第31話 理性崩壊の擬似ハーレム
田舎から帰ってきた日の夜、はある決意をする。
もう逃げない、と。
考えがまとまったからではない――むしろ、まとまらないからだ。分からないのなら、もう考えるのはやめる。とにかく前に進み、行けるところまで行く。少なくとも、これ以上彼女たちを心配させず、待たせず、逃げる背中を見せることだけはしない。
朔は、彼女たち三人とともにいることを決意する。
それはとても勇敢な決意だ。
だが残念なことに、その勇敢さは十二時間ももたない。
月曜の朝、校門をくぐりながら、朔は心の中で何度も唱える。「今日は普通に。普通にするんだ。普通の人間のように」
教室に入り、鞄を置いて席につく。窓の外は日差しが心地よく、空気も澄んでいて、すべてがごく普通だ。
そして、足音が聞こえてくる。
一人ではない――二人の足音。一つは軽快で、もう一つは落ち着いている。一人はウサギのように跳ね、もう一人は猫のように歩く。
陽葵と結月が同時に教室の入り口に姿を見せる。
「先輩!おはようございます!」飛び込んできた陽葵の金髪が、朝の光の中で燃える炎のように揺れる。今日はサイドテールにしていて、毛先には赤いリボン、制服の襟元にはウサギのブローチをつけている。
「おはよ」後ろから続く結月は優雅な足取りで、手には缶コーヒーを二つ持っている。制服姿だが、襟元のリボンはいつもより少し緩めで、鎖骨がわずかに覗く絶妙なバランスだ。下ろした髪は毛先が少し巻かれていて、日差しを受けて柔らかな光を放つ。
「先輩、これどうぞ!」陽葵が鞄からピンク色の弁当箱を取り出し、朔の机に置く。
「今日のお弁当は特製です!愛情たっぷりですよ!」
「弁当なんて頼んでないぞ」
「私が勝手に作ったんです!」
朔は弁当箱と陽葵を交互に見る。
陽葵の目はキラキラと輝き、「早く開けて開けて」と訴えかけているようだ。
朔はため息をつき、弁当箱を開ける。
中身はエビフライ、卵焼き、ミニトマト、そして海苔でハート型に切られたおにぎり。エビフライもハートの形に並べられ、卵焼きには『好き』の二文字が書かれている。
「……弁当に字を書くのか?」
「はい!そうすれば、先輩が食べる時に私の気持ちが伝わりますから!」
「食べる時に字は消えるだろ」
「でも、先輩の心からは消えません!」
結月が歩み寄り、缶コーヒーを一つ朔の机に置く。
「これ飲んで」と彼女は言う。
「好きなやつでしょ」
朔はコーヒーに目を落とす――高めの缶コーヒーで、微糖。普段はもったいなくて買えないやつだ。
「ありがとう」
結月はこくりと頷いて自分の席に座り、陽葵は手を振りながら自分のクラスへと戻っていく。
結月の席は朔の二列前。朔の角度からは、彼女の横顔と肩に落ちる髪が見える。
すべてが、ごく普通だ。
だが朔は、何かが違うと感じる。
彼女たちが変わったわけではない。
変わったのは自分の方だ。
心拍数が、以前より早くなっている。
午前の一時間目、朔は授業を聞いている。
先生が黒板に数式を書き、朔がノートに写す。すべてが普通だ。
その時、背中に何かが当たるのを感じる。
指ではない――ペンだ。
誰かがペンで、背中をそっとなぞっている。
朔は後ろを振り向く。
二列後ろに座る結月は、うつむいて教科書を読んでいる。表情は平然としていて、何もしていないかのようだ。
だが朔の目には、彼女の手にあるペンのキャップが外されているのが見える。
彼女がペンで突いたのだ。
朔は前を向き直す。
また、ツンと突かれる。
再び振り向く。
結月は相変わらずうつむいて教科書を読んでいる。
「なんで突くんだよ」
結月が顔を上げ、灰色の瞳で彼を見つめる。
「してない」
「しただろ。二回も突いた」
「ペンがうっかり当たったのかも」
「お前のペンは『うっかり』二回も当たるのか?」
