第4話「忌避」という名のロジカル・ゲーム
協定は、翌朝には正式に「失効」していた。
少なくとも、結月の言い分ではそうなっている。
朔が朝食のためにリビングへ下りると、結月はすでに食卓についていた。制服姿で髪を低い位置でポニーテールにまとめ、目の前には目玉焼きにベーコン、生野菜のサラダ、そして味噌汁といった、いかにも手の込んだ朝食が並んでいる。
「おはよう」
「……おはよう」
結月は顔も上げずに応じる。
朔はテーブルの反対側に腰を下ろした。朔の父と結月の母はすでに家を出ており、テーブルの上には彼のために用意された朝食――シンプルな白粥と漬物が置かれていた。
二組の朝食。
洋食と和食。 手の込んだものと、質素なもの。 能動と、受動。
朔は箸を手に取り、粥を一口啜った。熱すぎず冷たすぎず、まるで見計らったかのような絶妙な温度だった。
「昨夜のことだけど」結月がいきなり口を開いた。「考えてみたの」
「何のことだ?」
「協定のことよ」
朔は箸を置いた。
「どうしたいんだ?」
結月が顔を上げ、その灰色の瞳で彼を射抜く。
「協定は継続させる。けれど、条項を一つ追加してほしいの」
「どんな条項だ?」
「『避嫌条項』よ」
「……説明してくれ」
結月はフォークを置き、テーブルの上で両手を組んだ。その姿は、まるで厳粛な交渉を司る議長のようだった。
「あなたは私に対し、学校で『兄妹』としての親密さを出すことを禁じた。それは承諾するわ。けれど、その対価として、あなたも他の女子生徒と通常の社交範囲を超えた親密な振る舞いをすることを禁じさせてもらうわ」
「例えば?」
「例えば、五十嵐陽葵があなたの腕にぶら下がることとかね」
「五十嵐の行動まで、俺にはコントロールできない」
「拒絶することはできるはずよ」
「拒絶はしたさ。あいつが聞かないんだ」
「それは、あなたの拒絶の仕方に問題があるからよ」結月の口調は穏やかだが、鋭い。「あなたの『拒絶』は言葉では『やめてくれ』と言っているけれど、身体が動いていない。彼女を腕に纏わりつかせ、近くに寄らせ、差し出されたパンを受け取り、廊下で立ち話をする。言葉では拒んでいるけれど、行動は黙認しているのよ」
朔は何か反論しようと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
彼女の指摘は、事実だったからだ。
彼は確かに、陽葵を力ずくで突き放したことはない。 確かに、彼女のパンを受け取った。 確かに、彼女と会話を交わした。
理性では「面倒を適当にいなしている」つもりでも、身体は拒絶反応を示していなかった。
それは、何を意味するのか。
「だから、口先だけじゃない、行動による本当の拒絶を見せてほしいの」
「どうしてだ?それがお前に何のメリットがある?」
結月はフォークを手に取り、ベーコンを一口分刺して口に運んだ。ゆっくりと咀嚼する。
「だって」ベーコンを飲み込み、ナプキンで口元を拭った。「あなたの義妹として、私にはあなたの交友関係を管理する権利があるもの。あなたが外で不適切なことをすれば、我が家の体裁に関わるわ」
「我が家の、体裁?」
「ええ。私たちの家のことよ」
朔は結月を凝視した。
彼女の言葉はすべて論理的で、理由も筋が通っている。だが、そのロジックはあまりにも完璧すぎて、まるで事前にリハーサルでもしてきたかのようだった。
「神城。お前は、俺が他の女子と親しくなるのが心配なのか? それとも、俺が誰かを好きになるのが怖いのか?」
結月の持つフォークが、空中で止まった。
美術室。
昼休み。
朔が美術室のドアを開けると、そこにはすでに詩織がいた。今日の彼女は白い作業着を羽織っており、そこにはいくつかの色が抽象的な落書きのように付着している。
「おう」
詩織は振り返らずに、こくりと頷いた。
朔はいつもの隅の席に座り、文庫本を取り出した。しかし活字を追うことはせず、朝の結月との会話を反芻していた。
あの問いを投げかけた後、結月はおよそ十秒間沈黙した。
そして彼女はこう言ったのだ。 『心配なんてしていないわ。私はただ、義妹としての義務を果たしているだけよ』
『義妹の義務に、義兄の交友関係の管理まで含まれるのか?』
『家族の体裁を守ることは含まれるわ』
