- 15 -
翌朝、千綴が指定された部屋へ入ると、フィンはすでに中にいた。
昨日まで使っていた端末は机の上に置かれ、その横には見慣れないものがいくつか並んでいる。
手のひらほどの金属片。細い棒。透明な板。
どれも用途が分からない。
「おはよう」
「おはようございます」
千綴は机の上を見た。
「今日は検査じゃないって言ってましたよね」
「言ったね」
「これ、検査道具にしか見えないんですけど」
「失礼だなあ。教材」
「余計に怪しい」
フィンは笑い、空いている椅子を指した。
「まあ座って。今日は昨日より楽だから」
「昨日も最初そんな感じじゃなかったですか?」
「昨日は走ったでしょ。今日は走らない」
「本当に?」
「午前中は」
「午後は走るんだ……」
千綴が座る。
フィンは向かいには座らず、机の端へ軽く腰を預けた。
「昨日の結果、夜のうちにもう一回見た」
「分類できました?」
「できなかった」
「即答」
「朝までに新しい学問体系は作れなかったね」
「期待してません」
「残念」
フィンは肩をすくめる。
冗談めかしてはいるが、昨日のように端末を何度も見返す様子はなかった。
「だから昨日言った通り。異能なのは確定。何系かは保留」
「はい」
「で、今日から君は『自分に異能があると知ってる人』になる」
千綴は少しだけ姿勢を正した。
「昨日までは違ったんですか?」
「昨日の朝までは、あるかもしれない人。今はあると分かってる人」
フィンは机の上の金属片を指先で転がした。
「この差、意外と大きいよ」
金属片が一度止まり、また転がる。
「まず一個。試したくなる」
千綴は何も言わなかった。
「昨日みたいなことが、自分だけでもできるか。どこまで分かるか。誰なら分かるか。何メートルまで届くか」
「……まあ、ちょっとは」
「でしょ?」
フィンが笑う。
「でも、やらない」
「駄目なんですか?」
「少なくとも、今はね」
軽かった声が少しだけ落ち着く。
「君の異能は、何を拾ってるのかまだ分からない。昨日は人の位置に反応してるように見えた。でも、本当に人そのものを見てるのかは未確定」
「それは昨日も言ってましたね」
「そう。だから自分で試すと、何をやってるのか分からないまま誰かを対象にすることになる」
千綴は昨日の検査を思い返した。
目を閉じ、朝倉の位置を指した。
あのときは施設の中で、フィンが見ていた。
「ここなら止められるし、記録も取れる。でも外ではそうじゃない」
「はい」
「もう一個」
フィンが指を二本立てる。
「人前で使わない」
「使い方も分からないのに?」
「今はね。でも分かるようになったときのために先に言っとく」
フィンは金属片を机へ置いた。
「異能は、一般には知られてない。知られないようにしてる」
「それは聞いてます」
「じゃあ話が早い」
フィンは頷く。
「見せびらかさない。動画に撮らない。ネットに上げない。友達に『ちょっと見てて』もなし」
「そこまでしませんよ」
「みんな最初はそう言うんだよ」
「本当に?」
「今のはちょっと盛った」
「どこまで本当なんですか」
「大事なところは全部」
千綴は小さく息を吐いた。
フィンは笑っていたが、そのまま話を続ける。
「事故とか事件とか、使わなきゃ危ない状況まで我慢しろって話じゃない。そこは別。でも、面白半分で使うものじゃないってこと」
「はい」
「特に君は、まだ止め方も分からない」
「止め方?」
「昨日、位置が分かったとき。自分で『今から使う』ってやった?」
「……してないです」
「でしょ」
千綴は少し考えた。
気づけば、分かっていた。
事件のときもそうだった。
「勝手に使ってる?」
「可能性はある」
フィンはそこで断定しなかった。
「だから、しばらくは何か変な感じがしたら覚えておいて。場所とか、そのとき何してたとか。無理に再現しなくていい」
