第6話 カマキリがセミを捕らえ、義妹が後ろに控える
ジェットコースターは、朔が想像していたよりもずっと恐ろしいものだった。
スピードの問題ではない――彼は速度に対する耐性は高い方だ。 そうではなく、「空中に放り出されたかと思えば、猛然と落下する」というあの浮遊感が、論理では説明のつかない強烈な本能的恐怖を彼に抱かせたのだ。
彼の身体が悲鳴を上げている。 彼の大脳は、その悲鳴の原因を冷静に分析している。
「センパーイ!! すっごく楽しいですっ!!」
隣では陽葵が両手を挙げ、金髪を風になびかせていた。その表情にあるのは、純粋で、一切の混じりけのない喜びだ。 彼女の叫び声は怖がっているというより、むしろ祝福しているかのようだった。
ジェットコースターが停止したとき、朔の足は少し震えていた。
「先輩! 顔色が真っ白ですよ!」 陽葵が顔を覗かせ、朔の額に手を触れる。「もしかして、怖かったんですか?」
「……いや」
「手が震えてますよ」
「これはアドレナリンが出た後の正常な生理反応だ」
「すごぉい! 先輩ってば、怖がるときまで理性的!」
朔には言い返す気力がなかった。 陽葵はバッグから水のペットボトルを取り出すと、キャップを開けて朔に差し出した。
「お水、飲んでください」
朔は受け取り、一口飲んだ。
「先輩!」 陽葵が不意に静かになり、声を潜めた。
「あのね、さっきジェットコースターに乗っているとき、私、ずっと先輩の横顔を見てたんです」
「……なぜだ?」
「この瞬間を覚えておきたかったから❤先輩っていつも無愛想ですけど、ジェットコースターに乗っているときは、表情がすごく豊かでした。眉をひそめたり、奥歯を噛み締めたり、目を細めたり……。そんな先輩、かっこいいなって思ったんです」
朔は何と言えばいいのか分からなかった。
「からかってるわけじゃないですよ」 陽葵は真剣な眼差しで言った。「私は本当に、先輩が笑ったらきっと素敵だろうなって思ってるんです。だから、どうすれば先輩が笑ってくれるか、ずっと探してるんです」
「笑う必要はない」
「必要ですよ!誰かが見たがっているからじゃなくて、先輩自身のために。笑うことは解放なんです。先輩は、少し肩の力が入りすぎですよ」
朔はしばし沈黙した。
「行くぞ。次だ」
「先輩、もしかして照れてます?」
「……違う」
「耳、赤くなってますよ」
「風のせいだ」
「今日は風なんて吹いてません!」
「今、吹いたんだ」
朔が歩を早めると、陽葵はケラケラと笑いながらその後を追った。
彼らが気づかなかったのは、ジェットコースターの下にある土産物店で、茶色のウィッグに黒いサングラスをかけた一人の少女がキーホルダーを選んでいたことだ。 彼女の指先が並べられたキーホルダーを滑り、最後に猫の形のところで止まった――それは朔が最も好きな動物だった。 彼女はそのキーホルダーを、壊れんばかりの力で握りしめた。
「次は観覧車!」
陽葵は朔の手首を掴み、人混みを抜けて遊園地の中央にそびえ立つ観覧車へと駆け出した。 観覧車は高く、高さは60メートルもあるという。街のどこからでも見えるその白いゴンドラは、まるで時間そのものを具現化したかのように、緩やかに回転していた。
「なぜ観覧車なんだ?」
「恋愛漫画だと、男の子と女の子が最高到達点でキスするからですよ!」
「……俺たちはキスなどしない」
「分かってますって! でも最高地点で『取材』はできますよね! 想像してみてくださいよ、あの雰囲気――夕陽、高空、狭い個室に二人きり……なんてロマンチックなんですか!」
「今は真昼だ。夕陽なんてない」
「そこは、あると想像するんです!」
朔は陽葵に引きずられるようにしてゴンドラに押し込まれた。 扉が閉まった瞬間、世界から隔絶された。 ゴンドラはゆっくりと上昇し、地上の喧騒が遠ざかっていく。足元には、色とりどりのテントやメリーゴーランド、蟻のように動く人々といった遊園地の景色が広がっていた。
「先輩!」
陽葵が唐突に言った。
「なんだ?」
「運命って、信じますか?」
朔は少し考えた。
「信じない」
「どうして?」
「運命という概念は『後験的』なものだからだ。物事が起きた後に初めて、人は『これは運命だった』と口にする。だが、もし何も起きなければ誰もそんな話はしない。つまり運命とは、生存者バイアスの別名に過ぎないんだ」
