の決まった対策があるものだと思っていた。


「だから見る。考える。分からないなら逃げる」


 フィンが三本指を立てる。


「あと、無理しない」


「それ四つ目」


「細かいなあ」


「大事なんじゃないんですか?」


「大事」


 笑いながら答える。


 朝倉が千綴の前へ立った。


「次は、逃げられない距離まで入られた場合だ」


「護身術?」


「ああ」


 千綴は朝倉を見る。


 体格差がある。


 分かってはいたが、正面に立たれると余計に大きく感じる。


「これ、朝倉さん相手にやるんですか?」


「そうだ」


「勝てる気しないんですけど」


「さっき言っただろ。勝つな」


 朝倉が片手を差し出した。


「逃げるために使う」


 千綴はその手を見る。


 フィンが横から口を挟む。


「大丈夫。ナオ、見た目より加減できるから」


「見た目よりは余計だ」


「じゃあ見た目通り?」


「黙ってろ」


 千綴は思わず笑った。


 朝倉がこちらを見る。


「笑ってる場合か」


「すみません」


「来い」


「はい」


 千綴は一歩前へ出た。






 朝倉が差し出した手を、千綴は少し警戒しながら見た。


「掴まれるところから?」


「そうだ」


「普通に?」


「普通に」


 言われるまま右手を出す。


 朝倉の手が手首を掴んだ。


 強く締められているわけではない。それでも、引こうとすると簡単には抜けなかった。


「力で外そうとするな」


「もうやってました」


「見れば分かる」


 横からフィンが覗き込む。


「今の顔、すごく『絶対抜く』って顔してた」


「そんな顔してました?」


「してたしてた。舞台なら分かりやすくて助かるくらい」


「舞台?」


「はい、ナオ先生。続けてどうぞ」


「お前が止めたんだろ」


 朝倉は呆れたように言いながら、千綴の手首を掴み直した。


「まず、腕だけで引くな。身体ごと向きを変える」


 朝倉がゆっくり動きを見せる。


 掴まれている手を無理に引かず、身体を半歩ずらす。相手の腕が伸びる方向へ合わせるように動くと、さっきより手首にかかる力が減った。


「ここで抜く」


「あ」


 今度は簡単に外れた。


「もう一回」


「はい」


 掴まれる。


 千綴はさっきの動きを思い出しながら身体をずらした。


 少し早すぎた。


 朝倉の手がついてくる。


「違う」


「難しい」


「相手の腕を見ろ」


「顔じゃなくて?」


「近すぎるときは手だ。何をされてるかを先に見ろ」


 もう一度。


 今度は手首だけを引かず、朝倉の腕が伸びる方向へ身体をずらす。


 力が緩む。


 抜く。


「今の」


「そうだ」


 千綴が少し笑う。


「できた」


「一回な」


「褒めてくださいよ」


「よくできました」


 横からフィンが拍手する。


「フィンさんじゃなくて」


「難しい注文だなあ」


 朝倉は取り合わず、次は千綴の肩へ手を置いた。


「押された場合」


「まだあるんですね」


「最低限だけだ」


 今度は身体の向きを変える。


 正面から受け止めない。


 押し返さない。


 一歩ずれて、道を作る。


 どの動きも、相手を倒すためのものではなかった。


 何度か繰り返すうちに、その違いが千綴にも分かってくる。


 距離を作る。


 向きを変える。


 走れる場所を空ける。


 それだけだ。


 朝倉が最後に腕を伸ばしてきた。


 千綴は半歩ずれ、手を外す。


 そのまま朝倉の横を抜けた。


「止まれ」


 声に足を止める。


 振り返ると、朝倉が頷いた。


「今のでいい」


「逃げるところまで?」


「そこまでが一つだ」


 フィンが壁際から言う。


「護身術って聞くと、相手を倒す技を想像する人多いけどね。今日やってるのは全部、逃げるため」


「朝倉さん倒すとか無理ですし」


「ナオは教材としてちょっと規格外」


「お前が呼んだんだろ」


「説得力あるでしょ?」


「ありすぎます」


 千綴は息を整えながら答えた。






 短い休憩のあと、フィンは壁際に置かれていた衝立を二枚、部屋の中央へ動かした。


「次は見る方」


「見る?」


「さっき君がやったでしょ。今度はナオにやってもらう」


 朝倉が部屋の端へ移動する。


 フィンは反対側。


 その間に衝立と、低い台が置かれていた。


「模擬戦ってほど大げさじゃない。ナオは向こうの扉まで行く。僕は邪魔する」


「朝倉さん、異能使わないですよね」


「使わない」


「僕は使うけどね」


「不公平じゃないですか?」


「だから戦わない。ナオも逃げるだけ」


 フィンが片手を上げる。


 朝倉は何も構えず、扉だけを見た。


「始め」


 朝倉が動く。


 同時に、進行方向の床から結晶が伸びた。


 朝倉は止まらない。


 半歩だけ進路を変え、結晶の横を抜ける。