「メモしておく感じですか?」
「そう。できればあとで僕らに教えて」
「分かりました」
「じゃ、それで」
「急に真面目ですね」
「褒めただけなのに」
フィンが不満そうな顔をする。
千綴はもう慣れ始めていた。
「じゃあ次」
フィンが机から離れ、壁際に置かれていた小さな台の前へ移動した。
「異能を見る練習」
「見る?」
「昨日まで君は、自分の異能を調べられる側だったでしょ。今日は逆」
台の上には何もない。
フィンはその前に立ち、千綴へ手招きした。
「よく見てて」
千綴は椅子から少し身を乗り出した。
何が始まるのかと思った次の瞬間、台の上に小さな光が走った。
「……え」
透明に近い結晶が、何もなかった場所から伸びている。
最初は指先ほどだったものが、ゆっくりと枝を増やしながら広がっていく。光を受ける角度が変わるたび、表面に白い筋が走った。
フィンが指先を動かす。
結晶の枝が一度止まり、今度は横へ伸びた。
細かった先端が厚みを増し、小さな板のような形へ変わっていく。
千綴は思わず立ち上がった。
「これが?」
「異能」
フィンはあっさり答えた。
「分かりやすいでしょ」
「分かりやすすぎる」
「昨日の君と違ってね」
「悪かったですね」
千綴は台へ近づく。
結晶はまだそこにある。
「触っていいですか?」
「どうぞ」
指先で触れる。
冷たい。
硬い。
見た目だけのものではなく、ちゃんとそこにある。
「作ったんですか?」
「そう見える?」
「……見えます」
「じゃあ、もう一回」
フィンが軽く手を上げる。
今度は台ではなく、少し離れた床に結晶が生まれた。
床から細い柱が伸びる。
途中で二つに分かれ、その片方が千綴の前へ向かって曲がった。
千綴が一歩下がる。
結晶は追いかけるように伸びることはなく、その場で形を変えただけだった。
「動いてる?」
「どう思う?」
フィンは答えない。
結晶の先端がさらに伸び、床に置かれていた軽い箱へ触れた。
そのまま押す。
箱が少し滑る。
千綴は目を細めた。
さっきまでなら、物を動かしたように見えたかもしれない。
けれど今は違う。
「……箱を動かしたんじゃない」
「ん?」
「結晶で押した?」
フィンの口元が上がった。
「いいね」
「やっぱり」
「見たままを一回疑うの、大事」
フィンは結晶を細く伸ばし、箱の横へ回り込ませる。
押す方向が変わり、箱も横へ動いた。
「こうすると、遠くから物を動かしてるようにも見える」
「でも実際は、触って押してる」
「そう」
フィンは一度手を下ろした。
「じゃあ次」
今度は、千綴から見て右側の床に結晶が伸びた。
フィンが少し身体を動かす。
結晶も形を変える。
千綴はその動きを追った。
伸びる。
曲がる。
厚くなる。
細くなる。
何かを作っているというより、ひとつの塊をその場で組み替えているようにも見える。
「すごい」
「もっと褒めてもいいよ」
「そこは普通に受け取るんですね」
「褒められ慣れてるから」
「何に?」
フィンは一瞬だけ間を置き、妙に芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「人生?」
「怪しい」
「細かいことはいいの」
千綴は笑いながらも、視線を結晶から外さなかった。
フィンは結晶を細くしたかと思うと、今度は一気に厚みを持たせた。
同じ量のものが、形だけを次々に変えているように見える。
「まだ何か分かる?」
「……作って終わりじゃない」
「うん」
「形も変えられる」
フィンは答える代わりに、結晶の先を小さく枝分かれさせた。
「今日はそのくらいで」
「全部は教えてくれないんですね」
「最初から答え知ってたら、見る意味なくなるでしょ」
結晶が小さく畳まれるように形を変え、その場から消えた。
「実戦で相手が能力説明してくれる保証ないからね」
