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空の結び目  作者: 夕花
20/29

- 20 -

 休日の朝は、平日より街の動きが遅かった。


 千綴は一定の呼吸を保ちながら、住宅地を抜けていく。


 夏休みの終わり頃に走り始めた時より、身体はずいぶん慣れていた。最初は学校へ続く坂の途中で折り返していたが、今では同じ距離なら、前ほど意識して息を整えなくても走れる。


 だからといって、無理に速くするつもりはなかった。


 続けること。


 それが最初から決めていたことだった。


 靴底が舗装を叩く音に合わせて、千綴は前を見る。


 朝の空気は少し涼しくなっていた。夏の名残はまだ強いが、日差しが高くなる前なら走りやすい。


 ふと、直嗣へ相談した時のことを思い出す。


 新辺で見かけたという軍人らしい人物。


 事故で休んでいる一年生。


 それから、エレディトに感じた、説明しにくい違和感。


 どれも、関係があるとは分からない。


 相談したあと、自分の中では一度区切りをつけたつもりだった。


 朝倉が調べてみると言ってくれた。


 なら、今の自分にできることはない。


 そう思っている。


 それでも、走っていると、ふと頭の中へ戻ってくる。


 自分から追加で連絡はしていない。


 朝倉からも、今のところ連絡はない。


 何もないなら、それでいい。


 本当にただの噂で、一年生の事故も別の話で、エレディトについて感じたことも自分の異能とは関係がない。


 それなら、その方がいいに決まっている。


 千綴は小さく息を吐いた。


「……考えすぎかな」


 声に出してみても、答えは出ない。


 相談したことを後悔しているわけではなかった。


 むしろ、分からないことを一人で抱えなくていいと分かっただけでも、前よりは楽だった。


 だから今は、待てばいい。


 そのはずだった。


 前方から、軽い足音が近づいてきた。


 千綴は顔を上げる。


 明るい髪が、朝の光の中で揺れていた。


「あ」


 向こうも気づいたらしい。


 走ってきたエレディトが、少しだけ速度を落とす。


「千綴先輩」


「おはよう」


「おはようございます」


 二人とも足は止めなかった。


 すれ違う直前、千綴が少しだけ顔を向ける。


「今日はこっちまで来てるんだ」


「はい。最近、前より遠くまで走るようにしています」


 エレディトはそう答えた。


 このまま反対方向へ走っていくのかと思ったが、少し進んだところで振り返る。


「千綴先輩は、まだ走りますか?」


「うん。今日はもう少しだけ」


「一緒に走りますか?」


「いいよ」


 エレディトが向きを変える。


 二人は並んで走り始めた。


 最初のうちは、千綴にも余裕があった。


 エレディトは息が乱れていない。足運びも一定で、地面を蹴る音が軽い。


 千綴も同じくらいの速さを保つ。


 少し速い気はしたが、ついていけないほどではない。


 そう思った。


 さらに進む。


 呼吸が深くなる。


 脚にも、少しずつ重さが出てきた。


 隣を見る。


 エレディトの様子はほとんど変わらない。


 千綴は前へ視線を戻した。


 もう少しくらいなら。


 そう思って速度を落とさず走る。


 けれど、身体は正直だった。


 一度、息を吸う間隔が崩れる。


 次の呼吸が少し浅くなった。


 エレディトがこちらを見る。


「千綴先輩」


「ん?」


「少し速かったですか」


「いや、まだ大丈夫」


 答えた直後、エレディトの速度がわずかに落ちた。


「あ」


「このくらいならどうですか?」


「……気づいてた?」


「少し」


 千綴は苦笑する。


「そっち、結構速いね」


「そうですか?」


「そうだよ」


 悔しいというほどではない。


 むしろ、素直に感心した。


 同じように走っているつもりでも、身体の使い方も持久力も違う。


 少し前までなら、もっと早く息が上がっていただろう。


 自分も続ければ、もう少しくらいは走れるようになるかもしれない。


「私も、もうちょっと頑張るかな」


 千綴が言うと、エレディトが顔を向けた。


「千綴先輩も、かなり走れるようになっています」


「最初は学校の坂の途中で死にそうになってたからね」


「死にそう?」