そう言い残すと、彼女はカバンを掴んで食堂を出て行った。
朝食は食べかけのままだった。
彼女の背中を見送りながら、朔はふと思った。彼女の口から出る「義妹」という言葉は、「お兄ちゃん」と呼ばれるよりもずっと居心地が悪いものだと。
なぜなら「お兄ちゃん」は少なくとも一つの偽装であり、彼女が無理をしてひねり出す呼称だ。
けれど「義妹」は武器だ。彼女が自在に使い、いつでも仕舞い込むことのできる武器。
「義妹だから、あなたを心配する権利がある」
「義妹としての義務を果たしているだけ」
進んで攻め、退いて守る。 完璧だった。
「何を考えてるの?」
詩織の声が、朔の思考を遮った。
「……別に」
詩織は筆を置き、椅子を回転させて朔を見た。 その深いブラウンの瞳は、凪いだ水面のように静かだが、朔にはその水底に何かが潜んでいるような気がしてならなかった。
「あなた、なんだか、囚われているみたいに見える」
朔は虚を突かれた。
「囚われてる?」
「ええ。ガラス瓶の中に閉じ込められた虫みたい。外は見えているのに、出られないの」
朔は返す言葉が見つからなかった。
詩織は再びキャンバスに向き直り、筆を走らせる。
「言いたくないなら、言わなくていい」背中越しに彼女の声が届く。「でも、もし話したくなったら、聴いてるから」
朔は長い間、沈黙を守った。
美術室に差し込む光が、北窓からの冷ややかな白から、柔らかな暖色へと刻一刻と移り変わっていく。画架の上の絵は、新たな進展を見せていた。あの古びた桜の枝に、小さく、目立たないほどの隆起が描き加えられている。
蕾だ。
「この木の春の姿を描いているの」詩織は、朔の視線に気づいたように言った。
「春にはまだ遠いだろう」
「わかってる。でも、先取りして描いておきたいの」
「どうしてだ?」
詩織は手を止め、少し考えた。
「だって、あるものは、春になったから現れるわけじゃないの。ずっとそこにあるけれど、私たちに見えていないだけ」
朔はその小さな隆起を見つめ、心臓が跳ねるのを感じた。
結月のことを考える。
昨夜、スマホを覗き見られた時の、あの解読不能な感情の入り混じった瞳。 今朝、「義妹として、あなたの交友関係を管理する権利がある」と言った時の、声の微かな震え。 半年前別れ際に彼女が告げた「私もそう思っていたわ」という言葉――静かで平坦な声だったが、今思えば、あれは決して吹っ切れた人間の出す声ではなかった。
『ずっとそこにあるけれど、私たちに見えていないだけ』
詩織の言葉は鏡のように、朔がずっと避け続けてきたものを映し出していた。
結月は、おそらく一度も吹っ切れてなどいない。
彼女が協定を持ち出したのは、平和維持のためではない。
彼の生活圏に留まるためだ。 「義妹」という、安全で、合理的で、決して拒絶されることのない立場を利用して。
「……クソが」朔は低く毒づいた。
詩織は振り返らなかったが、一瞬だけ筆が止まった。
「コーヒー、いる?」
「……ああ」
缶コーヒーが一つ、朔の足元へ転がってきた。 プルタブを引き、一口煽る。
苦い。 ひどく苦い。 だが、今の気分にはちょうどよかった。
午後、朔が帰宅すると、結月がリビングのソファで彼を待っていた。
ゆったりとしたパーカーにスウェットパンツという部屋着に着替え、髪を下ろし、メイクも落としている。家の中でしか見せない姿。それは、半年前の付き合っていた頃に朔が最も見慣れていた姿でもあった。
「おかえり」結月が平淡な声で言った。
「……ただいま」
朔は靴を脱いでリビングへ上がり、結月の向かいのソファに腰を下ろした。
二人の間にはローテーブルがあり、そこにはティーポットと二つのカップが置かれていた。
「お前が淹れたのか?」
「ええ」
朔は茶を一杯注ぎ、一口飲んだ。紅茶だ。ほんの少しだけ蜂蜜が入っている――彼の好む飲み方だった。
「覚えてたんだな」
「何を?」
「俺が紅茶に蜂蜜を入れるのが好きなこと」
結月の指先が、カップの縁をなぞるように動いた。
「忘れたくても忘れられないことって、あるものよ」
沈黙。
湯気が二人の間に立ち上り、そして消えていく。
「結月」
結月が顔を上げる。 朔が彼女を名前で呼ぶことは滅多にない。学校では「神城」、家では呼称そのものを避けていた。名前を直接呼ぶということは、重要な話をすることを意味していた。
