第23話 『助けて』
詩織が家に訪問してからのこの一週間、朔はまるで薄氷の上を歩くように過ごしている――一歩一歩を慎重に踏み出しているが、その度に危険な「ミシミシ」という音が鳴る。
学校では、すべてがいつも通りだ。
陽葵は相変わらず毎日彼を訪ねてきて、弁当を持参し、メッセージを送り、彼をあちこちへと引っ張り回す。彼女の笑顔は依然として眩しいが、朔は気づいている、彼女が詩織を見る目が変わっていくことに――もはや「先輩」への尊敬ではなく、「ライバル」への値踏みであることに。
詩織も相変わらず静かだ。しかし、その静けさの質も変化している――「沈黙の傍観者」ではなく、「沈黙の攻撃者」へと。彼女は陽葵のように大声を出したりせず、結月のように遠回しな態度をとることもない。彼女はただ――そこに存在する。決して無視できない形で、存在し続ける。
家では、結月がさらに無口になっている。
彼女は自分から朔に話しかけようとしない。冷戦ではない――冷戦なら少なくとも「怒っている」というサインだ。彼女は怒っているのではなく、ただ――消化しているのだ。
詩織が言い放つあの言葉たちを。
「あなたは彼の義妹よ」
「それはあなたが選ぶこと」
「あなたがその手を離すのだから」
朔には彼女が何を考えているのか分からない。彼のスマホを勝手に見ることもなくなり、尾行することもなくなり、「今日は誰と一緒にいるの」と問い詰めることもない。朝食を作り、夕食を作り、洗濯をし、掃除をする――まるで完璧で、少しも手のかからない義妹のように。
あまりにも完璧すぎる。
完璧すぎて、朔には彼女が何かを準備しているように思えてならない。
去る準備を。
その考えがよぎる度、胃を強く殴られるような衝撃を覚える。
だが、どうすればいいのか分からない。
なぜなら、「行かないで」とは言えないからだ――もし彼女を選ぶつもりがないのなら。
「ここにいて」とも言えない――自分が彼女の求めるものを与えられるか確信がないのなら。
彼はただ見ていることしかできない。
彼女がどんどん静かになり、どんどん遠ざかっていくのを。
まるで岸辺に立つ人間が、ゆっくりと港を離れていく船を見送るように。
叫びたいのに、何を叫べばいいのか分からない。
追いかけたいのに、どの方向へ泳げばいいのか分からない。
金曜日の午後、最後の授業が終わり、朔は鞄に荷物をまとめている。
スマホが震える。
LINEのメッセージ。
詩織:
『助けて』
たったの一言。
句読点もなく、絵文字もなく、前後の文脈もない。
朔の心が跳ね上がる。
詩織とこれだけ長い付き合いになるが、こんなメッセージが送られてくるのは初めてのことだ。彼女は「救い」なんて求めない。誰かに助けてもらう必要など最もない人間だ。
即座に返信する。
「どこにいる?」
返事はない。
もう一度送る。
「詩織?」
やはり返事はない。
電話をかける――誰も出ない。
朔は鞄をひっつかみ、教室を飛び出す。
廊下で、危うく陽葵とぶつかりそうになる。
「先輩!何事ですか?そんなに急いで――」
「説明する時間がない」朔は振り返ることもなく走り去る。
「先輩――っ!」
陽葵の声が背後で遠ざかっていく。
朔は校門を駆け抜け、駅を通り過ぎ、商店街を駆け抜ける。
走りながらスマホに目を落とす――詩織のLINEには既読機能がついているはずなのに、メッセージは「未読」のままだ。
彼女はどこにいる?
『助けて』とメッセージを送る――どこにいるんだ?
