第29話 私たちだけのものですから
頭を冷やそうと思い、朔はわざと深夜まで部屋で待機してから温泉へ向かう。
理由は至極単純だ——この時間帯なら、あの三人の少女たちは皆寝ているはずだからだ。彼は一人きりになって、静かに、誰にも邪魔されずに考え事をする時間が必要なのだ。
どうせ何も名案など浮かばないことは分かっているものの、それでも部屋でベッドに寝転がりながら天井を見つめているよりは、温泉に浸かっている方がまだマシというもの。
午前一時、旅館の中は静まり返っている。廊下では、古い木の床が夜風に吹かれて発する微かな「軋み」だけが響き、まるで何らかの古い楽器が低く口ずさんでいるかのようだ。
壁のランプが放つ薄暗い黄色い光が、影を長く伸ばしている。朔は浴衣を身にまとい、下駄を鳴らしながら長い廊下を抜け、裏門を押し開けて露天風呂へと足を踏み入れる。
夜風はひんやりとしていて、草木と土の匂いを運んでくる。空には雲一つなく、星が空全体にびっしりと敷き詰められており、まるで誰かが天空に砕けたダイヤをばら撒いたかのようだ。天の川が北から南へと夜空を横切る様は、都会で見るよりも百倍は鮮明に映る。
朔は浴衣を脱ぎ、木杓で数杯の湯を掬って体にかけ、ゆっくりと温泉に足を入れる。
湯は熱く、皮膚が赤らむほどだ。しかし朔はひるまない——彼はこの熱さを、心の中の混乱を上書きしてくれる身体的な刺激を求めているのだ。湯船の縁に腰を下ろし、胸まで湯に浸かりながら、空を仰ぎ見る。
星が瞬く。風が吹く。虫が鳴く。
もし人生が温泉のようにシンプルならどんなに良いだろう、と彼は思う——熱ければ水を足し、ぬるければ湯を足す、そうやって常に丁度いい温度に調整できればいいのに、と。
しかし、人生は温泉ではない。
人生とは——水温が何度なのか永遠に分からず、いつ誰が飛び込んできてお湯をかき回すのかも予測できないものなのだ。
朔はそっと目を閉じる。
突然、水音が耳に届く。
百パーセント、自分が立てた水音ではない——隣から聞こえてくる音だ。
男湯と女湯の間は、竹製の仕切りで隔てられている。仕切りは古く、竹の隙間からは隣の明かりが見えるほど広い。おまけに長年の劣化のせいか、一部の竹が緩んでおり、小さくない隙間が空いているのだ。
朔は目を開け、仕切りへと視線を向ける。
竹の隙間越しに、明かりと、湯気と、そして——
三つのぼんやりとしたシルエットが見える。
心臓の鼓動が急激に跳ね上がる。
嘘だろう。
「先輩——!」
隣から陽葵の声が響く。
朔の呼吸が止まる。
「ひ、陽葵——どうしてここに!?」
「温泉に入りに来たんですよ!夜の温泉が一番気持ちいいですから!」
「今は午前一時だぞ!」
「そうですよ!」
「ここは『そうですよ』って答える場面か?」
「じゃあどうします?私たち、壁越しにこのままお喋りします?」
朔は深く息を吸い込む。
「お前——たち?」
「そうですよ、私たち。結月お姉ちゃんもいるし、詩織先輩もいます」
朔は仕切りの隙間から視線を這わせる。
湯気の中に、確かに三つの人影が見える。
「三人一緒に?」
「そうですよ!約束してたんです!女の子同士、一緒に温泉に入るなんて普通ですから!」
「でもお前たちは——」
「なんですか?」
朔は口をつぐむ。
『お前たちは恋のライバル同士だろ』なんて言えるわけがない。
あまりにもおかしい、これではまるで、自分がハーレム王みたいではないか。
「浅倉」
隣から結月の声が聞こえる。
「なんだ?」
「どうしてこんな深夜に入りに来るの?」
「この時間は誰もいないからな」
「奇遇ね、私たちも人がいないのを狙って来たの」
「お前ら三人は人じゃないのか?」
「私たちは普通の人じゃなくて、美少女だから」
なんだか随分と厚かましい発言が聞こえる。
だが、彼は黙って静かに湯に浸かることを選ぶ。
しかし、隣の会話は彼の耳にもはっきりと届いている。
「結月お姉ちゃん、すごく肌綺麗ですね。白くてすべすべで、どんなボディソープを使ってるんですか?」
「コンビニの棚に並んでる、一番普通のやつよ」
「嘘だ!そんなボディソープでこんなにすべすべになるわけないです!」
「じゃあ遺伝ね」
「なんて贅沢な遺伝……」
「陽葵さんの肌もすごく綺麗よ」と結月が言う。
「本当ですか?ちょっと乾燥してる気がして……」
「乳液をたくさん塗ることね」
「はい!結月お姉ちゃん、何かおすすめありますか?」
彼女たちはスキンケアの話題で盛り上がり始める。