「朝の話だが」朔は言った。「考えてみた」
「どの話?」
「お前の言う『避嫌条項』についてだ」
結月の表情に変化はなかったが、カップをなぞっていた指が止まった。
「同意するよ」
結月の目が僅かに見開かれた。彼女が驚いた時の癖だ。
「同意するの?」
「ああ。ただし、俺からも条件がある」
「どんな?」
「お前も『避嫌』を徹底しろ」
「どういう意味?」
朔はカップを置き、身を乗り出して膝の上で手を組んだ。
「お前は義妹だから俺の交友関係を管理する権利があると言ったな。なら、その逆も然りだ。義兄として、俺もお前の交友関係を管理させてもらう」
「私の交友関係に問題なんてないわ」
「問題があるかないかを決めるのは、お前じゃない」朔は畳みかける。「俺の知る限り、生徒会長――三年生のあの男子だ――はお前に好意を寄せている。週二回の定例会の後、毎回二人きりで十分間ほど役員室に残っているそうだな。それは『通常の社交範囲を超えた親密な振る舞い』に含まれないのか?」
結月の顔色が変わった。 赤くなるのでも青ざめるのでもない、驚きと苛立ち、そして言いようのない複雑な感情が混ざり合った色。
「あなた……どうしてそれを?」
「その十分間のせいで、お前はいつも帰りのバスを一本逃し、二十分余計に待つことになるからだ」朔は淡々と言った。「時間に正確なお前が、重要でもないことのために二十分も無駄にするはずがない」
結月は黙り込んだ。
「というわけだ」朔はソファに背を預け、再びカップを手に取る。「俺に避嫌を求めるなら、お前も同じようにしろ。対等原則だ」
リビングの空気が五秒ほど静止した。
そして、結月が笑った。 冷笑でも苦笑でもない。朔が久しく聞いていなかった、どこか呆れたような、それでいて柔らかな響きを伴った本物の笑いだった。
「あなたって本当に変わらないわね。何でもかんでも、すぐにゲーム(博弈)にしてしまうんだから」
「ゲームに落とし込むのが、最も公平だからな」
「恋愛はゲームじゃないわ」
「だから、俺たちは恋愛なんてしていないんだろ」
結月の笑みが凍りついた。
彼女はうつむき、カップの中の紅茶を見つめた。琥珀色の液体に映る彼女の顔は、ゆらゆらと歪み、まるでくしゃくしゃに丸められた絵画のようだった。
「……そうね」彼女は低く呟いた。「私たちは、恋愛なんてしていないわ」
朔は紅茶を一口啜った。 茶はすでに冷めていた。 蜂蜜の甘さが重く沈み込み、まるで時間では洗い流せない執念のように舌に残った。
その絶妙なタイミングで――。
窓が勢いよく開け放たれた。
「せーんぱーいっ!!」
陽葵が窓から飛び込んできた。金髪を夜風になびかせ、コンビニの袋を提げ、窓の外の夕日よりも眩しい笑顔を浮かべている。
「遊びに来ちゃいました! サプライズですよ!」
朔ののこめかみがぴくりと跳ねた。
「……ここ、二階だぞ」
「知ってますよー! だから窓から入ったんじゃないですか。玄関からなんてつまんないですよ!」
陽葵は窓枠から飛び降り、制服についた埃を払ってから、ようやくリビングにいるもう一人に気づいた。
「あれっ――あなたは……」
彼女は小首を傾げて結月を見つめ、青い瞳を瞬かせた。
「神城先輩? 生徒会の、神城先輩ですよね?」
結月が立ち上がった。その表情は、すでにいつもの高嶺の花のごとき冷徹なものに戻っている。
「五十嵐陽葵さん」彼女の声は冬の風のように冷たかった。「どうして窓から入ってくるの?」
「楽しいからですよ!」
「住居侵入罪よ」
「えーっ、でも先輩からダメだって言われたことないですよ?」
陽葵は朔を振り向き、「ですよね?」と言わんばかりの表情を見せる。
朔はこめかみを押さえた。
「言ったはずだ。『窓から入るな』と」
「先輩が言ったのは『窓から入るな、危ないから』ですよ!」陽葵は胸を張って言い返す。「それは私の身を案じてくれたのであって、禁止したわけじゃありませんっ!」
「……」
朔は考えるのを放棄した。
「今日は先輩に取材に来たんです!」陽葵はコンビニ袋からノートとペンを取り出した。「先輩、この前約束したじゃないですか。私の小説のネタに協力してくれるって!」
