- 20 -
休日の朝は、平日より街の動きが遅かった。
千綴は一定の呼吸を保ちながら、住宅地を抜けていく。
夏休みの終わり頃に走り始めた時より、身体はずいぶん慣れていた。最初は学校へ続く坂の途中で折り返していたが、今では同じ距離なら、前ほど意識して息を整えなくても走れる。
だからといって、無理に速くするつもりはなかった。
続けること。
それが最初から決めていたことだった。
靴底が舗装を叩く音に合わせて、千綴は前を見る。
朝の空気は少し涼しくなっていた。夏の名残はまだ強いが、日差しが高くなる前なら走りやすい。
ふと、直嗣へ相談した時のことを思い出す。
新辺で見かけたという軍人らしい人物。
事故で休んでいる一年生。
それから、エレディトに感じた、説明しにくい違和感。
どれも、関係があるとは分からない。
相談したあと、自分の中では一度区切りをつけたつもりだった。
朝倉が調べてみると言ってくれた。
なら、今の自分にできることはない。
そう思っている。
それでも、走っていると、ふと頭の中へ戻ってくる。
自分から追加で連絡はしていない。
朝倉からも、今のところ連絡はない。
何もないなら、それでいい。
本当にただの噂で、一年生の事故も別の話で、エレディトについて感じたことも自分の異能とは関係がない。
それなら、その方がいいに決まっている。
千綴は小さく息を吐いた。
「……考えすぎかな」
声に出してみても、答えは出ない。
相談したことを後悔しているわけではなかった。
むしろ、分からないことを一人で抱えなくていいと分かっただけでも、前よりは楽だった。
だから今は、待てばいい。
そのはずだった。
前方から、軽い足音が近づいてきた。
千綴は顔を上げる。
明るい髪が、朝の光の中で揺れていた。
「あ」
向こうも気づいたらしい。
走ってきたエレディトが、少しだけ速度を落とす。
「千綴先輩」
「おはよう」
「おはようございます」
二人とも足は止めなかった。
すれ違う直前、千綴が少しだけ顔を向ける。
「今日はこっちまで来てるんだ」
「はい。最近、前より遠くまで走るようにしています」
エレディトはそう答えた。
このまま反対方向へ走っていくのかと思ったが、少し進んだところで振り返る。
「千綴先輩は、まだ走りますか?」
「うん。今日はもう少しだけ」
「一緒に走りますか?」
「いいよ」
エレディトが向きを変える。
二人は並んで走り始めた。
最初のうちは、千綴にも余裕があった。
エレディトは息が乱れていない。足運びも一定で、地面を蹴る音が軽い。
千綴も同じくらいの速さを保つ。
少し速い気はしたが、ついていけないほどではない。
そう思った。
さらに進む。
呼吸が深くなる。
脚にも、少しずつ重さが出てきた。
隣を見る。
エレディトの様子はほとんど変わらない。
千綴は前へ視線を戻した。
もう少しくらいなら。
そう思って速度を落とさず走る。
けれど、身体は正直だった。
一度、息を吸う間隔が崩れる。
次の呼吸が少し浅くなった。
エレディトがこちらを見る。
「千綴先輩」
「ん?」
「少し速かったですか」
「いや、まだ大丈夫」
答えた直後、エレディトの速度がわずかに落ちた。
「あ」
「このくらいならどうですか?」
「……気づいてた?」
「少し」
千綴は苦笑する。
「そっち、結構速いね」
「そうですか?」
「そうだよ」
悔しいというほどではない。
むしろ、素直に感心した。
同じように走っているつもりでも、身体の使い方も持久力も違う。
少し前までなら、もっと早く息が上がっていただろう。
自分も続ければ、もう少しくらいは走れるようになるかもしれない。
「私も、もうちょっと頑張るかな」
千綴が言うと、エレディトが顔を向けた。
「千綴先輩も、かなり走れるようになっています」
「最初は学校の坂の途中で死にそうになってたからね」
「死にそう?」
「言い方。ほんとに死にそうだったわけじゃない」
エレディトが少し笑った。
