第20話 沈黙を破った高嶺の花
夏祭りのあの夜以降、朔は三日連続で眠れない夜を過ごしている。
「寝返りを打っても眠れない」という類のものではない――ベッドに横たわり、目を見開き、天井を見つめる。脳がまるで熱暴走したパソコンのように、ファンは狂ったように回っているのに、何のプログラムも実行できないのだ。
詩織のキス。
その感触はまだ唇に残っている――冷たくて、柔らかくて、ほんのりとミントの香りがする。軽く触れるだけのキスではなく、深く、力強く、三年間の沈黙をすべて吐き出すかのようなキス。
彼女の舌が唇をこじ開けたときの感触、微かに震える息遣い、目尻からこぼれ落ちたあの涙、そして体を離した後に手の甲で唇を拭った時の、ほんのりと赤らんだ頬を覚えている。
「これが私の絵。嘘はない。隠し事もない。全部、本当のこと」
朔は寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
枕は柔らかいけれど、詩織の唇はもっと柔らかい。
いや。
もう考えるのはやめよう。
「だって――本当に私に残ってほしいなら、もっと早く走ってきたはずでしょ」
朔は枕から顔を上げ、深呼吸をする。
結月の言う通りだ。
本当に彼女を引き留めたいなら、もっと速く走るはずだ。もっと早く走り出すはずだ。バスが発車してから追いかけるようなことはしない。
彼はただ、彼女に行かなくなかっただけだ。
だが、行かないでほしいと思うことと、残ってほしいと思うことは――別物なのだ。
それが結月の言葉だ。
朔は身を起こし、ベッドのヘッドボードに寄りかかる。
深夜の東京。遠くにまばらな灯りがいくつか見え、まるで暗闇に取り残された星のようだ。
スマホを手に取り、LINEを一瞥する。
陽葵からは何十通ものメッセージが来ている――「先輩おやすみなさい」から「先輩また明日」、「先輩会いたいです」まで、間に様々な顔文字やスタンプが挟まれている。最後の一通は、「先輩、何があっても、私は先輩のそばにいますから!」
詩織からは一通だけ。「絵が乾いた。明日渡す」
結月からはメッセージはない。
彼女とのトーク画面はあの夜のままだ。――「本当に私に残ってほしいなら、もっと早く走ってきたはずでしょ」
朔はこのメッセージをじっと見つめる。
そしてスマホを置き、目を閉じる。
夢に詩織が出てくると思っていた。
しかし、夢に現れたのは結月の方だった。
夢の中の結月はあの薄紫色の浴衣を着て、駅のホームに立ち、彼に背を向けている。
名前を呼んでも、彼女は振り向かない。
駆け寄ろうとするが、ホームはどんどん遠ざかっていく。誰かが地面を後ろへと引っ張っているみたいに。
走って、走って、走り続けるけれど、永遠に追いつけない。
そこで目が覚める。
枕が濡れている。
涙ではない。
汗だ。
絶対に汗だ。
月曜日。
校門をくぐると、全員の視線が自分に向けられているような気がする。
本当に見られているわけではない――単なる思い過ごしだ。分かってはいる。だが、その「見られている」という感覚がどうしても拭いきれず、サイズの合わない服を着ているように、どうにも落ち着かない。
足取りはいつもよりずっと重い。
学校に行きたくないわけではない――今日、何かが起こるのだと直感しているからだ。
詩織はもう、美術室で静かに絵を描いているだけの彼女ではない。
夏祭りのあのキスが、すべてを変えてしまった。
穏やかな湖面に小石を投げ込んだかのように、波紋が広がり、幾重にも輪を描き、止めることはできない。そしてその湖面は、二度と元の姿には戻らない。
廊下は静まり返っている――朝の学校はいつもこうだ。人もまばらで、足音がガランとした廊下に響き渡り、まるで何かの古い谺のよう。
朔は慣れ親しんだ廊下を歩き、いくつもの教室の前を通り過ぎる。彼の教室は三階にあり、長い廊下を抜け、角を二回曲がり、階段を上がってさらに少し歩く必要がある。
二つ目の角に差し掛かったとき、横から手が伸びてきて、耳元の壁にドンと押し付けられる。
「ドン」
とても軽い音。
だが静かな廊下では、まるで誰かが一時停止ボタンを押したかのようだ。