 その先にもう一本。


 今度は低い壁のように広がった。


 朝倉が衝立の裏へ入る。


「はい、止め」


 フィンの声で朝倉が止まった。


「千綴さん。今ならどこ行く?」


「え」


「ナオの位置から」


 千綴は部屋を見る。


 正面は結晶で塞がれている。


 右へ出ればフィンから丸見えだ。


 左には衝立が続いている。


「……左?」


「なんで?」


「隠れたまま動けるから」


「じゃ、続き」


 フィンが手を下ろす。


 朝倉が左へ動いた。


 衝立の陰を抜け、次の遮蔽物へ移る。


 その間、結晶は増えなかった。


 開けた場所へ出た瞬間、床に新しい結晶が生える。


 朝倉はすぐに戻った。


「止め」


 千綴は今の場所を見る。


 フィン。


 朝倉。


 衝立。


 結晶。


「もう一回、最初から」


 配置を戻す。


 同じように朝倉が走る。


 正面に結晶。


 方向を変える。


 また結晶。


 衝立へ隠れる。


 止まる。


 千綴は眉を寄せた。


「……今、出なかった」


「何が?」


「結晶」


 フィンは答えず、朝倉へ顎を向けた。


「続けて」


 朝倉が衝立から顔を出す。


 少し離れた床に結晶が生まれた。


 引っ込む。


 増えない。


 反対側から出る。


 今度はそちらに生える。


 千綴はフィンを見る。


「見えてるところにしか出してない?」


 フィンの眉がわずかに上がった。


「そう見えた?」


「二回とも」


「じゃあ、それ覚えといて」


「答えは?」


「今はいらない」


 朝倉が衝立の向こうから言う。


「止めたままでいいのか」


「あ、ごめん」


「フィンさんが止めたんでしょう」


「そうだった」


 再開する。


 今度は最後まで止めなかった。


 朝倉は遮蔽物を渡り、開けた場所だけ一気に抜ける。


 結晶が進路へ伸びるより先に、扉へ手をかけた。


「終了」


 フィンが手を叩く。


 朝倉が戻ってくる。


「今ので、何見てた?」


 千綴は少し考えた。


「朝倉さんがどこに逃げるかと……フィンさんがどこ見てるか」


「うん」


「結晶だけ見てたら、たぶん分からなかった」


 フィンは笑った。


「それでいい」


 それ以上は説明しなかった。


 千綴はもう一度、部屋の中を見た。


 結晶の残った場所と、何も起きなかった衝立の裏。


 さっきまで同じ部屋だったのに、少しだけ見え方が変わっていた。




 午後に入ると、訓練は少しだけ実践に近くなった。


 千綴は入口近くに立ち、朝倉は部屋の中央。


 フィンは壁際で腕を組んでいる。


「目的はあの扉まで行くこと」


 フィンが反対側を指した。


「ナオは止める側」


「止めるって」


「捕まったらやり直し」


「異能は?」


「ナオは使わない」


「それならまだ」


 千綴が言い終える前に、朝倉が一歩出た。


「始まってるぞ」


「えっ」


 千綴は反射的に後ろへ下がった。


 正面から抜けようとしても無理だ。


 午前に教わった通り、朝倉の手ではなく身体全体を見る。


 左側に衝立。


 右には広い空間。


 迷った一瞬で朝倉が距離を詰める。


 千綴は右へ走った。


 朝倉も動く。


 速い。


「ちょっと!」


「喋る余裕あるねえ」


 フィンの声が飛ぶ。


「フィンさん、見てないで!」


「応援してる」


「役に立たない!」


 朝倉の手が肩へ伸びる。


 千綴は身体を沈めるようにずらし、手を避けた。


 そのまま衝立の裏へ回る。


 朝倉から一瞬見えなくなる。


 出口は向こう。


 反対側へ抜ける。


 あと数歩。


 朝倉が回り込んできた。


「うそ」


 手首を掴まれる。


 千綴は止まらず、午前中に繰り返した動きを使う。


 腕を引かない。


 身体をずらす。


 力が抜ける方向へ動いて手を外す。


 抜けた。


 扉へ手を伸ばす。


「はい、終了」


 フィンが手を叩いた。


 千綴は扉に手をついたまま、息を吐いた。


「疲れた……」


「でも抜けた」


 振り返る。


 朝倉はほとんど息も乱していない。


「絶対手加減しましたよね」


「当然だ」


「ですよね」


「本気でやったら訓練にならない」


 それは分かる。


 それでも、途中で捕まれた手を外せたことは少し嬉しかった。


「今ので十分だ」


 朝倉が言う。


「勝とうとするな。抜けたらそのまま離れろ」


「はい」


 フィンが横から手を叩く。


「ちゃんと逃げ切ったしね」


「応援しかしてなかったじゃないですか」


「精神的支援」


「いらないです」


「放っとけ」


 朝倉が横を通り過ぎる。


「ナオまで冷たい」


 千綴は息を整えながら、少し笑った。






「じゃあ、今日はここまで」


 フィンが言ったときには、千綴の背中に薄く汗が滲んでいた。