フィンは楽しそうに笑った。
部屋を移ると、今度は朝倉が待っていた。
白衣も端末もない。
動きやすそうな服装で、壁際に立っている。
「朝倉さんまで着替えてる」
「午後の準備もある」
「やっぱり走るんですか?」
「走るかもな」
「フィンさんが午前は走らないって」
「午前はな」
「二人とも同じこと言う」
フィンが横で笑った。
「仲良くなってきたでしょ」
「誰と誰が」
朝倉が返す。
部屋の床には柔らかいマットが敷かれていた。
「ここからは、異能者に会ったときの話」
フィンが千綴の横へ立つ。
「正確には、危ない異能者に会ったとき」
「会いたくないです」
「僕もおすすめしない」
「じゃあ終わり?」
「そうはいかない」
朝倉が口を挟む。
「お前はもう一度巻き込まれてる」
千綴は黙った。
その一言で、少しだけ空気が変わった。
「だから最低限だ」
「……はい」
朝倉が千綴の前へ出る。
「まず覚えろ。異能者を相手に勝とうとするな」
「いきなりそれ?」
「勝てる前提で考える方がおかしい」
「ナオ、もうちょっと優しく言おうよ」
「事実だろ」
「事実だけど」
フィンが千綴を見る。
「要するに、一番は逃げること」
「それは分かります」
「じゃあ、どう逃げる?」
訊かれて、千綴は少し考えた。
「距離を取る?」
「半分正解」
フィンが指を一本立てる。
「相手の異能が分からないなら、距離を取れば安全とも限らない」
「遠くまで届くかもしれない」
「そう」
「じゃあどうするんですか?」
フィンは朝倉を見る。
朝倉が壁際に置かれていた簡単な衝立を一つ動かした。
千綴と朝倉の間に置く。
「見えない場所へ動く」
朝倉が言う。
「遮蔽物を使う。人の多い方へ行く。出口を探す。一つの場所に留まるな」
「能力が分からないなら、まず相手がやりたいことをやりにくくする」
フィンが続ける。
「見えない。追いにくい。狙いにくい。これだけでも違う」
「でも、追跡できる異能だったら?」
「そのときは別の手を考える」
「結局、能力次第じゃないですか」
「そうだよ」
フィンはあっさり認めた。
「万能な対処法なんてない」
千綴は少し拍子抜けした。
もっと、異能者には異能者用の決まった対策があるものだと思っていた。
「だから見る。考える。分からないなら逃げる」
フィンが三本指を立てる。
「あと、無理しない」
「それ四つ目」
「細かいなあ」
「大事なんじゃないんですか?」
「大事」
笑いながら答える。
朝倉が千綴の前へ立った。
「次は、逃げられない距離まで入られた場合だ」
「護身術?」
「ああ」
千綴は朝倉を見る。
体格差がある。
分かってはいたが、正面に立たれると余計に大きく感じる。
「これ、朝倉さん相手にやるんですか?」
「そうだ」
「勝てる気しないんですけど」
「さっき言っただろ。勝つな」
朝倉が片手を差し出した。
「逃げるために使う」
千綴はその手を見る。
フィンが横から口を挟む。
「大丈夫。ナオ、見た目より加減できるから」
「見た目よりは余計だ」
「じゃあ見た目通り?」
「黙ってろ」
千綴は思わず笑った。
朝倉がこちらを見る。
「笑ってる場合か」
「すみません」
「来い」
「はい」
千綴は一歩前へ出た。
朝倉が差し出した手を、千綴は少し警戒しながら見た。
「掴まれるところから?」
「そうだ」
「普通に?」
「普通に」
言われるまま右手を出す。
朝倉の手が手首を掴んだ。
強く締められているわけではない。それでも、引こうとすると簡単には抜けなかった。
「力で外そうとするな」
「もうやってました」
「見れば分かる」
横からフィンが覗き込む。
「今の顔、すごく『絶対抜く』って顔してた」
「そんな顔してました?」
「してたしてた。舞台なら分かりやすくて助かるくらい」
「舞台?」
「はい、ナオ先生。続けてどうぞ」
「お前が止めたんだろ」