朔は湯船の縁に頭を預け、空を見上げる。
星はまだ瞬いている。
しかし朔には、星々が自分をあざ笑っているように思えるのだ。
「浅倉くん」
詩織の声だ。
朔の鼓動が再び加速する。
「なんだ?」
「子供の頃も、こうやって一人で入っていたの?」
「いや、母さんと一緒だった」
詩織はしばらく沈黙する。
「あなたのお母さんは、どんな人だった?」
「優しい人。料理が上手くて、よく笑って、それに——人を安心させてくれるような人」
「あなたによく似ている」
朔はふと息を呑む。
「俺に?」
「ええ。あなたも優しい人。人を安心させるのがとても上手いから」
「俺はそんな——」
「そうよ」詩織が彼の言葉を遮る。「ただ、あなた自身が気づいていないだけ」
朔は押し黙る。
隣から水音が聞こえる——誰かが動いている音だ。
「先輩!子供の頃、ここで魚を捕まえたりしましたか?」
「捕まえたな」
「楽しかったですか?」
「ああ、楽しかったよ」
「私も捕まえたいです!明日、連れて行ってください!」
「わかった」
「やったー!」
陽葵が手を叩く音、水しぶきが上がる音がする。
「浅倉」
「なんだ?」
「覚えてる?初めて私を海に連れて行ってくれた時のこと」
朔は覚えている。
それは彼らがまだ付き合っている頃の出来事。彼が結月を海へ連れ出すと、白い水着姿の彼女は午後ずっと日差しを浴びて、肌を茹でたエビのように真っ赤にさせている。
「覚えてる」
「あの時、あなたは『日焼けしちゃったな』って言って、薬を買ってきて私に塗ってくれたの」
「ああ」
「塗る時、あなたの手、震えていたわ」
朔は何も答えない。
「どうして震えてるのって聞いたら、あなたは『緊張しているから』って言うの」結月の声はとても柔らかい。「あれが、あなたが初めて私に本音を言ってくれた時ね」
隣はしばらく静寂に包まれる。
「結月お姉ちゃん。先輩と以前は——本当に仲が良かったんですね」
「ええ。とても」
「じゃあ、どうして——」
「それは——私が欲張りすぎたから。もっと多くを求めて。全部が欲しくて。誰とも分かち合いたくなくて。だって、私のものは私のものだから」
「それから?」
「そして——彼はいなくなる」
隣で誰かが立ち上がる。
そしてまた座り込む。
「浅倉くん」
「なんだ?」
「覚えてる?あなたが初めて私を絵画展に連れて行ってくれた時のこと」
朔は覚えている。
それは中学生の頃、学校の行事で美術館を訪れる時のこと。詩織が一人で一枚の絵の前に立ち、じっと見入っている。彼が歩み寄り、「この絵が好きなのか?」と尋ねる。詩織は「好き」と答える。彼が「どうして?」と聞くと、詩織は「だって——何かを思い出させてくれるから」と口にする。
「何を思い出すの?」
「思い出すのは——」詩織が彼を見つめる。「あなたを」
朔は無言のままだ。
「あの時。私はもう、悟ってしまうの。ああ、私はもう駄目だ、って」
「どうして?」
「だって——あなたは何もしていないのに。ただそこに立っているだけで。私にとっては、世界中のどんなことよりも重要になってしまったから」
陽葵の呼吸が荒くなる。
「詩織先輩」陽葵の声が少し震えてる。「言葉選びがずるすぎます。私じゃ敵わない」
「競っているわけじゃないわ」
「じゃあ、どうしてそんなことを言うんですか?」
「だって——彼が聞きたがっているから」
朔の胸は、何かに強く打ち抜かれる。
『彼が聞きたがっているから』。
『私が言いたいから』ではない。
『彼が聞きたがっているから』なのだ。
彼女はいつもそうだ。
自分を主張するのではない。
彼の思いに応えようとする。
彼が問えば、彼女は答える。
彼が問わなければ、彼女は語らない。
彼女が話したくないからではない。
それは——彼が必要としていないと感じるからだ。
しかし今、彼はそれを求めている。
朔は湯船の縁に寄りかかり、空を見上げる。
天の川が頭上をゆっくりと流れていく。
星がきらきらと瞬いている。
彼は考える——自分の一体何が、これほどまでに彼女たちから思いを寄せられるに値するのだろうか?と。
彼は何もしていない。
ただ、そこに立っているだけ。
なのに、彼女たちはやってくる。
そして、離れようとしない。
やがて彼女たちは——待ち始める。
彼が考えをまとめ、選択を下すその時を。
彼は何もしていない。
それなのに、彼女たちは彼に全てを与えてくれる。
自分に何の資格があるというのか?