「言い方。ほんとに死にそうだったわけじゃない」


 エレディトが少し笑った。


 そのあとしばらく、二人はほとんど話さずに走った。


 靴音と呼吸だけが続く。


 速度を落としたとはいえ、会話を続けながら走るほど余裕があるわけではない。


 道の脇に小さな公園が見えてきたところで、千綴が速度を緩めた。


「ちょっと休憩しない?」


「はい」


 二人は歩きに変え、そのまま公園へ入った。


 ベンチの近くまで行って足を止める。


 千綴は腰へ手を当て、ゆっくり息を整えた。


「やっぱり速いって」


「すみません」


「謝るほどじゃないよ」


 呼吸が落ち着いてから、千綴はベンチへ腰を下ろした。


 エレディトも少し間を空けて隣へ座る。


 朝の公園には、まだほとんど人がいなかった。


「休みの日も、朝は走ってるの?」


 千綴が訊く。


「はい」


「他は何してる?」


 エレディトが少し考える。


「学校のことをしたり、日本語を勉強したりします」


「うん」


「時間があれば、筋力トレーニングもします」


「結構ちゃんとしてるんだ」


「足りないので」


 千綴は横を見る。


「足りない?」


「体力とか、筋力とかです」


「十分ありそうだけど」


「まだです」


 返事は早かった。


 千綴はそれ以上すぐには言わず、前へ視線を戻す。


 学校では普通にクラスメイトと話している。


 ヴァシリオスに誘われてサッカーもしていた。


 鈴や悠司から聞いた限りでも、学校生活にはもうかなり馴染んでいる。


 だから、休日も友人と出掛けたり、何か別のことをして過ごしているのかと思っていた。


「休みの日って、そういうのが多いんだ」


「そうですね」


「走ったり、鍛えたり」


「はい」


 真面目なのだと思えば、それまでだ。


 自分だって、検査から帰ったあとすぐに走り始めた。


 巴にも呆れられた。


 人のことを言える立場ではない。


 それでも、少し引っ掛かった。


「千綴先輩は」


「ん?」


「どうして走っているんですか?」


 千綴は少しだけ目を瞬いた。


「私?」


「はい」


 考える。


 最初に走り始めた理由なら、はっきりしている。


 逃げるため。


 もう一度何かに巻き込まれた時、少しでも自分で動けるようにするため。


 けれど、そのまま答えるには、説明しなければならないことが多すぎる。


 千綴は少し考えた。


「今、自分にできることをしてるだけかな」


 言ってから、自分でも妙に簡単な答えだと思った。


 大げさな意味はない。


 走れるなら走る。


 分からないことは勝手に決めつけない。


 危ないと思ったら逃げる。


 相談できる相手がいるなら相談する。


 今の自分には、そのくらいしかできない。


「できることを?」


「うん。何かあった時に、何もできませんでしたってなるの嫌だし。でも、急に何でもできるようになるわけじゃないから」


 千綴は前を見たまま続ける。


「だから、今できることだけやっとけばいいかなって」


 隣から返事がない。


 千綴は横を見る。


 エレディトは少し考えているようだった。


「……そうですね」


 返事は、少し遅れて返ってきた。


「何?」


「いえ」


 エレディトは前を見る。


「ぼくは、少し違ったかもしれません」


 千綴は何も言わず、続きを待つ。


「今できることをする、というより」


 そこで言葉が途切れる。


 エレディトは一度息を吐いた。


「もっと、できるようにならないといけないと思っていました」


 千綴は隣を見た。


 エレディト自身も、今初めて言葉にしたような顔をしていた。


「だから走ってる?」


「それもあります」


「筋トレも?」


「はい」


「そっか」


 千綴はそれ以上、踏み込まなかった。


 何が理由なのか。


 なぜ、そこまでできることを増やそうとしているのか。


 聞こうと思えば聞ける。


 けれど、まだそこまでの話をする関係ではない気もした。


 それに、本人が今ようやく気づいたばかりのことを、こちらから無理に掘る必要もない。


「まあ、頑張るのは悪くないと思うけど」


「はい」


「やりすぎないくらいでね」


 エレディトが少し笑う。


「千綴先輩もです」


「私?」