そのあとしばらく、二人はほとんど話さずに走った。
靴音と呼吸だけが続く。
速度を落としたとはいえ、会話を続けながら走るほど余裕があるわけではない。
道の脇に小さな公園が見えてきたところで、千綴が速度を緩めた。
「ちょっと休憩しない?」
「はい」
二人は歩きに変え、そのまま公園へ入った。
ベンチの近くまで行って足を止める。
千綴は腰へ手を当て、ゆっくり息を整えた。
「やっぱり速いって」
「すみません」
「謝るほどじゃないよ」
呼吸が落ち着いてから、千綴はベンチへ腰を下ろした。
エレディトも少し間を空けて隣へ座る。
朝の公園には、まだほとんど人がいなかった。
「休みの日も、朝は走ってるの?」
千綴が訊く。
「はい」
「他は何してる?」
エレディトが少し考える。
「学校のことをしたり、日本語を勉強したりします」
「うん」
「時間があれば、筋力トレーニングもします」
「結構ちゃんとしてるんだ」
「足りないので」
千綴は横を見る。
「足りない?」
「体力とか、筋力とかです」
「十分ありそうだけど」
「まだです」
返事は早かった。
千綴はそれ以上すぐには言わず、前へ視線を戻す。
学校では普通にクラスメイトと話している。
ヴァシリオスに誘われてサッカーもしていた。
鈴や悠司から聞いた限りでも、学校生活にはもうかなり馴染んでいる。
だから、休日も友人と出掛けたり、何か別のことをして過ごしているのかと思っていた。
「休みの日って、そういうのが多いんだ」
「そうですね」
「走ったり、鍛えたり」
「はい」
真面目なのだと思えば、それまでだ。
自分だって、検査から帰ったあとすぐに走り始めた。
巴にも呆れられた。
人のことを言える立場ではない。
それでも、少し引っ掛かった。
「千綴先輩は」
「ん?」
「どうして走っているんですか?」
千綴は少しだけ目を瞬いた。
「私?」
「はい」
考える。
最初に走り始めた理由なら、はっきりしている。
逃げるため。
もう一度何かに巻き込まれた時、少しでも自分で動けるようにするため。
けれど、そのまま答えるには、説明しなければならないことが多すぎる。
千綴は少し考えた。
「今、自分にできることをしてるだけかな」
言ってから、自分でも妙に簡単な答えだと思った。
大げさな意味はない。
走れるなら走る。
分からないことは勝手に決めつけない。
危ないと思ったら逃げる。
相談できる相手がいるなら相談する。
今の自分には、そのくらいしかできない。
「できることを?」
「うん。何かあった時に、何もできませんでしたってなるの嫌だし。でも、急に何でもできるようになるわけじゃないから」
千綴は前を見たまま続ける。
「だから、今できることだけやっとけばいいかなって」
隣から返事がない。
千綴は横を見る。
エレディトは少し考えているようだった。
「……そうですね」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「何?」
「いえ」
エレディトは前を見る。
「ぼくは、少し違ったかもしれません」
千綴は何も言わず、続きを待つ。
「今できることをする、というより」
そこで言葉が途切れる。
エレディトは一度息を吐いた。
「もっと、できるようにならないといけないと思っていました」
千綴は隣を見た。
エレディト自身も、今初めて言葉にしたような顔をしていた。
「だから走ってる?」
「それもあります」
「筋トレも?」
「はい」
「そっか」
千綴はそれ以上、踏み込まなかった。
何が理由なのか。
なぜ、そこまでできることを増やそうとしているのか。
聞こうと思えば聞ける。
けれど、まだそこまでの話をする関係ではない気もした。
それに、本人が今ようやく気づいたばかりのことを、こちらから無理に掘る必要もない。
「まあ、頑張るのは悪くないと思うけど」
「はい」
「やりすぎないくらいでね」
エレディトが少し笑う。
「千綴先輩もです」
「私?」
「走りすぎないように、と前に言っていました」