朔の呼吸が止まる。
目の前には詩織が立っている。
制服はきっちりと着こなし、襟元のリボンはしっかり結ばれ、スカートのプリーツにシワ一つない。髪は肩に下ろされ、深い栗色の髪の毛が朝の光の中で柔らかな艶を放っている。
綺麗だ。
しかし彼女のその瞳は――
いつもと違っている。
以前の詩織の目は静かで、まるで底が見えない二つの深い淵のようだった。波も立たず、波紋もなく、ただ静かにそこに存在していた。
だが今は、その焦げ茶色の瞳の中で、何かが燃えている。
怒りではない、欲望でもない、狂気でもない。
それは一種の――
『確認』。
彼女はある事を確かめようとしている。
彼がまだそこにいることを。
彼がまだあの浅倉朔のままであることを。
彼女がしたあの事のせいで、彼が逃げ出していないことを。
「詩織……」朔の声は少し掠れている。
「おはよう」
「おはよう……」
「目の下のクマ、すごいよ」
「よく眠れなくて」
「何を考えてたの?」
朔は口を開きかける。
「別に何も」と答えるべきだ。あるいは「課題のこと」と。もっと空気を変なふうにしない、普通の返事なら何だっていい。
しかし、言葉が出ない。
なぜなら、詩織との距離が近すぎるから。
彼女のまつ毛のカーブまではっきりと見え、瞳に映る自分の顔が見え、息遣いの熱を感じ取れるほどに。
「詩織、少し離れて――」
「だめ」
朔が言い終わる前に、詩織は即答する。
「私を下がらせちゃだめ。私はもう、三年間も下がり続けてきた。もう、後ずさりしたくない」
朔は彼女を見つめる。
表情は依然として静かだが、その耳の先が微かに赤く染まっていることに朔は気づく。
それは彼女が照れているときのサインだ。
彼女も照れることがある。
その事実を認識した途端、朔の心臓はさらに鼓動を速める。
「何を考えてるの?」
「考えてたんだ――どうしてお前がそんなに落ち着いてるのかって」
「もう緊張し終わったから。夏祭りの夜、私は一晩中緊張してた。キスする前も、キスしている時も、キスした後はもっと」
「でも、そんな風には――」
「見えない?」詩織は小首を傾げる。「それはね、もう緊張を使い果たしちゃったから」
朔は口を噤む。
詩織は壁から手を下ろし、一歩後ろに下がる。
距離が開く。
それでも、あのプレッシャーのようなものは消えていないように朔は感じる。
「浅倉君」
「何?」
「心拍数、すごく速いよ」
朔は無意識に胸に手を当てる。
確かに、鼓動が速い。
「聞こえるよ。さっきから、ずっと」
「あれだけ近けりゃ、そりゃ聞こえるだろ」
「違う」詩織は首を振る。
「耳で聞いてるんじゃない」
「じゃあ何で?」
詩織は答えない。
ただ手を伸ばし、その指先で軽く朔の胸を――心臓のあたりを突く。
「ここ。あなたの心が話してるの」
「なんて?」
「それはね――」詩織は少し考えてから、「『なんでこんなに近いんだろう』『まつ毛、長いな』『唇、すごく柔らかい』って」
朔の顔が赤くなる。
照れているからではない――図星だったからだ。
さっきは確かに、そんなことばかり考えていた。
「どうして分かるんだ?」
「だって、私も同じこと考えてるから。『彼の目、すごく近いな』『息が熱いな』『彼の唇――』って」
「もういい」
詩織の口角が上がる。
それは朔が見た中で、一番はっきりとした彼女の笑顔だ。
「口角が上がった」のではない――笑ったのだ。
嘘偽りない、心からの、少し悪戯っぽい笑み。
「浅倉君」
「何?」
「今日の放課後、美術室にいるから」
「それで?」
「それで――」詩織は背を向け、廊下の向こうへと歩き出す。「もし来てくれたら、私が何を考えてるか、もっと教えてあげる」
彼女は去っていく。
深い栗色の髪が朝の光の中でふわりとなびき、制服のスカートの裾が歩調に合わせて微かに揺れる。
朔はその場に立ち尽くし、廊下の角に消えていく彼女の後ろ姿を見送る。
俯いて、自分の胸元に視線を落とす。
心臓はまだ鳴り続けている。
とても速く。
『なんでこんなに近いんだろう』
『まつ毛、長いな』
『唇、すごく柔らかい』
図星だ。
