第8話 雨に溶ける優しさ
火曜日、天気予報は雨だった。
朔は朝、家を出る時に傘を持っていったが、結局使うことはなかった。
空はどんよりと曇り、まるで誰かが灰色の幕で世界を覆い隠してしまったかのように、重苦しく、息が詰まりそうになる。
こんな天気は、朔にあることを思い出させた。
結月は雷が苦手だ。
ただの「ちょっと怖い」というレベルではない——それは本能的、生理的な恐怖だった。
この弱点を知っているのは朔だけ。
半年前、付き合っていた頃の夏の夜。電話をしていた最中に、突然激しい夕立が降ってきた。雷が鳴った瞬間、電話の向こうから押し殺したような悲鳴と、何かが倒れる音が聞こえたのを朔は覚えている。
彼は慌てた――彼が心底パニックになった数少ない瞬間だった。「どうしたんだ」と何度も問いかける朔に、結月はようやく震える声で答えた。
「雷が、怖いの」と。
それ以来、雷雨の夜には、朔は必ず結月に電話をかける。雷が止むまで、ずっと彼女と話し続けた。
別れた後は、もちろん電話などしなくなった。
「少しは、マシになったんだろうか」
そう考えてから、朔は自分に言い聞かせる。そんなことは、もうお前の知ったことじゃない、と。
夕方、朔が校門を出る頃には、空はもうすっかり暗くなっていた。
黄昏時の暗さではない。嵐が来る直前の、あの独特の暗さ。雲は低く垂れ込め、巨大な鉛の板が頭上を圧迫しているかのようだった。そして空気の中には、湿った土のような匂いが混じっている。
「先輩! 雨が降りそうですよ!」
後ろから陽葵が追いかけてきた。手には黄色い傘を握っている。「一緒に帰りましょう!」
「方向が違うだろ」
「遠回りしてもいいですよ!」
「いい、遠慮しとく」
「先輩ってば冷たいなぁ!」
陽葵は不満げに唇を尖らせたが、それでも朔の隣について歩いた。
二人が駅に着くと、バスに乗る陽葵と、徒歩で帰る朔は別れることになった。
「先輩」
「気をつけてくださいね。雨に濡れないように」
「わかってる」
「あと……神城先輩……大丈夫ですかね? 今日、なんだか顔色が悪かったみたいですけど」
朔は今日学校で見かけた結月の姿を思い出した。目は少し腫れていた。メイクで隠そうとしているのは分かったが、近くで見れば隠しきれていないことが見て取れた。
「……大丈夫だ、たぶん。」
「ならいいんですけど」。
陽葵は微笑んだ。
「先輩、また明日!」
バスは走り去っていった。
朔は一人、傘を開いて、家路を急いだ。
しとしとと降るような雨ではない。まるで天の上でバケツをひっくり返したかのような、叩きつけるような豪雨だった。傘に当たる雨粒が「パパパパッ」と激しい音を立てる。まるで誰かが太鼓を連打しているかのようだ。
風も強く、朔の傘は煽られて何度も傾きそうになった。ズボンの裾はすぐにびしょ濡れになった。
彼は足を速め、雨の幕の中を必死に進む。
七分後、ようやく家にたどり着いた。
ドアを開けると、玄関は真っ暗だった。電気がついていない。
「ただいま」
返事はない。
朔は靴を履き替え、リビングへ向かった。そこも暗かった。カーテンが閉め切られており、窓の外で時折光る稲妻が、部屋の中に惨白な光を一瞬だけ投げかけている。
「結月?」
やはり、応答はない。
朔は二階へ上がり、結月の部屋の前を通った。ドアは閉まっている。
「結月?」
声は聞こえない。
少しの躊躇の後、朔はドアを押し開けた。
部屋の中は闇に包まれ、カーテンは隙間なく閉じられていた。ベッドの上の掛け布団がこんもりと盛り上がっている。誰かが中に潜り込んでいるようだった。
「結月?」
朔がベッドサイドへ歩み寄る。
布団が、ぴくりと動いた。
その時――
「ゴロゴロゴロッ、ドォォォォン!!」
凄まじい雷鳴が響き渡り、窓ガラスがガタガタと震えた。
布団が激しく跳ね、中から喉を締め上げられたような、抑え込んだ嗚咽が漏れた。
朔は布団をめくった。
結月はベッドの上で丸まり、両手で耳を塞いでいた。顔は紙のように白く、唇が震えている。目は固く閉じられ、睫毛には水滴がたまっていた――それが汗なのか、それとも涙なのかは判別がつかない。
「結月」
朔は屈み込み、静かに名を呼んだ。
結月がうっすらと目を開け、そこに朔がいることに気づいた瞬間。彼女は何かのスイッチが入ったかのように、猛然と飛びついてきた。
彼女は朔を抱きしめた。苦しいほど強く、朔が息を詰まらせるほどに。
「行かないで……」
彼女の声は震えていた。
「行かないで……お願い……」
朔は硬直した。
理性は朔に告げている。これは「越権行為」だ。二人の協定に抱擁は含まれていない。前にも一度破ってしまったとはいえ、自分たちの間には距離を保つべきだと、朔は誰よりも分かっていたはずだった。
