第22話 宣戦布告
土曜日、朔はチャイムの音で目を覚ます。
昨晩もまた不眠に悩まされている——何かを考えていたからではない。頭の中は空っぽなのに、ただ眠れないのだ。その『空白でありながら覚醒している』状態は、悪夢を見るよりもずっと彼を苛む。「なぜ眠れないのか」という理由すら見つけられないからだ。
スマホを一瞥する——朝の九時。
睡眠時間は五時間にも満たない。
再び、チャイムが鳴り響く。
「はいはい……」
ベッドから這い上がり、パジャマ姿のまま歩き出す。髪は鳥の巣のようにボサボサで、目の下には濃い隈が刻まれている。鏡を見る気すら起きない。どうせドアを叩くのは宅配便か近所の人くらいで——身だしなみを整える価値などないからだ。
階段を下り、廊下を抜け、玄関のドアを開ける。
「おはよう、浅倉くん」
詩織がそこに立っている。
白いワンピース姿。スカートの裾は膝丈で、襟元にはレースの装飾があしらわれ、腰には水色の細いベルトが巻かれている。下ろした深栗色の髪が、朝の光を浴びて柔らかな輝きを放つ。その手には、画板と紙袋が提げられている。
「し、詩織——どうしてここに?」
「絵を描きに」
「今日は天気がいいから、あなたの家の庭を描きたくて」
「いつ来たんだ?」
「さっき」
「いや、そうじゃなくて——なんで俺の家の住所を知ってるんだ?」
「あなたが教えてくれたの」
「いつ?」
「中学生の時。『俺の家は駅から南へ十分歩いたところで、大きな桜の木がある』って」
朔の脳裏に記憶が蘇る。
ずっと昔の出来事。まだ中学生だった頃、一緒に図書館から出て、駅まで歩いていた時、彼が何気なく口にした一言。
彼女は忘れているものとばかり思っていた。
が、忘れていない。
彼女は何一つ、忘れてなどいないのだ。
「入って」
朔は身を翻して道を空ける。
詩織は玄関に入り、靴を履き替える。その動作はとてもゆっくりで、とても丁寧で、まるで極度の集中を要する作業でもしているかのよう。
「朝ごはんは食べた?」
「まだ」
「俺もまだ。一緒に?」
「うん」
朔はキッチンへ向かう。
「座ってて、俺が作るから」
「手伝う」
詩織もキッチンに入り、朔の隣に立つ。
二人並んでコンロの前に立つ。朔が卵を割り、詩織が食パンを切る。どちらの動作も静かで、言葉を交わすこともない。それでも息はぴったりと合っている——まるで、これまで何度も一緒にやってきたかのように。
実際のところ、これは初めてのこと。
だがその阿吽の呼吸は、すでに何度も同じ時を重ねてきたような錯覚を朔に抱かせる。
「浅倉くん」
「ん?」
「普段から料理はするの?」
「たまにね。大半は結月が作ってくれる」
「じゃあ、どうして今日はあなたが?」
朔は少し考える。
「それは——俺が作りたかったから」
詩織が彼をちらりと見る。
追及はしない。
ただ、その口角が微かに弧を描く。
朝食が完成し、二人はリビングに座って食事を始める。
目玉焼きトースト、牛乳、そして詩織が持参した紙袋の中身——一箱のマカロン。ピンク、緑、黄色と、まるで小さな宝石が並んでいるかのよう。
「これ、買ったの?」
「作ったの」
「君が?」
「うん。昨日作ったの」
詩織はピンク色のマカロンを手に取り、一口かじる。「初めて作ったから、あまり美味しくないかも」
朔も緑色のものを手に取り、口に運ぶ。
外はサクッと、中はしっとりとしていて、甘さもちょうどいい。
「美味しいよ」
詩織の口角が微かに上がる。
「ありがとう」
窓から差し込む陽光がダイニングテーブルに降り注ぎ、白いテーブルクロスを眩しく照らし出す。
リビングはとても静か。
だけどその静寂は、決して居心地の悪いものではない。
ずっとこのままでいたいと思わせるような、そんな静寂。
朝食を終えると、詩織は庭に画架を立てる。
朔の家の庭はそれほど広くないが、一本の梅の古木がある。夏には葉が生い茂り、樹冠が巨大な傘のように庭の大部分に影を落とす。木の下の石には苔がむし、片隅では紫陽花がちょうど見頃を迎えている。青、ピンク、紫の花の手毬が身を寄せ合い、まるで誰かが庭でパレットをひっくり返したかのような色彩を放つ。
詩織が筆を動かし始める。
彼女が描くのは、その梅の木。
だが、ただの梅の木ではない——彼女の絵の中には、木の下に一枚のベンチが描き足され、そこに二人の人物が座っている。顔までは見えないが、一組の男女であることは見て取れる。
朔は縁側に腰を下ろし、彼女が絵を描く姿を見つめる。
陽射しは暖かく、風は微かで、蝉の鳴き声は遠い。
もしもこの瞬間で時間が止まってくれればいいのに、と。
彼は思う。
選択する必要も、誰かを傷つける必要も、傷つけられる必要もない。
ただ静かに、そこに存在し続けるだけ。
彼女と共に。
しかし、その平穏は長くは続かない。
「浅倉——?」
