第24話 十八年を越えるエンゲージ
車はある高級レストランの前に停まる。
朔の「高級レストラン」に対する認識は、「入り口にドアボーイがいる」「メニューに値段が書いていない」という二つの特徴にのみ限られている。だが、この店は――厳密に言えば、「料亭」だ。
伝統的な日本建築、青い瓦に白い壁、入り口には竹がずらりと植えられており、風が吹き抜けるたびにサラサラと音を立てる。暖簾は深い藍色で、そこにはサイバーパンクな雰囲気を漂わせる家紋が染め抜かれている――朔にはその図案が何なのか分からないが、「ここは一般人が入るような場所ではない」というオーラをひしひしと感じ取る。
和夫は車を降り、スーツの袖口を軽く整える。その動作はとても静かで、ごく自然で、まるでこれまで数え切れないほど繰り返してきたかのようだ。
「行くぞ」
朔と詩織はその後ろに続く。
長い廊下を歩いていく。両脇には手入れの行き届いた日本庭園が広がる――築山、流水、石灯籠、そして錦鯉。せせらぎの音は、まるで静かな曲を奏でているかのようだ。だが、朔に景色を楽しむ余裕はない。
彼の頭は猛烈な勢いで回転している――月ノ森和夫はなぜ自分を呼んだのか?なぜこんな場所に連れてきたのか?なぜあんな目つきで自分を見るのか?
いくつかの可能性が脳裏をよぎる。
そのどれもが、あまりよろしくない。
個室は一番奥にあり、靴を脱いで上がるタイプの畳敷きの部屋だ。部屋には長机が置かれ、その上にはすでに前菜が並べられている――上品な漆塗りの小鉢には、朔には名前も分からないような料理が盛られており、どれも食べるためのものというより、まるで芸術品のようだ。
「座れ」
和夫は上座に腰を下ろし、向かいの席を指差す。
朔と詩織は並んで座る。
仲居が入ってきてお茶を淹れる。その身のこなしは舞を舞うように軽やかだ。お茶の香りが部屋に広がる。それはとても高級な煎茶で、上品な香りのなかに、ほんのりと海苔のような風味が混じっている。
和夫は湯呑みを手に取り、一口飲んでから、それを置く。
そして、朔を見据える。
「浅倉朔、私がなぜ君を呼んだか分かるか?」
「分かりません」
「私の娘のためだ」
和夫はちらりと詩織に視線を向ける。
「この子は最近、変わった」
朔は何も言わない。
「以前はとても静かだった。いや、静かというより――心を閉ざしていた。誰とも話さず、友達も作らず、どんな行事にも参加しない。毎日ただ学校へ行き、絵を描き、家に帰るだけ。まるで――」
和夫は少し考え込む。
「他者との関わりを必要としない機械のように」
「だが最近、この子は変わった。笑うようになり、話すようになり、そして――出かけるようになった」
「なぜ変わったのかと聞いた。この子は答えなかった。だが、私には分かっている――君のおかげだ。だから、知りたいんだ。君は私の娘と、どう向き合うつもりなのか」
朔は口を開きかける。
「月乃森さん、俺と詩織は――」
「待って」
和夫は彼を見つめる。その灰色の瞳には、複雑な感情が入り混じっている。
「浅倉朔、私と君の父親がどういう関係か、知っているか?」
朔はハッとする。
「親父と?」
「ああ」
「私たちは大学の同級生だ。同じ学部で、同じ研究室だった」
朔は、そんな話を父親から聞いたことは一度もない。
「だが君の母親は――」和夫の眼差しが、どこか遠くを見るように変わる。
「君の母親と先に出会ったのは、私の方だ」
空気が凍りつく。
「君のお母さんはね、」和夫の声が、先ほどよりも少し低くなる。「私の初恋の人なんだ。私たちは大学二年の時に交際を始めた。三年付き合ったよ」
「それで?」
「それで――実家が猛反対した。月乃森家は旧財閥だからね、一般家庭出身の娘を受け入れるはずがない。私は無理やり別れさせられ、今の妻と結婚させられた」
「その後、君の母親は君の父親と出会った。二人は結ばれ、結婚し、君が生まれた」
「そして私は――ずっと彼女を忘れられずにいる」
個室の中は静寂に包まれている。
庭園のせせらぎが聞こえるほどに。
朔は和夫を見つめる。
鋭い目つきをした、仕立てのいい高級スーツを着たこの男を。
彼はふと、この人がとても哀れに思えてくる。
話した内容のせいではない――彼がそれを語る時、その目に宿るある種の光のせいだ。
その名は、「後悔」。
「そんな話を俺にして、どういうつもりですか?」
和夫は湯呑みを置き、朔を見据える。
「君に教えるためだ――君と詩織には、婚約が結ばれていることを」
朔の頭は真っ白になる。
「は?」
「婚約だ」和夫はもう一度繰り返す。「十八年前、君の父親と母親が結婚する時、私も式に出席した。私は酒を飲み、言ってはいけないことをたくさん口にした。その内の一つがこれだ――『もし将来、互いに子供ができたら、その二人を結ばせよう』」
「君の父親はそれを本気にした。翌日、私のところへやって来て『じゃあ、それで決まりな』と言ったよ」
「だから私たちは約束した――もし将来、男の子と女の子が生まれたら、結婚させようと」
朔は詩織に視線を向ける。
詩織はうつむき、卓上の湯呑みを見つめている。
その表情はとても穏やかだ。