彼はベッドの端に腰を下ろした。
結月の震えが、彼女の体から朔の体へと伝わってくる。その恐怖はあまりにもリアルで、強烈で。彼の理性など、薄っぺらな紙のように簡単に破り捨てられてしまった。
「行かないよ」
そう言った彼の声は、自分でも驚くほど優しかった。
結月の震えは止まらなかったが、呼吸だけは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
窓の外で再び稲妻が走り、雷が鳴った。今度はさらに近く、まるで天井のすぐ上で爆弾が破裂したかのようだった。
結月は顔を朔の胸に埋め、指先で彼の服をぎゅっと掴んだ。
朔は手を伸ばし、一瞬躊躇してから、そっと右腕を結月の肩に回した。
「大丈夫だ、少なくとも、雷の音が君を傷つけることはない」
「わかってる……」
結月の声が胸元でくぐもる。「わかってるけど……抑えられないの……」
「抑えなくていい、怖いものは怖い。それでいいんだ」
結月は答えず、ただより一層強く彼にしがみついた。
豪雨は長く続いた。
朔はベッドの縁に座り、結月は彼の腕の中に身を預ける。二人はそのままの姿勢で、長い時間を過ごした。朔の手は、悪夢を見た子供をあやすように、ゆっくりと、何度も彼女の背中を叩き続けた。
雷鳴が次第に遠のいていく。
雨音も、少しずつ小さくなっていく。
結月の震えが、ようやく止まった。
けれど、手を離そうとはしなかった。
「浅倉」
彼女が静かに言った。
「ん」
「覚えてる? 私が雷を怖がってるって、初めて知った時のこと」
「覚えてるよ。去年の夏だろ」
「あの時、あなた言ったの……『大丈夫、僕がそばにいるから』って」
朔は沈黙した。
「それから、あなたは本当にずっと一緒にいてくれた」
「雷雨になるたびに、いつも電話をくれた。私からかける必要なんてなかった。あなたが、いつも先にかけてくれたから」
「別れた後、もうかかってこないって分かってた。でも、最初の雷雨の夜、私は夜中の二時まで待ってたの。スマホの画面が明るくなるのを、ずっと期待してた」
「……光らなかったけどね」
結月の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの中には、泣き叫ぶよりももっと切ない何かが込められていた。
「慣れると思った、でも、雷が鳴るたびに、やっぱり怖くなる。雷そのものが怖いんじゃない――一人で雷に向き合うのが、怖いの」
「私が怖いのは、一人きりになることなんだわ」
朔は、腕の力をわずかに強めた。
「一人じゃないよ」
結月が顔を上げ、彼の顔を見つめる。
暗闇の中で、彼女の灰色の瞳は、雨に洗われた星のように輝いて見えた。
「今の私は、何?」
結月が問いかける。
「あなたにとって、私は何なの?」
朔はその瞳を見つめ返した。
外ではまだ雨が降っているが、雷鳴はもう聞こえない。部屋の中は静まり返り、二人の重なり合う呼吸音だけが響いている。
「……分からない、でも、少なくとも今は、君の隣に誰かがいる。それだけは確かだろ?」
結月は朔の顔を、長い間じっと見つめていた。
やがて、彼女はゆっくりと、微かに微笑んだ。
それは苦笑いでも自嘲でもなく、静かで、どこか救われたような、長い暗闇の果てにようやく一筋の光を見つけたような、そんな微笑みだった。
「……十分」
「それで十分よ」
彼女は再び顔を朔の胸に埋め、目を閉じた。
朔は彼女の背中を叩き続ける。トントンと、規則正しく。
雨音は、いつしか心地よいBGMへと変わっていた。
部屋に残されているのは、二人の呼吸と、鼓動だけだ。
その夜、朔は結月の部屋に長く留まった。
彼女が眠りについたのを見届けてから、彼はそっと彼女の頭を枕に沈め、毛布をかけ直し、静かに部屋を後にした。
廊下に出て、壁に寄りかかり、深く息を吸い込む。
胸元には、まだ結月の体温が残っていた。
服には、彼女の涙の跡が湿り気を帯びて残っている。
そして、彼の心は――。
ひどく乱れていた。
自分の部屋に戻り、ノートパソコンを開く。
何かを書こうとしたが、脳内は真っ白なままだった。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
隣の部屋からは、かすかな寝息が聞こえてきた。穏やかで、規則正しいその音は、彼女が安らかに眠っていることを示していた。
朔はパソコンの電源を落とし、ベッドに横たわって天井を見上げた。
今夜起きた出来事は、どんな小説にも書くべきではない、と彼は思った。
あまりにも、真実味が強すぎるから。
どう処理すればいいのか、自分でも分からないほどに。
分かっていることが、たった一つだけある。
彼の心はもう、彼一人のものではなくなってしまったということだ。