自分には、そんな資格などない。
「先輩、何を考えているんですか?」
「考えているのさ——俺にはふさわしくないって」
「先輩は私たちのものなんです。ふさわしいかどうかなんて、先輩が決めることじゃありません」
「自分自身を否定しないで」
朔の目頭が熱を帯びる。
感動したからではない。
ますます自分にはもったいないと、そう痛感するからだ。
「迷って、怯えて、逃げ出してしまう浅倉朔。完璧じゃないけど、ありのままの浅倉朔」
「私の、かつての恋人。私たちが好きなのは、そんなあなたなんだから」
朔の目から涙がこぼれ落ちる。
音もなく。
温泉の中へと溶けていく。
どれがお湯で、どれが涙なのか見分けがつかない。
「浅倉くん」
「ああ」
「そっちに行ってもいい?」
朔は思わず息を呑む。
「なんだって?」
「行くわ。あなたのところへ」
「どうやって?」
詩織は答えない。
しかし朔には水音が聞こえる——隣からの水音ではない、仕切りから発せられる音だ。
竹の隙間が動き——なんと、それが一枚の扉へと姿を変える。
待て、どうして男女の温泉の間に繋がる扉なんてあるんだ?
一つのシルエットが湯気の中からゆっくりと近づき、そして、そっと朔の顎をすくい上げる。
細くて、白くて、すらりとした指。
詩織の手だ。
彼女の手が湯気の中を探るように動き、朔の腕に触れ、そこから下へと滑り、手首へ、そして——彼の手を握りしめる。
ひんやりとしている。
とても軽く、それでいて力強い。
しかし、微かに震えている。
朔の身体が硬直する。
「し、詩織——」
「動かないで」
詩織の声が隣から響く、とても軽く、とても近い。「ただ、あなたに触れていたいだけ」
詩織の指先が彼の手のひらをそっと滑る。何かを描いているかのようだ。
何を描いているのか?
おそらく——彼の名前だろう。
「詩織先輩——何をしてるんですか?」
陽葵の声に、わずかな緊張が混じる。
「お絵かき」
「どこに描いてるんですか?」
「彼の手の上に」
「そ——そんなこと——それは反則です!」
「反則じゃないわ。だって、ルールなんて最初からないもの」
「うぅ——!」
陽葵の声は焦りと苛立ちに満ちているが、彼女はこちらに来て止めるような真似はしない。
「結月お姉ちゃん——注意してください!」
「無理ね」
結月の声はとても穏やかだ。
「だって——私も今、そっちに行きたくなっているから」
朔のこめかみがピクリと跳ねる。
「結月——お前まで——」
しかし、もう遅い。
結月が朔の腕にぎゅっとしがみつく。
結月の手は詩織の手よりも少しだけ温かい。だが、同じように震えている。
「お前ら——」
朔の声が少し掠れる。「これは、何をしているんだ?」
「確認しているの」
「何を?」
「あなたが夢じゃないことを」
朔の心臓が大きくドクンと跳ねる。
「夢じゃないさ」
「分かってる。でも、私の手が確認を求めているの」
陽葵は隣で焦ってぐるぐると回り出す気配がする。
「ずるい——二人ともそっちに行くなんて——私、どうすればいいんですか?」
「あなたも来ればいい」
「わ——私はどうやって触ればいいんですか!先輩の両手はもう塞がってるじゃないですか!」
「人体は二本の腕だけで出来ているわけじゃないわよ?」
陽葵が一秒沈黙する。
そして朔は感じる。背後から何かが抱きついてきて、奇妙で柔らかい感触が背中に伝わってくるのを。
まずいまずい、このままでは男としての理性が崩壊してしまう。
「先輩」
陽葵の声が少し震える。「わ、私も触れました!」
朔は自分が、まるで三人の子供に囲まれた標本のようだと感じる。
だが奇妙なことに——
彼はそれを嫌だとは感じない。
むしろ——少し温かいとすら感じる。
温泉の熱の温かさではない。
心の底から湧き上がる温かさだ。
「お前ら、そろそろ離してくれないか?」
「いや」
三人の声が重なる。
朔はため息をつく。
「じゃあ、いつまでこうしているつもりだ?」
「夜が明けるまで」
「先輩が私のこと好きって言ってくれるまで」
「あなたが『そばにいて』って言うまで」
朔は黙り込んで、空を見上げる。
星はまだ瞬いているが、今度は、星々が自分を笑っているようには思えない。
「勝手にしろ」
三人は何も言わないが、抱きしめる力がさらに強くなるのを朔は感じる。
彼が逃げてしまうのが怖いからではない。
それは——彼がここにいることを確認するためだ。
湯気が夜風に乗ってゆっくりと漂い散っていく。
星が頭上をゆっくりと流れていく。
虫が鳴く。
水が流れる。
四人の心臓の鼓動が、半ば崩れかけた竹の仕切り越しに、同じ一つのリズムへと重なっていく。
朔は再びそっと目を閉じる。
今夜、彼は夢を見ない。
だって、もう夢など必要ないから。
現実が、すでにどんな夢よりも不思議で、素晴らしいものになっているのだから。