「最後にもう一個あると思ってました」


「やりたい?」


「遠慮します」


「即答だ」


 千綴は床の端に座り、水を飲んだ。


 朝倉は衝立を元の位置へ戻している。


 床に残っていた結晶も、いつの間にか消えていた。




 訓練を終えたあと、三人は昨日とは別の小さな部屋へ移った。


 机の上には千綴の来訪者カードと、何枚かの書類が置かれている。


 フィンが椅子へ座り、千綴と朝倉も向かいに腰を下ろした。


「これで今回の予定は全部終わり」


「やっと」


「寂しい?」


「ちょっと疲れました」


「正直でよろしい」


 フィンは書類を一枚めくる。


「昨日の判定は変わらない。異能あり。分類は保留」


「はい」


「今後、勝手に試さない。変な反応があったら覚えておく。困ったことがあったらナオ経由でもいいし、こっちへ連絡」


「分かりました」


「人前で不用意に使わない。そこも昨日と同じ」


「はい」


 フィンは書類へ印をつけた。


「昨日の朝よりずいぶん異能者らしくなった」


「実感ないですけど」


「そのくらいでいいよ」


 フィンの手が止まった。


「異能があるからって、急に別の人間になるわけじゃない」


 千綴はフィンを見る。


 さっきまでの冗談っぽさは残っているが、声は静かだった。


「できることが一つ増えたかもしれない。それがまだよく分からない。今はその程度で考えといて」


「はい」


「で、分からないから調べる。必要ならまた来てもらう」


「次は日帰りでお願いします」


「善処します」


「泊まりになるやつだ」


「鋭くなったなあ」


 朝倉が横から書類を一枚取った。


「次が決まったら俺から連絡する」


「分かりました」


 フィンは千綴のカードを指で押す。


「これは受付へ返却。ロッカーの荷物も忘れないで」


「スマホ、やっと返ってくる」


「二日間なくても平気だった?」


「全然平気ではないです」


「若者だ」


「フィンさん何歳なんですか」


「それは国家機密」


「絶対違う」


「ほら、帰るぞ」


 朝倉が立ち上がる。


「ナオ、最後まで冷たいなあ」


「二日付き合っただけでも感謝しろ」


「またね、千綴さん」


 フィンが軽く手を上げる。


「次はもっと面白いの用意しとく」


「普通のでお願いします」


「普通の異能検査って難しい注文だなあ」


 千綴は苦笑しながら立ち上がった。


「ありがとうございました」


 頭を下げる。


 フィンも今度はふざけず、短く頷いた。


「――あ、そうだ」


 千綴が顔を上げる。


「最後に一個」


「まだ何かあるんですか?」


「検査じゃないよ」


 フィンが部屋の空いた方へ視線を向けた。


 床に、小さな結晶が生まれる。


 細い枝が伸びた。


 一本が二本に、二本が四本に分かれ、透明な線が放射状に広がっていく。


 先端がさらに細かく枝分かれした。


 照明を拾った結晶が、一瞬だけ白くきらめく。


 音のない花火が、そこに開いた。


「……綺麗」


「でしょ」


 フィンが満足そうに笑う。


「遊ぶために使うなって教えたばかりだろ」


 朝倉が言う。


「これは見送り」


「何が違う」


「気分」


 結晶の花がゆっくり形を崩し、小さく畳まれて消えていく。


 千綴は最後までそれを見ていた。






 受付へ戻り、来訪者カードを返す。


 ロッカーへ自分のカードをかざすと、昨日と同じ電子音が鳴った。


 扉を開ける。


 鞄。


 スマートフォン。


 見慣れた私物が並んでいる。


 千綴はスマートフォンを手に取り、電源を確かめた。


 画面が点く。


 届いていた通知が一気に並んだ。


「うわ」


「後で見ろ」


「分かってます」


 鞄へ入れる。


 ロッカーを閉め、受付の女性へ会釈する。


 外へ続くガラス扉の前で、朝倉がカードをかざした。


 扉が開く。


 冷えた空気の向こうから、夏の熱が流れ込んできた。


 千綴は一歩外へ出る。


 眩しさに目を細めた。


 二日前と同じ駐車場。


 同じゲート。


 同じ建物。


 来たときには、何をする場所なのかも分からなかった。


 今も分からないことは多い。


 自分の異能が何なのか。


 なぜ発現したのか。


 どこまでできるのか。


 それでも、何も分からなかった二日前とは少し違う。


「朝倉さん」


「ん?」


「店長に、ちゃんと帰るって連絡していいですか?」


「車乗ってからにしろ」


「はい」


 千綴は鞄の中のスマートフォンへ手を伸ばしかけて、やめた。


 朝倉の後を追い、駐車場へ向かう。


 背後でガラス扉が閉まった。




標本家コレクター編 完

2026/08/13 正式に「標本家コレクター編 完」とする

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