朝倉は呆れたように言いながら、千綴の手首を掴み直した。
「まず、腕だけで引くな。身体ごと向きを変える」
朝倉がゆっくり動きを見せる。
掴まれている手を無理に引かず、身体を半歩ずらす。相手の腕が伸びる方向へ合わせるように動くと、さっきより手首にかかる力が減った。
「ここで抜く」
「あ」
今度は簡単に外れた。
「もう一回」
「はい」
掴まれる。
千綴はさっきの動きを思い出しながら身体をずらした。
少し早すぎた。
朝倉の手がついてくる。
「違う」
「難しい」
「相手の腕を見ろ」
「顔じゃなくて?」
「近すぎるときは手だ。何をされてるかを先に見ろ」
もう一度。
今度は手首だけを引かず、朝倉の腕が伸びる方向へ身体をずらす。
力が緩む。
抜く。
「今の」
「そうだ」
千綴が少し笑う。
「できた」
「一回な」
「褒めてくださいよ」
「よくできました」
横からフィンが拍手する。
「フィンさんじゃなくて」
「難しい注文だなあ」
朝倉は取り合わず、次は千綴の肩へ手を置いた。
「押された場合」
「まだあるんですね」
「最低限だけだ」
今度は身体の向きを変える。
正面から受け止めない。
押し返さない。
一歩ずれて、道を作る。
どの動きも、相手を倒すためのものではなかった。
何度か繰り返すうちに、その違いが千綴にも分かってくる。
距離を作る。
向きを変える。
走れる場所を空ける。
それだけだ。
朝倉が最後に腕を伸ばしてきた。
千綴は半歩ずれ、手を外す。
そのまま朝倉の横を抜けた。
「止まれ」
声に足を止める。
振り返ると、朝倉が頷いた。
「今のでいい」
「逃げるところまで?」
「そこまでが一つだ」
フィンが壁際から言う。
「護身術って聞くと、相手を倒す技を想像する人多いけどね。今日やってるのは全部、逃げるため」
「朝倉さん倒すとか無理ですし」
「ナオは教材としてちょっと規格外」
「お前が呼んだんだろ」
「説得力あるでしょ?」
「ありすぎます」
千綴は息を整えながら答えた。
短い休憩のあと、フィンは壁際に置かれていた衝立を二枚、部屋の中央へ動かした。
「次は見る方」
「見る?」
「さっき君がやったでしょ。今度はナオにやってもらう」
朝倉が部屋の端へ移動する。
フィンは反対側。
その間に衝立と、低い台が置かれていた。
「模擬戦ってほど大げさじゃない。ナオは向こうの扉まで行く。僕は邪魔する」
「朝倉さん、異能使わないですよね」
「使わない」
「僕は使うけどね」
「不公平じゃないですか?」
「だから戦わない。ナオも逃げるだけ」
フィンが片手を上げる。
朝倉は何も構えず、扉だけを見た。
「始め」
朝倉が動く。
同時に、進行方向の床から結晶が伸びた。
朝倉は止まらない。
半歩だけ進路を変え、結晶の横を抜ける。
その先にもう一本。
今度は低い壁のように広がった。
朝倉が衝立の裏へ入る。
「はい、止め」
フィンの声で朝倉が止まった。
「千綴さん。今ならどこ行く?」
「え」
「ナオの位置から」
千綴は部屋を見る。
正面は結晶で塞がれている。
右へ出ればフィンから丸見えだ。
左には衝立が続いている。
「……左?」
「なんで?」
「隠れたまま動けるから」
「じゃ、続き」
フィンが手を下ろす。
朝倉が左へ動いた。
衝立の陰を抜け、次の遮蔽物へ移る。
その間、結晶は増えなかった。
開けた場所へ出た瞬間、床に新しい結晶が生える。
朝倉はすぐに戻った。
「止め」
千綴は今の場所を見る。
フィン。
朝倉。
衝立。
結晶。
「もう一回、最初から」
配置を戻す。
同じように朝倉が走る。
正面に結晶。
方向を変える。
また結晶。
衝立へ隠れる。
止まる。
千綴は眉を寄せた。
「……今、出なかった」
「何が?」
「結晶」
フィンは答えず、朝倉へ顎を向けた。
「続けて」
朝倉が衝立から顔を出す。
少し離れた床に結晶が生まれた。