ドアが開く。
結月が外出先から帰ってくる。今日は買い物に出ており、シンプルなTシャツにショートパンツという出で立ちで、髪は低い位置でポニーテールに結ばれている。
彼女は玄関に見知らぬ女性物の靴があるのを目にし、ふと足を止める。
そしてリビングへと足を踏み入れ、庭にいる詩織の姿を捉える。
足音に気づいて振り返った詩織は、結月に視線を向ける。
視線が空中で交錯する。
鞘から抜かれていない、二振りの刃のように。
「月乃森さん」
その声は極めて冷静だ。「どうしてここに?」
「絵を描きに。浅倉くんに招待されたから」
「招待なんてしてない——君が勝手に来ただけだ」
朔は縁側から立ち上がり、弁解を試みる。
「でも、あなたは私を中に入れてくれた」
「……それはそうだけど」
「なら、それは招待と同じ」
朔は口を閉ざす。
結月の表情に変化はない。だが、コンビニの袋をテーブルに置く時の動作は、普段よりも少しだけ乱暴だ。
「お茶、飲みますか?」
「ええ、ありがとう」
結月はキッチンに入り、お湯を沸かし、お茶を淹れ始める。その手つきは手慣れたもの——茶葉を取り出し、急須を温め、湯を注ぎ、漉す——その一つ一つの手順が洗練されており、まるで何かの儀式を取り行っているかのよう。
数分後、彼女はお盆を手にして戻ってくる。お盆の上には三つの湯呑みと、一皿のお茶菓子。
「どうぞ」
「ありがとう」詩織は絵筆を置き、湯呑みを手に取って一口すする。「美味しい」
「父が京都から買ってきた抹茶です」
「浅倉くんは、抹茶が好きなの?」
結月の指が、ピクリと動く。
「好きですよ。彼は抹茶味のものなら何でも好きなんです。アイスクリーム、ケーキ、チョコレート——抹茶味と名がつけば、なんでも食べます」
「知ってる。中学の春の遠足の時、抹茶アイスを買って、一口食べて『美味い』って言って、たった三口で食べきってた」
結月の手が、湯呑みを持ったまま宙で止まる。
「彼の中学の遠足のことまで覚えているんですか?」
「覚えてる。高校の入学式で、名前を呼ばれたくなくて一番後ろの列に立っていたことも。最初のテストで学年三位を取って、自分に『まあまあだな』って言い聞かせていたことも。図書館で最初に借りた本が『ノルウェイの森』だったことも。村上春樹っていう名前の響きがかっこいいからって」
「あなた——」
「私、ずっと見てきたから」
詩織は、まるで一枚の絵画を解説するように淡々とした口調で言う。
「ずっと昔から、見つめてきたの」
結月は沈黙に陥る。
湯呑みをテーブルに置き、その縁を指先でそっとなぞる。
「月乃森さん。見せつけているつもりですか?」
「違うわ——あなたの質問に答えただけ。どうして知っているのかと聞かれたから、教えただけよ」
「私が聞きたかったのは、そういうことじゃないって分かっているはずです」
「じゃあ、あなたは何が聞きたかったの?」
結月は彼女を睨みつける。
詩織もまた、彼女を見つめ返す。
空中で交わり合う視線、それは二つの川が合流するかのよう、目に見えない暗流が渦巻いている。
「『義妹』として、結月さんは本当に責任を全うしていますね。でも、もし『元カノ』の立場で私を警戒しているのなら、その必要は全くありませんよ」
「なにしろ、それはもう過去形なのですから。違う?」
空気が凍りつく。
誰かが一時停止ボタンを押したかのように。
蝉の鳴き声が止む。風の音が止む。陽光すらも、一瞬だけ停止したかのように感じられる。
結月の表情に変化はない。
だがその手——テーブルの上に置かれた両手は——固く握りしめられている。
関節が白く浮き出るほどに。
「過去形?」
結月がその言葉を反芻する。
「ええ。半年前に終わったこと。そうでしょう?」
結月の唇が微かに震える。
ほんの一瞬。ほとんど目に見えないほどの僅かな震え。
しかし、朔はそれを見逃さない。
「ずいぶんと事情に詳しいのですね」
「あなたが想像している以上に詳しいわ——二人がどうして別れたのか。どちらから言い出したのか。別れた後、それぞれがどう過ごしてきたのか。私、全部知ってるから」
「なら、分かっているはずです」結月が立ち上がって、その声は冷たさを帯び始める。
「世の中には、『知っている』だけでは理解できないこともあるって」
「例えば?」
「例えば——なぜ彼が、今でもあのペンを残しているのか」
詩織の絵筆の動きが止まる。
「なんのペン?」
「私が彼に贈ったペン。半年前の、別れのプレゼント。彼はずっと取ってあるんです。本棚の一番目立つ場所に。『行動経済学講義』と『脚本構造論』の間に挟んで」
詩織はしばらくの間、沈黙する。
「それは何の意味も持たないわ」
「何の意味も持たない?」結月の声がわずかに高まる。「もし彼がすでに吹っ切れているなら、どうして元カノからのプレゼントを残しておくんです?もし本当に前に進みたいと思っているなら、どうして捨てないんですか?」