全部、その通りだ。
朔は壁に寄りかかり、目を閉じる。
たぶん自分は、本当に駄目になってしまったんだと思う。
詩織にキスされたからじゃない。
そうではなく――
あのキスを、少しも嫌だと思わなかったから。
それどころか――
『もう一度、してくれないだろうか』とすら考えている。
その思考が、さらに彼の顔を赤くさせる。
手の甲で顔を擦り、深呼吸をしてから、教室へと向かう。
チャイムが鳴り響く。
だが朔の心は、まだ廊下に残されたままだ。
詩織と一緒に。
昼休み、朔は美術室には行かない。
行きたいくないからではない――行くのが怖いのだ。
もし行けば、自分のコントロールが効かない何かが起きてしまう気がする。
もし行けば、言うべきではない何かを口走ってしまいそうになる。
もし行けば――
実はあのキスがとても好きだったのだと、認めてしまうのが怖い。
だから彼は、逃げることを選ぶ。
教室の席に座り、本を読んでいるふりをする。
しかし、活字は一つとして頭に入ってこない。
「せーんぱいっ!」
廊下から陽葵の声が響く。
教室の入り口に立つ陽葵の手にはお弁当箱があり、金色のツインテールが午後の日差しにキラキラと輝いている。笑顔は相変わらず眩しいが、彼女の目の下にもうっすらと青いクマがあることに朔は気づく――彼女もまた、よく眠れていないのだ。
「先輩!今日は美術室、行かないんですか?」陽葵は教室に入ってくると、朔の向かいに座る。
「行かないよ」
「どうしてですか?」
「気が向かないんだ」
陽葵は彼を見つめる。その青い瞳には複雑な感情が浮かんでいる――理解しているようでもあり、心配しているようでもある。
「詩織先輩のせい、ですか?」
朔は答えない。
「先輩」陽葵はお弁当箱を開ける。中には唐揚げ、卵焼き、ミニトマト、そして海苔でハート型に切られたおにぎり。
「何があっても、私は先輩のそばにいますから」
「それはもう聞いたよ」
「じゃあ、もう一回言います」陽葵は箸で唐揚げを一つ挟み、朔の口元へと運ぶ。「はい、あーんして。あーん」
朔はその唐揚げを見つめる。
見事に揚がっている――外の衣は黄金色でサクサク、中のお肉はきっと柔らかいだろう。陽葵の料理の腕は確かに上がっている。「食べられない」から「食べられる」、そして「美味しい」に至るまで、彼女は半年もかからなかった。
彼は口を開け、一口かじる。
唐揚げはとても熱い。
だが、すごく美味しい。
「美味しいですか?」
「美味しいよ」
「よかったです!」陽葵の笑顔にはどこか安堵の色が混じっている。
「先輩、知ってますか? 私、昨日の夜、ずっと考えてたんです」
「何を?」
「私は――どうしたらいいんだろうって」
朔は彼女を見つめる。
「詩織先輩が、先輩にキスしました。私、怒って、泣いて、わめくかなって思ってたんですけど。でも、そうはなりませんでした。だって――」陽葵は俯き、お弁当箱のおにぎりを見つめる。「だって、いつかこんな日が来るって、前から分かってたからです」
「分かってた?」
「はい。だって、詩織先輩が先輩を見る目は、私が先輩を見る目と同じですから。「『この人が私のすべて』っていう目。そういう目、私よく知ってるんです。鏡の中で見たことがありますから」
朔は黙り込む。
「だから」
陽葵が顔を上げる。青い瞳がきらりと光を宿す。「私は負けません。負けるのが怖くないからじゃなくて――負けるわけにはいかないからです」
「もし負けたら、先輩は詩織先輩に取られちゃいます。そしたら、一生後悔します」
「後悔なんて、したくありません」
「だから、私は戦います」
彼女は箸をぐっと握りしめる。まるで剣を握るように。
「先輩、私を選ばなくてもいいです。でも、絶対私を選ばせてみせますから」
朔は彼女を見つめる。
その真剣な、強がりな、すべての決意を顔に書き込んだような表情を。
「陽葵」
「はい?」
「ありがとう」
「何がですか?」
「どこかへ行かずにいてくれて」
陽葵は一瞬きょとんとする。
それから、目頭が赤くなる。
「先輩、ひどいです……」鼻をすする。「またそうやって、泣きたくなるようなこと言うんですから……」