「あれ私が言ったやつじゃん」
「だから、同じです」
「……覚えてたんだ」
「はい」
千綴は少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
何気なくエレディトへ視線を向ける。
ほんの一瞬。
明るい髪。
横顔。
座っている肩の線。
見えているものは、それだけだった。
なのに。
輪郭の奥へ、何かが重なった。
以前、生徒会室で近くに立った時と同じ感覚。
一人なのに、一人だけでは終わらない。
ただ今回は、前よりほんの少しだけ輪郭が近かった。
感じた、というより。
一瞬だけ、見えた気がした。
「……」
「千綴先輩?」
エレディトがこちらを見る。
その瞬間には、もう何もなかった。
「いや」
千綴は前を見る。
「何でもない」
「大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと考え事しただけ」
意識を向ければ、もう一度分かるかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
すぐにやめた。
無理に確かめない。
自分から使おうとしない。
検査の時にも、直嗣にも言われたことだ。
分からないものを、分からないまま覚えておく。
それでいい。
千綴は一度深く息を吐き、立ち上がった。
「そろそろ戻ろうか」
「はい」
二人はもう一度軽く身体を動かし、公園を出た。
少しだけ並んで走り、やがて互いの帰る方向へ分かれた。
「じゃあ、また学校で」
「はい。お疲れさまでした」
千綴は片手を上げ、そのまま自分の道へ戻った。
午後の丘平商店は、朝とは違う暑さを抱えていた。
入口の引き戸が開くたび、外からぬるい空気が流れ込む。
千綴はレジ横の籠を整え、空いた棚へ商品を補充していった。
休日だからか、平日より客足の波が読みにくい。
しばらく誰も来ないと思えば、家族連れが続けて入り、そのあとに近所の年配客が重なる。
「千綴、そっち終わったら飲料見て」
「はい」
巴の声に返事をして、千綴は段ボールを畳む。
朝走った疲れは、もうほとんど残っていなかった。
少し脚が重いくらいで、仕事に支障が出るほどではない。
冷蔵ケースの前へ移動する。
減っている商品を確認し、奥から補充する。
扉を開けると、冷気が腕へ当たった。
「気持ちいい……」
「そこで涼まない」
後ろから巴の声が飛んでくる。
「涼んでないです。補充してます」
「今、完全に涼んでたでしょ」
「一秒くらいです」
「認めてるじゃん」
千綴は扉を閉めた。
巴が笑いながらレジへ戻っていく。
こういうやり取りも、いつも通りだった。
朝、エレディトと一緒に走ったこと。
その時に感じたこと。
考えようとすれば、頭の中へ戻ってくる。
けれど、今は仕事中だ。
千綴は棚へ視線を戻した。
分からないものを考え続けても仕方がない。
それは、もう何度も自分へ言い聞かせている。
客が一人、飲み物を持ってレジへ向かった。
千綴も作業を切り上げ、別の棚へ移る。
しばらくして客足が落ち着いた。
レジ前も静かになり、店内には冷蔵ケースの低い作動音だけが残る。
千綴は空になった段ボールをまとめ、店の奥へ運んだ。
戻ると、巴がレジ横で伝票を確認している。
「店長」
「ん?」
「エレディトって、休みの日いつも何してるんですか?」
巴の手が止まった。
「急だね」
「朝、会ったんですよ」
「ああ、走ってた?」
「はい。いつもより遠いところまで走ってるみたいで」
「へえ」
「一緒に少し走ったんですけど、普通に私より速かったです」
「そりゃ残念」
「別に勝負してないです」
「でも悔しそう」
「悔しくないですよ」
巴が口元を緩める。
「で?」
「で、って?」
「それだけ聞きたかったわけじゃないんでしょ」
千綴は一度黙った。
巴は伝票へ視線を戻す。
「別に言いたくないならいいけど」
「いや、そういうんじゃなくて」
千綴は少し考える。