陽葵は目を丸くした。 「先輩って本当にすごいですね。そんな問題まで論理的に答えちゃうんだ」
「論理じゃない。常識だ」
「でも、私は思うんです」 陽葵は窓の外を見つめ、声を落とした。
「論理では説明できないこともあるんじゃないかな、って」
「例えば?」
「例えば……私がどうして先輩を好きになったか、とか」
朔の指先が、微かに動いた。
「こればかりは論理で説明できないんです」 陽葵は語る。「顔がかっこいいからとか(実際かっこいいですけど)、頭がいいからとか(実際いいですけど)、優しくしてくれるからとか(たまにですけど)、そういう理由じゃないんです。ただ、ある瞬間に『ああ、この人だ』って思っちゃったんです」
「……それは単なるホルモンの作用だ」
「そうかもしれませんね」 陽葵が振り向いて朔を見つめる。その青い瞳の中で光が流れていた。
「でも、ホルモンだけじゃ、その人のことをもっと知りたいなんて思いません。先輩が何を考えているのか、何が好きなのか、どうしていつも無愛想なのか、どんな過去があるのか……。私がそんなことを考えちゃうのは――」
そのとき、ゴンドラがふわりと揺れた。 陽葵がバランスを崩してよろけ、朔は反射的に彼女を支えた。 二人の距離が、十センチにも満たない近さまで縮まる。
朔には陽葵のまつ毛の曲線も、鼻筋にある淡いそばかすも、瞳に映る自分の顔も、はっきりと見えた。
「先輩……」 陽葵が囁く。
「……ちゃんと立て」
朔は手を離し、一歩下がった。
陽葵は動かなかったが、その口元がゆっくりと弧を描いた。
「先輩の耳、また赤くなってますよ」
「ゴンドラの中が暑いんだ」
「今は冬ですよ?」
「冬のゴンドラには暖房がついているものだ」
陽葵は笑った。目を三日月のように細めて楽しそうに。
「先輩って、本当に可愛いですね」
「……二度とその言葉を口にするな。観覧車から放り出すぞ」
「そんなこと、しませんよ」
「なぜそう言い切れる?」
「だって先輩は、口では嫌だと言いながら、心の中では嫌ってない人ですから❤神城先輩に対しても、そうですよね?」
朔の表情が凍りついた。
「お前――」
「知ってるんですよ、先輩と神城先輩が、以前付き合っていたこと」
ゴンドラが最高到達点に達した。 窓の外の風景は一気に開け、街全体が巨大な地図のように足元に広がっている。 だが、朔は外を見ていなかった。 彼は、陽葵を見ていた。
「……どうしてそれを知っている?」
「お兄ちゃんから聞きました」 陽葵は、今日の献立でも話すような平坦な口調で答えた。「半年前に別れて、今は義理の兄妹になったって」
「あいつ……知ってたのか?」
「ええ。お兄ちゃん、先輩の親友ですもん。先輩のことなら何でも話してくれますよ」
朔は目を閉じた。 失念していた。 陽葵の兄――五十嵐太陽とは中学からの付き合いだ。太陽は、朔が結月と付き合っていたことを知る唯一の友人であり、別れた後の朔がどれほどボロボロだったかを知る唯一の人間でもあった。 太陽が知っているなら、陽葵が知っていても不思議ではない。
「先輩、心配しないでください」 陽葵が言った。「誰にも言いませんから。これは先輩の秘密。私が大切に預かっておきます」
「なぜそれを知っていると俺に言った?」
「先輩に嘘をつきたくないからです」
「先輩のことを理解しているって知ってほしかった。全部じゃないけど、理解しようと努力してるって。先輩の秘密を共有できる存在になりたいんです」
朔は目を開け、陽葵を見た。 窓から差し込む陽光が、彼女の金髪に黄金の粒を振りまいている。その表情は真剣で、いつものふざけた様子は微塵もなかった。
「五十嵐……」 朔が口を開く。
「……え?陽葵って呼んでください!」
彼女は言った。
「『五十嵐』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて,俺たちはもともと――」
「陽葵、って呼んでください」
彼女は繰り返した。それは何か重大な決意を宣言するような、確固たる口調だった。
「……陽葵」
陽葵の瞳がぱっと輝いた。まるで瞳の中に灯火が灯ったかのようだ。 「先輩!」 彼女は笑った。「今日、一番嬉しい瞬間です!」
朔は顔を背け、窓の外を見つめた。 観覧車が下降を始める。
「……俺も、楽しかったよ」 蚊の鳴くような小さな声だった。 だが、陽葵には届いていた。 彼女は何も言わず、ただそっと手を伸ばして、朔の手を握った。
