第5話 ウザい後輩からの「恋愛取材」
朔は夢を見ていた。
夢の中、彼は終わりのない電車に乗っていた。
車両には人影もなく、窓の外にはただ真っ白な虚無が広がっている。窓際の席に座り、手に持った真っ白なノートに何かを書き留めようとしていたが、ペン先が紙に触れた瞬間にすべての文字が消えてしまった。
そして、電車が止まった。
ドアーが開く。
結月が入ってきて、彼の向かい側に座った。彼女は何も言わず、ただ彼を見つめている。
別のドアーからは陽葵が飛び込んできて、何やらちゅんちゅんとかしましく喋りかけてくるが、その声は彼には届かない。
最後に詩織が乗り込み、傍らに立って静かに外を眺めていた。
やがて、電車が逆走を始める。
朔が目を覚ましたとき、枕は汗で湿っていた。
スマホに目をやる――午前六時十五分。窓の外はまだ暗い。冬の朝はいつも訪れるのが遅い。
彼はベッドに横たわったまま天井を見つめ、今の夢の意味を分析しようと試みた。
フロイトの理論に従えば、電車は通常、人生の軌跡を象徴する。誰もいない車両は孤独を、白い虚無は未知を、そして逆走は――。
「よせ」
彼は自分に言い聞かせた。
夢を過度に分析するのは、合理主義者の職業病だ。そして今の彼には、その悪癖を断ち切る必要がある。
なぜなら、彼の生活はもはや分析などで理解できるものではなくなっていたからだ。
彼は起き上がり、顔を洗って階下へ向かった。
キッチンからは、何かを焼く音が聞こえてくる。
結月が料理をしていた。
エプロン姿でコンロの前に立ち、フライパンの上では黄金色の油がパチパチとはじけている。髪は無造作なお団子頭にまとめられ、耳元に垂れた数筋の微かな後れ毛が、朝の光の中で彼女の横顔をいくぶん柔らかく見せていた。
「おはよう」
「おはよう」
「ベーコンエッグでいい?」
「ああ」
朔は食卓についた。テーブルの上にはすでに二人分の食器、二杯のオレンジジュース、そして小さなカゴに入ったパンが並べられていた。
彼は、テーブルの隅に置かれた一枚の折り畳まれた紙に気づいた。
「それは?」
結月は焼き上がったベーコンと卵を皿に盛り、朔の前に運んできた。
「自分で見て」
朔はその紙を広げた。
それは手書きの契約書で、タイトルには『義兄妹共同生活協定(改訂版)』と記されていた。
第一条:双方は学校において普通のクラスメイトとしての距離を保ち、自ら「義兄妹」関係に言及しないこと。
第二条:自宅の共用スペースにおける交流は礼儀的な範囲に留め、意図的な接近や回避を行わないこと。
第三条:双方は相手の異性交遊に対して「合理的な関心」を寄せる権利を有し、関心を寄せられた側は合理的な説明を行う義務を負う。
第四条:一方が協定に違反した場合、もう一方は協定を終了させ、「交渉決裂」を宣言する権利を有する。
第五条:本協定は署名の日より発効し、有効期限は――空白。
「有効期限が空白なのはどういう意味だ?」
「私たちの一方が、もう必要ないと感じるまで、ということよ」
「それは誰が判断するんだ?」
「どちらでもいいわ」
朔はその空白の有効期限を見つめ、それがまるで罠のように感じられた。
だが、彼はペンを取り、協定書の下部に署名した。
結月も署名した。
二人はそれぞれ協定書をしまい込み、朝食を食べ始める。
「そういえば、五十嵐陽葵のこと、どうするつもり?」
「何のことだ?」
「昨日彼女が言っていた、『明日も取材を続ける』っていう話よ」
朔のフォークが止まった。
確かに忘れていた。
いや、忘れていたのではない。選択的に無視していたのだ。
「……適切に対処する」
「どうやって?」
「理性的な方法で」
結月は彼を一瞥したが、それ以上は追及しなかった。
「信じてないわ、このバカ。」
午前の授業が終わった後、朔が美術室へ向かおうとすると、教室の入り口に陽葵が現れた。
今日の彼女は金髪をツインテールにしており、毛先には青いリボンが結ばれていた。制服の襟元には猫のブローチが添えられ、その姿はまるで魔法少女アニメから飛び出してきたかのようだ。
「先輩! お昼休みですよ!」
陽葵は両手を挙げて、何かを祝うように言った。
「知っている」
「だから取材に行けますね!」
「いつ取材に応じると言った?」
「昨日の夜です! 『また今度』って言ったじゃないですか! 『また今度』は『オッケー』って意味ですよ!」
朔は深く息を吐いた。
「五十嵐、君と話さなければならないことがある」