「学校では、もう普通に馴染んでるんですよ」
「うん」
「クラスでも話す人いるみたいだし、放課後に友達とサッカーしてたりもして」
「じゃあ、学校の方は問題なさそうだね」
「はい。そこは別に気にしてないです」
言いながら、自分でも何を聞きたいのか整理する。
「休みの日も走って、筋トレもしてるらしくて」
「へえ」
「結構ちゃんとしてるなって最初は思ったんです」
「うん」
「でも、話してたら、なんか……」
言葉が止まる。
巴が顔を上げた。
「なんか?」
「空いてる時間、結構そういうことに使ってるのかなって」
千綴は自分で言ってから、少し眉を寄せた。
「いや、別に悪いことじゃないんですけど」
「そうだね」
「本人がやりたくてやってるなら、私が言うことでもないし」
「そうだね」
「……店長、さっきからそれしか言ってなくないですか」
「千綴が勝手に続けるから」
「聞いたの店長じゃん」
「私は『なんか?』って聞いただけ」
巴が笑う。
千綴は少しだけ肩を落とした。
「朝、話してたら、本人も少し焦ってるみたいで」
巴の表情が少し変わった。
さっきまでの軽い調子が薄くなる。
「本人がそう言ったの?」
「はっきりそう言ったわけじゃないですけど。できることを増やさないと、って思ってる感じで」
「なるほどね」
それ以上、巴はすぐに何も言わなかった。
千綴も黙る。
朝、言葉を止めたエレディトの顔を思い出す。
「家ではどうなんですか?」
千綴が訊く。
「普通だよ」
「普通?」
「ご飯食べるし、話しかければ話すし。うちの家族が構いすぎるとちょっと困った顔するけど」
「想像できる」
「でしょ」
巴が笑う。
「家にいる間ずっと筋トレしてるとか、そういうことはないよ」
「そっか」
「でも、時間が空くと走りに行ったりはしてるね」
千綴は小さく頷いた。
「やっぱり」
「気になる?」
「……少し」
答えてから、自分でも曖昧だと思った。
巴がこちらを見る。
「もしかして、気があるの?」
「は?」
「エレディトに」
「ないです」
即答だった。
巴が少し笑う。
「早いね」
「そういう意味じゃないですから」
「じゃあどういう意味?」
「だから――」
千綴は言いかけて止まった。
何が気になるのか。
朝からずっと、自分でも完全には言葉にしていなかった。
学校で孤立しているわけではない。
生活に困っているようにも見えない。
榊家にも馴染んでいる。
それなら、本来は何も心配する必要はない。
それでも。
「……ちょっと、頑張りすぎてる気がするんです」
口にすると、思っていたより素直な言葉になった。
巴は黙っている。
「学校でも普通にやってて、休みの日もかなり身体動かしてて」
「うん」
「朝も、私より全然余裕あったし。体力あるんだとは思うんですけど」
千綴はレジ横の小さな傷へ目を落とす。
「でも、できるようにならないとって言い方が、ちょっと気になって」
そこまで言って、ようやく自分でも分かった。
ただ珍しいから気になるわけではない。
留学生だからでもない。
異能らしい感覚を覚えた相手だからでもない。
少なくとも今、胸の中に残っているものは、それとは別だった。
「心配なんだ」
巴が言った。
千綴は顔を上げる。
「……たぶん」
「たぶん?」
「いや」
少し考える。
「心配です」
今度は、言い直した。
巴はそれを聞いて、軽く頷いた。
「じゃあ、誘えばいいじゃん」
「何に?」
「遊びに」
千綴は一瞬、意味が分からなかった。
「私が?」
「他に誰がいるの」
「いや、でも」
「学校で友達いるんでしょ?」
「いますけど」
「だったら、別に遊びに誘ったって変じゃないでしょ」
「そういう問題じゃなくて」
千綴は言葉を探す。
自分からエレディトを遊びへ誘う。
その発想が、今までほとんどなかった。
学校で会えば話す。
朝に会えば挨拶する。
丘平商店の前で会えば、少し立ち話をする。
それで十分だと思っていた。
「まだ、そんな長い付き合いじゃないし」
「長く付き合わないと遊んじゃ駄目なの?」