「走りすぎないように、と前に言っていました」


「あれ私が言ったやつじゃん」


「だから、同じです」


「……覚えてたんだ」


「はい」


 千綴は少しだけ口元を緩めた。


 その時だった。


 何気なくエレディトへ視線を向ける。


 ほんの一瞬。


 明るい髪。


 横顔。


 座っている肩の線。


 見えているものは、それだけだった。


 なのに。


 輪郭の奥へ、何かが重なった。


 以前、生徒会室で近くに立った時と同じ感覚。


 一人なのに、一人だけでは終わらない。


 ただ今回は、前よりほんの少しだけ輪郭が近かった。


 感じた、というより。


 一瞬だけ、見えた気がした。


「……」


「千綴先輩?」


 エレディトがこちらを見る。


 その瞬間には、もう何もなかった。


「いや」


 千綴は前を見る。


「何でもない」


「大丈夫ですか?」


「うん。ちょっと考え事しただけ」


 意識を向ければ、もう一度分かるかもしれない。


 そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。


 すぐにやめた。


 無理に確かめない。


 自分から使おうとしない。


 検査の時にも、直嗣にも言われたことだ。


 分からないものを、分からないまま覚えておく。


 それでいい。


 千綴は一度深く息を吐き、立ち上がった。


「そろそろ戻ろうか」


「はい」


 二人はもう一度軽く身体を動かし、公園を出た。


 少しだけ並んで走り、やがて互いの帰る方向へ分かれた。


「じゃあ、また学校で」


「はい。お疲れさまでした」


 千綴は片手を上げ、そのまま自分の道へ戻った。





 午後の丘平商店は、朝とは違う暑さを抱えていた。


 入口の引き戸が開くたび、外からぬるい空気が流れ込む。


 千綴はレジ横の籠を整え、空いた棚へ商品を補充していった。


 休日だからか、平日より客足の波が読みにくい。


 しばらく誰も来ないと思えば、家族連れが続けて入り、そのあとに近所の年配客が重なる。


「千綴、そっち終わったら飲料見て」


「はい」


 巴の声に返事をして、千綴は段ボールを畳む。


 朝走った疲れは、もうほとんど残っていなかった。


 少し脚が重いくらいで、仕事に支障が出るほどではない。


 冷蔵ケースの前へ移動する。


 減っている商品を確認し、奥から補充する。


 扉を開けると、冷気が腕へ当たった。


「気持ちいい……」


「そこで涼まない」


 後ろから巴の声が飛んでくる。


「涼んでないです。補充してます」


「今、完全に涼んでたでしょ」


「一秒くらいです」


「認めてるじゃん」


 千綴は扉を閉めた。


 巴が笑いながらレジへ戻っていく。


 こういうやり取りも、いつも通りだった。


 朝、エレディトと一緒に走ったこと。


 その時に感じたこと。


 考えようとすれば、頭の中へ戻ってくる。


 けれど、今は仕事中だ。


 千綴は棚へ視線を戻した。


 分からないものを考え続けても仕方がない。


 それは、もう何度も自分へ言い聞かせている。


 客が一人、飲み物を持ってレジへ向かった。


 千綴も作業を切り上げ、別の棚へ移る。


 しばらくして客足が落ち着いた。


 レジ前も静かになり、店内には冷蔵ケースの低い作動音だけが残る。


 千綴は空になった段ボールをまとめ、店の奥へ運んだ。


 戻ると、巴がレジ横で伝票を確認している。


「店長」


「ん?」


「エレディトって、休みの日いつも何してるんですか?」


 巴の手が止まった。


「急だね」


「朝、会ったんですよ」


「ああ、走ってた?」


「はい。いつもより遠いところまで走ってるみたいで」


「へえ」


「一緒に少し走ったんですけど、普通に私より速かったです」


「そりゃ残念」


「別に勝負してないです」


「でも悔しそう」


「悔しくないですよ」


 巴が口元を緩める。


「で?」


「で、って?」


「それだけ聞きたかったわけじゃないんでしょ」


 千綴は一度黙った。


 巴は伝票へ視線を戻す。


「別に言いたくないならいいけど」


「いや、そういうんじゃなくて」


 千綴は少し考える。


「学校では、もう普通に馴染んでるんですよ」


「うん」


「クラスでも話す人いるみたいだし、放課後に友達とサッカーしてたりもして」