「はいっ! 何を話します?」
「君の取材についてだ」
陽葵は首を傾げ、青い瞳を輝かせた。
「先輩、受けてくれる気になりました?」
「違う」朔は言った。「僕をモデルにするのをやめてほしいんだ」
「どうしてですか?」
「僕は不向きだからだ。退屈な人間だし、毎日学校に行って、帰って、本を読んで、寝るだけだ。小説に書く価値のあることなんて何一つない」
陽葵は瞬きをした。
「先輩、自分に対して誤解してますよ」
「誤解などしていない」
「いいえ」陽葵は一歩近づき、朔を仰ぎ見た。「先輩が自分を退屈だと思っているのは、いつも三人称視点で自分を見ているからです。自分を一介のデータポイントとして座標系に放り込み、分析して結論を出す――『この人間は普通だ』って。でも忘れてますよ、データポイントそのものに意味はありません。意味があるのは、データポイント同士の『関係』なんです」
朔は虚を突かれた。
「私と先輩の関係」
陽葵は指を一本立てた。
「神城先輩との関係、あの美術室の女の子との関係、そして私たちの未来との関係――それらの関係こそが物語なんです。そして先輩、あなたは今、そのすべての関係の中心に立っているんですよ」
彼女は笑った。その笑顔にはいつものふざけた様子はなく、真剣で、どこか敬虔さすら感じさせる光が宿っていた。
「先輩は退屈な人じゃありません。とっても面白い人です。先輩自身がそれを知らないだけなんです」
反論したかったが、陽葵の言葉は針のように、丹念に築き上げた論理の外殻を正確に突き刺していた。
確かに、朔は常に自分を三人称視点で見ていた。
自分の行動を分析しつつ、自分の感情を真に体験することはなかった。
担当編集者に「描写が淡白すぎる」と言われる理由がそこにある――彼は自分自身を含め、どのキャラクターの内面にも真に踏み込んだことがなかったのだ。
「というわけで」陽葵はいつもの調子に戻って言った。「先輩、取材に付き合ってください!」
「断る」
「じゃあ、先輩が昔書いた中二病全開の小説原稿を学校の掲示板に晒しちゃいますよ」
「……まだ持っていたのか?」
「もちろんです! 先輩の黒歴史なんですから! 超お宝ですよ!」
中学時代に書いたものを思い出す――「暗黒騎士サクラ・サクト」、「選ばれし少年」、「世界の救世主」――思い出すだけで地面に潜りたくなる。
「……どこへ取材に行くんだ?」彼は、諦めを含んだ疲れきった声で尋ねた。
「遊園地です!」陽葵の目が星のように輝いた。「遊園地デートのシーンを書きたいんですけど、私、デートしたことがないので実地調査が必要なんです!」
「友達と行けばいいだろう」
「友達じゃ、先輩ほど面白くないですよ!」
「……」
「決まりですね! 土曜日! 午前十時! 駅前集合!以上!」
陽葵は翻って走り去った。ツインテールが背中で揺れ、青いリボンが空気の中を泳ぐ小魚のように見えた。
朔はその場に立ち尽くし、廊下の端へと消えていく彼女の背中を見送った。
自分はきっと、五十嵐陽葵を拒絶することなど永遠にできないのだろうと。
でも、それは彼女の脅しが理由ではない――いや、それも確かに効果的ではあったが。
そうではなく、彼女がああして語ったとき、その瞳の中にあった「光」のせいだ。
その光のせいで、この少女の瞳に映る自分は、分析されるべきデータポイントではなく、書かれる価値のある「人間」なのだと感じてしまった。
この「見出されている」という感覚――。
それが、彼に拒絶を許さなかった。
午後、美術室。
朔は遊園地の件を詩織に話した。
話したかったわけではない。詩織が「今日はいつもより疲れて見える」と問いかけてきたからだ。
詩織は聞き終えると、しばらく沈黙した。
そして、彼女は言った。
「私も行く」
「え?」
「遊園地。私も行くわ」
「どうして?」
詩織は筆を置き、振り返った。
深いブラウンの瞳が朔を射抜く。
「あなたには観測者が必要だから」
「……何を観測するんだ?」
「あなた自身をよ」
朔にはその言葉の意味が理解できなかったが、詩織はすでに背を向けて絵の続きを描き始めていた。
キャンバスの老桜はすでに完全な輪郭を備え、枝にある小さな膨らみはより鮮明になって、今にも花を咲かせそうだった。
「あの金髪の女の子」詩織の声は静かだった。「彼女、正しいわ」
「何が?」
「あなたは、退屈な人じゃない」
朔は口を開き、何かを言いかけたが、詩織はそれ以上語らなかった。