「当たる」
朔は彼女を三秒見つめ、前を向く。
また、ツン。
今度はもう振り向かない。
振り向いても無駄だと分かっているからだ。彼女は絶対に認めない。
しかし背中の突かれた部分に、妙な感覚が残る――痛みではない、くすぐったさだ。心の中までくすぐられるような。
昼休み、朔は美術室へ向かう準備をする。
静寂が必要だ。冷静になるために、詩織が醸し出すあの静かな、言葉を必要としない空間が欲しい。
しかし教室を出ようとした時、陽葵が入り口を塞ぐ。
「先輩!お昼休みです!一緒にお弁当食べましょう!」
「美術室で食べるよ」
「じゃあ私も美術室に行きます!」
「美術室は食堂じゃないぞ」
「でも詩織先輩は毎日そこで食べてるじゃないですか!」
言い負かされた朔は、仕方なく二人で美術室へ向かう。
美術室のドアは半開きになっている。北窓から差し込む光が、空中に斜めの光の柱を描き出す。その中で、埃がゆっくりと舞っている。
詩織はイーゼルの前に座り、手に筆を持っている。足音を聞いても、彼女は振り向かない。
「来たの?」
「ああ」
「一人連れてる」
陽葵が朔の後ろから顔を出す。
「詩織先輩!私も来ました!」
「うん」詩織は筆を置き、振り返って陽葵と朔を見る。「座って」
朔が窓際の椅子に座ると、陽葵もその隣に座る。
詩織は棚から座布団を二枚出して床に置き、再びイーゼルの前に座る。
三人。
静寂。
だがその静寂は、以前とは違う。
以前の静寂は『それぞれが自分のことをしている』静寂。今の静寂は『みんなが同じことを考えている』静寂だ。
何を?
朔には分からない。
しかし、感じることはできる。
陽葵が弁当箱を開け、エビフライを一つ挟んで朔の口元に運ぶ。
「先輩、口開けてください。あーん」
朔はエビフライと陽葵を交互に見る。
「自分で食べる」
「だめです!私が作ったんですから、私が食べさせます!」
朔はちらりと詩織を見る。詩織は絵を描いていて、こちらを見ていない。だが、彼女の筆が少しだけ止まる。
朔は口を開け、エビフライをかじる。
サクサクしていて、とても美味しい。
「美味しいですか?」
「美味しい」
「よかった!」
陽葵は笑い、また別のおかずを挟む。「もう一口!」
「自分で――」
「あーん!」
朔はまた食べる。
三口目。
四口目。
五口目。
あっという間に、朔は弁当の半分以上を平らげてしまう。
「陽葵、もう食えない」
「あと最後の一口です!ほら、あーん」
朔は口を開ける。
今度は、エビフライではない。
陽葵の指だ。
彼女はうっかり、自分の指まで朔の口に突っ込んでしまったのだ。
温かくて、ほんのり塩味がする。
朔は固まる。
「せ、先輩っ――横に人がいるんですから、こういうのは二人きりの時にしましょうよぉ――」
陽葵の顔は茹でダコのように真っ赤になり、手を引っ込めようとするが、朔の歯はまだ彼女の指を軽くくわえたままだ。
朔は歯を離す。
陽葵は手を引っ込め、背中に隠してうつむく。耳まで血が滲みそうなほど赤い。
「わ、私、ちょっとお手洗いに行ってきます!」
彼女は走り去っていく。朔の理解では、この子はおそらくもう戻ってこないだろう。おそらく。
「得意でもないのに、何でバカなことを……」
美術室には、朔と詩織だけが残される。
「浅倉くん」
「なんだ?」
「顔、赤いよ」
「……日差しのせいだ」
「外は曇りだけど」
朔は口をつぐむ。
詩織は筆を置き、立ち上がって朔の前に歩み寄る。
「浅倉くん」
「なんだ?」
「私にも、できるよ」
「何が?」
詩織は答えない。彼女はそっと、朔の唇にキスをする。
ひんやりとしている。
花びらにとまる蝶のように。
「ここ。あの子の匂いがする。だから、私の匂いで上書きするの」
朔の心臓が大きく跳ねる。
詩織は、ますます大胆になっているのではないか?