「じゃあ、学校の方は問題なさそうだね」


「はい。そこは別に気にしてないです」


 言いながら、自分でも何を聞きたいのか整理する。


「休みの日も走って、筋トレもしてるらしくて」


「へえ」


「結構ちゃんとしてるなって最初は思ったんです」


「うん」


「でも、話してたら、なんか……」


 言葉が止まる。


 巴が顔を上げた。


「なんか?」


「空いてる時間、結構そういうことに使ってるのかなって」


 千綴は自分で言ってから、少し眉を寄せた。


「いや、別に悪いことじゃないんですけど」


「そうだね」


「本人がやりたくてやってるなら、私が言うことでもないし」


「そうだね」


「……店長、さっきからそれしか言ってなくないですか」


「千綴が勝手に続けるから」


「聞いたの店長じゃん」


「私は『なんか?』って聞いただけ」


 巴が笑う。


 千綴は少しだけ肩を落とした。


「朝、話してたら、本人も少し焦ってるみたいで」


 巴の表情が少し変わった。


 さっきまでの軽い調子が薄くなる。


「本人がそう言ったの?」


「はっきりそう言ったわけじゃないですけど。できることを増やさないと、って思ってる感じで」


「なるほどね」


 それ以上、巴はすぐに何も言わなかった。


 千綴も黙る。


 朝、言葉を止めたエレディトの顔を思い出す。


「家ではどうなんですか?」


 千綴が訊く。


「普通だよ」


「普通?」


「ご飯食べるし、話しかければ話すし。うちの家族が構いすぎるとちょっと困った顔するけど」


「想像できる」


「でしょ」


 巴が笑う。


「家にいる間ずっと筋トレしてるとか、そういうことはないよ」


「そっか」


「でも、時間が空くと走りに行ったりはしてるね」


 千綴は小さく頷いた。


「やっぱり」


「気になる?」


「……少し」


 答えてから、自分でも曖昧だと思った。


 巴がこちらを見る。


「もしかして、気があるの?」


「は?」


「エレディトに」


「ないです」


 即答だった。


 巴が少し笑う。


「早いね」


「そういう意味じゃないですから」


「じゃあどういう意味?」


「だから――」


 千綴は言いかけて止まった。


 何が気になるのか。


 朝からずっと、自分でも完全には言葉にしていなかった。


 学校で孤立しているわけではない。


 生活に困っているようにも見えない。


 榊家にも馴染んでいる。


 それなら、本来は何も心配する必要はない。


 それでも。


「……ちょっと、頑張りすぎてる気がするんです」


 口にすると、思っていたより素直な言葉になった。


 巴は黙っている。


「学校でも普通にやってて、休みの日もかなり身体動かしてて」


「うん」


「朝も、私より全然余裕あったし。体力あるんだとは思うんですけど」


 千綴はレジ横の小さな傷へ目を落とす。


「でも、できるようにならないとって言い方が、ちょっと気になって」


 そこまで言って、ようやく自分でも分かった。


 ただ珍しいから気になるわけではない。


 留学生だからでもない。


 異能らしい感覚を覚えた相手だからでもない。


 少なくとも今、胸の中に残っているものは、それとは別だった。


「心配なんだ」


 巴が言った。


 千綴は顔を上げる。


「……たぶん」


「たぶん?」


「いや」


 少し考える。


「心配です」


 今度は、言い直した。


 巴はそれを聞いて、軽く頷いた。


「じゃあ、誘えばいいじゃん」


「何に?」


「遊びに」


 千綴は一瞬、意味が分からなかった。


「私が?」


「他に誰がいるの」


「いや、でも」


「学校で友達いるんでしょ?」


「いますけど」


「だったら、別に遊びに誘ったって変じゃないでしょ」


「そういう問題じゃなくて」


 千綴は言葉を探す。


 自分からエレディトを遊びへ誘う。


 その発想が、今までほとんどなかった。


 学校で会えば話す。


 朝に会えば挨拶する。


 丘平商店の前で会えば、少し立ち話をする。


 それで十分だと思っていた。


「まだ、そんな長い付き合いじゃないし」


「長く付き合わないと遊んじゃ駄目なの?」


「そうじゃないですけど」


「じゃあいいじゃん」