「そうじゃないですけど」
「じゃあいいじゃん」
巴は伝票を揃えた。
「千綴一人でどっか連れてけって話じゃないよ。学校の友達と遊ぶ時に、一緒にどうって聞けばいいだけ」
「……みんなで」
「その方が気楽でしょ」
千綴は黙った。
確かに、そのくらいなら不自然ではない。
ヴァシリオスとはすでにサッカーをしている。
綾乃とも昼食を一緒に取った。
全く知らない相手ではない。
それでも、自分から誘うとなると少し違って感じた。
「そんなに難しく考えること?」
「考えてないです」
「今すごい考えてる顔してるけど」
「店長が急に変なこと言うから」
「心配なら、息抜きさせればって言っただけ」
「簡単に言いますね」
「簡単なことだから」
巴がそう言ったところで、入口の引き戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
二人の声が重なる。
会話はそこで途切れた。
千綴はすぐにレジへ戻る。
買い物籠の中の商品を受け取り、一つずつ通していく。
飲み物。
菓子。
日用品。
「袋、いりますか?」
「お願い」
「はい」
いつものやり取りを続ける。
客を見送り、次の作業へ移る。
そのあとも、店の時間は普通に流れていった。
補充する。
レジに立つ。
空いた籠を戻す。
店先を軽く掃く。
仕事をしている間、ずっと考えていたわけではない。
けれど、ふと手が空くと、巴の言葉が戻ってきた。
誘えばいいじゃん。
千綴は棚の商品を整えながら、小さく息を吐いた。
「……遊び、か」
誰にも聞こえない声で呟く。
すぐに手を動かし直した。
まだ、何かを決めたわけではなかった。
丘平商店を出る頃には、空の色がすっかり薄くなっていた。
昼間の熱はまだ舗装に残っているが、風は少しだけ軽い。
千綴は店の前で一度伸びをした。
「お疲れさまでした」
振り返って声を掛ける。
店の奥から、巴の声が返ってきた。
「お疲れ。気をつけて帰りな」
「はい」
引き戸を閉める。
商店街には、夕方から夜へ移る途中の空気が残っていた。
まだ開いている店もあれば、シャッターを下ろし始めているところもある。自転車が何台か通り、少し離れたところでは買い物帰りらしい家族の声がした。
千綴は鞄を肩へ掛け直し、自宅の方へ歩き始める。
今日は朝から走った。
昼には店へ入り、いつも通り働いた。
身体はそれなりに疲れている。
それでも、嫌な疲れではなかった。
ただ。
ふとした拍子に、巴との会話が戻ってくる。
誘えばいいじゃん。
千綴は少し眉を寄せる。
「簡単に言うよな……」
別に難しいことではない。
それも分かっている。
今度みんなでどこか行く時、一緒にどうかと聞くだけだ。
それだけなのに、妙に考えてしまう。
まだ長い付き合いではない。
学校で会えば話す。
朝に会えば挨拶する。
丘平商店の前で少し立ち話をしたこともある。
それでも、自分から学校の外へ誘うとなると、少しだけ線を越えるような気がした。
千綴は小さく息を吐く。
考えすぎだ。
そう思って前を見る。
その時、道の向こうから足音が聞こえた。
一定の間隔で、舗装を蹴る音。
千綴は何となくそちらへ目を向ける。
街灯の下へ、人影が入った。
「あ」
明るい髪。
朝にも見た姿だった。
エレディトもこちらに気づき、少し速度を落とす。
「千綴先輩」
「また走ってるの?」
「はい」
千綴は一瞬、返事をしなかった。
朝も走っていた。
それも、千綴よりずっと余裕を残して。
昼間は何をしていたのか分からない。
それでも、少なくとも今また走っている。
「今日、朝も走ってたよね」
「はい」
「今も?」
「少しだけです」
エレディトはそう答えた。
息は上がっていない。
汗はかいているが、苦しそうには見えない。
だからこそ、朝ならそのまま感心して終わっていたかもしれない。
けれど、今は少し違った。
「……少しって、どのくらい?」
訊いてから、千綴は自分で少し驚いた。
聞き方が、思ったより細かい。