引っ込む。
増えない。
反対側から出る。
今度はそちらに生える。
千綴はフィンを見る。
「見えてるところにしか出してない?」
フィンの眉がわずかに上がった。
「そう見えた?」
「二回とも」
「じゃあ、それ覚えといて」
「答えは?」
「今はいらない」
朝倉が衝立の向こうから言う。
「止めたままでいいのか」
「あ、ごめん」
「フィンさんが止めたんでしょう」
「そうだった」
再開する。
今度は最後まで止めなかった。
朝倉は遮蔽物を渡り、開けた場所だけ一気に抜ける。
結晶が進路へ伸びるより先に、扉へ手をかけた。
「終了」
フィンが手を叩く。
朝倉が戻ってくる。
「今ので、何見てた?」
千綴は少し考えた。
「朝倉さんがどこに逃げるかと……フィンさんがどこ見てるか」
「うん」
「結晶だけ見てたら、たぶん分からなかった」
フィンは笑った。
「それでいい」
それ以上は説明しなかった。
千綴はもう一度、部屋の中を見た。
結晶の残った場所と、何も起きなかった衝立の裏。
さっきまで同じ部屋だったのに、少しだけ見え方が変わっていた。
午後に入ると、訓練は少しだけ実践に近くなった。
千綴は入口近くに立ち、朝倉は部屋の中央。
フィンは壁際で腕を組んでいる。
「目的はあの扉まで行くこと」
フィンが反対側を指した。
「ナオは止める側」
「止めるって」
「捕まったらやり直し」
「異能は?」
「ナオは使わない」
「それならまだ」
千綴が言い終える前に、朝倉が一歩出た。
「始まってるぞ」
「えっ」
千綴は反射的に後ろへ下がった。
正面から抜けようとしても無理だ。
午前に教わった通り、朝倉の手ではなく身体全体を見る。
左側に衝立。
右には広い空間。
迷った一瞬で朝倉が距離を詰める。
千綴は右へ走った。
朝倉も動く。
速い。
「ちょっと!」
「喋る余裕あるねえ」
フィンの声が飛ぶ。
「フィンさん、見てないで!」
「応援してる」
「役に立たない!」
朝倉の手が肩へ伸びる。
千綴は身体を沈めるようにずらし、手を避けた。
そのまま衝立の裏へ回る。
朝倉から一瞬見えなくなる。
出口は向こう。
反対側へ抜ける。
あと数歩。
朝倉が回り込んできた。
「うそ」
手首を掴まれる。
千綴は止まらず、午前中に繰り返した動きを使う。
腕を引かない。
身体をずらす。
力が抜ける方向へ動いて手を外す。
抜けた。
扉へ手を伸ばす。
「はい、終了」
フィンが手を叩いた。
千綴は扉に手をついたまま、息を吐いた。
「疲れた……」
「でも抜けた」
振り返る。
朝倉はほとんど息も乱していない。
「絶対手加減しましたよね」
「当然だ」
「ですよね」
「本気でやったら訓練にならない」
それは分かる。
それでも、途中で捕まれた手を外せたことは少し嬉しかった。
「今ので十分だ」
朝倉が言う。
「勝とうとするな。抜けたらそのまま離れろ」
「はい」
フィンが横から手を叩く。
「ちゃんと逃げ切ったしね」
「応援しかしてなかったじゃないですか」
「精神的支援」
「いらないです」
「放っとけ」
朝倉が横を通り過ぎる。
「ナオまで冷たい」
千綴は息を整えながら、少し笑った。
「じゃあ、今日はここまで」
フィンが言ったときには、千綴の背中に薄く汗が滲んでいた。
「最後にもう一個あると思ってました」
「やりたい?」
「遠慮します」
「即答だ」
千綴は床の端に座り、水を飲んだ。
朝倉は衝立を元の位置へ戻している。
床に残っていた結晶も、いつの間にか消えていた。
訓練を終えたあと、三人は昨日とは別の小さな部屋へ移った。
机の上には千綴の来訪者カードと、何枚かの書類が置かれている。
フィンが椅子へ座り、千綴と朝倉も向かいに腰を下ろした。
「これで今回の予定は全部終わり」
「やっと」
「寂しい?」
「ちょっと疲れました」
「正直でよろしい」