 巴は伝票を揃えた。


「千綴一人でどっか連れてけって話じゃないよ。学校の友達と遊ぶ時に、一緒にどうって聞けばいいだけ」


「……みんなで」


「その方が気楽でしょ」


 千綴は黙った。


 確かに、そのくらいなら不自然ではない。


 ヴァシリオスとはすでにサッカーをしている。


 綾乃とも昼食を一緒に取った。


 全く知らない相手ではない。


 それでも、自分から誘うとなると少し違って感じた。


「そんなに難しく考えること?」


「考えてないです」


「今すごい考えてる顔してるけど」


「店長が急に変なこと言うから」


「心配なら、息抜きさせればって言っただけ」


「簡単に言いますね」


「簡単なことだから」


 巴がそう言ったところで、入口の引き戸が開いた。


「いらっしゃいませ」


 二人の声が重なる。


 会話はそこで途切れた。


 千綴はすぐにレジへ戻る。


 買い物籠の中の商品を受け取り、一つずつ通していく。


 飲み物。


 菓子。


 日用品。


「袋、いりますか?」


「お願い」


「はい」


 いつものやり取りを続ける。


 客を見送り、次の作業へ移る。


 そのあとも、店の時間は普通に流れていった。


 補充する。


 レジに立つ。


 空いた籠を戻す。


 店先を軽く掃く。


 仕事をしている間、ずっと考えていたわけではない。


 けれど、ふと手が空くと、巴の言葉が戻ってきた。


 誘えばいいじゃん。


 千綴は棚の商品を整えながら、小さく息を吐いた。


「……遊び、か」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 すぐに手を動かし直した。


 まだ、何かを決めたわけではなかった。





 丘平商店を出る頃には、空の色がすっかり薄くなっていた。


 昼間の熱はまだ舗装に残っているが、風は少しだけ軽い。


 千綴は店の前で一度伸びをした。


「お疲れさまでした」


 振り返って声を掛ける。


 店の奥から、巴の声が返ってきた。


「お疲れ。気をつけて帰りな」


「はい」


 引き戸を閉める。


 商店街には、夕方から夜へ移る途中の空気が残っていた。


 まだ開いている店もあれば、シャッターを下ろし始めているところもある。自転車が何台か通り、少し離れたところでは買い物帰りらしい家族の声がした。


 千綴は鞄を肩へ掛け直し、自宅の方へ歩き始める。


 今日は朝から走った。


 昼には店へ入り、いつも通り働いた。


 身体はそれなりに疲れている。


 それでも、嫌な疲れではなかった。


 ただ。


 ふとした拍子に、巴との会話が戻ってくる。


 誘えばいいじゃん。


 千綴は少し眉を寄せる。


「簡単に言うよな……」


 別に難しいことではない。


 それも分かっている。


 今度みんなでどこか行く時、一緒にどうかと聞くだけだ。


 それだけなのに、妙に考えてしまう。


 まだ長い付き合いではない。


 学校で会えば話す。


 朝に会えば挨拶する。


 丘平商店の前で少し立ち話をしたこともある。


 それでも、自分から学校の外へ誘うとなると、少しだけ線を越えるような気がした。


 千綴は小さく息を吐く。


 考えすぎだ。


 そう思って前を見る。


 その時、道の向こうから足音が聞こえた。


 一定の間隔で、舗装を蹴る音。


 千綴は何となくそちらへ目を向ける。


 街灯の下へ、人影が入った。


「あ」


 明るい髪。


 朝にも見た姿だった。


 エレディトもこちらに気づき、少し速度を落とす。


「千綴先輩」


「また走ってるの?」


「はい」


 千綴は一瞬、返事をしなかった。


 朝も走っていた。


 それも、千綴よりずっと余裕を残して。


 昼間は何をしていたのか分からない。


 それでも、少なくとも今また走っている。


「今日、朝も走ってたよね」


「はい」


「今も?」


「少しだけです」


 エレディトはそう答えた。


 息は上がっていない。


 汗はかいているが、苦しそうには見えない。


 だからこそ、朝ならそのまま感心して終わっていたかもしれない。


 けれど、今は少し違った。


「……少しって、どのくらい?」


 訊いてから、千綴は自分で少し驚いた。


 聞き方が、思ったより細かい。


 エレディトも一瞬だけ目を瞬く。