朔の脳はフル回転している。今日の午後、絵の具を買いに行くという話になっている――彼女が毎週金曜日に通うあの画材屋、駅の南側の通りにある。
その方向へ向かって駆ける。
コンビニを通り過ぎ、書店を通り過ぎ、花屋を通り過ぎる。
画材屋に到着する。
ドアは開いているが、中に人はいない。
「詩織?」
朔は中に足を踏み入れ、周囲を見回す。
店主が奥から出てくる。「お兄ちゃん、あの女の子を探しているのかい?彼女ならついさっき、何人かの男に連れ去られるところさ。黒いセダンに乗ってね」
朔の心臓が激しく縮み上がる。
「どっちの方向ですか?」
「南の方へ向かうところさ」
朔は画材屋を飛び出し、さらに南へと走る。
道は徐々に広くなり、建物は高くそびえ立ち、人通りは少なくなっていく。
そして、それを見つける。
道端に停まる、黒いセダンの列。
1、2台ではない――6、7台はある。漆黒で、ボディはピカピカに磨き上げられ、午後の陽光を反射して目に痛いほど光を放っている。ナンバーは品川だが、番号は珍しい――真の権力者でなければ手に入らないようなナンバーだ。
車の傍らには黒スーツの男たちが何人も立っている。筋骨隆々でサングラスをかけ、まるでマフィア映画から抜け出してくるかのようないかつい男たちだ。
朔は足を止め、荒い息を吐く。
「君が朔か?」
背後から声が響く。
朔は振り返る。
そこにはグレーのスーツを着る一人の老人が立っている。白髪交じりだが背筋はピンと伸び、顔の皺はまるで刃物で刻まれるかのよう。その眼光は鋭い――単なる「見ている」鋭さではなく、「品定めしている」鋭さだ。
「あんたは誰だ?」朔は問う。
「月乃森和夫。詩織の父親だ」
朔の呼吸が一瞬止まる。
月乃森和夫。
詩織から父親の話など一度も聞くことがない。「めったに話さない」のではない――「一度も」だ。父親が何の仕事をしているのかすら、朔は知らない。詩織が学校近くのマンションに一人暮らしをしていて、両親が滅多に会いに来ないことくらいしか知る由もない。
だが今、理解する。
月乃森和夫。
あの黒いセダンの列。
黒スーツのボディガードたち。
多国籍コングロマリット、月乃森グループ。
朔もその名は聞くことがある――日本最大級の総合商社であり、エネルギー、金属、機械、化学、食品などあらゆる分野を網羅する。グループの総帥の姓は月乃森だが、朔はあの「月乃森」と詩織の「月乃森」を結びつけて考えることなど一度も想像し得ないことだ。
「聞くところによれば」
和夫は商品を値踏みするような目で朔を見据える。「君は私の娘と交際しているそうだな?」
「していない」と言いたい
だが、言葉が出てこない。
なぜなら――分からないからだ。
自分と詩織は「交際」していると言えるのだろうか?
彼女にキスをされる。自分は「分からない」と答える。それでも彼女は諦めない。毎日美術室にやってくる。彼の家にも来る。絵を描き、そして彼の選択を待つ。
これは交際なのだろうか?
彼には分からない。
「黙秘か?」和夫は微かに眉をひそめる。
「なら、肯定と受け取るぞ」
「違う――」
「乗れ。話し合う必要がある」
「詩織は?」
「車内で君を待っている」
朔は少し躊躇する。
そして、車に乗り込む。
車内は広々としており、本革のシートに木目調の内装、そして空気には高価で言葉にできないような香りが漂う。
詩織は後部座席に座り、窓に寄りかかって外を眺めている。
その表情はとても静かだ――こんなことが起きるのをずっと前から分かっているのではないかと思えるほどに、静かだ。
「詩織」
彼女の隣に座る。
詩織は振り返り、焦げ茶色の瞳で彼を見つめる。
「やはり来てくれるのね」
「『助けて』なんて送ってくるから、当然だろ」
「うん。あなたが来てくれるって分かっている」
前列に座る和夫が、ルームミラー越しに二人を観察する。
「出せ」
車が発進する。
車内は静寂に包まれる。エンジンの低いうなり、タイヤが路面を擦る音、そして自身の心臓の鼓動だけが朔の耳に届く。
「月乃森さん」朔は口を開く。
「俺たちをどこへ連れて行くつもりですか?」
「食事だ。食べながら話そう」
「何をですか?」
和夫は答えない。
ただルームミラー越しに朔を見つめている。その瞳には複雑な感情が宿る――値踏みするような、期待するような、あるいは朔には到底理解できない何かのような。
朔は詩織に視線を移す。
詩織は相変わらず窓の外を見ている。
しかし彼女の手がシートの上をゆっくりと滑り、そっと朔の指先に触れる。
ひんやりとしている。
まるで――「大丈夫」と伝えているかのように。
朔は彼女の手を握る。
指を絡ませるわけではない。
ただ、握るだけ。
それでも詩織の指が、かすかに力を込めて握り返してくる。




