第六十二話 前夜
夜が深まってから、宿を出た。
王都の石畳の道を一人で歩いた。クルトに「少し一人でいたい」と言ってきた。月が出ていた。
高い建物の向こうに、大聖堂の尖塔が見えた。明日、あの前の広場が会場になる。
(明日が来る)
俺は立ち止まった。石の手すりの前に立った。城壁の外側まで見えた。
三上哲也として死んだのは、六十七歳だった。手術台の上だった。執刀中に自分の心臓が止まった。最後に見えたのは術野の明かりだった。
最初に失った患者は、研修医の三年目だった。交通事故で運ばれてきた二十代の男性だった。全力を尽くした。でも止まらなかった。
その後も、四十年間、続いた。救えた命と救えなかった命の両方が積み上がった。
(あの時救えなかった人たちが、私を今ここに送ったかもしれない)
おかしな考えだとは思わなかった。医師として死んで、医師として転生した。前世でできなかったことを続けるために。そういうことかもしれないし、違うかもしれない。でも今、それを考える意味はない。
明日、一人の命を救うことで、答えを出す。
三上哲也の四十八年間と、レオン・ヴェルディアの十六年間が、明日の朝に向かって同じ方向を向いている。
(これが統合というものかもしれない)
宿に戻った。燭台をつけた。手帳を開いた。
手術の手順を書いた。
診断から。「術野の目」で現在の状態を確認。菌の分布域を特定。ミリアの薬草調合との組み合わせを確認。患者の体力と投与量の調整。経過観察の指針。
前世でも、大きな手術の前夜には必ずこれをやっていた。書くことで頭が整理される。書かれた言葉は記録になる。記録は証拠になる。証拠は守りになる。
最後に一行書いた。
「これが私の最後の独白。明日からはレオン・ヴェルディアとして生きる」
手帳を閉じた。
燭台を消そうとして、止まった。
(三上哲也として生きた時間は終わった話だ。でも四十八年で培ったものは、今ここにある。どちらでもなく、どちらでもある。それは変わらない)
消した。
暗闇の中で目を閉じた。
外科医として最後の大手術の前に感じていた静けさと、今が同じだった。怖くない。ただ静かだ。何をすべきか分かっている。なぜここにいるか分かっている。
明日、始める。