「ただ単に忘れているだけかもしれない」
「彼は何も忘れてなんかいません」結月は反駁する。「私の癖を一つ一つ覚えている。雷が苦手なことも、紅茶にハチミツを入れるのが好きなことも、寝る前に白湯を一杯飲むことも。彼は何一つ忘れてなんていないんです」
詩織は絵筆を置き、立ち上がる。
二人の少女は真正面から向き合う。
「神城さん」
「何?」
「そんなことを言って、何を証明したいの?」
結月はふと虚を突かれる。
「彼がまだあなたを好きだってこと?」
「それとも、彼以上にあなたが自分自身を理解しているってこと?」
結月は言葉を発しない。
「証明する必要なんてないわ。だって——あなたがまだ彼を好きかどうかに関わらず、彼がまだあなたを好きかどうかに関わらず——すべてはもう過去のことなんだから」
「あなたは彼の彼女じゃない。彼の義妹よ」
「あなたが選んだことでしょう」
「あなたが取り決めを持ち出した」
「あなたが条件を線を引いて消した」
「あなたが——手放したのよ」
結月の目頭が赤く染まる。
「手放してなんかいない!」
彼女は声を震わせながら口にする。
「私はただ——彼を困らせたくなかっただけ」
「なら、このまま待ち続ければいい。彼があなたを選ぶのを。あるいは、選ばないのを」
「でも、私の前で『過去形』だなんて言葉、使わないで」
「だって——過去形だって、一つの『形』なんだから」
「現在進行形だって、いつかは過去形に変わる」
「未来形がどうなるかなんて、誰にも分からないわ」
彼女は画板を手に取り、肩に掛ける。
「絵は完成したわ。お邪魔しました」
玄関へと向かい、朔の傍を通り過ぎる時、少しだけ足を止める。
「浅倉くん」
「なに?」
「あなたのペン、やっぱり捨てるべきよ」
彼女は去っていく。
ドアが閉ざされる。
リビングに残されたのは、朔と結月の二人だけ。
蝉の鳴き声が再び響き始める。
陽光は変わらず降り注いでいる。
しかし空気の中で、何かが音を立てて砕け散る。
結月はその場に立ち尽くし、玄関の方向を見つめる。
その手はまだ湯呑みを握りしめ、関節が白く浮き出ている。
「結月」
「喋らないで」
「結月——」
「喋らないでって言ってるでしょ!」
結月は背を向け、朔から視線を外す。
彼女の肩が微かに震えている。
「泣いているところ、見られたくないの」
朔は彼女を見ない。
だが、彼の耳には届いてしまう。
押し殺したような、声にならない、すべての痛みを飲み込もうとするかのような泣き声が。
そばに歩み寄りたいと思う。
彼女を抱きしめたいと思う。
「もう泣かないで」と言葉をかけたいと思う。
しかし、その言葉は喉の奥につかえて出てこない。
なぜなら——彼女を泣かせている張本人こそが、彼自身なのだから。
もし彼があのペンを残していなければ、詩織がそれを持ち出すこともなかった。
もし彼がもっと早く選択を下していれば、結月を待たせることもなかった。
もし彼がそこまで利己的にならず、すべての人を自分の傍に留めておきたいなどと思わなければ——
もしかすると、誰も泣かずに済んだのかもしれない。
しかし、この世界に「もしも」など存在しない。
あるのは「結果」のみ。
そしてその結果とは——
彼がすべての人を傷つけているという事実。
自分自身をも含めて。
その夜、朔は自室に入り、本棚からあのペンを手に取る。
キャップに刻まれているのは「S・A」——浅倉朔のイニシャル。
半年前に結月が贈ってくれたもの。
別れのプレゼント。
彼はペンを握りしめ、長い間見つめ続ける。
やがて引き出しを開け、その中にペンをしまい込む。
捨てるのではない。
しまい込むのだ。
彼には到底できないから。
捨てることなどできない。
選択を下すことができないのと同じように。
手放すことができないのと同じように。
彼はただの凡人なのだ。
利己的で、臆病で、誰を愛すべきなのかも分からない、ただの平凡な人間。
引き出しを閉め、ベッドに横たわり、天井を見上げる。
天井に走る亀裂は、今もそこにある。
照明器具の土台から部屋の隅へと続く。
まるで永遠に癒えることのない傷跡のように。
そして彼の心の中にも、これと同じ亀裂が走っている。
傷跡ではない。
それは躊躇い。
どこへ向かえばいいのかも分からないという迷い。
「分からない」という言葉が心に刻み込んだ、日増しに深まる痕跡。
彼はそっと目を閉じる。
その夜、彼は詩織の夢を見る。
夢の中で、詩織はキャンバスの前に立っている。そこには何も描かれていない、ただの空白。
「何を描いているんだ?」
「あなたを描いているの」
「でも、俺はまだ現れていないじゃないか」
「あなたは必ず現れるわ」
詩織は微笑む。
「私、待っているから」