「なら、泣けばいい」
「やだ! 泣いたらメイクが崩れます!」
「崩れても引いたりしないよ」
「それ、もう何度も聞きました!」
「なら、何度でも言う」
陽葵は袖で目をこすり、笑う。
「先輩って人、本当にずるいです。心には別の人もいるくせに、私にこんなに優しくして」
「優しくなんてない」
「もう十分優しいです。誰よりも」
放課後、朔は美術室へと向かう。
行きたいからではない――もし行かなければ、必ず後悔すると分かっているからだ。
美術室のドアは半分開いている。
北側の窓から差し込む陽光が、宙に斜めの光の柱を描き出している。光の中で埃がゆっくりと漂い、まるで時間という名の粒子のようだ。
詩織はイーゼルの前に座り、手に筆を持っている。
足音を聞いても、彼女は振り返らない。
「来たの?」
「ああ」
朔は歩み寄り、彼女の背後に立つ。
キャンバスにあるのは新しい絵だ――海でも、桜の木でも、花火でもない。
一人の男子生徒。
制服姿で廊下に立ち、窓からの光が顔に落ちている。その表情は複雑だ――何かとても重要なことを考えているようでもあり、何かとても重要なことから逃げ出そうとしているようでもある。
それは、彼自身だ。
浅倉朔。
「これは――」
「あなた。今朝の、あなた」
「いつ描いたんだ?」
「昼休み」
「昼飯、食ってないのか?」
「お腹空いてないから」
朔はキャンバスの中の自分を見つめる。
陽の光、廊下、そして複雑な表情。
見事な絵だ。
あまりにも見事で、それはもはや絵ではなく――一枚の鏡のように思える。
自分でも気づかなかった内面まで映し出している。
「浅倉君」
詩織は筆を置き、振り返り、深い焦げ茶色の瞳で彼を見つめる。
「どうして私があなたを描いたか、分かる?」
「どうして?」
「覚えておきたいから。どの瞬間のあなたも。笑っている時、笑っていない時、楽しい時、悲しい時、迷っている時。あなたのすべてを、私は覚えておきたいの」
「どうしてだよ」
「だって――」詩織は立ち上がり、朔の目の前まで歩み寄る。「あなたはあなただから。理由なんていらない」
彼女は手を伸ばし、指先で軽く朔の頬に触れる。
ひんやりとしている。
とても軽い感触。
まるで蝶が花びらに止まるかのように。
「浅倉君」
「なんだ?」
「もう一回、キスしてもいい?」
朔の心臓が止まる。
「――え?」
「もう一回」と詩織。その口調は「お茶をもう一杯飲む」とでも言うように平然としている。
「前回は、私がしたかったから。今回は――あなたがしたいかどうか、知りたいの」
「もし俺が断ったら?」
「それなら、待つよ。あなたがしたいと思う日が来るまで」
朔は彼女を見つめる。
その深い焦げ茶色の瞳を、ほんのり赤らんだ耳の先を、そして静かな表情の下に隠された、ほとんど見えないくらいの僅かな緊張を見つめる。
「だめだ」と言おうとする。
だが、言葉が出ない。
なぜなら――彼は断りたくないからだ。
そう自覚することが、彼に恐怖を抱かせる。
「詩織」
「うん」
「自分がどうしたいのか、分からない」
「なら、答えなくていい。分かった時に、教えて」
彼女は一歩下がり、再びイーゼルの前に座って筆を手に取る。
「今日は、そこに座って」窓際の椅子を指差す。「あなたを描くから」
朔は歩み寄り、腰を下ろす。
窓から差し込む陽光が、彼の顔を照らす。
温かい。
詩織は絵を描き始める。
筆がキャンバスを擦る微かな音が響く。まるで蚕が桑の葉を食むように。
朔は詩織を見つめる。
その真剣な横顔を、微かに寄せられた眉を、そして筆を握る指先を見つめる。
たぶん、これが答えなのだと思う。
『誰を選ぶか』ではない。
そうではなく――誰と一緒にいる時が、一番自分らしくいられるかだ。
陽葵と一緒にいる時、彼は『追われる人』だった。
結月と一緒にいる時、彼は『元カレ』であり『義理の兄』だった。
だが、詩織と一緒にいる時、彼は何者にもなる必要がない。
ただの浅倉朔でいられる。
窓際に座り、陽の光を浴びて、絵のモデルになっているただの人。
それだけで十分だ。
少なくとも、今は。
これで十分なのだ。




