第7話 不気味なバランス
遊園地の出来事を経て、四人の間には奇妙な「バランス」が生まれていた 。
「バランス」という言葉は、正確ではないかもしれない 。
より正確な言い方をするならば、誰もが他人の知っていることを知っているのに、誰も最初に口火を切ろうとしない状態だ 。
結月は、陽葵が自分と朔の過去の交際を知っていると気づいている 。
陽葵は、結月に尾行されていることを知っている 。
詩織はすべてを知っているが、自ら触れようとはしない 。
朔は彼女たちがすべてを知っていることに気づきながら、気づかない振りをしている 。
この暗黙の沈黙は、まるで一層の薄氷のようだ 。
誰もがその上を慎重に歩き、踏み抜いて冷たい水の中に落ちることを恐れている 。
月曜日の午後、生徒会室 。
結月は副会長専用の椅子に座り、目の前に書類の山を広げていたが、文字は一つも頭に入ってこなかった 。
脳裏には土曜日の遊園地の光景が、何度もリフレインしている―― 。
陽葵が朔の指を握ったこと 。
朔がそれを振り払わなかったこと 。
詩織が容赦なく、皆の前で自分を指弾したこと 。
そして、自分自身のこと―― 。
あんなところで、泣いてしまった 。
観覧車の下で、三人の目の前で、あろうことか泣いてしまった 。
神城結月。生徒会副会長、全校生徒が認める高嶺の花が、公共の場で涙を流したのだ 。
恥辱 。
だが、屈辱以上に彼女を苦しめているのは、あの時の朔の表情だった 。
彼は嘲笑わず、責めず、慰めもしなかった 。
ただ彼女を見つめていた。その瞳には、彼女には読み解けない「何か」が宿っていた 。
その「読み解けなさ」が、何よりも彼女を不安にさせる 。
かつて、自分こそが唯一、朔を理解できる人間だったはずなのだから 。
「神城さん」
結月が顔を上げた 。
生徒会長――三年生の眼鏡をかけた男子、桐生院司が書類を手に立っていた 。
「顔色が良くないようだが」
「少し休んだらどうだい?」
「いえ、結構です」
「何か用ですか?」
「文化祭の準備について相談したいんだ。放課後、十分ほど残れるかな?」
結月の脳裏に、朔の言葉がよぎった。
――「毎週の例会の後、お前たちは二人きりで十分間、部屋に残るんだろ」 。
彼女は桐生院を見つめた。不意に、その顔がぼやけて見えるような気がした 。
彼が不細工なわけではない。ただ、自分が一度も、彼の顔をまともに見ていなかったことに気づいただけだ 。
毎週、彼と二人きりで過ごした十分間。その時間の中で、彼女が想い続けていたのは―― 。
「すみません」
結月は立ち上る。
「今日は用事があるので、残れません」
「しかし――」
「書類は持ち帰って目を通します。意見は明日」
結月は書類を抱え、生徒会室を飛び出す。
廊下を歩く足取りは速い。まるで背後から何かに追いかけられているかのようだった 。
もう、こんなことは続けられない 。
「生徒会の仕事」を隠れ蓑にして、朔への未練を誤魔化し続けることはできない 。
この事実に、向き合わなければならないのだ 。
そして―― 。
その先、どうすればいいのかが分からなかった 。
美術室 。
朔は隅の席に座り、文庫本を広げていたが、視線は詩織の描く絵に向けられていた 。
あの古い桜の樹は、完成間近だった 。
枝の小さな突起は、今にもほころびそうな薄紅色の蕾へと変わり、小さな秘密のように静かに佇んでいる 。
樹皮の質感も細部まで描き込まれ、その亀裂の一つ一つが物語を語っているかのようだった 。
「もうすぐ完成か?」
「ええ」
詩織は筆を置いた。
「あと、ほんの少しだけ」
「何が足りないんだ?」
詩織は少し考え込んだ 。
「答えが足りないの」
「答え?」
「彼女とのことを、どうするつもり?」
「彼女」が結月のことだとは分る。
「分からない」
「どうしたいの?」
「分からない」
「彼女のこと、好きなの?」
朔は長い沈黙に沈んだ 。
美術室の光は静謐で、陽光の中で埃がゆっくりと浮遊している。まるで、時間そのものの粒子のようだ 。
「分からない」
「俺……半年前、別れを切り出した時は、もう好きじゃないと思っていた。でも、今のあいつを見ていると、また……」
「また?」
「確信が持てなくなる」
詩織は何かを確かめるように、小さく頷いた 。
「じゃあ、あの金髪の女の子のことは?」
「陽葵?」
「ええ」
「あいつは親友の妹で、煩わしくて、距離感がおかしくて、強引に俺の生活に入り込んできて――」
「でも、あなたはそれを拒んでいない」
朔は言葉を失った 。