観覧車が着地したとき、出口に一人の影が立っているのが見えた。 濃い栗色の髪に、グレーのカーディガン。手にはスケッチブックを持っている。
詩織だ。
「どうしてここに?」
「言ったはずです。あなたを観測する必要があると」
詩織は落ち着いた茶色の瞳で彼を見つめた。
「観測結果:あなたは観覧車の上で笑いました」
「……笑ってない」
「笑いました。コンマ三秒。その後すぐに引き締めましたが」
「……細かく見すぎだ」
「それが私の仕事ですから」
陽葵は朔と詩織を交互に見た。
「あ、美術室にいた女の子!」 陽葵が言う。
「お名前は?」
「月乃森詩織です」
「月乃森先輩! 先輩も遊園地に遊びに来たんですか?」
「仕事です」
「仕事って?」
詩織はスケッチブックを掲げた。そこには観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランド、そして二人のぼんやりとした人影が描かれていた。
「取材。」
朔は今日、この言葉を何度聞いたことかと思った。
「先輩!」 陽葵が朔の袖を引く。「一緒にメリーゴーランドに乗りましょう!」
「メリーゴーランドには乗らないぞ」
「どうしてですか?」
「高校生だからだ」
「高校生だって乗っていいんですよ!」
「……俺は水を買ってくる」
朔が逃げ出そうとしたその時、詩織が不意に口を開いた。
「待ってください」 彼女はスケッチブックを下ろし、朔の肩越しに背後を見つめた。
「誰かが、私たちを見ています」
朔が振り返る。 人混みの中、茶色のウィッグにサングラスをかけた少女が、綿あめ屋の前で味を選んでいるふりをしていた。 風に吹かれ、制服のスカートの裾がわずかに翻った。
朔はその制服を知っている。 その立ち姿を知っている。 「別のものを見ているふりをしながら、実はこっちを注視している」その仕草を知っている。
「……結月」
詩織が頷いた。 陽葵はその少女をまじまじと見ると、ふっと笑った。 「あぁ、やっぱり神城先輩だったんですね」
彼女は朔の袖を離し、結月の方へと歩き出した。 「陽葵――」 朔が止めようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。
陽葵は結月の前まで行くと、首をかしげて満面の笑みを浮かべた。 「神城先輩! 先輩も遊びに来てたんですか? 奇遇ですね!」
結月はサングラスを外した。その灰色の瞳が冷ややかに陽葵を射抜く。
「奇遇じゃないわ、あなたの後をつけてきたの」
「えぇ――、正直ですね!」
「嘘をつくのは嫌いなの」
「それで、神城先輩。何をしに来たんですか?」
結月が朔に視線を投げた。 その眼差しにはあまりにも多くのものが含まれていた――怒り、寂しさ、悔しさ、そして朔には読み取れない「何か」。
「……確かめに来ただけよ」 と結月。
「何をです?」
「あいつが、本当にあなたのことを気に入っているのかどうかを」
朔が歩み寄り、二人の間に立った。 「結月、お前――」
「気安く名前で呼ばないで」
朔は深く息を吸った。
「……神城。俺を尾行していたのか?」
「『協定』の遂行状況を確認しに来ただけよ」
「協定に尾行は含まれていないはずだ」
「協定には『他の女と観覧車に乗る』ことも含まれていないわ」
「あれは取材だ」
「取材に『手を繋ぐこと』は必要なの?」
朔は絶句した。
見られてた、陽葵が彼の指を握ったあの瞬間を。
「神城先輩」 陽葵が不意に口を開く。
その声からは、いつものふざけた調子が消えていた。「先輩、もしかして嫉妬してるんですか?」
空気が凍りついた。 遊園地の喧騒が一時停止ボタンを押されたかのように静まる。 結月の顔が赤らんだ――それは羞恥ではなく、痛いところを突かれた時の赤みだった。
「嫉妬なんてしてないわ」 彼女の声は依然として冷静だった。「私は義妹として、権利が――」
「義妹の権利に、尾行や覗き見は含まれません」 詩織の声が割って入った。静かだが、明晰な声だ。
全員が彼女を見た。 詩織はスケッチブックを閉じ、結月の前に立った。 栗色の少女と灰色の少女。二つの異なる「静寂」がぶつかり合う。
「神城さん」 詩織が言う。
「あなたの行動は、本当に妹としてあるべき姿だと思っているのですか?」
結月の瞳が微かに揺れた。