「まだ、そんなに走っていません」


「いや、時間じゃなくて」


 千綴は言い直す。


「朝も走って、今も走ってるんだなって思って」


「はい」


 千綴は足を止めた。


 エレディトもそれに合わせて止まる。


 少し離れた道路を車が通り過ぎる。


 その音が遠ざかってから、千綴は口を開いた。


「エレディト」


「はい」


「ちょっと、やりすぎじゃない?」


 言ってしまった。


 声は強くしなかったつもりだった。


 けれど、思ったより真っ直ぐな言葉になった。


 エレディトはすぐには返事をしない。


 千綴は少し視線を逸らした。


「いや、余計なお世話かもしれないけど」


「いえ」


「まだそんなに長く知ってるわけでもないし、何して過ごすかは本人の自由だし」


 言葉を足すほど、言い訳みたいになる。


 千綴はそこで一度止めた。


「でも、朝も結構走ってたじゃん」


「はい」


「朝も走ってたのに、今も走ってるなら、少しくらい休んでもいいんじゃないかなって」


 エレディトは黙って聞いている。


 千綴は続けた。


「頑張るのが悪いって言ってるわけじゃないよ」


「分かっています」


「ならいいけど」


 そこで会話が止まる。


 街灯の下で、二人の影が足元へ伸びていた。


 千綴は少し気まずくなって、鞄の位置を直す。


「なんか、ごめん。急に」


「どうして謝るんですか?」


「いや。ちょっと言いすぎたかなって」


 エレディトは少し考えるように視線を落とした。


「朝の話を、考えていました」


「朝?」


 エレディトは少し間を置いてから続ける。


「たぶん、少し焦っていたんだと思います」


 その言い方は、断言というより、自分で確かめながら話しているようだった。


「何に?」


 千綴は訊いた。


 エレディトはすぐには答えなかった。


 数秒だけ沈黙が続く。


「うまく言えません」


「そっか」


 千綴はそれ以上追わなかった。


 朝と同じだった。


 理由まで聞けるほど、まだ近い関係ではない。


 ただ、本人が自分で少し気づいたなら、それでいい。


「じゃあ、少しだけ休むことも覚えた方がいいかもね」


 千綴が言うと、エレディトがわずかに笑った。


「千綴先輩に言われると、少し不思議です」


「何が?」


「千綴先輩も、無理をする人に見えます」


「私が?」


「はい」


 即答された。


 今度は千綴が黙る番だった。


「どこが」


「学校もあって、店でも働いて、朝は走っています」


「それはエレディトもじゃん」


「だから、同じです」


 言われて、千綴は返事に詰まる。


 朝にも似たことを言われた。


 走りすぎないように。


 自分が以前言った言葉を、そのまま返された。


「私はちゃんと加減してるよ」


「本当に?」


「……たぶん」


 言い切れなかった。


 エレディトが少し笑う。


「ほら」


「何、その顔」


「同じです」


「同じにしないで」


「でも、千綴先輩も休んだ方がいいです」


「それは……まあ」


 千綴は一度だけ空を見る。


 すぐに視線を戻した。


「お互い気をつけるってことでいい?」


「はい」


「無理しない」


「はい」


「私も」


「はい」


「そこ、二回返事しなくていい」


 エレディトがまた少し笑う。


 千綴もつられて口元を緩めた。


 完全に納得したわけではない。


 エレディトが明日から急に運動量を減らすとも思えない。


 自分だって、必要だと思えばまた走る。


 それでも。


 朝よりは、少しだけ言葉が届いた気がした。


 そして、自分も見られていた。


 それが少し意外だった。


 千綴は鞄の肩紐を握り直す。


 そこで、巴の言葉がもう一度浮かんだ。


 誘えばいいじゃん。


 今なら言える気がした。


「そうだ」


 千綴が口を開く。


 エレディトが顔を上げる。


「今度の休み、何か予定ある?」


「予定ですか?」


「うん」


 ここまで言ってから、少しだけ迷う。


 やっぱり変じゃないか。


 そんな考えが一瞬だけ出た。


 でも、もう口にした。


「みんなで、どこか遊びに行こうかなって思ってて」


 まだ決まっていない話だった。


 行き先も。


 時間も。


 誰に声を掛けるかも。