「拒絶していないわ。遊園地のチケットを買ってあげて、マフラーを貸して、観覧車にまで付き合った。それは『ただ迷惑な相手』にするようなことじゃない」
「それは、ただの――」
「ただの、何?」
説明ができなかった 。
すべてを論理で説明することはできないからだ 。
チケットを買ったのは、彼女が財布を忘れたから。マフラーを貸したのは、彼女が薄着だったから。観覧車に乗ったのは、彼女に引っ張られたから 。
一つ一つの行動には理由がある 。
けれど、その理由を積み重ねても、一つの事実は隠せなかった―― 。
自分は、陽葵と一緒にいる時間を、決して嫌っているわけではない 。
「浅倉くん」
「あなたは論理で自分を守る癖がある。感情をすべて箱に詰め込んで、ラベルを貼って、分類して整理しようとする。けれど、感情は物じゃない。分類することも、整理することも、ラベルを貼って忘れることもできないわ」
「感情は、勝手に箱から溢れ出してしまうものなの」
「そして今のあなたは、もうそれを制御できていない」
朔は詩織を見つめた 。
彼女の表情は相変わらず穏やかだったが、それは冷淡さではなく、深く、慈悲にも似た理解だった 。
「どうしてそんなに、俺のことが分かるんだ?」
詩織は少し考えた 。
「あなたと私は似ているから」
「私たちは二人とも、静寂の中に隠れる癖がある。ただ違うのは、あなたが静寂に隠れるのは恐怖からで、私が隠れるのは好きだから」
「恐怖……?」
「見られることへの恐怖」
「見られてしまったら、誰かが望む自分にならなければいけないと、期待を背負わされるのが怖いのよ」
朔の鼓動が、一瞬跳ねた 。
「そんな、怖がってなんて……」
「怖がっているわ」
「でも、大丈夫。恐怖は乗り越えられるものだから」
彼女は立ち上がり、キャンバスの前へ歩み寄ると筆を手に取った 。
「あの樹を完成させるわ」
「描くところ、見ていてくれる?」
朔は頷いた 。
彼女の傍らに立ち、一筆一筆、桜の樹に命が吹き込まれるのを眺めていた 。
蕾、枝、樹皮の亀裂、そして地面に散る花びら―― 。
細部がキャンバスの上に現れるたび、長く果てしない待ち時間が報われていくようだった 。
「この樹はね」
「ここで百年の時を過ごしてきた。数えきれないほどの春と冬を見てきた。何度も花を咲かせ、何度も葉を落とした。けれど、一度も『どうして花を咲かせるのか』なんて自問自答したことはないはずよ」
「ただ、静かに咲いているだけ」
「生きていることが、咲く理由だから」
キャンバスの中の蕾を見つめていた朔は、不意に目頭が熱くなるのを感じた 。
なぜ泣きたくなったのかは分からない 。
けれど、彼は泣かなかった 。
ただそこに立ち、詩織が描く姿を見つめ、キャンバスを滑る筆の音を聴き、北窓から差し込む陽光の温もりを感じていた 。
きっと、これが詩織の言う「生きる」ということなのだろう 。
理由なんていらない 。
ただ、生きている 。
夜 。
朔が帰宅すると、結月がリビングのソファに座っていた。目の前にはティーポットと、二つのカップ 。
「おかえり」
「ああ」
朔は靴を脱ぎ、リビングへと向かう。結月の向かい側に腰を下ろした 。
以前と同じ光景、同じ位置、同じ紅茶 。
だが、空気だけが違っていた 。
今回は――
告白を前にした沈黙に近い 。
「浅倉」
「話があるの」
「言えよ」
結月はカップを手に取り、一口飲んでから置いた。その動作は、自分に猶予を与えるかのように緩やかだった 。
「土曜日のこと」
「ごめんなさい」
「尾行なんてするべきじゃなかった」
「それは一線を越えた行為だったわ。合意書にもそんな規定はないし、あなたも同意していない。私の落ち度よ」
「……どうしてあんなことをした?」
結月は俯き、琥珀色の液体を見つめた 。
「確かめたかったの」
「あなたが本当に、私に対して何の感情もなくなったのかどうかを」
「結果は?」
「結果は……」
彼女の指が、カップの縁をなぞる。
「結果、自分が何も分かっていないってことが分かったわ」
「どういう意味だ?」
「あなたが何を考えているのか、分からないっていうことよ」
結月は顔を上げた。その灰色の瞳には、珍しく脆い光が宿っている。
「あの五十嵐さんへの態度は、嫌っているようには見えなかった。でも、受け入れているわけでもない。距離を保っているけれど、それは拒絶じゃない――まるで……躊躇っているみたいに」
朔は答えなかった 。
「何を迷っているの?」