「約束はしていない」
「『また今度な』って言いました! 『また今度』は『オッケー』って意味ですよ!」
結月は二人のやり取りを黙って見つめていたが、無意識に指に力が入り、拳を握りしめた。
「五十嵐さん。あなたと浅倉はどういう関係なの?」
「えっ? 関係ですか?」陽葵はうーんと首をひねった。「私は先輩の――えーと――専属取材アシスタント! いや、むしろ――先輩は私の専属ヒーローです!」
「……ヒーロー?」
「そうですよ! 私、恋愛小説を書いてるんですけど、先輩をモデルにしてるんです!」陽葵はノートを広げた。そこには文字がびっしりと書き込まれている。「先輩、見てください。これ第一章の下書きです――『主人公は超絶リアリストな男子高校生。彼は恋愛を効率の悪い化学反応だと信じていた。だがある日、一人の金髪の少女が彼の生活に乱入してきて……』」
「五十嵐」朔が言葉を遮る。「お前、何を書いてるんだ?」
「小説ですよ! この前言ったじゃないですか」
「お前が言っていたのは『偽骨科(にせこっか:義理の兄妹)』ものだったはずだが」
「そうですよ! 背徳系っていうのは血の繋がらない兄妹の恋愛ストーリーなんです! 先輩と神城先輩だって――」
「五十嵐さん」
結月の声が割り込んだ。氷の楔を打ち込むかのような鋭さだった。
陽葵が結月を見る。 結月は無表情だったが、その瞳には危険な光が宿っていた。
「今、なんて言ったの?」
「だから――先輩と神城先輩って、まさに『背徳系』じゃないですか! 義理の兄妹なんて、最高のネタですよ!」
沈黙。
朔は結月を、結月は陽葵を凝視する。 空気は限界まで引き絞られた弦のように張り詰めていた。
「五十嵐さん。私と浅倉は、ただの普通の義理の兄妹よ。小説を書くのは自由だけれど、私たちをネタにするのはやめてちょうだい」
「どうしてですか? すっごくお似合いだと思いますけど!」
「不適切だからよ」
「でも――」
「『でも』じゃないわ」結月が一歩踏み出し、陽葵と朔の間に割って入った。まるで壁のように。「それから、今日を限りに、あまり浅倉に近づかないでほしいの」
「どうしてですかっ!」陽葵の声が一段高くなる。
「私は彼の義妹だから。私には彼の交友関係を管理する権利があるの」
「義妹にそんな権利あるわけないじゃないですか!」
「私は彼の家族だもの」
「私だって先輩の家族みたいなものです! 私、先輩の親友の妹ですよ。四捨五入すれば妹です!」
「四捨五入は成立しないわ」
「じゃあ四捨五入なんてしなくていいです! 私が直接、先輩の妹になります!」
「あなたは妹じゃない」
「なれますーっ!」
二人の少女が真っ向から対峙する。一方は氷のように冷たく、一方は火のように熱い。
朔はソファに座ったまま、冷めきった紅茶を手に思考を巡らせていた。 論理でこの場を収めようとした。 だが、この状況において、ロジックは完全に無力化していた。
なぜなら、これは論理の問題ではないからだ。 これは――。
「……ガチャッ」
ドアが開いた。
全員の視線が入り口に集まる。
そこには詩織が立っている。紙袋を手に、制服の上からグレーのカーディガンを羽織っている。表情は相変わらず淡々としていたが、その瞳はリビングの三人を見渡し、まるでX線のようにすべてを透視していた。
「お邪魔するわ」彼女の声は小さく、それでいてよく通った。「風邪薬を届けに来たの。浅倉君、昨日雨に降られたって聞いたから」
朔は面食らった。「……雨になんて降られてないが」
詩織は彼を見つめた。その深いブラウンの瞳に、ほんの僅かな、気づかないほどの笑みが浮かぶ。
「わかってる。でも、理由が必要でしょう?」
彼女はリビングへ入り、紙袋をテーブルに置くと、当然のように朔の隣のソファに腰を下ろした。
三人。 いや。 今は、四人だ。
詩織。結月。 陽葵。
四人がテーブルを囲んで座っている。まるで、議題のない会議でも始めるかのように。
壁の時計が刻む秒針の音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。
朔はカップを持ち上げ、完全に冷え切った紅茶を飲み干した。
どうやら、自分の理性的な生活は、本当に終わりを迎えたらしい。