「詩織、お前――」
「どうしたの?」詩織は振り返る。
「好きな人とキスするなんて、ごく普通のことだけど」
彼女は向き直り、イーゼルの前に戻って座り、筆を手に取る。
再び絵を描き始める。
まるで何事もなかったかのように。
朔は椅子に座り、詩織の背中を見つめる。
心臓が張り裂けそうなほど激しく鳴っている。
彼の理性の防衛線は、おそらくすでに完全に崩壊している。
そう、朔は思う。
放課後、朔は一人で廊下を歩く。
今日起きた出来事を反芻している。
どれも、一つ一つを取り出せばささいなことだ。
だがそれが積み重なると、小石のように、ただでさえ波立つ心の湖に投げ込まれていく。
波紋が広がる。
幾重にも。
止められない。
「浅倉」
朔は顔を上げる。
結月が廊下の先に立ち、窓枠に背を預けて腕を組んでいる。一日中曇っていたが、放課後になって意外にも晴れ間が覗く。窓から差し込む夕日が彼女の顔を照らし、その輪郭を金赤色の光で縁取っている。
「なんでここに?」
「待ってた」
「待っててどうするんだ?」
「一緒に帰るの」
「俺たち、毎日一緒に帰ってないか?」
「昔はね。最近は違う。最近のあんたは、いつも陽葵と帰るか、詩織と帰るか。それか一人で帰ってる」
朔は沈黙する。
「だから今日は、私が待ってた」
二人は一緒に校門を出る。
夕日が街をオレンジ色に染め上げる。遠くの空はオレンジから紫へとグラデーションを描き、巨大な水彩画のようだ。
二人は無言のまま歩く。
下駄――いや、今日は革靴だ。結月のローファー――埃一つない靴が夕日を反射し、朔の目を眩ませる。
『カツッカツッ』という足音が、朔の内心をさらに掻き乱していく。
「浅倉」
「なんだ?」
「照れてる?」
「なんで分かるんだ?」
「耳、赤いから」
朔は耳に触れる――確かに、少し熱い。
「それは暑いからだ」
「今はもう九月だよ」
「九月だって暑い」
「暑くない」
「暑いんだって」
結月が彼をちらりと見る。
「浅倉、知ってる?あんた、嘘をつく時はいつも耳が赤くなるのよ」
「嘘なんてついてない」
「今まさに嘘ついてるじゃない」
朔は口をつぐむ。
なぜなら――確かに嘘をついているからだ。
心臓の鼓動が早いのは、天気のせいではない。
彼女のせいだ。
彼女が隣を歩いている。彼女と一緒に帰っている。彼女が待っていてくれた。
どれも、昔はごく普通のことだった。だが今は、その一つ一つが彼の胸を高鳴らせる。
「手、繋いでもいい?」
朔の足がピタリと止まる。
「えっ?」
「手を繋ぐの。昔付き合ってた頃は、毎日繋いでた。今は――もうずっと、繋いでない」
朔は彼女を見つめる。
表情は平然としている。だが朔は、彼女の指先が微かに震えていることに気づく。
「結月」
「ん」
「お前、変わったな」
「どこが?」
「昔なら勝手に繋いできた。聞いたりしなかった」
結月は少しの間、沈黙する。
「昔は、私にその資格があったから。今は――自信がないの」
朔は手を差し出す。
「繋ごう」
結月は彼の手を見つめ、少し呆然とする。
それから手を伸ばし、朔の手を握りしめる。
彼女の指は冷たくて、細い。
けれど、とても強く握ってくる。
「……ありがとう」
二人は再び歩き出す。
手を繋いだまま。
夕日が背後でゆっくりと沈んでいく。
長く伸びた二人の影が重なり合い、一枚の絵のようになる。
朔は思う。自分の理性の防衛線は、もう存在しないのだろうと。
『崩壊寸前』ではない。
『すでに崩壊している』のだ。
だが、悲しいとは思わない。
むしろ――少し嬉しいとさえ感じる。
この『嬉しい』という感情が恐ろしい。
けれど、同時に期待してしまう。
明日を。
明日、何が起こるのかを。
明日――彼女たちが何をしてくるのかを。
自分はたぶん、おかしくなってしまったのだろう。
だが、おかしくなるならそれでもいい。
少なくとも、狂っている時の自分は、本物なのだから。