「彼女を傷つけるのが怖いの? それとも、私? あるいは、自分自身?」
朔は口を開きかけた。「分からない」と言おうとして、止めた 。
もう何度「分からない」と言っただろう。それを言い訳にはできなかった 。
「結月」
「一つ、聞かせてくれ」
「何?」
「お前はあの時、どうして別れることに同意したんだ?」
「私もそう思っていた」
「でも、本当にか?」
結月の手が止まった 。
長い沈黙がリビングを支配する 。
時計の秒針が刻む音が、まるで一世紀のようにも感じられた 。
「……いいえ」
結月はようやく、絞り出すような声で言った。
「そうは思っていなかった」
朔の心臓が、大きく跳ねた 。
「不釣り合いだなんて思っていなかったわ」
結月の声が震え始める。
「ただ……ただ疲れてしまったの。あなたが他の女の子と話すたびに不安になって、返信が遅れるたびに勝手な想像をして。自分自身が嫌になって、あなたもいつか私に愛想を尽かすんじゃないかって怖かった」
「だから、あなたが『合わない』と言った時、嫌われるのを待つくらいなら、自分から身を引こうと思った」
「そうすれば、少なくともプライドだけは守れると思ったから」
彼女の瞳が赤くなった 。
「でも、間違っていたわ」
「手放してみて気づいたの。プライドを守っても、苦しみは消えない。合意書があっても、あなたへの想いは消えない。『義理の妹』なんていう立場じゃ、嫉妬は抑えられない」
「私は、今でもあなたのことが好きよ」
「別れたあの日から、今日この瞬間まで――あなたを想わなかった日なんて、一日もなかった」
目尻から涙が溢れ、カップの中に落ちて小さな波紋を作った 。
その涙を見て、朔の中で何かが崩れた 。
何かが砕ける音 。
理屈で築き上げた壁に、最初の亀裂が入る音だった 。
「結月」
朔は立ち上がり、テーブルを回って彼女の前へと歩み寄った 。
結月は涙で滲んだ瞳で、彼を見上げた 。
朔は手を伸ばし、一瞬だけ躊躇した後、そっと彼女の頬を伝う涙を拭った 。
「お前のことが好きなのか、自分でもまだ確信は持てない」
「でも、一つだけ確かなことがある」
「何……?」
「お前を、泣かせたくはない」
結月は一瞬呆然とした後、さらに激しく泣き出した 。
静かな涙ではない。
こらえきれず、肩を震わせ、子供のように声を上げて泣いた 。
朔は慰めの言葉をかけなかった。ただ、静かに彼女を抱き寄せ、その涙を受け止める。
言葉よりも涙の方が、時に誠実であることを知っていたから 。
結月は長い間泣き続けた 。
泣き止んだ頃には、紅茶はすっかり冷めていた 。
彼女は手で顔を拭い、深く息を吐くと、少し苦い笑みを浮かべた 。
「……ひどい顔でしょうね」
「そんなことないさ」
「嘘つき」
「本当だ」
「学校で見せているあの鉄仮面より、ずっといい顔だよ」
結月は彼を睨みつけたが、そこには本物の怒りはなかった 。
「……あなたなりの慰め方ね」
「効果はあったか?」
「少しだけ、あったわ」
結月は立ち上がり、窓辺へと歩いた。窓の外の夜景を見つめる 。
「浅倉」
「合意書のこと……きちんと話し合いたい」
「何をだ?」
「私たちの、関係について」
朔も彼女の隣に並び、窓辺に立った 。
窓の外の古い桜の枝は、街灯の下で複雑な影を落としている 。
「俺たちの関係って、何なんだろうな」
「分からないわ」
「でも、それを見つけ出したいの」
朔は窓の外の桜を見つめながら、詩織の言葉を思い出していた――「ただ、静かに咲いているだけ」 。
自分と結月の関係も、そうなのかもしれない 。
定義も、分類も、「恋愛」や「破局」や「兄妹」というラベルも必要ない 。
彼らはただ、存在している 。
お互いの人生の中に、ただ存在している 。
それだけで、十分だ 。
「いいよ」
「一緒に、見つけよう」
結月が顔を向け、彼の横顔を見つめた 。
街灯の光が彼の輪郭に柔らかな影を落とし、その表情をいつもより立体的に、そして静かに見せている 。
彼女はふと思った。この瞬間を、覚えておこうと 。
小説に書くためでも、誰かに伝えるためでもない 。
ただ、自分のために 。
「浅倉」
「ありがとう」
「礼なんていいよ」
「……私を、突き放さないでいてくれて、ありがとう」
しばし沈黙した朔 。
「俺の方こそ、ありがとう」
「諦めないでいてくれて」
二人は窓辺に立ち、夜の闇を見つめていた 。
言葉を交わすことも、手を繋ぐこともない 。
ただ、並んで立っている 。
けれど、それは別れてからの半年間で、二人が最も近づいた瞬間だった 。