エレディトも一瞬だけ目を瞬く。
「まだ、そんなに走っていません」
「いや、時間じゃなくて」
千綴は言い直す。
「朝も走って、今も走ってるんだなって思って」
「はい」
千綴は足を止めた。
エレディトもそれに合わせて止まる。
少し離れた道路を車が通り過ぎる。
その音が遠ざかってから、千綴は口を開いた。
「エレディト」
「はい」
「ちょっと、やりすぎじゃない?」
言ってしまった。
声は強くしなかったつもりだった。
けれど、思ったより真っ直ぐな言葉になった。
エレディトはすぐには返事をしない。
千綴は少し視線を逸らした。
「いや、余計なお世話かもしれないけど」
「いえ」
「まだそんなに長く知ってるわけでもないし、何して過ごすかは本人の自由だし」
言葉を足すほど、言い訳みたいになる。
千綴はそこで一度止めた。
「でも、朝も結構走ってたじゃん」
「はい」
「朝も走ってたのに、今も走ってるなら、少しくらい休んでもいいんじゃないかなって」
エレディトは黙って聞いている。
千綴は続けた。
「頑張るのが悪いって言ってるわけじゃないよ」
「分かっています」
「ならいいけど」
そこで会話が止まる。
街灯の下で、二人の影が足元へ伸びていた。
千綴は少し気まずくなって、鞄の位置を直す。
「なんか、ごめん。急に」
「どうして謝るんですか?」
「いや。ちょっと言いすぎたかなって」
エレディトは少し考えるように視線を落とした。
「朝の話を、考えていました」
「朝?」
エレディトは少し間を置いてから続ける。
「たぶん、少し焦っていたんだと思います」
その言い方は、断言というより、自分で確かめながら話しているようだった。
「何に?」
千綴は訊いた。
エレディトはすぐには答えなかった。
数秒だけ沈黙が続く。
「うまく言えません」
「そっか」
千綴はそれ以上追わなかった。
朝と同じだった。
理由まで聞けるほど、まだ近い関係ではない。
ただ、本人が自分で少し気づいたなら、それでいい。
「じゃあ、少しだけ休むことも覚えた方がいいかもね」
千綴が言うと、エレディトがわずかに笑った。
「千綴先輩に言われると、少し不思議です」
「何が?」
「千綴先輩も、無理をする人に見えます」
「私が?」
「はい」
即答された。
今度は千綴が黙る番だった。
「どこが」
「学校もあって、店でも働いて、朝は走っています」
「それはエレディトもじゃん」
「だから、同じです」
言われて、千綴は返事に詰まる。
朝にも似たことを言われた。
走りすぎないように。
自分が以前言った言葉を、そのまま返された。
「私はちゃんと加減してるよ」
「本当に?」
「……たぶん」
言い切れなかった。
エレディトが少し笑う。
「ほら」
「何、その顔」
「同じです」
「同じにしないで」
「でも、千綴先輩も休んだ方がいいです」
「それは……まあ」
千綴は一度だけ空を見る。
すぐに視線を戻した。
「お互い気をつけるってことでいい?」
「はい」
「無理しない」
「はい」
「私も」
「はい」
「そこ、二回返事しなくていい」
エレディトがまた少し笑う。
千綴もつられて口元を緩めた。
完全に納得したわけではない。
エレディトが明日から急に運動量を減らすとも思えない。
自分だって、必要だと思えばまた走る。
それでも。
朝よりは、少しだけ言葉が届いた気がした。
そして、自分も見られていた。
それが少し意外だった。
千綴は鞄の肩紐を握り直す。
そこで、巴の言葉がもう一度浮かんだ。
誘えばいいじゃん。
今なら言える気がした。
「そうだ」
千綴が口を開く。
エレディトが顔を上げる。
「今度の休み、何か予定ある?」
「予定ですか?」
「うん」
ここまで言ってから、少しだけ迷う。
やっぱり変じゃないか。
そんな考えが一瞬だけ出た。
でも、もう口にした。
「みんなで、どこか遊びに行こうかなって思ってて」
まだ決まっていない話だった。
行き先も。
時間も。
誰に声を掛けるかも。