だが彼女の手は、テーブルの下で、スカートの裾をぎゅっと握りしめている。
「詩織、君は今まで……」
「その約束は、とっくに無効になっていると思っていましたから」
「無効になどなっていない。私はずっと待っていた。君たちが大人になるのをな」
「どうしてですか?」
「君の母親のためだ。彼女は君が幸せになることを望んでいる。だから私が――彼女の代わりにその願いを叶えたいんだ」
朔の胸の奥に、何かがつかえる。
「だから」
和夫は立ち上がり、窓際に歩み寄って、朔に背を向ける。「卒業後、君は月乃森家に婿入りし、詩織と結婚しなければならない。その代わり、浅倉家の生涯にわたる富と名誉は私が保証する」
朔の頭は、水の中に押し込まれたかのようになる。
何も聞こえない。
何も見えない。
己の心音だけが響く。
ドクン、ドクン、ドクン。
とても遅い。
とても重い。
「もし君が拒むなら、浅倉家に与えた全てを回収させてもらう。君の父親の会社も、君の家も――月乃森グループに依存しているもの全てだ」
「俺を脅しているんですか?」
朔の声が冷たくなる。
「脅しではない、条件だ。君が受け入れれば、丸く収まる。拒むなら、それも責めはしない。だが、その結末は――君自身が背負うことになる」
朔は立ち上がる。
「あんたの富も名誉も、必要ありません」
「君は必要ないかもしれない。だが、君の父親には必要だ。彼の会社の最大の取引先は、月ノ森グループの子会社だ。私が一言命じるだけで、彼の会社は一ヶ月以内に倒産する」
朔の指が強く握りしめられる。
「あんた――」
「浅倉くん、もう言わないで」
詩織の手は震えている。
「お父さんは――冗談を言っているんじゃないの」
朔は彼女を見る。
彼女の赤らんだ目頭を、微かに震える唇を、自分の指をきつく握りしめるその手を。
その赤は泣いているのではない――「泣きたいのをぐっと堪えている」時の赤だ。
「詩織、君は――」
「ごめんなさい。もっと早く言うべきだった。でも私――怖かったの」
「何が怖かったんだ?」
「あなたがそれを知ったら、こう思うんじゃないかって――私があなたに優しくするのは、その婚約のせいなんだって」
沈黙する。
「私があなたに惹かれているのは、そんな理由じゃない。私自身、この婚約がまだ有効だなんて知らなかった。ただの――大人たちが酔っ払って言った冗談だとばかり思っていたから」
「でも、婚約があろうとなかろうと――私の気持ちは、変わらない」
彼女は顔を上げ、深い焦茶色の瞳で朔を見つめる。
「出会ったその日から、ずっと変わらないの」
「信じるよ」と言いたい。
だが、言葉が出てこない。
なぜなら――確信が持てないからだ。
彼女の言葉を疑っているわけではない。
自分自身に、確信が持てないのだ。
もし彼女を信じたら、それは自分に選択を強いることになるのではないか?
もし彼女を選んだら、陽葵はどうなる?結月はどうなる?
もし彼女を選ばなかったら、親父の会社はどうなる?家の未来はどうなる?
彼はふと、自分が出口のない部屋に閉じ込められたような錯覚に陥る。
四方を壁に囲まれた。
逃げ場のない部屋。
「一週間、考える時間を与えよう。一週間後に、答えを聞かせてくれ」
彼は立ち上がり、入り口へと向かう。
「詩織、お前は残れ。浅倉くんとよく話し合いなさい」
襖が閉まる。
個室に残されるのは、朔と詩織の二人だけ。
二人は黙り込んだまま座り続ける。
庭園のせせらぎが、ひどく大きく聞こえる。
「詩織」
「うん」
「ずっと前から、知ってたのか?」
「何を?」
「婚約のこと」
詩織はしばらく黙り込む。
「知ってた。でも、本当だなんて思ってなかった。お父さんは――酔った勢いで言っただけだって。もう忘れてるんだって、そう思ってた」
「忘れてなかったな」
「ええ。忘れてなかった」
朔は彼女を見る。
「詩織、君がこんなにも俺に近づいてきたのは――婚約があったからか?」
「違うわ」
「じゃあ、どうして――」
「あなたが好きだから。ずっと小さい頃から。婚約のせいじゃない、誰かに決められたからじゃない、どんな理由でもない。ただ――好きなの」
「太陽が昇るように、潮が満ちるように、花が春に咲くように」
「理由なんてない」
「ただ、そうなるだけ」
朔は彼女を見つめる。
「詩織」
「うん」
「俺は、君を信じていいのか分からない。君が嘘をついていると思っているからじゃない。それは――俺が自分自身を信じられないからだ。自分が、君にそこまでしてもらう価値のある人間だとは思えないんだ。」
詩織は少しの沈黙する。
そして手を伸ばし、朔の手にそっと重ねる。
「浅倉くん」
「なんだ?」
「自分を信じる必要なんてないの。私だけを信じて」
「私があなたを好きだってこと。嘘なんてついてないってこと。そして――婚約があってもなくても、私はずっとあなたのそばにいるってこと」
朔は彼女の手を見る。
ひんやりとしている。
とても軽い。
だが、力強い。
「詩織」
「うん」
「少し、時間をくれ」
「ええ。いくらでも」
「どうして?」
「だって――」
詩織の口角が弧を描く。
「私、もう三年……ううん、十年も待ったんだもの。数日くらい、どうってことないわ」