「あなたは朝からずっと尾行していた」 詩織は淡々と続けた。「コーヒーを一杯飲み、猫のキーホルダーを買い、ジェットコースターの下で十分間立ち尽くし、観覧車の下のベンチで十五分間座っていた。あなたは何を確かめたかったのですか? 浅倉君が彼女の手を握るかどうか? 彼女に笑いかけるかどうか? ……彼が本当に、あなたのことを忘れてしまったかどうか、ですか?」
結月の唇が微かに震える。
「……あなた、誰なの? どうしてそんなことまで……」
「月乃森詩織。ただの観測者です」
「観測して、どうするっていうの?」
「真実を観測する。それだけです」
隣でそれを見ていた朔の頭の中は、真っ白になっていた。 彼の理性システムは完全にダウンしていた。 今目の前で起きている事態を説明できるモデルなど、どこにも存在しないからだ。
結月の尾行。 陽葵の率直さ。 詩織のストレートな言葉。
そして、自分自身――。 彼は、怒っていなかった。 結月に尾行されたことにも、陽葵が秘密をバラしたことにも、詩織がすべてを暴いたことにも。 ただそこに立ち、三人の少女を見つめながら、胸の中に奇妙な、温かな感覚を覚えていた。
その感覚は何に似ているだろうか。 言葉にはできない。 だが、これだけは分かる。この感覚は、論理で説明のつくものではないのだ。
「私……」 結月が口を開いた。声が少し掠れている。 彼女はウィッグを脱ぎ捨てた。本来の灰色の長い髪が現れる。ウィッグに押さえつけられていたせいで少し乱れた髪が、青白い頬に張り付いていた。
「私はただ……」 彼女はうつむき、声を絞り出す。
「私はただ、嫌だったの……」
「何が嫌だったんですか?」 陽葵が尋ねる。
結月は答えなかった。 彼女は手の中の猫のキーホルダーをぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込み、三日月のような跡がつく。
「……嫌だったの」
彼女はそれ以上、言葉を続けられなかった。 「嫌」の後に続く言葉が、あまりにも長すぎたからだ。
忘れられるのが嫌。 誰かに取って代わられるのが嫌。 朔が自分以外の誰かに向かっていくのを見るのが嫌。 まだ彼のことが好きだと認めるのが嫌。 別れたことが間違いだったと認めるのが嫌。 「私もそう思ってた」というあの言葉が嘘だったと認めるのが嫌。
すべての「嫌」が棘となって彼女の喉に刺さり、まともな文章を紡がせてくれなかった。
「神城先輩」 陽葵が一歩歩み寄る。その青い瞳には敵意などなく、ただ不思議なほどの優しさがあった。
「言わなくていいですよ、私、分かってますから」
結月が顔を上げた。その目尻は赤く染まっている。
「……あなたに、何が分かるっていうの?」
「先輩が好きなこと。諦め切れていないこと。怖くて尾行しちゃったこと」 陽葵はふっと笑った。
「だって、私も同じですから」
「でも、怖いんです」
「先輩に好かれなかったらどうしようって。親友の妹としてしか見てもらえなかったらどうしようって。いつか先輩に本当に好きな人ができて、私の居場所がなくなっちゃったらどうしようって」
彼女は深く息を吸い込んだ。その声が微かに震える。
「でもね。怖くても、私は先輩の隣にいたいんです。たとえ『お騒がせキャラ』でも、『取材魔』でも、先輩が口では嫌いって言いながらも、心の中では嫌ってない……そんな存在でいいから、隣にいたいんです」
背後では観覧車がゆっくりと回り続けている。 雲の隙間から陽光が漏れ出し、遊園地の地面に斑な光と影を落としていた。
朔は陽葵の横顔を見ていた。胸の内の温かな塊が、さらに大きくなっていく。 何かを言いたかったが、何を言うべきか分からなかった。
詩織が彼の隣に寄り添い、囁くように言った。
「ほら。もう論理なんて、必要ないでしょう?」
朔が彼女を振り返る。 詩織の表情は相変わらず静かだったが、その瞳の奥には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。
「世の中には」 彼女が言う。
「理解するためのものではなく、ただ感じるためのものがあるんです」
うつむき、キーホルダーを握りしめ、唇を震わせている結月。 背筋を伸ばし、青い瞳を輝かせ、旗のように凛と立つ陽葵。 そして隣で、木のように静かに佇む詩織。
――ああ、俺の理性的な生活は、もう完全に終わったんだな。