それでも、千綴は続けた。
「よかったら、エレディトも来る?」
エレディトが少し目を見開いた。
「ぼくも?」
「うん」
「いいんですか?」
「いいから聞いてるんだけど」
千綴は少し笑う。
「ヴァシリオスもいるし、綾乃もいるし。たぶんいつもの感じになると思う」
言いながら、まだ何も決めていないことを思い出す。
「まあ、詳しいことはこれからだけど」
「行きたいです」
返事は、思ったより早かった。
千綴は一度だけ瞬きをする。
「じゃあ決まり」
「はい」
「細かいことはヴァシリオスから連絡させる」
「ヴァシリオス先輩から?」
「たぶん一番そういうの好きだから」
エレディトが少し考え、それから頷いた。
「分かりました」
「じゃあ、そういうことで」
千綴は片手を軽く上げる。
「私は帰るね」
「はい。お疲れさまでした」
「エレディトも。今日はもうあんまり走らないこと」
「……はい」
「今、間があった」
「気をつけます」
「ならいい」
千綴は歩き出した。
数歩進んでから、後ろを振り返る。
エレディトはまだその場にいた。
視線が合う。
千綴はもう一度だけ手を上げ、そのまま前を向いた。
帰り道を歩きながら、少しだけ肩の力が抜けていることに気づく。
誘う前は、あれだけ考えていた。
口にしてしまえば、思っていたほど大げさなことではなかった。
前方の信号が青へ変わる。
千綴は歩調を少し速め、そのまま自宅へ向かった。
直嗣の端末に、追加調査の途中経過が届いていた。
最初に開いたのは、新辺周辺で出ている不審人物の情報だった。
千綴から聞いた時点では、写真もなく、軍人らしい人物を見たという書き込みがいくつかあるだけだった。それでも調査をかけたことで、公開情報や地域の書き込み、既存の相談記録まで含めて、似た目撃が拾い直されている。
直嗣は一件ずつ目を通した。
明らかに特徴の違うものは、すでに候補から外されている。
残っているものには、目撃された日時と場所が添えられていた。書き方も見た場所もばらついているが、その中には顔の傷について触れているものもある。
ただし、鮮明な写真はない。
同じ人物を見たと断定できる材料もない。
直嗣は画面を指で送り、並んだ位置情報を確認する。
数が増えたからといって、それだけで一人の人間へ収束するわけではない。
それでも、最初に見た時よりは輪郭が出てきていた。
次の資料を開く。
ブラショヴェアヌ家の親族失踪について、改めて洗い直した結果だった。
近年の失踪記録を中心に、発生時期と場所、その時点で確認できる状況が整理されている。
直嗣はしばらく読み進めたあと、一つの項目で指を止めた。
軍歴を持つ人物。
複数ある記録のうち、一部からそこへ繋がる情報が出ている。
まだ人物の詳細は揃っていない。
各失踪とどう関わっているのかも、確認中のままだ。
直嗣は少しだけ椅子へ背を預けた。
新辺では、軍人らしい人物の目撃が複数残っている。
ブラショヴェアヌ家の失踪側にも、軍歴を持つ人物へ繋がる情報が出てきた。
同じ言葉が、二つの調査に現れた。
だからといって、そこで結び付けることはできない。
軍歴を持つ人間など一人ではない。新辺で見られた人物が本当に軍人なのかも、まだ確認できていない。
共通点が一つ出ただけだった。
直嗣はもう一度、二つの資料を見比べた。
新辺側では、残っている目撃について日時と位置の整理を続ける。顔の傷について触れた情報も、同じ人物を示しているのか確認する。
家系側では、軍歴を持つ人物の所属記録を洗い、除隊後の足取りまで追うことになっている。
そこまで確認してから、直嗣は端末を机へ置いた。
最初に千綴から話を聞いた時より、材料は増えている。
ただ、まだ一本の線にはならない。
今はそれでいい。
二つを別々に追い、人物の情報が揃ったところで照合する。
結論を先に作る必要はなかった。
直嗣は少しして端末を取り直し、追加確認中の項目へ目を戻した。
2026/08/16 直嗣視点での通読性を調整