美術室に静寂が戻る。
筆がキャンバスを擦るかすかな音だけが響く。
朔は隅の席に座り、詩織の背中を見つめながら、不意にこの少女が誰よりも自分を理解しているような気がした。
それは彼女が彼の秘密を知っているからではない。
彼女が、決して彼を解釈しようとしないからだ。
彼女はただ、彼をそこに存在させてくれる。
まるで、あの老桜のように。
金曜の夜、朔は部屋でスマホの画面を凝視していた。
LINEに新着メッセージが一通届いていた。結月からだ。
『明日、何か予定はある?』
朔は考え、返信した。
『五十嵐と遊園地に行く』
「入力中」の表示が長いこと出ては消え、出ては消えた。
十回ほどそれが繰り返された後。
最後に、結月からメッセージが届いた。
『わかった』
たった四文字。
だが朔はその四文字を長く見つめ、その下に何かが隠されているような気がしてならなかった。
彼はもう一通送った。
『何か用か?』
結月からの返信はなかった。
十分後、隣の部屋から、スマホがベッドに放り投げられたような軽い音が聞こえてきた。
彼はスマホを置き、文庫本を手に取って前回読み終えたページを開いた。
けれど、文字が目の前を泳ぐばかりで、ちっとも頭に入ってこなかった。
明日は、おそらく平穏には済まないだろう。
土曜日。
午前九時四十五分、駅前の広場。
空は青く、雲は少なく、風は冷たい。
広場の向かいでは、遊園地の看板が五彩の光を放っていた。
「せんぱーいっ!!」
朔が反応する間もなく、金色の影が飛び込んできた。
今日の陽葵は白いタートルネックのセーターに、ピンクのショート丈ダウンを羽織り、下はチェックのミニスカートとニーハイブーツという装いだった。金髪は下ろされ、毛先がわずかにカールしている。耳元には星型のピアスが揺れていた。
「そんな薄着で寒くないのか?」朔が尋ねる。
「寒いです! でも可愛いからいいんです!」
陽葵は手をこすり合わせ、頬を赤く染めていた。「先輩、可愛いと思いますか?」
「思わない」
「嘘だ! 今、私を見たとき目がちょっと輝きましたもん!」
「それは砂埃が目に入っただけだ」
「今日は砂埃なんて舞ってません!」
朔はため息をつき、自分のマフラーを解いて陽葵の首に巻きつける。
「風邪を引くなよ」
陽葵は呆然とした。
彼女は俯き、マフラーに顔を埋めて深く息を吸う。
「先輩の匂い……」
マフラー越しに、こもった声が漏れる。
「何の匂い?」
「柔軟剤の匂い。それから、少しだけコーヒーの匂い」
「嗅ぐな、気味が悪い」
「やだ」
陽葵が顔を上げると、青い瞳が爛々と輝いていた。頬は先ほどよりも赤くなっている――今度は風のせいではなさそうだ。
「先輩、今日のデートの第一関門は――」
「取材だ」朔が訂正する。
「そう! 取材の第一関門は――」陽葵はポケットから地図を取り出して広げた。「ジェットコースターです!」
「なぜ一発目がジェットコースターなんだ?」
「恋愛漫画の初デートの定番だからですよ! ヒロインが怖がって、主人公が守って、それで吊り橋効果で親密度アップです!」
「それは漫画の話だ。現実のジェットコースターは吐き気を催すだけだぞ」
「それならもっといいです! ヒロインが酔って、主人公が看病して、それで親密度アップ!」
「君の親密度の上げ方は極端すぎやしないか?」
「極端じゃなきゃ恋愛とは言えません!」
朔は議論を諦めた。
二人は遊園地の入り口へと歩き出した。朔が二人分のチケットを買う――陽葵が財布を「忘れた」からだが、朔はあえてそれを指摘しなかった。
改札を通るとき、朔は無意識に後ろを振り返った。
広場には人々が行き交い、見知った顔はない。
けれど、誰かの視線を感じる気がした。
首筋を細い針で刺されるような、そんな感覚。
「先輩? どうしました?」
「……いや、何でもない」
朔は向き直り、遊園地の中へと足を踏み入れた。
彼が気づくことはなかったが、広場の向かいにあるカフェの店内で、サングラスとウィッグで変装した少女がコーヒーカップを置いた。
彼女はスマホを手に取り、画面に表示された写真を見つめる。そこには、先ほど広場で朔が陽葵にマフラーを巻き、少し俯いて彼女を見つめている瞬間が収められていた。
少女の指が、スマホケースを軽く叩く。
タッタッタタッタッタ。
やがて彼女は立ち上がり、コーヒーカップの下に紙幣を一枚挟んで店を出た。
サングラスの奥、灰色の瞳には、静かに燃える炎が宿っていた。