 それでも、千綴は続けた。


「よかったら、エレディトも来る?」


 エレディトが少し目を見開いた。


「ぼくも?」


「うん」


「いいんですか?」


「いいから聞いてるんだけど」


 千綴は少し笑う。


「ヴァシリオスもいるし、綾乃もいるし。たぶんいつもの感じになると思う」


 言いながら、まだ何も決めていないことを思い出す。


「まあ、詳しいことはこれからだけど」


「行きたいです」


 返事は、思ったより早かった。


 千綴は一度だけ瞬きをする。


「じゃあ決まり」


「はい」


「細かいことはヴァシリオスから連絡させる」


「ヴァシリオス先輩から?」


「たぶん一番そういうの好きだから」


 エレディトが少し考え、それから頷いた。


「分かりました」


「じゃあ、そういうことで」


 千綴は片手を軽く上げる。


「私は帰るね」


「はい。お疲れさまでした」


「エレディトも。今日はもうあんまり走らないこと」


「……はい」


「今、間があった」


「気をつけます」


「ならいい」


 千綴は歩き出した。


 数歩進んでから、後ろを振り返る。


 エレディトはまだその場にいた。


 視線が合う。


 千綴はもう一度だけ手を上げ、そのまま前を向いた。


 帰り道を歩きながら、少しだけ肩の力が抜けていることに気づく。


 誘う前は、あれだけ考えていた。


 口にしてしまえば、思っていたほど大げさなことではなかった。


 前方の信号が青へ変わる。


 千綴は歩調を少し速め、そのまま自宅へ向かった。





 直嗣の端末に、追加調査の途中経過が届いていた。


 最初に開いたのは、新辺周辺で出ている不審人物の情報だった。


 千綴から聞いた時点では、写真もなく、軍人らしい人物を見たという書き込みがいくつかあるだけだった。それでも調査をかけたことで、公開情報や地域の書き込み、既存の相談記録まで含めて、似た目撃が拾い直されている。


 直嗣は一件ずつ目を通した。


 明らかに特徴の違うものは、すでに候補から外されている。


 残っているものには、目撃された日時と場所が添えられていた。書き方も見た場所もばらついているが、その中には顔の傷について触れているものもある。


 ただし、鮮明な写真はない。


 同じ人物を見たと断定できる材料もない。


 直嗣は画面を指で送り、並んだ位置情報を確認する。


 数が増えたからといって、それだけで一人の人間へ収束するわけではない。


 それでも、最初に見た時よりは輪郭が出てきていた。


 次の資料を開く。


 ブラショヴェアヌ家の親族失踪について、改めて洗い直した結果だった。


 近年の失踪記録を中心に、発生時期と場所、その時点で確認できる状況が整理されている。


 直嗣はしばらく読み進めたあと、一つの項目で指を止めた。


 軍歴を持つ人物。


 複数ある記録のうち、一部からそこへ繋がる情報が出ている。


 まだ人物の詳細は揃っていない。


 各失踪とどう関わっているのかも、確認中のままだ。


 直嗣は少しだけ椅子へ背を預けた。


 新辺では、軍人らしい人物の目撃が複数残っている。


 ブラショヴェアヌ家の失踪側にも、軍歴を持つ人物へ繋がる情報が出てきた。


 同じ言葉が、二つの調査に現れた。


 だからといって、そこで結び付けることはできない。


 軍歴を持つ人間など一人ではない。新辺で見られた人物が本当に軍人なのかも、まだ確認できていない。


 共通点が一つ出ただけだった。


 直嗣はもう一度、二つの資料を見比べた。


 新辺側では、残っている目撃について日時と位置の整理を続ける。顔の傷について触れた情報も、同じ人物を示しているのか確認する。


 家系側では、軍歴を持つ人物の所属記録を洗い、除隊後の足取りまで追うことになっている。


 そこまで確認してから、直嗣は端末を机へ置いた。


 最初に千綴から話を聞いた時より、材料は増えている。


 ただ、まだ一本の線にはならない。


 今はそれでいい。


 二つを別々に追い、人物の情報が揃ったところで照合する。


 結論を先に作る必要はなかった。


 直嗣は少しして端末を取り直し、追加確認中の項目へ目を戻した。


2026/08/16 直嗣視点での通読性を調整

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