フィンは書類を一枚めくる。
「昨日の判定は変わらない。異能あり。分類は保留」
「はい」
「今後、勝手に試さない。変な反応があったら覚えておく。困ったことがあったらナオ経由でもいいし、こっちへ連絡」
「分かりました」
「人前で不用意に使わない。そこも昨日と同じ」
「はい」
フィンは書類へ印をつけた。
「昨日の朝よりずいぶん異能者らしくなった」
「実感ないですけど」
「そのくらいでいいよ」
フィンの手が止まった。
「異能があるからって、急に別の人間になるわけじゃない」
千綴はフィンを見る。
さっきまでの冗談っぽさは残っているが、声は静かだった。
「できることが一つ増えたかもしれない。それがまだよく分からない。今はその程度で考えといて」
「はい」
「で、分からないから調べる。必要ならまた来てもらう」
「次は日帰りでお願いします」
「善処します」
「泊まりになるやつだ」
「鋭くなったなあ」
朝倉が横から書類を一枚取った。
「次が決まったら俺から連絡する」
「分かりました」
フィンは千綴のカードを指で押す。
「これは受付へ返却。ロッカーの荷物も忘れないで」
「スマホ、やっと返ってくる」
「二日間なくても平気だった?」
「全然平気ではないです」
「若者だ」
「フィンさん何歳なんですか」
「それは国家機密」
「絶対違う」
「ほら、帰るぞ」
朝倉が立ち上がる。
「ナオ、最後まで冷たいなあ」
「二日付き合っただけでも感謝しろ」
「またね、千綴さん」
フィンが軽く手を上げる。
「次はもっと面白いの用意しとく」
「普通のでお願いします」
「普通の異能検査って難しい注文だなあ」
千綴は苦笑しながら立ち上がった。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
フィンも今度はふざけず、短く頷いた。
「――あ、そうだ」
千綴が顔を上げる。
「最後に一個」
「まだ何かあるんですか?」
「検査じゃないよ」
フィンが部屋の空いた方へ視線を向けた。
床に、小さな結晶が生まれる。
細い枝が伸びた。
一本が二本に、二本が四本に分かれ、透明な線が放射状に広がっていく。
先端がさらに細かく枝分かれした。
照明を拾った結晶が、一瞬だけ白くきらめく。
音のない花火が、そこに開いた。
「……綺麗」
「でしょ」
フィンが満足そうに笑う。
「遊ぶために使うなって教えたばかりだろ」
朝倉が言う。
「これは見送り」
「何が違う」
「気分」
結晶の花がゆっくり形を崩し、小さく畳まれて消えていく。
千綴は最後までそれを見ていた。
受付へ戻り、来訪者カードを返す。
ロッカーへ自分のカードをかざすと、昨日と同じ電子音が鳴った。
扉を開ける。
鞄。
スマートフォン。
見慣れた私物が並んでいる。
千綴はスマートフォンを手に取り、電源を確かめた。
画面が点く。
届いていた通知が一気に並んだ。
「うわ」
「後で見ろ」
「分かってます」
鞄へ入れる。
ロッカーを閉め、受付の女性へ会釈する。
外へ続くガラス扉の前で、朝倉がカードをかざした。
扉が開く。
冷えた空気の向こうから、夏の熱が流れ込んできた。
千綴は一歩外へ出る。
眩しさに目を細めた。
二日前と同じ駐車場。
同じゲート。
同じ建物。
来たときには、何をする場所なのかも分からなかった。
今も分からないことは多い。
自分の異能が何なのか。
なぜ発現したのか。
どこまでできるのか。
それでも、何も分からなかった二日前とは少し違う。
「朝倉さん」
「ん?」
「店長に、ちゃんと帰るって連絡していいですか?」
「車乗ってからにしろ」
「はい」
千綴は鞄の中のスマートフォンへ手を伸ばしかけて、やめた。
朝倉の後を追い、駐車場へ向かう。
背後でガラス扉が閉まった。
標本家編 完
2026/08/13 正式に「標本家編 完」とする




